013:博物館でのこと 8
机上の三方に本の山をつくり、リンナは額に手を当てて長い息を吐いた。誰も聞いていないと思って、愚痴などを一言ふたこと、小さな声でひとりごつ。
図書館は閉館時間を過ぎているものの、これまた権力を振りかざし、リンナは未だキャレルのひとつに陣取っていた。暗い閲覧室の中、リンナのいる机だけがデスクライトでぽっかりと光って浮いている。
本棚の隙間には吸い込まれるような漆黒が広がっていた。物音はあっという間に雲散霧消する。
恐ろしいのに、身動きすることもできない、不思議な重みのある空間だった。
いったん資料から顔を上げて、リンナは背もたれにだらしなく寄りかかる。
(実演が行われるまえに、呪文札を取り替えた)
腕を組んで、遠い天井を仰いで思案する。疲労のせいか、目の前がちかちかとした。暗がりに黒々とした梁の影を認めながら、リンナは長い息を吐く。
(照明が消された隙に、壁にメッセージを残した)
軍ではすでに瓦礫から文字を復元する試みに取り組んでいるという。何しろ大規模な爆発だったから、復元にはかなりの時間を要する見込みだ。
ちょうど自分が暗視の呪術を使っていたから、先んじて気付いただけのことだろう。誰から誰にあてた書き置きなのかは、復元を待つしかない。
(……相手にとっては不幸なことに、私がいたから、被害が抑えられた。こっそり逃げだそうとしたところも私に見つかった)
捕まえて、と叫んだときのエルウィの表情が気にかかった。犯人に捕り逃したときの、驚いたような顔である。
(エルウィは、あのとき、呪いをかけられたのかしら)
そう考えると、犯人を逃したあとの彼の証言も納得できた。エルウィの取り調べの結果は明日聞かせてもらうことになっている。
(そうして、犯人を捕まえたと、そう思ったときに……)
リンナは片手を空中へ差し伸べた。暗い天井を背景に、指先はやけに白々と浮かび上がって見えた。
深々とため息をついたところで、ようやく目眩が治まってくる。
リンナは両手で頬を叩くと、再び資料に手を伸ばした。
意識の戻らない患者たちを目覚めさせることが、すべての解決に繋がるはずだ。
(五人は、犯人にとって不都合な何かを見た。おそらく、犯人の顔。つまり、見れば誰なのかすぐに分かるような有名人、あるいは特徴的な容姿をしているとか……)
考えても詮無いことである。答えは今なお眠り続ける五人が知っている。
(とにかく、彼らが私を見れば、犯人じゃないってすぐに証言してくれるはずだわ)
彼らにかけられた呪いを解くべく、解呪の呪文の構成は大詰めに入ろうとしていた。
上に向かって大きく伸びをして、首を回す。解呪の目処がついたら、次は実証である。
(実験動物を用意しなきゃ……どうしよう)
まだまだやることは山積している。休んでいる猶予はない。
愛用の万年筆を取り上げようとして、手元が狂った。高い音を響かせて、万年筆が床に落ちて転がってゆく。
「ああ……」と声を漏らしながら、リンナは腰を浮かせた。
「もう何時だと思っているんだ」
手を伸ばしたとき、頭上から声が降ってきた。目の前で万年筆がひょいと拾われ、机の上に戻される。
アルラスは随分と立腹のようだった。
「昨晩は深夜まで取り調べを受けたあと独房で気絶、昼間はろくな食事も摂らずに動き続け、今晩は徹夜する気か? この調子では、被害者を起こす前に君が死ぬぞ」
音を立てて隣の椅子を引いたアルラスが、どかりと腰掛けて腕を組む。咄嗟に頭が回らず、リンナは呆けたまま彼を見つめ返した。
暗い書架を背にしたアルラスの姿は、まるで大木のように静かだった。
「俺は何徹しても死なないが、普通の人間がどれくらい無理をしたら死ぬかは知っている。君は休むべきだ」
言って、アルラスが半ば強引にリンナの腕を掴んだ。
「でも」とリンナは踏ん張って食い下がる。
「解決が一日遅れるごとに、『呪術は悪いものだ』というイメージが固まっていきます。私はそれが、」
「呪術のイメージなんぞ、既に落ちるところまで落ちている。今さら一日二日で大して変わらん」
あまりの言い草に、リンナは思わず絶句した。その隙にアルラスは立ち上がって手を打つ。
「一旦、布団に入って寝なさい。身体の時間が遅らされているんなら、被害者はすぐには死なない」
子ども相手みたいに言い聞かせて、彼は指を鳴らした。
開いたままになっていた資料の上に栞がひとりでに着地すると、小気味よい音を立てて本が閉じる。
リンナは頭を振った。
「待ってください。私、まだ元気です」
「へえ、今どきの若者はこれが元気な顔色なのか」
椅子の上で踏ん張るリンナを一瞥して、アルラスは飄々と言ってのけた。
「休んで元気になってから話をするか、今から長時間にわたる説教を受けるか、早く決めるんだな」
悔しいかな、アルラスの見立ては全くもって正しかった。
ホテルまで連れ戻され、身体や髪を洗い、寝巻きに着替えて枕に頭を触れさせた瞬間、すこんと意識が落っこちた。
目を閉じたと思った次の瞬間には、既に部屋は明るくなっていた。もう遅めの朝だ。
そんなつもりではないのに、ずいぶん寝てしまった。罪悪感を覚えながら寝室を出て、顔を洗う。
リビングへ向かうと、勘に障る雑誌のような光景が広がっていた。
陽の当たる窓辺で足を組んで座り、優雅に新聞を読みながらティータイムと洒落こんでいる。朝食はすでに済ませたらしい。
「よく眠れたみたいだな」
リンナの顔を見て、アルラスが開口一番に言う。髪をひとつに束ねながら、リンナは欠伸を噛み殺した。
「研究が佳境に入れば、十日は寝ないことだってあります。一日くらい平気ですよ」
「馬鹿言え」とアルラスが呆れ顔になる。
「実際布団に入ればこれだけ寝るんだ、誤魔化しているだけで、本当は疲れているんだろう」
テーブルには朝食がひとり分だけ並んでいる。椅子を引いて腰を下ろすと、アルラスが向かいに斜めに腰かけ、気取った仕草で足を組んだ。
「それで? すべて洗いざらい話してもらおうか」
嫌味でいたぶるような口調だった。リンナは喉の奥で唸ってアルラスを睨みつける。
警察などから既に事情は聞いているはずだ。それでもリンナ自身の口から話させたいらしい。
一部始終を語り終えると、アルラスは難しい表情で頬杖をついた。
みずみずしい野菜を頬張りながら、彼の表情を窺う。なにか引っかかる点でもあるだろうか?
しばらく中空を睨んで、アルラスは歯切れ悪く言った。
「その、エルウィ・トートルエという男とは、どういう関係なんだ」
「知り合いです」
咄嗟に誤魔化す。
別に嘘じゃない。婚約を解消してもう二年も経っているし、元々そんなに仲が良い訳じゃないし。
じろりとアルラスの目がこちらを向いた。
「元婚約者だと聞いたが」
「知ってるんじゃないですか!」
それならいちいち鎌をかけないでほしい。リンナは拳を握って憤慨する。
アルラスは物わかりのよい表情で、大きく頷いてみせた。
「なるほど、元婚約者に助けを求めるとなれば、わざわざ俺に呪いをかけてまで脱走したのもよく分かる」
「ちょっと! そんなんじゃないです」
思わずリンナは声を大きくして反論した。
「会ったのは偶然です。私だってびっくりしたんだから」
調べがついているなら、婚約解消に至った経緯だって知っているはずだ。特筆する事情もないくらいありふれた話である。
「理由があるから『元』婚約者なんです。賢い閣下ならご理解できますよね? わざと拗ねたふりをするのはやめて」
だいたい、助けを求める相手にしては、エルウィはあんまりにもお粗末すぎる。
睨みつけると、アルラスはひょいとお手上げの姿勢を取る。
「そんなにまくし立てて、よっぽど後ろめたいことがあるらしい」
「……はい?」
いま鏡を見たら、額に青筋が浮かんでいるに違いない。リンナは腕組みをして顎を反らした。
「もしかしてあなた、本当に拗ねているの?」
一拍おいて、アルラスは鼻で笑って横を向いた。
彼は壁に掛かっているハイセンスな絵画がいきなり気になりだしたらしい。真剣に現代芸術を鑑賞している横顔を眺めながら、リンナはため息をついた。
「そうよね、閣下が私の交友関係に口出しする筋合いなんてありませんし」
「なんだと?」
アルラスが振り返って、こちらを睨む。
「私、なにか変なこと言いました? 私は脅迫されてここにいるだけです。仮に私が元婚約者に未練たらたらだって、文句を言われるいわれはないわ」
「……そう来たか」とアルラスは天井を仰いだ。
「もちろん、閣下だっていくらでも他の美女のところに通えば良いじゃない。あてくらいあるんでしょう?」
彼は片腕を机に乗せたまま黙ってしまった。妙な沈黙が流れる。
「俺は立場上、交友関係を厳しく制限している」
つまり良い相手はいないらしい。
これ以上この話題に深入りするのはやめたほうがよさそう。彼が可哀想だ。
ごほんと重々しく咳払いをして、アルラスは姿勢を正した。
真剣な眼差しでこちらを見つめる。
「でも、たとえ君が、本当は元婚約者に助けを求めようとしていたんだとしても」
反論しようとしたリンナを片手で制して、アルラスは「だとしてもだ」と繰り返した。
「君を逃がしてやることはもうできない。諦めてほしい」
差し出された身分証を前に、リンナは目を瞬いた。新品の身分証を手に取って、唇を引き結ぶ。
エディリンナ・リュヌエール。……これは一体だれのことだ?
「君のいまの名前だ。申し訳ないが、俺の氏名は少々変更しづらい」
アルラスがため息混じりに呟く。リンナは呆然と身分証を見下ろした。
そういえば、牢屋に入れられているうちに、してしまったのだ。
何をって? 結婚。
ようやく気がついて凍り付くリンナに、アルラスはふたたびため息をついた。
「肩書きがこうなってしまった以上、不貞行為はできれば避けて頂きたいところだな」
売り言葉に買い言葉で言っただけで、本当にエルウィや他の男とどうこうなるつもりはない。アルラスだって分かっているだろう。
彼が危惧しているのは、リンナの口から機密情報が漏れることだ。
「とっとと死なせて、さっさと再婚してやる……」
呻くと、アルラスは眉を跳ね上げて「あてがあるのか」と腕を組む。
「それは、ないですけど」
正直に答えたリンナに、彼はなぜか得意顔になった。威張れるような交友関係でもないくせに、偉そうである。
「こうなったら乗りかかった船だ。俺もできる限り手伝おう。何か手を貸せることはあるか」
資料の整理とか、データの集計とか……と、アルラスがいくつか作業を指折り数える。
どうやら現実は現実として受け入れるしかないらしい。リンナは覚束ない手で身分証をしまった。
大きく息を吸って、吐く。
手伝いが必要なこと? 出そうと思えばいくらでも挙げられるけど、せっかくだから汚れ仕事をやってもらおう。
リンナは人差し指を立てて、もっともらしく言い切る。
「作った呪文の効果を試したいので、できるだけたくさんのマウスを捕まえてきてください!」
アルラスは大真面目な顔で頷いた。
彼が真っ赤な顔で飛び込んできたのは、その一時間後だった。
「おい! 実験用の動物は専門の業者がいるそうじゃないか!」
片手の大きな籠には、よく太ったネズミが一匹だけ入っている。これだけは自分で捕まえてきたらしい。
「そうなんですか?」とリンナは万年筆を置いて素知らぬ顔で答える。
どすどすと入ってくると、アルラスは聞こえるように舌打ちをした。してやられたのが随分と悔しいらしい。
「用意できるマウスをありったけ持ってくるよう手配してきたぞ。これでいいか」
いつになく髪が乱れ、げっそりとしている姿を見るのはいい気味だった。ネズミを追いかけ回し地面に這いつくばっている彼を想像するだけで気分が晴れる。愉快な気持ちで頷いて、リンナはノートを見下ろした。
「手順はおおよそ組み立てました。ここからは検証を繰り返しながら、被害者の症状の再現と解呪を目指します」
ちゃっちゃと終わらせますよ、と拳を握って気合いを表明する。
「待ってる人がいますからね、もうあっという間に解呪しちゃうんだから!」




