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001:歴史に残る死の呪い 1



 大昔の教科書の文言である――物体へ干渉する魔術に対し、生物の内側へ干渉する術を、呪術と呼ぶ。


 呪術が滅亡したのは、二百年前。

 当時の王の戴冠式において、呪術師が王へと死の呪いを放った。幸いにもその場に居合わせた王弟の反転魔術によって、事件は事なきを得た。


 が、事件を受けて、使い手の減少により消滅寸前だった呪術に関する知識は完全に排他、封印されることに、



「……さま、」

 封印、されることに……


「お嬢様っ」

 封印されることになった、のだった…………。


「お嬢様、起きてください! 奥さまが頭から血を噴きそうです!」

 侍女にゆさゆさと体を揺すられて、リンナはやっとの思いで細く目を開けた。


「いま、何時……?」

「正午を過ぎた頃でございます!」


 しょうご? 言葉がしばらく入ってこないまま、明るい天井を見上げて瞬きを繰り返す。


 直後、勢いよく扉が開け放たれたかと思うと、屋敷中に響く大声で母が吠えた。

「エディリンナ・セラクト!」

「はいっ!」


 一喝され、リンナはばね仕掛けのごとく跳ね起きる。母は戸口のところで腕を組み、真っ赤な顔でこちらを睨んでいた。


「あなたが先日、来客があるから準備をしておいてくれと言っていた日時がいつか、覚えておいで?」

「あ、えと……」


 四方八方に跳ねている髪を撫で付けながら、リンナは目を泳がせた。今日の日付が三日だから、


「あ、明日……?」

 戸惑いつつ答えた途端、母の顔が赤を通り越してどす黒くなった。


「今日の、昼過ぎです。……さっさと準備をなさい!」

 母の怒号に押されるようにして、リンナは大慌てで布団を飛び出した。




「部屋は本まみれ、予定も忘れて大寝坊、後ろ頭にはこーんな寝癖!」


 冷め切っている朝食を牛乳で流し込む背後で、母が呆れた調子でリンナの頭を撫でつける。


「こんな娘に殿方からの訪問があるなんて、天変地異だわ」

「殿方?」


 リンナは振り返って母を見上げた。

 母はため息をつくと引き出しから手紙を取り出す。


 見覚えのある書簡は、数日前に自分で封を切ったものだ。


「中身は知りませんけれど、今日のご客人からのお手紙でしょう? その辺に放っておかないの」

 言いつつ、母の指先が差出人の名を軽くつついた。


「アルラス・リュヌエール。男性のお名前ね」

 パンを千切る手が途中で止まる。リンナは穴が空くほど署名を凝視した。


 手紙が届いたのは半月ほど前のことになる。

 呪術研究者であるリンナに、ぜひとも聞きたい話があるとか。差出人の名前なんて気にしていなかった。


 リンナの顔を見て、母はこれ見よがしにため息をついた。

「あなたの研究を口実にしているだけで、本当はもっと良いお話かもしれませんよ」


 意味深な微笑みを向けられ、リンナは束の間混乱した。遅れて母の言いたいことに気付いて驚愕する。


「縁談のわけがないじゃない!」

 悲鳴を上げたリンナに、母は「そうかしら?」とわざとらしく首を傾げた。リンナは勢い込んで拳を握る。


「私みたいな、変人で地味顔で田舎者の呪術マニアに、そんな話が来るはずがありません! 妙な儲け話で高額な金銭を要求される方が、よっぽどありえるわ」

「そう卑下するものではないわよ」


 母が侍女に合図を出すと、あっという間に皿が片付けられた。髪に櫛を通され、手早く結い上げられる。


「確かにあなたは訳の分からない呪術に傾倒した好き者で、人の話は聞かないし、生活能力も低いけれど、言うほど地味じゃないわ。それに、仮にも名門大学を首席で卒業したんだから、もう少し才女らしく振る舞ったほうがいいわね」


 なかなかの言われように、リンナは唇を尖らせた。

「机上での考え事は得意でも、ちょっと常識が足りないところがあるから、母は心配ですよ。良いこと、すこし古風なやり方ですけれど、求婚の前にこうした手紙で婉曲なお伺いを立てることがあるの」


 母の言葉に、リンナは目を瞬いた。

 自分に求婚するような男性なんて、地面をひっくり返したって出てくるはずがない。リュヌエールなんて名前にも覚えはない。


 だいたい、顔も年齢も分からないのだ。

(本当に詐欺だったら、どうしよう! 呪っちゃう?)


 鏡の中でぼんやりとしている女が、侍女たちの手によって多少は見られるご令嬢に作り替えられてゆく。そんなときでも頭の中を占めているのは、既に廃れて長い古代魔法のひとつ――呪術だ。


 代々優秀な軍人を輩出することで有名なセラクト家において、長女エディリンナは突然変異の賜物だった。


 父は軍部の高官で中枢に、兄も現役の軍人として王都におり、母も退役兵。祖父母の代もおおよそ同じだ。


 にも関わらず、リンナだけは幼い頃から埃臭い図書室に籠もりきりだった。

 そうしてある日、薄暗い部屋の奥で見つけた呪術書が、リンナの運命を決めた。


 下手に才があったのも良くなかった。名家の令嬢が数多く通う由緒正しい女学院では満足できず、卒業を待たずに王都の最高学府へと飛び級で転入、首席卒業。


 それだけでは飽き足らず、研究院にまで進学して呪術の研究に邁進した。地元へ帰ってきた頃には既に二十歳間近で、すっかり浮世離れした変人である。


「あなたが研究熱心なのは知っているけれど、そろそろ呪術なんてものに夢中になっていないで、いい加減地に足のついた生活をしてほしいのよ」


 母の諫言を、リンナは乾いた笑いで受け流した。何から何までありえない。


(いざってときは、呪術で相手の目的を自白させればいいものね。あ、でも来客を呪うのって、あんまりお行儀が良くないかしら?)


 昨晩呼んだ呪術書の記述を思い出す。

 自白の呪文。方法は簡単で、片手で結べる印と特定の呪文、真実を求める心さえ揃っていれば、対象者は質問に嘘をつけなくなるという。


 リンナは呪文を口の中で繰り返し反芻した。それほど長い呪文ではない。


 リンナはちょっと迷ってから、印を結んだ片手を反対の手で隠し、口の中で素早く呪文を唱えた。素知らぬ顔で母に声をかける。


「お母様、今日のお客様のこと、どう思います?」

「そうね……正直、社交的でもないあなたに手紙を送ってきて、こんな辺境までわざわざ足を運ぶなんて、少し不自然に思うわ」


 言ってから、母はどうして口を滑らせたのだろうと目を白黒させている。ふぅん、と内心で呟いて、リンナは指を崩した。


「分かりました。ありがとう」

 やはり母の目から見ても少々不可解な来客らしい。それでも、礼節に則った手順での訪問なのだから、邪険にする理由もない。



 門扉に取り付けられている呼び鈴が鳴らされる。リンナは窓に歩み寄って外を眺めた。門の前には重厚な黒塗りの二頭立ての馬車が止められており、まるで棺のような印象を受けた。お出ましね、と目を眇める。


 リンナをはじめセラクト家の面々の視線のなか、馬車の扉が開いた。


 中から足が伸びて、折り畳んでいた身体を伸ばしながら長身の男が姿を現す。

 まだ若く、短く整えられた黒髪が印象的な青年だった。二十代半ばといったところだろうか?


 体に厚みがあり、一見すると軍人にも見えたが、軍服は着ていないようだ。最近流行りの細身のコートと襟巻きはどちらも真っ黒。

 顔つきまでははっきりしないが、あまり優しそうではない。


「あら、なかなか凜々しいじゃない。すこし生真面目そうかしら」

「うーん……」


 母の感触は悪くなかったが、リンナは腕を組んで答えなかった。


 セラクト家の邸宅は国内でも外れの外れ、東南の国境を守る砦のすぐ手前に建てられている。周辺はだだっ広い耕作地帯で、収穫が過ぎた今は殺風景な平野になっている。


 薄曇りの空を背景に、男はゆっくりとこちらを振り返った。窓の中が見えるほどの距離ではないし、たとえ見えたとしてもリンナがどこにいるか分からないに違いない。


 それなのに、目が合ったと直感した。


 リンナは弾かれたように窓からしりぞいた。

 リンナの動揺もよそに、男は悠然と前庭を横切り、花壇脇にしゃがみ込んでいた庭師に声をかけ、規則正しい足取りで近づいてくる。


 玄関扉が開く。彼は真正面に立っていた。近くで見てみると、ますます威圧感がある。生真面目というよりは、厳格とか尊大といった表現のほうが適切なように思えた。


(やっぱり、軍の人とか……?)

 訝しむリンナの眼前に、大きな手が差し出された。おずおずと視線を上げると、男はにこりともせず、リンナの顔を不自然にじっと見つめていた。

 負けじと見上げると、一拍おいて別人のような笑顔になる。


「初めまして。アルラス・リュヌエールだ。よろしく」

「エディリンナ・セラクトです」

 握手に応じようと伸ばした手が、すいと持ち上げられる。流れるような動作で彼が身を屈め、取られた手の甲を何かが掠めた。

 背後で侍女たちが押し殺した歓声をあげる。


 あんまり意表を突かれたせいで、耳が熱くなった。

(こんなの、今どき俳優か詐欺師くらいしかやらないわ)

 アルラスと名乗った男の顔を改めて検分するが、やはり見覚えはない。彼も言うとおり、「初めまして」だ。


 浮き足立つ玄関ホールを窘めるように、母がひとつ咳払いした。

「遠いところまでよくおいで下さいました。応接間に軽食を用意しましたので、もしよろしければ」


 アルラスは、声をかけられて初めて母の存在に気付いたようだった。愛想良く頷いて応対している横顔を眺めながら、リンナは手の甲をそれとなく服で拭う。

 出会い頭にしてやられたようで、妙に屈辱的だった。


 応接間に向かう道すがら、彼は小さな声でリンナの顔を覗き込んだ。

「……失礼、どこかで会ったことがあっただろうか?」

「さっきご自分で『初めまして』って仰いましたわ」


 リンナは眉をひそめて答える。私と大して変わらない歳だろうに、この人、もうボケているの?



 上着を脱いでも、大して印象は変わらなかった。色彩のない服装で装飾もないが、襟元の釦ひとつ取っても質の良いものに見える。


 落ち着き払った立ち居振る舞いや、家令に対する態度を見るに、いわゆる貴族階級の人間だと思う。

 それだけに、目的が分からない。まさか、母が言っていたとおりなのだろうか?


「申し訳ないが、個人的な話なんだ」

 応接間に入ったアルラスの声で、リンナは我に返った。


 彼はにこやかに、しかし有無を言わさずに人払いを要求している。

 リンナは母に向かって頷いた。

 家令が机の端に鈴を置くと、母は軽く会釈し、丁寧な仕草で扉を半開きにして去っていった。


 風もないのに扉が閉じたのは、足音が聞こえなくなってすぐである。

 ぱたん、と響いた音がやけに間抜けだった。


「さて、本題だが」

 満足げに両手を合わせたアルラスを、リンナは小さな仕草で制止する。手を伸ばして扉を開けようとした矢先、「不要だ」と静かな声がかけられた。


 リンナは横目で来客を注視する。

「申し訳ありません、殿方と二人きりで密室というのは、少し」


 反論したときに、気付いた。彼の口元からは微笑みが完全に消え失せていた。


「開けてもどうせまた閉まる。良いから、席についてもらおう」

 尊大な口調で指をさして、男はゆっくりと足を組んだ。また閉まるとの断言は、今しがたの扉は自分で動かしたと自白したも同然だった。


 間違っても糸なんて張られていないし、アルラスはずっと席についていて手が届く距離ではない。


(今どき、魔術師なんて珍しいのね)

 リンナは警戒を隠さず、長椅子へ浅く腰かけた。


 応接間には大きな窓がふたつと、廊下へ繋がる扉がひとつ。脚の短いテーブルの周りを長椅子が囲み、壁際には申し訳程度の調度品があるばかりである。

 華やかさには欠ける応接間だが、来客は気にしていないようだ。


「アルラス・リュヌエールだ。生業としては、主に投資家のようなことをしている」

「お若いのに、資産がおありですのね」

 それとない探りにアルラスは反応しなかった。


「それにしても、こんな辺境までご足労いただいて、ありがとうございます。コーントの町でのお祭りは当然見られたでしょう? あそこの仮装行列はこの辺の名物ですもの」


「ああ。見ものだった」

「私も去年は見にいきました。牛のイボの仮装が面白かったですわ」


 話しながら、リンナは客人の顔色を窺う。用件は早めに済ませた方がいいと思った。


「ごめんなさい。その……もし求婚のことでしたら、私、今はそのつもりはないんです」

 もじもじと手を組みながら、釘をさす。

 予想に反して、アルラスは「ああ」と意にも介さず頷いた。


「あれは対外的な偽装だ。屋敷に上げてもらいやすいし、色々と都合が良い」

 これはどうやら様子がおかしい。リンナは眉をひそめた。


「だいいち、俺は賢い女性が好きなんだ。君のような小娘を選ぶほど落ちぶれたつもりはない」


 このひと、大して取り繕いもせずに、私のこと馬鹿なガキって言ってない?


 ほんの数回のやり取りで、リンナの不信感は既に頂点に達しようとしていた。失言を自覚してか、アルラスはわざとらしい咳払いをした。


「さて、今度こそ本題だが……エディリンナ嬢、これを」

 天板の上を滑らせて差し出されたのは、小切手だった。値段は書かれていない。


「ここに、好きな金額を書くと良い」


 まるで天気の話でもするみたいな口調だった。

 耳を疑ってアルラスの顔を窺うが、冗談を言っている顔つきではない。


 リンナは慎重に姿勢を正すと、愛想笑いを浮かべてアルラスに向き直る。

「ごめんなさい、意味がよく……」

「君の研究に、金を出したいという意味だ」


 心臓が一拍飛んだ。リンナは目を真ん丸にして男の顔をじっと観察する。


 呪術の研究をしている人間を、リンナは自分以外に誰一人として知らない。なにせ、二百年も前に廃れた技術で、学校の授業でも教えなければ、資料だってほとんど残されていない。


 呪術師というのは、かつて王を殺害しようとした咎で滅亡に追い込まれた、愚かで凶悪な集団として語られる。


 リンナの研究に興味を示すのは、よほどの好き者か、呪術の悪名を利用しようとする小物の詐欺師くらいのものだった。大抵の人がリンナの研究を一笑に伏すか、忌避した。


「私の研究に、関心を持ってくださったんですか? 論文もお読みに?」

 膝の上でぎゅっと拳を握って、リンナは震える声で問いかけた。


 アルラスは一秒あけて微笑んだ。「もちろん」と答え、小切手をさらに差し出す。万年筆の蓋を尻に付け替え、持ち手をこちらに向けて机に置いた。


 夢みたいだった。リンナは呆然と小切手を見つめていた。


 突如現われた若き資産家が、自分の才能に目を留めて、惜しげもなく後援してくれる。一度も夢見たことがないといえば、嘘になる。


 アルラスは穏やかな口調で手のひらを広げた。

「君の研究を買い取らせてもらうんだ。好きなだけ数字を書きなさい」


 はたと瞬きをして顔を上げる。彼の物言いには違和感があった。

「……買い取る?」


 小さな声で聞き返す。いかにも、と彼は鷹揚に頷いた。

 リンナは無言のまま体を固くした。直後、机の向かいで威圧的な空気が膨れ上がる。

「論文は読ませていただいた。君の研究は公序良俗に反する。速やかな中止を要請する」


 室温が一気に下がったように感じた。指先が冷える。リンナは目を見開いてアルラスを凝視した。

 仕立ての良い服を着て、上流階級の振る舞いで、支配的な口調。


「あなた、投資家じゃないわね」

 小切手を取り上げて呻くが、アルラスはぴくりと眉を上げただけで反応しなかった。


 そもそもセラクト邸の立地には少々難がある。


 リンナが生まれるより少し前のことである。各地に設置された転移装置によって、往年とは比にならない高速交通網が実現した。

 転移装置が設置してある場所同士ならば、国の端から端にだって一瞬で移動できる。


 都会なら更に鉄道が発達しているが、この近隣にそのような鉄道網はない。そもそも大きな街というものが存在しない。


 転移ステーションがある最寄りの街からセラクト邸まで、馬車で軽く半日はかかる。


 施設の操業時間から考えても、昼過ぎに到着するためには街道沿いの町で一泊する必要があるはずだ。まともな宿屋があるのはコーントの町くらいのものである。


「コーントの仮装行列を見たかって聞いたとき、『見事だった』と仰ったわ」


 リンナは指先に力を込めて、小切手を真っ二つに破いた。アルラスはゆっくりと瞬きをしただけで反応を示さない。


「あなたはいったい何をご覧になって、何を見事だと思われたんです? あそこのお祭りは屋台くらいしか出ないし、開催は明日よ」


 破いた小切手を重ねて、また半分に千切ることを繰り返し、リンナはこれ見よがしに手を開いた。

 アルラスの両目が舞い落ちる紙切れを追う。


「……すまない。なにか思い違いをしたようだ」

「あなたはコーントの町を通っていない。それどころか、街道から来てもいないんだわ。違いますか?」


 アルラスの言い訳を黙殺して、リンナは身を乗り出した。その頃には、アルラスの表情は隠しようもなく殺気立っていた。


 扉の閉まった応接間が、息もつけない緊張感で満たされる。


 アルラスが机に置いていた手を挙げたとき、リンナは思わず肩を跳ね上げた。


「……それ以上、口を開いてみろ。貴様の身の安全は保証できないぞ」


 地鳴りのような唸り声に、喉が詰まる。それでも、鼻先に指を突きつけられて怖じ気づくことは、意地が許さなかった。


 リンナは口角に力を入れると、かえって強気に背筋を伸ばす。

「街道の終点はこの屋敷だわ。街道を通らずにうちに到着するのは、常識的にありえない」

 言いながら、ゆっくりと頭を横に回した。


 窓の外は見晴らしの良い平地で、地平線よりも手前に巨大な壁が立ち上がっているのが見える。国境を守るための砦である。


 管轄は、軍の国境防衛部。国王の管理下にある組織だ。


「砦には転移装置が設置されていると聞きます。もちろん軍隊の施設ですから、民間人に使用できる代物じゃない」


 アルラスは押し黙ったままこちらを睨んでいる。飛びかかる瞬間を量っている獣のような目つきだった。


「あなたは軍隊の身分証を出さなかったわ。私の研究を取りやめさせるのなら、軍の権威を振りかざした方が余程脅しになると思います。つまり、あなたは軍人ではない、もしくは軍との関係を明かせない。けれど軍の転移装置を使える程度には融通が利く立場で、それを私に知られたくないのね」

「黙れ、と言ったのが聞こえなかったのか?」


 ついに大きな声で恫喝されて、リンナは反射で「いいえ!」と言い返した。


 怒りの余り髪が逆立ちそうだった。

 いきなり現われて、嘘の身分を騙り、ろくに根拠も示すことなく他人の研究を「公序良俗に反するからやめろ」?


 想像を絶する侮辱に手が震えた。リンナは拳を握り込む。

「学生のときから、ずっとそう。呪術の研究なんて不気味で悪趣味だって、嫌がられてばかり」

 自然と声は弱々しく先細った。アルラスは腕を組み、しばらく思案顔になる。


「……それは、呪術関係なく、単に君が浮いていただけじゃないのか?」

 リンナはしばし完全に沈黙した。なにかキレのある返しをしたかったが、一言も出てこなかった。


「あの人たち、ちょっと教室でカマキリ踊らせてたくらいで大袈裟なんです」

 アルラスは無言で天を仰いだ。自業自得、と聞こえた気がしたが、聞こえないふりをする。


「いいか。とにかく、呪術の研究からは手を引け」

「嫌ですわ。せめてご自分の身分を明かしてからにしたらどうでしょう」


 取り澄まして答えたが、もはや相手が素直に答えるとは思っていなかった。リンナはそっと片手を机の下に隠し、顎を引く。


 アルラスの視線が目敏く動作を追った。ここで呪文でも唱えようものなら、言い終わるより先に横っ面を張られるだろう。


「母に、何と説明してよいか。素敵な縁があるかもしれないと喜んでおいででしたのに、まさかこんな無礼な不審者を家に上げてしまったなんて」


 ついと顔を横に向けて何気なく話を続ける。素知らぬ顔の裏で、心臓が少しだけ早鐘を打っていた。



 彼の警戒が途切れる瞬間はなかなか訪れない。



 ご無沙汰しております。

 昨年12月頭に開催された文学フリマ東京39にて頒布した同人誌のweb再録です(多少の推敲を行っております)。

 元々web上で公開していた旧版を大幅改稿のうえで作成したため、「完全版」と称して新規に掲載させていただきます。文庫3冊分くらいのやや長丁場となりますが、お付き合いいただければ幸いです。


 本作の公開に伴って旧版は非公開設定に変更しておりますので、旧版を確認したい方は目次ページのタイトル上のシリーズ一覧よりご覧ください。


余談

 再録はイベントから一年ほど経った頃と思っていましたが、予想以上にたくさんの方に手に取っていただけた(&私が印刷部数をチキった)ためにイベント後十日あまりで在庫がなくなり、新規に読む手段が存在しなくなったことから、前倒しで再録しています。二転三転してすみません……

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