019:古城でのこと 4
「こ、これは……」
玄関ホールに足を踏み入れて、リンナは目を丸くした。
三階分の広い吹き抜けだが、その空間に、細い鉄線がいくつも張り巡らされている。各階どうしを縦に繋いでいるものや、吹き抜けを横断するものなど縦横無尽である。
「あれらは、城内で荷物などを自動で輸送するのに使う」
見ろ、と指し示された方向にリンナは目を向けた。
ちょうど右手の方から、何やら大きな籠が鉄線に吊るされたまま通路から出てくる。二階の高さである。
リンナたちが見守る前で、籠は音もなく頭上を通過し、三階の通路へ吸い込まれていった。
「あれは、今日の洗濯物です。洗い場で自動で洗濯された後ですね。これから陽当たりの良いテラスまで洗濯物が運ばれるので、わたしがそれを干します」
レピテが指をさして言う。
「それでは、わたしはここで失礼いたします」と、彼女は洗濯物が運ばれていった方へと歩いていった。
どうやらこの城は、炊事や洗濯、掃除などの保守管理の大部分が自動化されているらしい。
「便利なおうち……」
近くに張られていた鉄線を指でつつくと、アルラスが身をかがめた。
「間違っても、自分を運んでもらおうとぶら下がらないようにしなさい」
加えて嫌味ったらしく囁くことには、「重量オーバーだからな」である。
「じゃあ、改修してください」
甘えるふりで脇腹に肘鉄を突きこめば、アルラスが口の中で罵詈雑言を唱えた。
「……改修したとて、手間がかかる割に得られるものが少ない。そもそも、これの移動速度は人が歩くよりも遅いぞ」
確かに、それならわざわざ人の移動に転用する必要もなさそうだ。
「だいたい、君が一番気になっているのは、うちの自動家事支援技術じゃないだろう?」
耳打ちされて、リンナはぴくりと眉を上げる。そうだ、このお城には、呪術に関する資料がたくさんあるのだ。
「ヘレック、荷物を頼む」
アルラスの言葉に、彼は頷いてリンナの鞄を受け取った。ロガスの姿は既になく、玄関ホールに二人揃って残される。
人の気配がないのを三秒ほど確認してから、アルラスが腰に手を当てて深々と息を吐いた。
「……よし、上手く誤魔化せたな」
「いいえ、酷い演技でしたよ。何とかなったのは私のおかげですね」
「減らないのはこの口か?」
「いたぁい」
頬をつねられて呻く。ぱっと手が離れたと思えば、アルラスはそのまま奥の廊下を指さした。
「さて、書庫へ行くぞ」
気をつけろ、と真剣な声で言われる。
「何せ、古今東西の魔術書を手当たり次第に集めてある。中には開ける手順を間違うと噛みつくものもあるから、怪しいものがあったら俺に言ってから触りなさい」
アルラスが何を言っているのか分からず、リンナは中空を見上げた。この人、ついにおかしくなっちゃったのかしら?
「噛みつくって、本がですか?」
「そうだ。痛いのも厄介だが、紙に血がつくのが一番問題だな」
「血が出るほど噛むんだ……」
大真面目な返事に、リンナは引きつった顔で頷く。
――どうやら、とんでもない城に来てしまったらしい。
「元々は食堂と図書館が併設されていた建物だったが、間の壁をぶち抜いて、地下を含む計三階建ての書庫にしたんだ」
渡り廊下を歩きながら、前方に見える建物をアルラスが指さした。
「地下は閉架になっているから、自分では降りないようにしなさい。一階の端末で資料を呼び出せるようにしてある」
「地下って、例の危ない本なんかが置いてあるんでしょう」
「察しがよくて結構」
木目の綺麗な扉を引いて、アルラスは芝居がかった仕草で一礼した。
「それではお嬢様、どうぞ中へ」
からかわれているのを感じながら、リンナは仰々しく髪を払い除ける。
「さてさて、いったいどんな程度のものかしらね」と言ってのけた直後に、足が止まった。
渡り廊下は、書庫の吹き抜けを見下ろせる二階に繋がっていた。
視線を向ければ、大きなガラス張りの窓から昼間の陽射しが降り注いでいる。食堂として使われていたのだろう、机は吹き抜けの大きな窓に面して並べられ、さんさんと光が降り注いで明るい。
他方、窓から距離を置いた薄暗い空間には書架がいくつも整列していた。入口から書架の奥行きまでは見通せない。
古い本のかおり。少し埃臭いような、かび臭いような、静かなにおいである。
すごい、と思わず唇が動いていた。
(こんなに大きい書庫を個人で所有しているなんて……)
つと見入ってしまったのをごまかすように、リンナは大げさに咳払いをした。
「こ……この程度の書庫で、私を満足させられ――えっ! あれは、幻の『フェメリア門下生のための呪術入門』!」
「声がでかいぞ」
「しかも全巻揃ってる! 信じられない!」
涎を垂らして書庫へ駆け込もうとしたリンナを、アルラスが後ろから捕まえる。
「落ち着きなさい、本は逃げない」
「逃げるわ。私が生まれたときには、呪術の本はみんな焼かれた後だったもの」
アルラスは何かを言いかけて黙った。旧都に来てから、彼のこんな仕草を何度も見た気がする。
振り返り、リンナはアルラスの目を見た。
「閣下。……呪術書の焚書って、誰かが主導したのよね?」
彼が二百年前から生きている人だと分かったときから、ずっと聞こうと思っていたことだった。
アルラスはすっかり黙ってしまう。
「閣下のお兄様が、呪術師によって暗殺されかけて――それで、呪術師は人から忌み嫌われて、本もすべて焼かれて、呪術は滅亡したんでしょう」
「……ああ」とアルラスは喉を鳴らして頷いた。「物知りだな」
リンナは書庫を一瞥する。静謐で秩序だった空間だ。迫害の歴史など素知らぬ顔をして、数々の呪術書が並んでいる。
「焚書は王家の主導で行われたんですか?」
アルラスは答えなかった。肯定である。
鋭い視線を感じて、リンナは長い息を吐く。触れてほしくない話題のようだ。
ポケットに両手を突っ込み、小首を傾げた。
「だからここには、検閲を逃れた資料が残っている訳ですね。幸運にも、と言ってもいいのかしら」
書庫に足を踏み入れれば、ことんと踵が音を立てる。手入れはされているけれど、階段は少なからず音を立てた。
「私、昔生きていた呪術師たちのことが知りたいんです。彼らの書いた言葉が読みたい」
だから私はここに来た。
滑らかな手すりに指を置きながら、リンナは一段ずつ、ゆっくりと階段を降りてゆく。アルラスは口を挟まない。
「呪術師がただの一人も残らない、徹底的な弾圧。大規模な焚書。呪術師たちは貴族御用達の暗殺者だったって話もある。それまで散々利用してきたくせに、いきなり呪術を根絶やしにするなんてひどいわ」
一階に立って、リンナは肩越しにアルラスを見上げた。彼はじっとこちらを見下ろしている。
二百年前から老いも狂いもせずに生きている人。
手が温かくて、胸が脈打っていて、口が悪くて態度も陰険で、面倒見が良くて優しいひと。私の知らない時代のことを知っている人。
王家が抱える最高機密で、その正体を知られてしまえば生きて自由の身にはなれない存在。
私の伴侶。
私が殺すひと。
「君は、呪術師に随分肩入れをしているようだな」
無表情で呟いた彼の顔は、まるで仮面のようだった。
「だって呪術師だもの」
アルラスの視線を受け止めて、リンナは浅く口角を上げた。頬に手を添え、小指で唇をなぞる。
「ねえ閣下、何をそんなに恐れているんです」
階段の上、光の射さない書庫の入り口で、彼は静かに微笑んでいた。
「……あなたの存在以上に私が知っちゃいけないことが、なにかあるの?」
微笑むだけで、答えなかった。
リンナはにこりと笑うと、くるりと反転して書架の間へと滑り込んだ。
「待ちなさい、何だその量は。前が見えない量の本を抱えて歩くんじゃない」
程なくして書架から出てきたリンナを見て、アルラスが声を上げる。不安定に揺れる本の山に視線が釘付けだ。
「貸しなさい、こら、危ないからっ」
「嫌です、閣下に渡したら本を焼かれるかも」
「今さら焼かない。ほら」
「そんな言葉、信じられるとでも――」
腕の中がふいに軽くなり、リンナは目を瞬いた。
「あのな」とアルラスは書架に片手をついてため息をついた。
「……確かに、焚書はあった。王家が一枚噛んでいたのも事実だし、俺が立場を使って、ここにあるような資料を私的に確保したのも事実だよ」
革張りの重い本を一冊胸元に抱えて、リンナは上目遣いにアルラスを見る。見れば、思ったより彼は真剣な表情でこちらを覗き込んでいた。
「でもな、それにも事情があったんだ。君の推察通り、君が知るべきじゃない事情だ。俺はそれを墓場まで持っていかなきゃならない。だから、こうして君を頼っている」
思わずといったように肩を掴まれ、身体が硬くなった。距離を取ろうと半身になって退くが、踏み台に足がぶつかって止まる。
「信じてくれ、頼む……」
肩を掴んでいた手が力なく落ちて、リンナの肘を緩く握ったまま動かなくなった。
「初めてなんだ。君なら、現状を打開できる、そんな気がする。こんな風に思うのなんて、この二百年で初めてだ」
深く項垂れるアルラスの、切なげな顔を、リンナは何も言えずに見上げていた。
「閣下、」
やっとの思いで呼びかけると、アルラスは我に返ったように顔を上げた。ぱっと手が離れる。
「すまない」
耳元を赤らめ、彼は一歩下がった。「柄にもないことを言った」と、顔を背ける。
「今日の俺は、どうやら変みたいだ」
困惑しているみたいに視線を彷徨わせるアルラスを見て、リンナは目を逸らした。「ごめんなさい」と呟く。
「今までどんなに探しても見つけられなかった資料があんまりたくさん揃っているから、驚いてしまったみたい」
これほど多くの資料が、一般の人の目に触れられないよう消し去られたのだ。
「それは」とアルラスは言葉を選ぶそぶりを見せた。
しんと静まった図書館の片隅に、二人の呼吸だけが響く。
「ここにある本は、ずっと君を待っていたんだ。そう思うのはどうだろう」
そう言って、アルラスが身をかがめた。
「――俺たちは二百年、ここで君を待っていた」
鼻先が触れ合いそうな距離で、視線が重なる。濃い色をしたアルラスの双眸に、目を見開いた自分の姿が映っていた。
「君には、期待している」
そう言って、彼はくるりと踵を返す。机のある吹き抜けに向かって歩いてゆく背中を見ながら、呆然とリンナは立ち尽くした。
詰めていた息を吐く。
背後に回していた片手を、そっと前に戻した。小指だけを立てた右手を見下ろして、アルラスを一瞥する。
「……あの人、ちょっと呪いが効きすぎだわ」
小指を口元にやって、そっと指の付け根に口づける。簡単な儀式をもって、リンナはアルラスにかけていた呪いを解いた。彼は何も知らずに向こうへ歩いてゆく。
――魅了の呪い。愛の魔法。
現存する本にも書かれている、有名なおまじないである。ひとを操れると知った人が真っ先に思い浮かべる呪文。
相手が自分に好感を持ってくれるよう、ほんの少し背中を押す呪文だ。
小指に口づけて短い呪文を唱えるだけの可愛らしい願掛けも、リンナの手にかかれば強力な呪いになる。
明るい吹き抜けに足を踏み入れて、彼の背中が光に包まれた。早々に葉の落ちた木立が、大きな窓の向こうに見えている。白っぽい光がよく似合う後ろ姿だった。
暗い書架の間に立ったまま、リンナは音もなく手を下ろした。
胸の内が、まるで雪原のように冷え冷えと、平らに広がっている。
……こちらは、単身で相手の牙城に入っているのだ。おまけに、きな臭い事情まであるときた。
何の対策もなしに、丸腰で心を許すと思ったら大間違いだ。
一息おいてから、「待ってください」とリンナは日向へと足早に駆け寄った。アルラスは資料を広げて待っている。




