021:古城でのこと 6
「こちらが、本日のメインディッシュの仔牛のステーキです。ソースは北アヴェイル地方の赤ワインを使用」
「まあ、素敵……」
しゃちほこばった仕草で、ヘレックが皿をリンナの前に置く。
適度な広さの食堂には、リンナを含めて五人のみ。薄暗い部屋に間接照明が配置され、どこからともなく優雅な弦楽器の音色が流れてくる、しっとりとした空間である。
(なんだか、思ったよりちゃんとしている……)
正直、もともと城にいるのが四人のみという時点で、もう少し気楽な夕食の席を想像していた。そのうえ、ヘレックが警備と食事の支度を兼任し、専属の料理人はいないと聞いていたのだ。見慣れた家庭料理が並んでいると思っていたが、これは予想外の幸運だ。
視界の端では、酒瓶を携えたレピテが粛然とした態度で立っている。思っていたよりもディナーだ。セラクト邸の普段の夕食より余程かしこまっている。
ただ、ひとつだけ気になる点があった。指摘すまいと思いながら、リンナは違和感を押し殺して平然と振る舞う。
「……ヘレック?」
躊躇いがちに、アルラスが小さな声でヘレックの方を振り返った。「はい、何でしょう旦那様」と声を潜めてヘレックが屈むが、会話はまあまあ丸聞こえである。
「そんなに気合いを入れずに、普段通りで良いと言わなかったか」
「いえ、しかし……せっかく奥方様がいらしたんですし、せめて最初だけでもと思い」
どうやら今日は特別仕様らしい。毎日フルコースで夕食が出てくる訳ではなさそうだ。
「まあそれは良いとして」とアルラスが頷く。口元を手で隠し、彼は心底怪訝そうに囁いた。
「メインが最初で良いのか?」
ずばり突っ込んで良かったのか? リンナは恐る恐るヘレックの顔色を窺った。
それまで静観していたレピテの口から、「まずい」と声があがる。どうもこの趣向を企んだのはこちらの少女のようだ。
ヘレックは二秒ほど動揺をみせたが、すぐに嘘くさい咳払いで立ち直った。いかにも気障な態度で繰り返す。
「せっかく奥方様がいらしたんですし、せめて最初だけでもと思い」
「本当の本当に『最初だけ』取り繕おうとしていたんだな」
「返す言葉もございません……」
ヘレックが項垂れると、頭上の照明が点灯した。レピテが操作したようだ。一瞬目がくらむが、食堂が一般的な明るさになっただけだ。レピテはさっさと間接照明の数々を回収して部屋の隅に集めている。
何事もなかったかのように皿が並べられるのを眺めながら、リンナは大きく頷いた。
どうやらこちらが日常風景らしい。
ヘレックが大きなお盆を持って厨房から出てくる。器になみなみと注がれたスープが湯気を立てており、香辛料の利いた香りが漂ってきた。
目が合うと、ヘレックがにこりと微笑む。
「こちら、『わくわく洋裁ハウス駅前店のオーナー謹製おいしいスープ』です」
「まあ、地元に根ざしたご当地の料理なんですね」
「いえ、オーナーが旅行先で飲んでおいしかったスープを再現したレシピだとか」
「じゃあご当地は関係ないか……」
腕を組んでしまったリンナを見て、向かいのアルラスは戸惑い混じりの苦笑である。
「名のない料理を、無理やり紹介しなくてもいいんだぞ」
「いえ、本日はすべての品をご紹介させて頂きます」
ヘレックとレピテがあんまり真剣な顔をしているので、彼らが堂々とふざけていると気づくのに時間がかかってしまった。
見ればレピテは終始くすくすと笑いを堪えきれない様子だし、ロガスの口角も上がったまま戻らない。
「さて、夕食にするか」とアルラスが合図をすると、一同は食卓についた。
自分で「腕前は確か」と言うだけあって、ヘレックの料理はなかなか素晴らしいものだった。素人の域を超えている。
素直にそう伝えると、ヘレックは顔を真っ赤にして黙り込んでしまった。耳まで赤くして恐縮する同僚を見てレピテがころころと笑う。
「おこがましいとは思うんですが、わたし、こうして皆さんで揃って食事を取っていると、何だか実家にいた頃を思い出して楽しくなるんです」
レピテは開けっぴろげな笑顔でこちらを見つめた。
「ご家族は仲がよろしいの?」と訊くと、レピテは「いえ」と軽い口調で答えた。
「不景気の煽りで実家の会社が倒産しちゃって、一家離散しています。どこで何をしているものやら」
事情が重い。
「大学の学費も払えなくなって困っていたところを、旦那さまにお声がけ頂いて、ここに」
「そ、そうなの」
必死に言葉を選ぶリンナに、ヘレックが微笑みかけた。
「僕も、前の仕事を辞めてフラフラしているところを旦那様に拾い上げていただきました。このご恩は返しても返しきれません」
「大袈裟だな」
アルラスはしかめ面でため息をついた。
空気がぴりっと張り詰める。
「こんな僻地で働いてくれる人間を探したら、自然と訳ありが多くなるだけだ」
やたらに強い口調に食卓が凍り付く。
ヘレックとレピテは揃って顔を強ばらせる。
照れ隠しというよりは、意図的に突き放すような言い方だった。リンナの視線に気付いてか、アルラスは一度こちらを見たが、すぐに目を逸らした。
ロガスが非難めいた目でアルラスを見ている。アルラスはそちらも一瞥し、逃げるように顔ごと反対を向いた。
最後に出てきた氷菓子を吸い込むようにして食べ終えた。
全員の心はひとつだった。この気詰まりな空間から一刻も早く抜け出したい。
ロガスはその間もずっとアルラスを睨みつけており、アルラスはずっと反対側の壁を睨んでいた。家令が主人を圧倒している光景は異様だった。
結局、食後にアルラスは咳払いをして、「悪かった」と呟いた。
「君たちに事情があろうとなかろうと、この城に来てくれたことを有り難く思っている」
レピテが目元を緩める。
「わたしも、レイテーク城に来られて嬉しいです」
おずおずと答えると、ヘレックも頷いて同意する。それで状況は一旦の収束を見せた。
リンナがこれから使用することになる部屋は、食堂からそれなりに距離があった。
炊事場などの生活空間は現代的に改築されているようだが、居住用の棟は以前の姿のままのようだ。
「君の部屋だが、元々は俺の叔母が降嫁するまで使っていた部屋でな、客室として使われた時期もあった。二百年以上前とはいえ王女が使っていた部屋だ、不足はあるまい」
言いながら、アルラスは奥の扉を開けた。入るよう合図されて、おずおずと足を踏み入れる。
「わ、本当に広い……」
広々とした一室を見回して、リンナは目を丸くした。
全体的に古めかしい部屋だが、みすぼらしい印象は全くない。よく見れば照明は現代的だし、どうやら冷暖房も完備されている。
「家具なんかは、状態がいいものは当時のものをそのまま使っている。貴重なものもあるから、あまり乱暴に扱わないでくれよ」
「私、室内で鉄球なんて振り回さないわ」
「君に家具を壊すほどの腕力があるようには見えないが、一応な」
部屋に入って正面に大きな窓があり、そのすぐ下に、壁に向き合う形で広い机がある。夜更けとあって今は幕が下ろされているが、昼間にはさぞかし明るくなることだろう。
机の脇には天井まであるような大きな本棚が置かれ、小ぶりで取り回しの利く台車まで添えられている。
椅子も作業にちょうど良い大きさで、悔しいが色々と理想的な作業空間であった。
「文具や資料など、必要なものがあったら何でも言いなさい」
「じゃあ文鎮に使うので、でっかい金の延べ棒が欲しいです」
無言で脳天に手刀が落ちて、リンナは首を竦めた。
改めて室内を見回すと、続きにもう一部屋ある。覗きに行ってみれば、これまた広々とした寝室である。
「このベッド、そこらの草原ぐらい広いですよ」
「どんなに君の寝相が悪くても落下するのは至難の業だろう」
布団に手を当ててみるが、ふかふかと柔らかくて申し分ない。正直この半分の幅でも十分なくらいに大きなベッドである。寝ようと思えば横に三、四人は寝れそうな……。
と、そこでリンナは「ん?」と眉をひそめてアルラスを振り返った。
「まさか閣下もここで寝るから、こんなに広いんですか?」
「違うが」
即答されて、リンナはすぐさま胸を撫で下ろした。
「俺の部屋は、ここの一つ上の階の、反対側の角部屋だ」
アルラスは顔を上げ、部屋のある方向を指さした。
「それだけ離れていれば、閣下の大音量いびきも聞こえなくて安心だわ」
「君の強烈な歯ぎしりも聞こえてこないから、俺もさぞかし安眠できるだろうよ」
互いに睨み合う。不毛なことこの上ないと気づいてやめる。
用は済んだとばかりに、アルラスはさっさと踵を返した。扉を開けたところで振り返り、こちらに指をさす。
「じゃあ、疲れているだろうから今夜はちゃんと寝るように。ロガスなんかには、一緒の部屋で寝泊まりしていると誤魔化しておくから――」
と、そこでアルラスは情けない悲鳴を上げて飛び退いた。
「ロガス! そんなところで何をしている!」
驚いて首を伸ばすと、廊下の中央でロガスがにこにこと立っていた。
「申し訳ございません、戸締まりの確認をしておりまして」
お若い二人の邪魔をしてしまいましたね、と口に手を当てて控えめに笑う。アルラスは苦い顔でロガスを見ると、ため息をついて項垂れた。
「リンナ。説明しておこう、ロガスは……」
「旦那様」
ロガスが片手を挙げて制止する。「言う必要のないこともございます」と彼は穏やかな口調で告げた。
リンナが二人の顔を交互に見比べている間に、アルラスは「それもそうか」と何かを納得してしまう。
彼は改めてロガスを指し示した。
「簡単に言うと、ロガスは俺の……体質を知っている、この城でもう一人の人間だ」
目を丸くしてロガスを振り返ると、彼は目尻の皺を深めてゆっくり頷いた。
「旦那様のことでお困りのことやお悩みのことがございましたら、ぜひ私にご相談ください」
アルラスについて、お困りのことやお悩みのことは無数にあった。
色々と言いたそうなリンナの顔を認めて、アルラスは素早く半歩前に出る。
「ありがとう、ロガス。時間が遅いことだしお前も早く寝なさい」
そう言って、彼はふたたび室内に戻ってくると扉を閉めた。しばらく扉に耳をつけて気配を探っていたが、足音が遠ざかるのを確認して息をつく。
二百歳を超える王族に似つかわしくない、小物じみた動きだった。
二人して、いったい何を隠そうというのだろう。募る不信感に、リンナは腕組みをしてアルラスを凝視した。
「いいか、ロガスはああ言っているが、洗いざらい何でも話せという意味じゃないからな」
扉に背を当てたまま、彼は人差し指を立てて言い聞かせた。
「あれには、俺たちはたいへん仲の良い新婚夫婦だということにしてある。その設定だけは守ってくれ」
やっぱり無理があると思うんだけどなぁ、とリンナは言葉を飲み込む。
素直に頷くと、アルラスは「よし」と満足そうに首を上下し、そそくさと部屋を出て行った。
きっと空き巣くらい慎重に自室へ戻ることだろう。足音を殺して突き当たりの階段を目指す背中を、リンナは呆れて見送った。




