016:古城でのこと 1
ふわりと青臭い土の香りがして、リンナは目を瞬く。
「すごい森……」
見上げれば首が痛くなるような、大きな針葉樹林である。閉じた林冠と暗い地面。ふかふかと湿り気を帯びた林床を目で辿れば、ざわざわと葉擦れの音がする。
しかし、転移ステーションを出て最初の景色がこれとは驚いた。旧都の文明が、まさかこれほど大自然に飲み込まれているなんて……。
「言っておくが、少し歩けばそれなりの街があるからな」
「あ、よかった」
考えを見透かされて、リンナは舌を出した。
ぽくぽくと木道を二、三分歩けば、森が途切れて開けた丘に出る。前方から風が吹き寄せた瞬間、リンナは「わあ」と声を上げていた。
深緑の山々に囲まれて、石造りの家々が並ぶ街の景色が一望できた。街の向こうに目をやれば、広い湖が空を映して青く輝いている。
街から湖を挟んだ対岸に、四つの尖塔がそびえ立つ城がある。
「かつては、あそこが王の住まう城だった」とアルラスは指をさした。
歴史の教科書で写真を見たことがある。本物を見るのは初めてだ。
「立派なお城ですね」
「今の都にある城の方が、だいぶ大きくて優雅だけどな」
「私は砦の近くで育ったので、これくらい無骨な方が慣れてるかも」
言いながら、街へ降りる坂道を降りてゆく。ちょっと気を抜くとつんのめってしまいそうな急勾配である。馬車はおろか、荷車でさえ昇り降りは大変だろう。
改めて見てみれば、街には狭い道が多く、そのどれもがうねって見通しが悪い。起伏の激しい谷間に家々が乱立しているのだ。
平地に広がる現在の王都と比べると、発展しづらい立地だとは思う。
「閣下は、この街で生まれ育ったんですか?」
「小さな頃は兄や乳兄弟なんかと、よくそこらを駆け回っては叱られていたよ」
いろいろと寛容な時代だった、とアルラスが街を見回しながら呟く。
「あの頃は、まだ砦もなかったからな」
そう零してから、アルラスは一拍おいて、「忘れてくれ」と片手で口を覆った。
(砦……)
その言葉に、リンナは生まれ育った土地のことを思い返す。
セラクト邸は背後に国境線を背負っている。辺境だの僻地だのと誹りを免れない立地である。
国境線には高さにしておよそ三階建ての砦が長く築かれ、昼夜を通して反対側の監視が行われている。
リンナは砦の反対側を見たことがない。ほとんどの国民がそうだ。国境線のむこうは軍の管轄だから。
――砦の向こうは魔獣の棲む土地である。
「じゃあ、二百年前は、魔獣がいなかったんですか?」
「忘れてくれと言ったろう」
アルラスはうるさそうに頭を振ったが、リンナは袖を掴んで食い下がった。
「魔獣を見たことがあるのね? 大きいんですか? どんな見た目をしているの?」
アルラスはすっかり黙ってしまった。何も答えないという意思表示である。こうなっては仕方ないので、リンナは渋々手を離した。
大きな往来を抜けると、長い坂道を下ってゆく。馬車などが通るために整備された道ではなく、リンナはよたよたとしながらアルラスの背中を追った。こんなに歩くと思っていなかったから、靴だって運動用じゃない。
「君はもう少し運動習慣をつけたほうがいいな」
段差でまごつくリンナに手を貸しながら、アルラスは偉そうに頷いた。
確かに彼が身体を鍛えているのは服の上からでも分かった。でもこれは多分、彼が何日も寝ていないときもツヤツヤしているのと同じで、不老不死の作用の一環だろう。
二百年前の筋肉で威張られても聞き入れる気にならない。
文句のひとつふたつを言おうと顔を上げて、リンナは思わず「あら」と明るい声を上げた。
随分な急坂だと思ったが、いつの間にか湖のほとりまで降りてきていたらしい。
青い水をなみなみと湛えて、湖面は光り輝くようだった。こうして水辺に立って見回してみると、旧都を抱える大山脈は隆々とそびえ立ち、威圧感がある。
こんなに大きな水面なんて、初めて見た。
地元ではお目にかかれない光景に、リンナは目を輝かせて足を速めた。
「今日は天気も良いし、すこし遅めだが紅葉も綺麗だ。波もないから湖を渡るにはぴったりの日だな」
「渡る?」
水際に屈んで手を伸ばしながら、聞き返す。アルラスは無言で対岸を指さした。こちらからだと尾根が邪魔をして全貌は見えないが、城の尖塔が頭を覗かせているのは確認できる。
「道はないんですか?」
「定期的に手入れはしているが、馬車が通れるほどの道幅はない。君を馬に乗せるわけにはいかないし」
アルラスは湖岸沿いに歩き出した。
「私、馬は乗れます。私が生まれる前から母は遠乗りが趣味で、小さな頃はなんどか一緒に出かけたものだわ」
自分でも、基本的な動作は知っているつもりだ。手綱を持つ仕草をすると、アルラスは意外そうな顔になった。
とはいえこちらに連れてきた馬はいない。
アルラスは腕まくりをすると、水際の茂みのひとつに足を突っ込んだ。枝葉を掴んで引き上げてみれば、布を被せた小舟が隠されている。
アルラスが布を手際よく畳んでいる肩越しに、リンナは小舟をまじまじと観察した。
リンナが一人ともう半分くらい寝そべれそうな長さだ。幅は両手を広げたよりすこし小さい。
思わず、小舟と湖と、尾根をひとつ回り込んだ先にある城とを見比べた。湖は深くて冷たそうだし、城は遠いし、舟は……。
「心許ないと言いたそうだな」
片眉を上げながら、アルラスは指先で宙に円を描くような仕草をした。
水面にはさざ波ひとつないのに、どこからともなく局所的な突風が吹き下ろした。舟のなかに落ちていた落ち葉や小さな塵が掃き清められる。
手のひらで舟底を触って汚れがないことを見せると、アルラスは恭しく、かつ有無を言わさぬ手振りで乗船の合図をした。リンナは「うーん」と腕を組んで躊躇った。
「一応言っておくと、私、泳げないんです」
そうだろうな、とアルラスは当然のような顔で頷く。
「来なさい、落としたりなんてしないから」
長い時間かけて躊躇って、リンナはおずおずと手を伸ばした。服の裾を押さえながら、舟の横に立ったアルラスの手を借りて船べりを跨いだ。
「よし、ちゃんと座ったな」
左右から確認すると、アルラスは船べりに両手を置いた。
身を屈めると、全身を使って舟を押す。ぐらりと揺れて、リンナは咄嗟に鞄を押さえて船べりに掴まった。
と、砂の上に乗り上げていた小舟が、滑り込むように湖岸へ浮かんだ。素早く湖岸から舟に飛び乗って、アルラスが得意満面になる。
「すごく揺れたわ」
「舟ってのはそういうものだ」
非難を込めて睨みつけるが、アルラスは平然と腰を下ろした。底に寝かされている櫂を手に取ると思ったが、彼は船尾から身を乗り出して水面に手を差し入れた。
尻の下で低い音がしたかと思うと、振動とともに舟が動き出した。魔道具が仕込んであったようだ。
一度動き出してしまえば、舟は安定感のある軌道で水を裂いて進み始めた。
アルラスは船べりに肘を預け、くつろいだ姿勢で山々を眺めている。リンナも縮めていた手足をゆっくりと伸ばした。
体を捻って進行方向を見る。袖をまくり上げて指先を水につけた。あんまり水の中を覗き込むと恐ろしい気がして、体までは外には出せなかった。
綺麗な景色だった。
湖を取り囲む山を見渡すと、ときおり、はっとするくらい鮮烈な赤色に染まった一角があって、頂上に近いあたりは既に葉が落ちている場所もある。
音は水がすべて吸い込んでしまうみたいだ。控えめな水音と舟を動かす魔道具の駆動音、遠くから時おり獣や鳥の声が聞こえるばかりである。
静かで、素敵な場所ね――そう言おうとしたとき、アルラスがふと口を開いた。
「昔はな、この湖の周り全体が大きな街だったんだ。橋もたくさんかけられていて、大人数が乗れる渡し船も頻繁に行き来して、活気のある場所だった」
リンナはすんでのところで言葉を飲み込んだ。
彼の横顔は寂しそうだった。荒れ果てた湖岸の道を眺めている。
これから行く城は大きいだろうし、使用人などもたくさんいることだろう。それでも、山の中の長い道を昔通りに保つには足りない。
賑わっていた旧都の姿を想像しようとしたが、上手くいかなかった。
アルラスは自嘲するように口角を上げ、さらに姿勢を崩した。
「こんな娯楽も少ない寂れた土地では不満だったかな」
「私の実家の周りを見て言ってます? それ」
顎を撫でてしばらく考え、「君の実家もなかなかのものだったな」と呟く。
「お城に行ったら、昔の資料もたくさん見られるんでしょう? それだけで私にとっては宝の山です」
資料を読みあさるときは、何日も部屋から出ないときだってあるのだ。お城が古くて最寄りの街は湖の向こうだとしたって、ちっとも困らない。
「そうか」
アルラスは膝の上で手を組んで黙った。何か言おうとしている気配だけはあるのだが、彼はなかなか口を開かなかった。
そのとき、調子よく唸り声を上げていた機械が、上擦った音を立てて停止する。
あ、おいと人に言うみたいに毒づいて、アルラスは船べりから身を乗り出した。
「こいつ、前から調子は悪かったんだが、何もこんなときに」
動力を失った舟はゆっくりと減速し、やがて完全に静止した。リンナは瞬きしながら周囲を見回す。
湖のど真ん中も良いところだった。ここから泳げと言われたら、小一時間はごねる自信がある。




