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022:古城でのこと 7



 結局、アルラスとロガスの関係が判明したのは翌日のことだった。

「リンナ! 何だこの部屋は……たった半日でどうしてこんなに散らかるんだ」

 荷解きの最中に資料を読みふけっていたところを叱りつけられ、リンナは顔をしかめた。


「ちょうどいま片付けようとしていたところです」

「いい加減にしなさい、こんな……つまづいて転んだらどうするつもりだ」

 信じられないほど小うるさい。リンナは本を机に置くと、渋々立ち上がった。

「転んでも死ぬわけじゃあるまいし」

「死ぬかもしれない」

 埒が明かない。


 ため息をついて、床に広げてあった鞄を回収しようと手を伸ばしたとき、外から甲高い悲鳴が聞こえた。

「大丈夫ですか、ロガスさん!」

 レピテの声だ。

 アルラスは弾かれたように声の方向を振り返る。


 リンナは窓際に駆け寄って外を覗き込んだ。庭を見下ろすと、生け垣の向こうでレピテがしゃがみ込んで声を上げている。地面に投げ出された足が見えた瞬間、背筋に冷たいものが走った。

 慌てて踵を返そうとしたときには、アルラスの姿は既になかった。リンナも泡を食って彼を追う。


 現場を見た瞬間、アルラスは蒼然と立ち竦んだ。取り乱した声でロガスを呼ぶ。

 老執事は木の下で大の字に倒れていた。血の気が失せ、ぐったりと目を閉じている。

 一瞬、良くない想像が頭をよぎって、リンナは両手で口を覆った。


 アルラスは崩れ落ちるように膝をつくと、ロガスの肩を何度も叩いた。

「ロガス! 聞こえるか、ロガス」

 その形相は恐慌状態といってもよかった。

 呼びかけるアルラスの方が、見る見るうちに青ざめ、今にも倒れそうな顔色になる。


 ふと頭上からの物音に気付いて、リンナは顔を上げた。

 傍らに脚立が倒れている。そのすぐ上の枝の上に、猫が丸まっている。ロガスが猫を助けようとして、脚立から落ちたのは明白だった。

 枝にしがみつく黒猫を見上げて呟く。

「猫を助けようとしたんだわ」

 それを聞いて、アルラスが顔をしかめて上を向く。猫とロガスとを見比べて、彼は鼻に皺を寄せた。


 呼びかけの甲斐があってか、「うーん」とロガスが声を漏らす。アルラスは舌打ちをすると、ロガスを横抱きにして城内へと足早に歩いていった。

 あとから遅れて来たヘレックが、猫と脚立を見て一部始終を合点する。

「僕が捕まえますから、下で構えていただけますか」

 ヘレックが脚立を立て直し、枝の上に手を伸ばす。その下でリンナはレピテと一緒にシーツの四隅を持ち、木の下を右往左往した。


 程なくして、ヘレックの手を避けて猫が転げ落ちる。リンナはシーツごと猫を丸め込むと、腕の中を覗き込んだ。

 こうして抱いてみると、骨と皮しかないくらい痩せ細っている。怪我もしているようだ。

 猫はシーツの中で脚をばたつかせ、一瞬でも気を抜くとばねのように飛び出してしまいそうだった。リンナはがっちりと猫を抱えると、傷につける軟膏を探しに医務室へ向かった。


 医務室の扉を開けようと、足先を隙間に差し入れたときだった。

「ふざけるな! もうお前は良い歳なんだぞ、……死んだらどうする!」

 感情的な怒鳴り声が聞こえて、リンナはびくりと肩を跳ねさせた。


 そっと医務室を覗く。寝台脇に立ったアルラスが、ロガスに向かって大きな声を出している。

「猫を助けようとして落下しただと……」激怒のあまりか、アルラスが声を詰まらせる。

「前のときは褒めてくれたじゃないですか」

 ロガスの返事は、覚悟していたよりは元気かつ反抗的だった。

「ルロルのときは、お前はまだ八歳で、分別のつかない子どもだった。今のお前は孫もいるような分別のつく大人で、体も衰えている」


 リンナは扉の影で眉をひそめた。ロガスを子どもの頃から知っているような物言いだった。聞き慣れない名前は、別の猫の名前だろうか?

「分かっているのか。お前は俺と違って、木から落ちれば死ぬんだ。もう老人で、本当なら隠居するような歳だ」

 暴れ疲れたのか、幾分かおとなしくなった猫を揺すり上げる。ここから立ち去るべきなのは分かっていたけれど、好奇心が邪魔をした。

「確かに昔ほどは動けませんが、持病もなく、健康です。今回のは足を滑らせただけで、」

「それを衰えと言うんだ」

 医務室から、壁を叩くような音が響く。


「俺は、お前の間抜けな死に様を見るために、お前を育てたんじゃない!」


「父さん!」


 頭が真っ白になった。どちらがどちらの言葉が分からず、当惑する。

 その隙に、つるりと腕から抜け出した猫が、魚のように素早く医務室へ滑り込んでしまった。

 猫かアルラスが棚に激突する音がして、悪態が上がる。足音が近づいたかと思うと、逃げる間もなく扉が開かれた。


「……ここで何をしている?」

 取っ手を掴んだまま、アルラスは険しい顔でリンナを見下ろした。

 意図的に盗み聞きをしていたところを見つかり、リンナはへらりと媚びる笑みを浮かべた。彼は毛一本ほども笑わなかった。

「君は、聞くべき話は聞かないわりに、聞くべきじゃない話は聞いているんだな」

 八つ当たりだ。


 でもそれを指摘しなかったのは、彼の目が潤み、真っ赤に充血していたからだった。

「リンナさんに当たらないでください」と、寝台から厳しい声が飛ぶ。三重に積んだ枕に上体を預けて、ロガスは眉根を寄せてこちらを見ていた。

 アルラスは舌打ちをすると、顎をしゃくって医務室に入るよう言った。


 おずおずと足を踏み入れて、リンナは部屋の隅で毛を逆立てている猫に手を伸ばす。

 フーッと音を立て、尾を膨らませて、痩せた猫は必死に体を大きく見せようとしていた。

「どこから聞いていた」

「死んだらどうするって大きな声を出したところからです」

「じゃあほぼ初めからじゃないか」


 アルラスは椅子を引っ張ってきて、乱暴に腰かける。肩を怒らせてこちらを睨む姿は、いま目の前で怯えている黒猫とよく似ていた。

「怪我をしているみたいなんです。傷につける薬はありませんか」

 数秒黙ってから、アルラスは薬棚の前に立つ。床にかがみ込んで、リンナは猫に向かって手を伸ばした。

「痛っ!」

 手の甲をしこたま引っ掻かれて、咄嗟に手を引っ込める。背後から近づいてきたアルラスがため息をつく。

「……どいてろ」

 軟膏を置いて、彼は膝をついて黒猫に両手を差し伸べた。


 有無を言わせずに猫を捕まえると、目の高さに腹を掲げて「雌だな」と呟く。

 それからアルラスは、猫を抱いたまま表情を曇らせた。

「脚にひどい傷がある。これは……鳥か?」

 リンナは猫を包んでいたシーツを見下ろす。乾いた血がこびりついていた。かなりの出血だ。

「この辺りの森には猫の天敵もいろいろいるからな」

 呟いてから、アルラスは悪態をついた。


 一旦置いた軟膏を無意識のうちに手に取っていたらしい。容器を机に戻して、彼は窓の方へ猫を突き出す。

「野良猫だ、追い出すぞ」

「そんな!」

 リンナとロガスは声を揃えて叫んだ。

「怪我をしているんですよ」とリンナは拳を振り上げる。


 アルラスの目つきは頑なだった。

「俺は、これ以上この城に生き物を増やすつもりはない」

 黒猫を胸の前に抱いたまま、滑稽にも思える宣言だ。けれど、アルラスは冗談のつもりは全くないようだった。


 リンナは両手を伸ばして応える。

「……なら、私が世話をします。せめて怪我が治るまででも」

「随分な深手で、時間も経っている。病気も持っているようだし、そう長くないだろう」

 アルラスの言い方は冷淡だった。

 どんなに暴れても逃げられないと悟ったか、猫はぐったりとアルラスの手の中で垂れている。

「それなら、なおさらです」とロガスは断固として告げた。アルラスは無言でその顔を一瞥すると、猫をリンナに押しつける。


「勝手にしろ。俺は知らん」

 一言残して、彼は大股で医務室を出て行った。猫を抱いたまま、リンナは眉を下げて後ろ姿を見送った。

 足音が遠ざかると、医務室には猫の威嚇する声ばかりが響いていた。

「……お見苦しいところを見せてしまいましたね」

 ロガスが目を伏せて苦笑する。リンナは首を振って、猫を盥のなかに下ろした。

 手をかざし、ロガスに聞こえないよう小さな声で『動かないで』と呪文を唱える。猫はリンナを見上げた姿勢のまま、ぴたりと凍り付く。

「大人しい猫ですね」とロガスは感嘆したように呟いた。曖昧に笑って頷いたリンナに、老執事は指をさした。

「傷口を綺麗にしてやって頂けますか。そのあとに、そちらの薬を塗って、上から包帯でも巻いてやってください」

 はいと頷いて、リンナは水を汲みに井戸場へ立った。


 医務室の勝手口から出てすぐ横に井戸があった。くみ上げた水を桶に受け止め、手を出して水温を確かめながら、先ほど聞いてしまった会話のことがずっと頭を回っていた。

(父さん……)

 ロガスは確かにそう言った。


 考えてみれば、何もおかしな話ではないのだ。アルラスは若い姿をしているが二百年も生きている長寿で、子どもどころか孫やひ孫やその下だっていてもおかしくない。


 昨晩、アルラスの紹介を遮ったロガスのことを思い出す。

(言う必要のないこと、か)

 アルラスも言っていた。聞くべきじゃないことだ、と。

 別に、彼に息子がいようがいまいが、関係ない。自分はただ呪術のためにレイテーク城に来ただけで、自分たちはやむを得ない事情で一緒にいるだけなのだ。


 そのはずなのに、なぜか胸の中にもやもやとしたものが広がってきていた。



 いっぱいになった桶を抱えて、リンナは再び医務室へ戻った。少量の水をやかんに移し替え、小さな炊事場で火にかける。

「奥方さま……いえ、リンナさん」

 寝台から、ロガスは控えめに呼びかけた。火の近くから離れないまま、リンナは「はい」と振り返った。


 白髪交じりの長髪を結わえて、年齢の刻まれた顔に笑みを浮かべて、ロガスはじっとこちらを見ていた。

「昨晩、私が変に気を回したせいで、驚かせてしまいましたね」

「いえ、そんなこと」

 返事が硬くなるのを自覚する。ロガスは眦を下げて「申し訳ありません」とゆっくり首を振る。


 沸かした湯を桶の水に少しずつ戻した。かき混ぜながら、ぬるま湯になったところでやかんを五徳へ戻し、棚に畳んでしまわれている布巾を桶に浸した。

 軽く絞った布巾を手に、猫がじっとしている盥の脇にかがみ込む。

 慎重な手つきで猫の毛皮に触れた。泥や血で固まった毛を、少しずつ濡らしてゆるめてやる。


 汚れた水を何度も取り替え、黙々と作業を続けているリンナの横顔を、ロガスは静かに見つめていた。

「リンナさん。私は、何十年も前に、この城の門の前で拾われました」

 思わず手を止めて、リンナはロガスを見上げる。少年時代をとうに過ぎ、ロガスは達観した眼差しでこちらを正視していた。


「元々は、私の母が旦那様に仕えていたのです。その当時の旦那様は、今とは違う名前で、たしか芸術家を名乗っていました」

 聞けば、アルラスはおよそ五、六年ごとに、表向きの住まいと肩書き、名前を変えているという。今も、アルラス・リュヌエールという男の正式な住所は別の場所にある。


「この城では、雇われた者は二年までしかいられない決まりがあります。母もその例に漏れず、旦那様に仕えて二年が経った頃に屋敷を辞したと聞いています」

 ロガスの母は、身辺になかなか問題を抱えた女性だったらしい。

「親の代からの借金を抱えていたんだそうです。良くない連中につきまとわれて、城を出たあとも再就職先を見つけるのに苦労して、それなのに、これまた良くない男に引っかかって」

 ロガスは言い淀んだ。あまり明言したくないのだろうと悟って、リンナは努めて何とも思っていない表情を作った。


「結論からいえば、母は、正門の前で、まだ乳飲み子だった私を抱いたまま事切れていたんだそうです」

 小舟はなかった。あっても漕ぐ力はなかっただろう。馬車も通れない、打ち捨てられた古道を歩き続けて、このレイテーク城まで辿り着いた。

 レイテーク城の守りは堅牢である。かつての勤め先を頼るも、門の中に入ることもできずに雪の中倒れていたという。

「母は手紙を握りしめていたと聞きました。……『自分には、旦那様以外に頼れる人はいない。どうか息子を頼む』と」


 年月のあらわれたロガスの横顔に、静かな労りと悲しみが滲んでいた。

 リンナは呆然と布巾を握りしめる。

「昨日の夕食の席でご覧になったでしょう。やり過ぎなほどに、使用人と一線を引いた態度を取るきらいがあります。私の母の件があったからとは言いませんが、『いざというときに頼られても困る』と明言したこともありました」


 ロガスの視線は、アルラスが歩き去った戸口の方を向いた。彼の言わんとすることはリンナにも分かった。

 アルラスは、リピテやへレックに対して友好的ではあるが、不必要に気さくで親しげな態度を取ることは決してない。あくまで雇用主として礼節を保った対応をとるし、相手にもそうした言動を言外に要求している。

 ロガスは遠くを見つめて、抑揚のない声で呟いた。



「――父は、私を拾ったことを後悔しているのだと思います」


 そんなことない、と言おうとした。それなのに声は喉でつかえて出てこなかった。

「不思議なことですが、あのひとは今でも私の尊敬する父である一方で、まるで息子のように思えるときもあるのです」

「分かります」


 リンナは小さな声で頷いた。彼が時おり見せる、年齢に見合わぬ幼さや青さのことだ。

 ロガスはかたく目を閉じた。

「なんと言われても、私は、父を一人でこの城に残していけません」



 長い時間をかけて猫の体を綺麗にしてやり、薬を塗って、ほぐした茹で鶏を与えた。

 猫の食いつきは良くなかった。

 水を捨てに外へ出て、リンナは額を風にあてた。


 中庭は荒涼としていて、落葉しきった裸の枝々がもの悲しく目に映る。冷たい風が吹き寄せるたびに、どこかの扉で隙間風が唸るような音がする。

 誰も、この庭を華やかな空間に仕上げたりはしないのだ。

 この城に客人は来ないし、二度しか見ない春のために花を植える者もいない。

 もし木を植えても、その幹が太く長く伸びる頃には、植えた人間は既にいない。手入れされずに放っておけば荒れるばかりの庭である。


 アルラスは種を蒔かない。

 曇天を見上げたまま、リンナはそっと目を閉じた。


 ロガスが苦い笑みを浮かべているとき、何も言えなかった自分が情けなかった。

 何も聞かされていないことに不満を覚えた自分が恥ずかしかった。

『友達を失うのは、あなたのせいなんじゃないの』

 臆面もなくそう糾弾した自らの声を思い出す。


 リンナは片手で目元を覆うと、深く項垂れた。

「最悪……」

 音もなく降り出した雨が、地面を濡らしてゆく。医務室から猫の鳴き声が聞こえてくるまで、リンナはずっと外で立ち尽くしていた。


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