011:博物館でのこと 6
目が覚めたのは、遠くで言い争う声が聞こえたからだった。
細く目を開けたリンナは、一度大きく身震いした。全身が凍ったようにすっかり固まっている。体を起こそうにも、腕に力が入らず動けない。
寝ながら泣いていたのか、乾いた頬が張っていた。寒さのあまり鼻水が出る。きっと顔や髪は酷い有様になっているだろう。シーツに頬をつけたまま、ぼんやりと独房の壁や床を眺める。
浅い呼吸を繰り返しながら、いつのまにか朝になっていたのだと気づく。
何時間寝ていたのかは分からないが、独房の中はすっかり明るくなっていた。
話し声が近づく。音を立てて扉が開かれた瞬間、それまで遠く聞こえていた喧騒が、雪崩を打つように流れ込んできた。
「お待ちください! 彼女は本件の重要参考人で」
「あれは俺の身内だ。口出しをしないで頂きたい」
いくつもの足音の中でも、一際目立つのは革靴の硬い足音だった。規則的で、強い意思を感じさせる歩調である。
長い影が見えて、すぐにその主が姿を現した。五、六人の刑事の制止をうるさそうに振り切りながら、独房の前でぴたりと足を止める。
「それとも、何だ? ここの警察は王家を敵に回したいのか」
冷ややかな声で放たれた一言に、あたりは水を打ったように静まりかえった。
やっとの思いで「閣下」と一言呼びかけると、声が弱々しく響く。
「ああ……」
アルラスは刑事らを睨みつけるのをやめて、ゆっくりとこちらを振り返った。
心配してくれているのかと思った甘い考えを、すぐに撤回する。直視するのも憚られる表情であった。
「……一晩中探したぞ」
(私、殺されるかもしれない)
どう好意的に受け止めようとしても、アルラスが激怒しているのは火を見るより明らかだった。一晩中探したのが嘘でないのは、彼の疲れ果てた表情を見れば分かる。
体を起こしたいのに、腕に力が入らない。寝台の上でやっとこさ起き上がったリンナを見下ろしてから、アルラスは傍らの警官に向かって顎をしゃくった。
「開けろ」
警官は咄嗟に拒否するような素振りを見せたが、アルラスに一睨みされて鍵を取り出した。
「お待ちください!」
錠前に鍵が挿し込まれたそのとき、鋭い制止の声が飛ぶ。イーニルだった。
真っ赤な顔をして警官から鍵束を取り上げると、彼女はアルラスを真っ向から睨み上げる。
「彼女は歴史ある博物館を破壊し、何人もの人生を奪った凶悪犯である疑いがあります。いくら王家の関係者からの要望と言えど、釈放する訳にはいきません」
深夜に及ぶ取り調べを終え、仮眠を取っていたところを叩き起こされたらしい。右頭の髪が跳ね、リンナに負けず劣らずの顔色である。
鬼気迫るイーニルの宣言に、アルラスは人を食ったような態度で眉を上げた。
「軍の重要参考人の規定には、適切な監督者のもとでの保護が許可される事例が記載されている。俺から上層部へ話を通しておこう」
「彼女は重要参考人ではなく被疑者です。それに、重要参考人の保護が許可されるのは、親族や後見人に限られます」
イーニルは独房の鉄格子に拳を当てて唸る。
「……失礼ですが、エディリンナ・セラクトとどのようなご関係で?」
思わずアルラスと顔を見合わせた。どのようなご関係?
……どのようなご関係だっけ?
「つ……妻だ」
それまでの余裕にひびが入り、アルラスの目が泳ぐ。イーニルは弱みを見つけて顎を引いた。
「証明できるものはありますか?」
「いや……」
「申し訳ありませんが、内縁の夫を重要参考人の監督者として認めることはできません」
アルラスの口から悪態が漏れる。少々長めの、時代遅れの文句だった。
腕を組んで深々としたため息一つ、覚悟を決めたように顔を上げる。
「良いだろう。役所の人間をここに連れてこい。そろそろ開庁時間だ、ひとりくらいは出勤しているだろう」
何ですって、とイーニルは動揺を露わにして聞き返した。リンナも全く同じ気持ちだった。
「聞いてるか」
呼びかけられ、だるさも忘れて寝台の上で身を乗り出す。
黒曜石のような瞳が、こちらを振り返った。
「昨日書いたこれを提出しても構わないか」
取り出された紙を見て、リンナは目を見開いた。昨日サインをした婚姻届である。
(えっ)
「それは……え?」
イーニルの目が真ん丸になり、鉄格子のあちらとこちらを素早く往復した。
リンナは口を半開きにしたまま硬直する。
(……私、ここで結婚するの?)
この汚い独房で? ちょっと川のにおいが残ってて、髪もぎしぎしの鼻垂れの状態で?
子どものときの自分に聞かせたら、声を上げて泣いてしまうかもしれない。
リンナは額を押さえて呻いた。
(いまは贅沢を言っていられる状況じゃない。むしろ示し合わせたような僥倖だと思うべき……?)
だって、このまま取り調べを続けても、話は平行線なのは目に見えているのだ。
しばらく逡巡してから、顔を上げて頷く。
「構いません」
口に出して答えると、ほうぼうから驚愕の声が漏れる。挑戦的に視線を受け止めながら、ちょっとだけ涙が出た。
程なくして、哀れにもひとりの役所の職員が引っ張ってこられる。絵に描いたような中間管理職の小男で、大勢の刑事に取り囲まれ、半泣きになりながら婚姻届を受け取る。
「ちゃんと確認したか? 後になって『やっぱり不備があった』などとひっくり返されては敵わんからな」
各項目を順に指さして検める隣で、アルラスが腕組みをして脅しをかける。その反対で、イーニルも目を皿にして書面を睨んでいる。
幸か不幸か、不備はなかったらしい。
婚姻届が受理される一部始終を見届けてから、イーニルは躊躇いがちに手を叩いた。
「……ご結婚、おめでとうございます」
さすがのイーニルも、独房で放心状態のリンナには同情を隠しきれない表情だった。
対してアルラスの切り替えの早さときたら、ほんとうに心臓があるのか疑わしいほどである。
「よし、鍵だ。開けろ」
鍵穴を指さし、平然とイーニルに指図する。
「重要参考人が云々については、またあとで検討しよう。さっさと開けてくれないと、愛妻が風邪を引いてしまう」
少佐、と呼びかける口調は、ほとんど脅迫といってよかった。
イーニルは苦虫を噛みつぶしたような顔でしばらく黙ると、震える手で解錠した。
腰を屈めて独房に入ってきたアルラスは、寝台の脇でちょっと考えてから外套を脱いだ。荷造りでもするみたいにリンナをくるむと、背を支えて抱き上げる。顔を見ることができなくて、リンナはまだ体温の残る外套に顔を埋めた。
堪えきれず、涙が溢れ出す。
「この馬鹿、今度は何やった」
小声で毒づいたアルラスに、リンナは掠れた声で「ごめんなさい」とだけ答えた。
アルラスは眉間に皺をよせて顔を覗き込んできた。
「なんだ、苔みたいな臭いがするぞ。側溝でも転げ回ったか?」
「川に落ちたの。……ごめんなさい」
首を縮めて、もう一度繰り返す。「調子が狂うな」と不本意そうに呟いて、アルラスは大股で独房へ出た。
戸口をくぐった瞬間、異様な空気に息を飲む。
大勢の警官や刑事がこちらを睨んでいたが、誰一人として近づいて来ようとはしない。
見えないのに、激しい怒りが実体を持って渦巻いているみたいだ。
針のむしろのような空気のなかを、アルラスは堂々たる態度で通り抜けてゆく。
揺れと温かさで瞼が落ちそうになりながら、リンナは眦を下げた。
「よくこんなところまで入ってこれましたね」
「これが権力の使いどきというやつだ」
得意げに囁き返したアルラスに、思わずため息が漏れる。
何を言ってもこちらの言葉を聞き入れてもらえない状況は、思っていた以上に矜持を傷つけていたらしい。芯までくたくたで、頭が回らなかった。
うっかり籍を入れてしまうくらいには。
追ってきたイーニルのこめかみに、青筋が浮いている。
「お待ちください。重要参考人の保護監督は、監督者が取り調べに協力的であることが前提の制度です」
「そうだったか?」
アルラスは白々しく首を傾げただけで、歩調を緩めようともしない。
イーニルの声は怒りのあまり震えていた。
「あなたは、ご自分の奥方のために、今回の事件のことを揉み消すおつもりですか」
「いかにも。上手にやってくれたまえ」
アルラスは傲岸不遜な態度で頷く。あまりに不誠実な返答を聞いた女将校の眼差しに軽蔑が浮かんだ。
思わずリンナは口を挟もうと顔を上げた。
リンナが声を発するより早く、イーニルはさっと額を上げると「あなたは」と呻いた。
「あなたは、その言葉を、今も病院で目覚めない被害者とそのご家族の前で言えるのか。四肢に重大な後遺症の残った職員が何人もいる事件に対して、よくも、そのような……!」
「駄目です、少佐!」
飛びかからんばかりに前のめりになった上官を、すぐ後ろに控えていた年若の軍人が咄嗟に押しとどめた。
「放せ! どんな処罰を受けても構わないから、この男、一発殴ってやる!」
イーニルと視線が重なったとき、何かがすとんと胸に落ちる。
このひとも、自分と同じ立場だ。何が起きているかも分からない状態で、犯人の正体も動機も掴めないまま、なんとかして市民を守ろうと必死なのだ。
同じように怯えているから、絶対に譲るわけにはいかないのだ。
「――私が、治療を試みてはいけませんか」
考えるよりも先に言葉が出ていた。リンナは一度咳き込んでから、アルラスに合図をして床に立つ。
膝に力が入らず、アルラスの腕に縋りついて身体を起こした。
彼の怒り顔は見なくても分かる。叱られる内容が増えたと思いながら、リンナはよろめきつつイーニルに歩み寄った。
呆然と立ち尽くしているイーニルに向かって腕を伸ばせば、彼女とその部下たちは怯えるように一歩後じさった。
『逃げないで』
短い呪文を囁いて、リンナは薄く微笑んだ。イーニルたちの足は床に張り付いたまま、動かなくなる。押し殺した悲鳴が上がった。
眼前まで歩いて、指を鳴らす。術が解けた途端、彼らは一斉にリンナから距離を取った。
「いきなりごめんなさい。でも、話を聞いてほしくて」
リンナは両手を肩の高さに上げ、怪しいことはしないと表明した。できるだけ賢く見えるように顎を引く。
「お願いします。病院にいる患者を、私にも見せてください」
イーニルの眉間の皺が返答の代わりだった。なにを馬鹿なことを言っている?
リンナは微笑みを消さないまま、人差し指を立てた。
「医師が診たことのない症状だと仰いましたね。呪術によって意識が戻らないのでしょう。それなら、必要なのは現代医学ではなく、同じく呪術です」
肩越しにアルラスを一瞥してから、リンナはイーニルをひたと見据えた。
「――私、いいとこの嫁なんです。さっさと言うことを聞いてください」
特大のため息をつくと、アルラスは「そういうことだ、便宜を計ってくれ」とわざとらしくリンナの肩を抱いた。
五本の指がぎちぎちと肩に食い込み、リンナは視線を上に向けた。
アルラスが目を眇めて囁く。
「治せるのか」
「治したい、です」
疑うようにアルラスが首を傾げた。
リンナは束の間躊躇った。
ここに来る道中の馬車で、どうしてそこまで呪術に入れ込むのか、と彼は聞いた。
自分はそのとき、どうせ理解してもらえないから言いたくないとはね除けた。
でも、どこかで踏ん張って言葉にしなければ、一生だれにも伝わらないのだと気付いてしまった。
今がその、覚悟の使いどきだと確信する。
「……呪術は、人々から迫害を受けて消えていった技術だと聞いています。現に、呪術は恐ろしいものと思われて、未だに忌避されている」
遠巻きにこちらを見る刑事や軍人たちを眺めて、曖昧に微笑んだ。
数々の厳しい訓練を乗り越え、市民を守る使命を負った人間でも、呪術は恐ろしいのだ。
当たり前だ。その気持ちを否定するつもりはない。
「でもそれは、皆が呪術のことを知らないから恐ろしいんです。呪術は人のために作られたものです。どんな技術だって、本来は、人々のより良い生活のために発展してきたはずです」
両手を腹の前で組み合わせ、リンナは厳かに呟いた。
「呪術はひとを救います」
――私は、それを証明したい。
決意を込めて告げたリンナに、アルラスが半目になる。
「……そういう崇高な思想は、自分の行動を見つめ直してから言え」
「いたい!」
強めに額を弾かれ、リンナは悲鳴をあげた。
そのまま人差し指で何度も額を突きながら、アルラスはねちねちとした口調で語る。
「考えてもみろ、今のところ貴様がやったことと言えば、俺に自白の呪いをかけて取っ捕まり、俺に催眠かけて脱走したあげく、何だか知らんが事件に巻き込まれ、警察に逮捕されて独房で泣いていただけだぞ。呪術の社会的地位の向上も結構だが、まずは自分の身の振り方を改める方が先決じゃないのか」
図星すぎて耳も痛い。すっかり何も言えなくなったリンナを見下ろして、アルラスが目一杯ため息をついた。
「良いか――考えなしに、相談もなしに行動をするんじゃない。説明をしなさい。もし何か起こったとして、必要だと思えば俺の名前を出して構わないから」
「でもそれって、他人の威光を振りかざすみたいで何かイヤ、」
「この大馬鹿」
また額を中指で弾かれて、リンナは額を押さえてのけぞった。
アルラスがぐっと身を屈め、低い声で囁く。
「貴様がどんな窮地に陥ろうと俺には関係ないがな、貴様が拷問にでもかけられて、俺のことをぺらぺら喋りでもしたら、俺が困るんだ」
分かるか、と耳打ちされ、リンナは首をすくめた。
颯爽と助けに来てくれたと思ったらこれである。
イーニルに向かって顎をしゃくり、「早くしろ」と偉そうな口調で言い放つ。
アルラスの言葉を受けて、心底嫌そうな顔でイーニルが部下に何事か囁いた。年若の部下が小走りで別室へ向かうのを見送ってから、彼女は実に不本意そうに通路の先を指し示す。
「……承知しました。病院へご案内します」
敵意が剥き出しの視線に、リンナはぎこちなく微笑んだ。




