時を刻む獣 ~翼を無くした少女とナイフを持った少年~ 10月25日の出来事
~老人編~
天に突き刺すような尖塔の屋根に、夜明け前の白い月が光を落としていた。
辺りを包む空気はぴんっと澄みわたり、時を刻む獣が遠くで鳴いている。
時の声が響くたびに、時間はとろとろと進み、少しずつ夜の世界から朝の世界へと修正していく。
老人はその獣の存在を、誰に教わることもなく知っていた。それは周りの人間より長い歳月を生きてきたからかもしれないし、またはもうすぐその獣に喰われてしまうからかもしれなかった。
どちらにせよ、老人に恐怖はなかった。あるのは、自分がいなくとも世界は歩みを止めないのだ、という望漠とした感情だった。
ただ困ることがあるとすれば、獣の存在を感じるたびに、膝や肘の関節がぴりぴりと痛み、眠ることがままならないことだった。
それは年老いて摩耗した関節の痛みとはまた違う、肌の表面を無数の針山で撫でられるような痛みだった。それには強弱があり、波があった。まるで痛みそのものがなにかを主張しているように。
この日も陽が昇りきる遥か前に、膝に痛みを感じた老人は目を覚ました。
五分もすれば痛みは消える。しかし痛みに堪える日々によって、限りある神経を擦り減らしていくようだった。
そうやって時の獣は、死というものの準備を人々に与えているのかもしれない、と身体を丸めながら老人は考えていた。
膝の痛みが消えた老人は、よれたシーツから抜け出し、ゆっくりと窓辺に向かった。老人同様に年季の入った窓を開け放つと、冷えた空気が部屋に流れ込んだ。
空は夜が明けきらない紺碧の色をしていた。老人はふと気配を感じて空から地に目を移した。
闇に紛れるように、ひとりの少女がいた。その少女は身体を球体かのように丸め膝をしっかり抱えこんでいる。
一瞬、老人はその少女が時の獣だろうか、と考えた。自分を捕らえ、喰うために現れたのか、と。しかし眺めているうちに、どうやらそうではなさそうだ、ということに気づいた。
その少女からは、そのような邪悪な―――もしくは神聖な―――力が在るようには見えなかった。感じるのは、傷つき、飛ぶことが出来なくなった鳥の姿だった。
「お嬢さん、そんな所でなにをしているのだ?」
と老人は訊いた。その声はかすれ、見知らぬ深淵から届いてきたような歪さだったが、ちゃんと声帯を振るわした。
だが少女は、放心したような表情を老人に向けただけで答えなかった。
「そんな格好じゃ寒かろう。良かったら部屋にお上がりなさい」
そういうと老人は緑のカーディガンをはおり外に出ると、少女の手を引いて建物の中に招き入れた。少女はその間なされるがままだった。
少女を客室に置かれた席につかせ、温かいミルクを少女と自分の為に入れた。
「名前は、なにかな?」
一息入れた老人は少女にいった。だが少女は微かに首を振った。身体が暖まったのか、少女の顔に朱の色が差し始めている。怪我をしている様子はない。それがわかると、ひとまず老人はほっとした。
「いいたくないのかね。それともいえない事情があるのかね」
少女はまた、微かに首を振る。いいたくなにのか、しゃべれないのか、老人にはわからなかった。
「話せないのかい? それともなにか、助けが必要なのかい」
「わからない」
と少女がいった。そこ声は細く消え入りそうだったが、どこか人の心を捕らえる響きを持っていた。
「わからない? 自分の名前がわからないのかね。それとも他に、なにかわからないことがあるのか。もしわたしでよければ、力になるがどうだろう。話してみる気はないかね」
「…………」
「こんな老人でも出来ることはあるかもしれないよ」
老人は少女に微笑んだ。少女の顔がゆっくり持ち上がった。
「なるほど。自分の名前、住所、どこから来て、どこへ行こうとしていたのか、全てがわからないということか」
老人の呟きに、少女は申し訳なさそうにうなだれた。
「別に責めているわけじゃないよ。でも困ったものだ。ここは教会だから色々な人間が来るが、お嬢ちゃんのような迷い人は初めてだよ」
さて、どうするか、と老人は思った。どうやら少女は、警察には行きたくないらしく、老人自身も積極的に警察に関わりたいとは思わなかった。
朝日が射し込み、きらきらと輝いているステンドグラスに目をやった。かつて老人が職人だった頃につくりあげた物だった。
その絵には、人の目を持ち、背に羽を生やした空想上の動物が、少年に助けを与えている姿が描かれている。
「もしよければ、好きなだけここにいなさい」
老人は少女に向き直った。老人の提案に、少女の顔に驚きと戸惑い、そして安堵の表情が浮かんだ。
「いいの?」
「ああ、いいとも。ここで生活するとすれば名前がいるだろう。教会にちなんだ名前でいいかな」
少女はうなずいた。
「誕生日も要るな」
老人はカレンダーに目を向けた。10月25日。
「よし、決まった。誕生日は今日でいいだろう、そして名前は―――」
~少女編~
誰かに似ている。
初めてその少年を見た時、少女はそう思った。
教会に訪れる人はほとんどいなかった。
ただ、いつもの様に黙々と仕事をこなし、人が引け陽が暮れると教会を閉めた。そして何をするわけもなく、街に繰り出した。それが少女の唯一の楽しみだった。
老人が亡くなってから、少女はひとりぼっちになった。自分は他の人と違う。そう思っていた。
背中には羽が生えている。そんな人間が他にいないことも、この地に落ちてきてから学んだ事だった。
だから新しく友達も出来なかった。少女は寂しかった。
そんな時に少年は現れた。
彼は街を行き交う人に冷たい視線を飛ばし、それによって相手を傷つけようとしているように見えた。
少女は関わり合いを避けるように、他の人同様に視線を会わさなかった。このまま時が流れれば、何げない日の1ページに過ぎなかったかもしれない。
だが彼は少女がいる教会に現れた。
どうしてこんな人が教会なんかに来るのだろう。彼女はそう思った。
だがそれも一瞬だった。ステンドグラスを見上げる彼の目を見たとき、そうか、と彼女は理解した。
彼は救いを求めているのだ。何かに不安を感じているのだ。ここに訪れる他の人同様に。わたしと同じように。
彼女の視線に気づいたのか、少年ははっとしたように顔を向けた。その顔には一瞬、驚きと不安の表情が浮かんだが、すぐにナイフの切っ先のように鋭い目に変わった。
「なんだよ」
少年はいった。
「……いえ、べつに……」
思わず視線を下げた少女の横を、彼はすり抜けて教会から出ていった。
少女は自分自身の不甲斐なさに情けなくなった。教会に身を置くようになって長いのに、わたしひとりでは助けを求めている人に、ちゃんと声を掛けることも出来ないなんて……。
わたしの存在意義はどこにあるのだろう。彼女は思った。
何者かの意志によって、わたしはこの世界に落ちてきたのだ。それは人智を越えた何かだった。
憶えているのは、片翼を奪われ、どこかに落ちていくという感覚だった。そして気が付いたとき、わたしはこの教会の裏路地にいて、老人に助けられた。
わたしはこの世界で、やらなければならない何かがあるのかもしれない。または償わなければならない何かがあるのかもしれない。
老人との生活を送る日々の間、少女は考え続けた。だが答えは見つからなかった。
老人が亡くなってからはひとりでこの教会を切り盛りするので忙しく、しばらく自分のことについて考えることがなかった。
だが不安を抱えた少年の目が、少女の心にくすぶっていた何かを刺激した。
わたしがするべきこと、その答えを彼が持っているのではないか、そんな漠然とした気持が少女の中に沸き上がった。
翌日。陽か落ち始める時間になると、再び少年はステンドグラスを見に現れた。
その少年の姿に、老人の姿がだぶって見えた。老人もまた、よくその絵を眺めていたのだ。どこか悲しそうな目をし、なにやら呟いているのを少女はよく目撃していた。
それは懺悔とも祈りともとれるものだった。きっとあの老人は、人に言えない何かを背負って生きていたのだろう、と少女は思った。
それから少年は、次の日も、その次の日も現れては飽きることもなく、人の目を持った背に羽を生やした空想上の動物が、少年に助けを与えている絵を眺めていた。
「絵、好きなんですか?」
一週間後、少女はやっとの思いで声を掛けることが出来た。
「……ああ」
「あの……」
「このステンドグラス、名のある人の作品かな」
少年はいった。
「いいえ。以前、ここで働いていた人が作ったものです」
「その人は?」
「……亡くなりました」
「そうか。きっと、その人は、これを作るために生まれてきたんだろうな。この絵には魂がこもってる。それも温かく、優しい。才能があったんだな」
「あなたも絵を描かれるのですか?」
その言葉に、少年の顔が少女に向いた。
「いや……おれは描かない。才能がないんだ。だけど見る目だけはあるつもりだ。あの動物はなんなのだろう」
「時を刻む獣、だそうです」
「時を刻むケモノ?」
「はい。あの獣が鳴くたびに時間が進み、夜の世界から朝の世界へと創り変えるんだって、お爺さんはいってました」
少年は絵を見上げる。
「……こういう絵を描ける人間って、きっと凡人には見えない世界が見えているんだろうな。たぶん聞こえる音も違うし、人ではない何かを感じることができるんだ」
「…………」
「あんた、名前は?」
少年は絵から少女に顔を向けた。
「missaです」
「教会にちなんだ名前か」
「あの……」
「じゃあ、おれはもう行くよ」
そういって少年は去っていった。
~少年編~
少年はナイフを握っていた。誰かを傷つける為ではない。ただ自分の中にある、満たされないものを刻むために、押さえ込むために、いつもナイフを握っていた。
少年は孤独だった。欠落感があった。それを悟られないように、なめられないように、いつも意地を張って生きていた。誰かを威嚇するように生きていた。
だがそんな日々を忘れさる事が起こった。
偶然に入った教会。その頭上に飾られているステンドグラスに、少年は魅入られた。
なんて凄いんだ。その絵には魂があった。温かさがあった。切なさがあった。祈りがあった。少年を引きつける孤独があった。
そして愛があった。この世に存在する、いてくれる誰かへの感謝があった。
少年は時間を忘れて、いつまでもその絵を眺めていた。
気が付くと少年はその教会に足を運ぶようになっていた。街では相変わらずナイフを握っていたが、教会に向かう足取りは軽かった。
しばらくして、少年に話しかけてくる人物が現れた。それはこの教会で働いている少女だった。自分に話しかけてくる人間なんていなかった。
誰もが少年とかかわることを拒むように、目を合わせようとしなかった。連絡を取ろうとしなかった。だから少年は驚いた。
初め少年は少女に、つっけんどんな態度を取った。だが、また少女は話しかけてきた。
「絵、好きなんですか?」
「……ああ」
それをきっかけに、彼女と話す仲になった。教会の事や、ステンドグラスの絵についての話が主だったが、それだけで少年は楽しかった。
ある時、少女の誕生日を知って、少年は驚いた。それは少年が好きな画家と同じ誕生日だったからだ。
「誕生日が10月25日で、名前がmissa?」
「そうです……」
「なんだピカソみたいだな」
「ピカソ?」
「パブロ・ピカソを知らないのか」
少年はびっくりして、いった。そんな人間がいるなんて少年には信じられなかった。
「ええ。なんですか、それ」
「画家だよ。有名なんだ、すっごく。Picassoと書いてさ、missaと同じでSが重複しているし、誕生日も一緒なんだよ」
「へ~。知らなかった」
こと、ピカソの事になると少年は黙っていられなかった。
「ピカソは天才なんだ。彼が描く 『青の時代』や『バラ色の時代』の作品も好きだけど、俺は<三人の音楽師>とか<海辺に座る女>とかが好きなんだ。
何というかさ、作品の幅みたいなものが感じられて。批評家の中には明確な世界観がないと批判する奴がいるけど、彼はあらゆる世界の断片を描ける人間なんだ。
ひとつのテーマに止まらないというか、止まれないのかもしれないけど。でもそこにあるのは凄まじいエネルギーと想像力なんだ。あらゆるものを取り込もうとする力があるんだ。
ホントすげーんだ。<泣く女>なんて誰も想像できなかったと思う。あんなの考えつかねーもん普通。あんたもさ……」
自分ひとり喋っていることに、はっと気づき、少年はmissaの顔を見た。そこには笑顔があった。優しい笑み。
「なんだか、わたしも絵、見てみたいな」
少女がいった。その言葉に少年は、何か満たされた気持になった。自分が認められた気がした。自分はここにいていいのだ、と許可を貰えた気がした。こんな気持になったのは初めてのことだった。
彼女に会いたい。
いつからか、絵を口実に彼女に会いに行っている事に気づいた。だが、止めようとは思わなかった。
彼女に会いたい。そして絵についてもっと語りたい。もっと側にいたい。そんな想いが強くなっていった。
だが、そんな日も長くは続かなかった。
「帰る? 帰るってどこに? ここに住んでいるんだろ?」
少年の問いに、彼女はどこか悲しそうに、天を指した。
「なにいってんだよ。意味がわからないよ」
少年は叫びに近い声を出した。
「わたし、なんの為にこの世界に落ちてきたのかわからなかった。だからずっと迷ってた。ずっと意味を探してた。でも、何げない事の中に答えはあると気づいたの」
「…………」
「人は誰かに愛されるために生まれてくると思う?」
「……ああ」
「でも、それだけじゃない。痛みを知った上で、誰かを愛するために生まれてくると、わたしは思うの」
「…………」
「人の痛みをわからないで本当の愛なんて知る事なんてできない。多くの人は愛されたがってる。でも愛を与えるのをおろそかにしてる。きっと自分だけしか見えてないのね。
でも、あなたは痛みをしっているし、これから人を愛することも愛されることあると思う」
「……だったら……だったらここにいてくれよ。帰るとかいわずに、おれの側にいてくれよ」
少女は少年の願いに答えずに、話を変える。
「……わたし、ピカソの話、凄く楽しかった。あれからわたし、ピカソの絵が好きになったの」
「きっとピカソも君に……missaに出会っていたら<泣く女>じゃなく<微笑む女>を描いていただろうな」
そういって少年はうつむいた。
離れるのは嫌だった。もう会えなくなるのが怖かった。もう誰も、自分を認めてくれないようで、悲しかった。
「そうかしら」
少女は微笑んだ。その顔は相変わらず輝いていた。
「そうだよ。きっと描いてる。でもピカソだから、へんてこな絵だと思うけどね」
少年は笑った。無理に笑顔を作った。
「きっと、時を刻む獣が時間を進めたのね。だからあなたに出会えた」
「うん……。でも、少し進むのが早かったみたいだ。こんなに早く……」
「…………」
「おれの前に、現れてくれて、ありがとう」
少年は手を出した。少女がその手を握る。
「わたしもよ。ありがとう。あなたに出会えたから、わたしは気づけた」
「またいつか会えるかな」
「ええ、きっと。わたしは戻ってくるわ」
少女と別れた少年は、一枚の絵を仕上げた。
決して人に見せることはない絵。
だが、彼は描かずにはいられなかった。
けっして上手くはない。だけど、全身全霊をかけて描き上げた。
その絵は、時を刻む獣の背に少女が乗っていて、目の鋭い少年に優しく微笑んでいた。そして少年の手にはナイフの代わりに、彼女に渡す為のプレゼントが握られている。
こんど、あの少女に出会えることが会ったら、これを渡そう。少年は思った。それから絵の題名は何がいいだろう、と考えた。
しばらく考えたすえに、「微笑む女~missa~」と書いた。
それから今日が10月25日だと気づき、「Happy Birthday」と呟いた。
End
もう、だいぶ昔に書いていたお話しです。
自分にとってこの作品は、結構、核になる部分というか……
『時を刻む獣』は小説を書く上で何個かあるうちの一つ、テーマみたいなものなんですよね。
感想など頂けたら嬉しいです。
執筆の励みになります。
また他にも色々ショートショートをアップしています。
よろしければ読んでみてください。