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呪術臨界点 -年上夫を呪い殺すための基礎研究-  作者: 冬至 春化
3章

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23/66

023:古城でのこと 8

 雨脚は夜更けになってようやく弱まる兆しを見せ始めた。

 濡れた硝子越しの月明かりが落ちた廊下は、いつにも増しておどろおどろしく、時代を感じさせた。

『暗視』

 呟いて、リンナはそっとこめかみを指先で突く。それまで闇に沈んでいた絨毯の模様が、鮮明に目に飛び込んでくる。


 夕方から降り始めた雨は、レイテーク城から温度という温度を根こそぎ奪っていったようだった。

 もう時計の針はてっぺんを過ぎてから一、二時間が過ぎている。城はすっかり寝静まり、明かりのひとつも見当たらない。

 頭を占めるのはアルラスのことだった。

 激昂してロガスを怒鳴りつけた彼の姿を思い出す。父さん、と呼びかけた老執事の切実な声が耳の奥にこだまする。


 誰が、アルラスが本当に腹を立てて声を荒げただなんて思うだろう?


 どうしても眠ることができず、自室を出てあてどなく歩き続けているうちに、気がつけば用もない城の外れの方まできていた。

 ふと、右手の渡り廊下の先に、扉が見えた。あちらには、ここ数十年使われていない棟があると聞かされていた。

 扉が細く開いている。リンナは口を噤んで扉を見据えた。躊躇うこと数秒、壁に手をついて、そっと方向を変えていた。

 足音は雨音にかき消された。その雨音すら、薄らと埃を被った絨毯に吸い込まれていた。


 もうずっと使われていない一角なのだろう。扉が長く尾を引いて軋むので、リンナは思わず息を殺した。

 かび臭く湿った空気が一気に押し寄せて、リンナは思わずよろめいた。

(勝手に入っても、いいのかな……)

 リンナは慎重に扉の向こうへ首を伸ばした。


 長い廊下が横に伸びている。会議室、と札が扉の上に掲げられているのを見て、数度まばたきをした。どうやら、かつてはここで人が働いていたみたいだ。

 いくつかの部屋を見比べる。華やかな宮廷生活のイメージに反して、地に足の着いた事務仕事の気配がした。

 廊下はすっかり片付けられていて、通路に放置されたものはひとつもない。定期的に保守点検がされているのか、床が抜けそうな不安もない。

 廊下から覗ける部屋のどれもが、がらんと冷え切った空間である。時おり机や椅子のひとつふたつが壁際に寄せてあるのみで、閉めきられた窓から月明かりが板張りの床に反射している。

 空のキャビネット。丁寧に重ねられた椅子。人がいなくなって随分経つのが、見ただけで分かる。

 もの悲しさに息が詰まった。この城が国の中枢だった時代のことなんて何も知らないのに、今にもたくさんの足音や話し声が聞こえてくるようだ。

 端に寄せられて束ねられたカーテンのほつれ。床の木目に残った傷。塗装が剥がれて丸まってしまった机の角。

 そうしたものを眺めながら、なにひとつ手を触れてはいけないような気がして、リンナは胸の前で拳を握った。


 ひとつひとつ部屋を見ていった先で、リンナはふと足を止める。一番奥の部屋。重厚な両開きの扉が、こちらを威圧するように立ちはだかっている。

「執務室」と、扉の上のプレートを読み上げた。

 ……誰の執務室?


 扉の向こうに人の気配がした。伸びかけた手が空中で止まる。

 この板一枚の向こうに誰がいるのかは、見なくても分かる。誰もが寝静まった頃に古い建物にいる理由だって、分かる。

 開けるべきではない。それなのに、手は自然と真鍮製の取っ手を握っていた。

 開けてはいけないけれど、開けたかった。


 扉は覚悟していたほど軋まなかった。

「閣下、」

 小さな声で囁いて、リンナは部屋へと滑り込む。

 ひゅう、と音とともに髪が揺れて、窓が開いていると気づく。


 部屋は散らかっていた。しかし、放置されて荒廃しているのとは違う。

 床に転がったままのおもちゃ。机の上に丁寧に並べられたぬいぐるみの横に、ひとつだけ倒れてしまったものがある。端がめくれた絨毯と、中途半端に本の入った書棚を順に見る。


 この部屋はやはり、他の事務室や会議室と違う。

 まるで、ほんの数秒前まで、ここで人が暮らしていたみたいだった。

 部屋の中央で、アルラスは胡座をかいて、ぬいぐるみを抱えていた。

「ルロル……昔飼っていた猫が、この部屋が気に入りだったんだ。最後に見たときも、このぬいぐるみの隣で眠っていた」


 彼は振り返らずに応えた。リンナは無言で近づくと、すぐ隣で膝を折ってかがみ込んだ。

「私、はじめに、あなたに酷いことを言いました」

 ごめんなさいと呻くが、アルラスは呆れたように首を振った。気にしていないとの答えは嘘ではなさそうだった。

 目線を合わせると、彼は「本当に気にしていないよ」と繰り返した。


「ロガスさんから、お話を伺いました」

 遠慮がちに切り出す。アルラスは口の端だけで微笑んだ。

 彼の全身から酒精のにおいが漂っている。随分な深酒をしたらしい。


「ロガスも、小さいときはこのぬいぐるみが一番気に入りだったんだ。ほら」

 アルラスは兎のぬいぐるみを背後から抱くと、リンナに向かって両前脚を振ってみせる。リンナは膝を抱えたまま、指先でぬいぐるみの鼻先を撫でた。

 兎におどけた仕草をさせながら、彼の瞳には深い哀しみが浮かんでいた。


「ほんとうに小さかったんだ。手だって、俺の指を一本握ったらそれでいっぱいで、一人で歩くことだってできない、小さな赤ん坊だったんだぞ」

「でも、もうロガスさんは立派な大人だわ」

 アルラスの腕に手を添えて告げる。彼は膝の上にぬいぐるみを下ろして、しずかに項垂れた。

「ロガスさんは、たしかに危険なことをしたと思います。でも、今日の閣下は、言い過ぎだったんじゃないかしら」

「知ったような口を」

 吐き捨ててそっぽを向くが、アルラスはその場から動こうとはしなかった。


「猫はどうした」

「食堂の暖房の前に籠をおいて、その中に入れています。あんまりごはんを食べなかったわ。暴れる元気もないみたい」

「そうか。……明日、俺が様子を見る」

 うんと頷いて、リンナはゆっくりとアルラスの背を撫でた。


 大きな背が震えているのを掌で感じる。わざと顔を逸らして反対の壁を眺めていると、アルラスは慎重に寄りかかってきた。

 ロガスが地面に伸びているのを見たとき、一瞬、最悪の可能性を思い浮かべた。アルラスも同じ想像をしたはずだ。

 彼があの一瞬で覚えた恐怖は、いったいどれほどだったろう。


「ロガスさんはね、あなたが、自分を拾ったことを後悔しているんじゃないかって」

 アルラスは喉の奥で笑った。笑いながら、「そうだな」と応えた声には涙が混じっていた。

「後悔している。雪の中であれを拾って、濡れた体を拭くための布を探しているときから、ずっと後悔し続けている」

 顔を伏せたまま、彼は声を殺して泣いていた。


 何度も背を撫で下ろす。アルラスは顔を見られまいとするようにリンナの首元に顔を埋めた。うなじを毛先がかすめたが、リンナは奥歯を噛みしめて声を堪えた。懐かない猫を扱うときと同じだった。

「方法はいくらでもあったんだ。孤児院に預ければよかった。信頼の置ける人間に託したってよかった。昔の使用人に義理立てしたいだけなんだったら、定期的に金でも送ればそれで十分じゃないか」


 彼は自分に問いかけていた。何度も繰り返した問いのようだった。

 そのたびに、同じ答えを出していたのだと思う。

 アルラスは血を吐くように呟いた。

「でも、あのとき、ロガスを抱いたとき、愚かにも思った――こいつは、俺が助けてやりたいって」


 震える両手を見下ろす横顔を見た瞬間、リンナは衝動的にその手を取っていた。大きな手が握り込んでくる。硬い手のひらだった。

「……とても生きていけない」

 その目の縁を、大粒の涙が越える。指先は縋るように力を増した。

「これを失ったら自分はもう自分ではないと思うほど大切な人や物、場所をいくつも失ってきた。それなのに俺は死ななくて、俺だけ、ずっとここに置いていかれたままで、」


 アルラスの全身は今にもばらばらに崩れてしまいそうだった。それを繋ぎ止めようと、リンナは手を握り返す。

「こんな思いをするくらいなら、拾うんじゃなかった……!」

 痛切に語る彼の肩越しに、窓の外を見ていた。雨粒が幾筋も流れてゆく。

 リンナはしばらく遠くを眺めてから、「それは違うわ」と呟いた。


 アルラスは呆然と顔を上げた。その目の奥を、覗き込む。

「いずれ死ぬなら、ロガスさんを育てたことに価値はないっていうの? それじゃあ、どうせ死ぬなら初めから生まれなければよかったというのと大差ないわ」

「違う!」

 掴みかかってきたアルラスの指をそのままに、リンナは「そうでしょ」と頷いた。


「泣かないで、閣下」

 濡れた目元を親指で拭ってやって、そっと囁く。

 まるで初めてリンナの存在に気付いたように、色の濃い瞳がこちらを見つめ返している。濡れた両目が瞬きを繰り返す。


「離してくれ」と、ややあって彼は掠れた声で囁いた。

「俺に近づかないでくれ。頼むから……」

 そう言って距離を取ろうとするアルラスの手を、力一杯に捕まえる。

「離しません。あなたが泣き止むまで、絶対」

 暗い部屋の中央に、月明かりが降り注いでいた。遠くで風が吹いている。


 アルラスの唇が小さく動く。やめてくれ、と囁いたようだった。

「どうして?」

 聞かなくても分かる答えを、言葉にさせたかった。

 机のうえに積もった埃が、まるで雪のようにほの白く光っていた。倒れたままの人形と開きかけの本の存在が、人の不在をいっそう強く印象づける。


 アルラスは一度おおきく身震いをして、それから、泣き笑いのような表情でリンナを見つめた。

「……もう、疲れた。無くしたものを数えることも、これから無くすものに怯えることも、もう飽き飽きだ」

 自分より頭ひとつほども大きな体が、まるで濡れた子犬のように震えている。

 腕を伸ばして、広い背に手を回した。

「アルラス」

 囁くと、彼の体は決定的に強ばった。

 胸元に彼の頭をかき抱いて、リンナは丸まった背をゆっくりと撫で下ろした。


「私がいます。大丈夫だから……大丈夫……」

 冷えきった部屋の中で、彼に触れる手だけが熱を持っていた。寝巻きの袖から出た指先や足首は、夜の空気に痺れるようだった。

 これでは彼を抱き寄せているのか、こちらがしがみついているのか分からない。

 溺れるように腕を上げたアルラスが、強く背をかき抱く。

「君もどうせ俺を置いていくんだろう」

 今にも泣き出しそうな声だった。幼子が親を探すような切実さがあった。


 ずっとそばにいると宥めるだけなら簡単だった。けれど、身を絞るような寂しさに苛まれているアルラスを前にして、言葉が出なかった。

 そんな、無責任なこと、言えるはずがない。

 何も答えられずに、ただアルラスの背を強く抱く。

 互いの鼓動が同じくらいの速さまで落ち着いたころ、リンナはそっと口を開いた。


「……春が来たら、一緒に、花壇に新しい土を入れて、種を蒔いてみませんか」

 街に出て、花屋に声をかけて、どんな色の花がいいか考えましょう。

 呆然と顔を上げたアルラスの頬を撫でてやる。

「花はいつか散るものだけど、また咲くものだわ。手をかけてやれば、毎年顔ぶれを変えつつ何年だって咲き続けるものです。このお城だって、いつも使っている区域は、形こそ変わっても、今でも生き生きとしたままでしょう」


 冷えた手のひらに驚いたか、アルラスが首を竦める。彼はもう泣いていなかった。

「姿を変えながら続いてゆく営みのなかに、あなたと同じ永遠があるの。何も怖くないわ。何も特別なことじゃない」

 細い綱渡りを慎重に渡るような緊張と高揚が、全身を貫いていた。リンナは力を込めて告げた。

「おねがい。壁を作って、無理に遠ざけようとしないで」

 火の気のない部屋のなかで、アルラスの双眸が大きく見開かれる。彼の唇がいちど薄く開かれて、しかし、また閉じてしまう。


 リンナは抱擁を解いて、苦笑した。

「ロガスさんのこと、なにも話してくれないのは、寂しかったです」

「うんと年上の息子がいたら、君も良い気がしないだろうと思って」

 アルラスは言い訳をしたが、傍から見ればロガスがただの使用人でないことは明白だ。

 ヘレックやレピテなどは、恐らくはロガスのことを、アルラスの親の代から仕えている古株の執事とでも思っていることだろう。



「私、てっきり閣下の実のお子さんかと思ったわ」

 冗談めかして呟いたとき、アルラスの両目に奇妙な光が宿った。

「……閣下には、これまでにも何人もの奥さんや、子どもがいてもおかしくないんだって、そのとき気付いたの」

 彼は虚空を睨んだまま、口元だけで皮肉めいた笑みを浮かべた。しばらく返事をせず、石像のように沈黙する。伏せられた瞼がぴくりと震えるのだけが、彼が生物である証だった。


 長い間をおいて、アルラスは「いない」と囁いた。「いてはいけない」と、矢継ぎ早に繋げる。

「俺の子には、俺にかかった不死の呪いが受け継がれる」

 さざ波の立つ水面のように静かな声だった。リンナは息もできずにアルラスの横顔を見つめていた。

「試したことがあるの?」

「ない。だが分かる」


 断言した眼差しには、見覚えがあった。遠くを見ているような顔をして、その瞳には計り知れない暗闇が宿っている。

「俺みたいのを、決して増やしてはいけない。母体にどんな影響があるかも分からない」

 こちらに話す体を取っているのに、彼はまるで自分に言い聞かせているみたいだった。

「君の言うことは分かるよ。でも、俺には、望んではいけない類の繋がりがある」

 絞った声なのに、押しつぶされるような凄みがあった。


 アルラスは振り返った。鼻先が触れ合いそうなほどに近づき、見開かれた彼の目に自分の顔が写っていた。

 これは牽制だ。リンナを脅し、手前の手前で拒絶しているのだ。

 リンナが変な気を起こすことを危惧されたのが不満だったし、その可能性に言及されるのも不躾だった。


 息を整えてから、「なに言ってるんですか」と明るい声を出す。

「私はさっさと閣下が死ぬのを見届けて、呪術の道を究めるなり、閣下より若くて人格にも優れた好青年を探すなりするために忙しいんですからね」

 芝居がかった仕草で鼻を鳴らすと、アルラスが眩しそうに目を細めた。

 気がつけば全身が冷え切っていた。

 腕に手を添え、部屋に戻るよう促すと、彼は大人しく従った。



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