事件当日 朝⑤
彼女の生来の優しさは、俺の幼い心を絶望の淵から救ってくれた。
天真爛漫な笑顔は、俺に生きる意味をくれた。
誰にでも救いの手を差し伸べる気高さと、どんな苦境をも覆す圧倒的な強さは、世界平和という途方もない夢を見せてくれた。
俺はそんなミネルヴァに憧れて、無力ながらも人を救おうと努力してきた。
『僕が殺した』『人類を皆殺しにする』
二年ぶりに再会した彼女の口から幾度も出た言葉は、俺の中で築き上げられたミネルヴァ・マーズという人物像とあまりにもかけ離れている。
俺はどうしても彼女の言葉を信じることが出来ないでいた。
だが一方で、目の前に彼女の言葉が嘘偽りない本心であると裏付ける根拠がいくつも転がっている。
俺の理性はとっくに「ミネルヴァが殺したのだ」と、「ミネルヴァは本当に人類を皆殺しにするつもりなのだ」と確信していた。
燭台の炎が視界を赤くにじませる中、理性と気持ちの狭間で揺れる。
「いいのかい?時間がなくなってしまうよ?」
押し黙る俺の顔を覗き込むようにしながら、ミネルヴァが言った。
こっちの気も知らないで。
憤りを覚え、ミネルヴァに鋭くした視線を返す。
その時、混濁とした思考を掻き分けて、一つの疑問が浮かぶ。
――なぜミネルヴァは、わざわざ俺に真相を明かさせようとしているのか?
「なぁミネルヴァ……」
「質問は受け付けないよ」
ミネルヴァが俺の唇に人差し指をかざし、遮るように言った。
「言っただろう?この三日間でアーくんが真相を解き明かさないといけないんだ。この部屋をいつでも好きに調べていいし、誰と相談してもいい。まぁ中の様子を知りたがっている大臣達とかがいいんじゃないかな? 色々と詳しいだろうから」
ニコリとししたミネルヴァは軽妙な足取りで十五体目の死体――国王カイロスの死体に近づく。
「それ」と人差し指を回すと白い魔法陣がカイロスの胸に現れ、死体が瞬時に教壇の左端に移動する。
「便利だよねぇこの魔法」
固有魔法「自由に空間転移する魔法」。
人や物、自分を含むあらゆるものを好きな場所へ移動させることができる。
彼女が十四歳の時、魔物から奪った固有魔法だ。
「ほらこっちおいでよ。まずは事件現場を調べないと、何も始まらないからねぇ」
ミネルヴァに手招きされるまま、十五体の死体が並べられた教壇に歩み寄る。
「――ぅ!」
むせ返るような血の匂いと、死体の上に並べられた剥き出しの脳。
あまりにグロテスクな光景に胃液がせり上がる。
「ごめんねぇ。いま匂い消すからね」
ミネルヴァがそう言って手を叩くと、礼拝堂の床に大きな魔法陣が現れ、嗅覚が何も感じなくなった。
「……固有魔法か?」
「うん。去年だったかなぁ? 何の魔物のだったかは忘れてしまったけどね」
惨たらしい光景は全く変わらないのに、匂いが無いだけで随分心が落ち着き、俺は現場の様子を正確に認識することが出来た。
十六体の死体の内、一体は頭部の無くなった騎士で、堂内から見て入口右の壁にもたれている。
十四体は教壇に並べられており、残りの一体であるカイロスの遺体もミネルヴァが教壇に並べた。
教壇の十五体の死体は、カイロスを除く全員が切り取られた脳を胸の上に乗せた状態で仰向けに横たわり、空洞になった頭部を晒している。
カイロスだけは後頭部が著しく損壊しており、ミネルヴァの食べ残しが割れた頭蓋から僅かに零れだしていた。
二人は十歳未満と思われる子供、七人が二~三十代の男女、カイロスを含めた六人が中高齢の男女と年齢層は広いが、皆に共通する部分がある。
それが、脳の下に敷かれた頭蓋から伸びる毛――毛髪の色だ。
老若を問わず、皆くすんだ青色。おそらく血筋なのだろう。
「左から順に国王、王妹、王妹、王弟、王妹、王子、王女、第二王子、王弟の娘、小さい二人が王子と王女の子だよ。あとの四人は王兄、第三王子、王弟の息子、第二王女だね」
ミネルヴァは一人ずつ指を示しながら、小気味よく言った。
俺と目が合うと、ミネルヴァはまた頬を緩める。
その様子は俺の知る笑顔を絶やさない彼女そのもので、俺はハッとする。
彼女の行動は違和感が多い。
ミネルヴァは俺に、事件の真相を明かさせようとしているのにも関わらず、質問には答えないと言う。
だが俺が部屋を調べやすいよう死体を並べたり、考察の支障をきたす匂いを取り除いたり、死者の素性を説明したりと、彼女の行動は至って協力的。
その一見矛盾しているとも言える行動の裏に――彼女の意図が存在する。
おそらくミネルヴァは、この事件を通じて俺に何かを伝えようとしている。
そもそも優しく気高いミネルヴァが、重大な理由なく此度のような凶行を起こすはずがない。
こうせざるを得なかった何らかの原因があったのだ。
そして、自ら真相を語らないのにも当然ワケがある。
ミネルヴァは俺が何かに気付くことを求めている。
現状は何もかもが理解しえない状況だが、思惑に乗るしかないようだ。
「おやぁ? やぁ~っとやる気が出たみたいだねぇ。ふふふ」
まるで心の中を読んでいるみたいに、穏やかに目を細めるミネルヴァ。
何かの固有魔法だろうか?
「……あぁ。やるだけやってみるよ」そう答えると「うん! 頑張ってね!」と心底嬉しそうに口角を上げた。
こんな状況にも関わらず、俺はまた彼女に勇気を貰ってしまった。
謎が多すぎる為、まずは現状を改めてみようと思う。
殺されたのは騎士一名と王族十五名。
王族は教壇に並べられており、一方で騎士だけは無関係とばかりに入口の傍に置いたまま。
おそらく騎士自体はミネルヴァの目的とは関係が無い、ということを示唆しているのだと思う。
つまり王族十五名の殺害にこそ、ミネルヴァの真意が隠されていると見るべきだ。
王族十五名の死因は間違いなく頭部の損傷だが、カイロスを除く十四体の脳を丁寧に切り取ってこれ見よがしに晒しているのが気になる。
中身の無い頭部を入口に向け、胸の上に乗せた頭蓋を皿に見立てて脳を飾る。
まるで商品でも陳列するかのようで、「この傷一つない脳をちゃんと見てください」という意図を感じずにはいられない。
この事件のキーワードは脳だ。
そして、脳はミネルヴァの固有魔法と密接な関わりがある。
ミネルヴァの固有魔法は「固有魔法を取り込む魔法」――脳を摂食することで、その脳に刻まれていた固有魔法を取得することが出来るという、極めて強力な固有魔法だ。
彼女はこれまで多くの魔物の脳を摂食し、百を超える固有魔法をその身に宿してきた。
彼女が史上最強の勇者と言われるまでに成長した所以であり、脳を摂食しなければいけないという性質が故に彼女を苦しめてきた魔法でもある。
そんな固有魔法を持つ彼女が国王カイロスの脳のみを摂食していたということはつまり、この殺戮の目的が「カイロスの脳に刻まれていた固有魔法」ということになる。
殺されたのがカイロスではなく初代王ラーボルトだったなら、『人が人を殺せない魔法』を奪う為と考えることが出来たが、あの魔法はあくまで故人である初代王ラーボルトのものだ。
ラーボルトの子孫であるだけの「自分のことしか考えていない愚かな王」の脳を摂食しようが『人が人を殺せない魔法』を奪うことは出来ない。
事実、アーノルドと馬車に乗っていた際に体験した二秒ほどの完全停止、入城検査の為に俺にかざした騎士の魔法が発動しなかったこと、この二つが王族の殺害後の事象であるからして「王の魔法」の健在は確認済み。よって、カイロスが持つ固有魔法は不明。
だが裏を返せば、カイロスの固有魔法の正体を知ることが出来れば、ミネルヴァが俺に伝えようとしていることを紐解く大きな手掛かりになるはずだ。
……だから先ほどミネルヴァは相談相手に大臣共を推したのか。
「さっきからじっとしているけれど、もっと詳しく見なくてもいいのかい?」
考え込む俺の周りをフラフラとしていたミネルヴァがひょこっと視界に入ってきた。
「……いや、これから見るよ」
礼拝堂を出てからすべきことは決まった。
あとは今知りうる情報を出来るだけ集める。
ミネルヴァに促されるままに、一体ずつ死体を観察していく。
全員が装飾の無い純白のローブを身に纏っているが首元は血液に染まり、下半身が体液で汚れている。
青い髪以外にこれと言った特徴はないが、強いて言えば皆小柄で痩身なことくらいか。
一応死体が幻覚では無いかを確かめる為、目を閉じてあちこちに触れてみる。
しかし、視覚が得た情報と相違ない感触が手のひらを伝う。
「あー、まだ信じてないのかい? 本物だよぉ」
少しムッとしたミネルヴァの言う通り、これらは紛れもなく本物の死体のようだ。
「どうだい? 何か分かりそうかな?」
「……どうだろう。まだなんとも言えないけど、何を調べるかは決まったよ」
そう言うと、パッと表情を華やかにさせたミネルヴァが労うように手を叩き、
「流石はアーくん! 僕達の頭脳担当は伊達じゃないねぇ。キミの考えた作戦はいつも的確だったから、ホントに頼りにしてたんだよぉ?」
懐かしい話だ。
ミネルヴァが旅立つ前、ハンネスとライザを加えた四人で魔物討伐に明け暮れた日々を思い出す。
四人で魔物を倒そう、世界を救おう、毎日そう言いあって頑張っていた。
だが、それは叶わなかった。
「じゃあなんで一人で出て行ったんだよ……?」
ミネルヴァは俺達の前から突然居なくなった。
『魔王を倒す旅に出る。僕の帰りを待っていてくれ』俺達三人の元に、それだけ書いた手紙を残して。
彼女が勇者に選ばれた数日後、長旅の準備に明け暮れる中での出来事だった。
「俺達で世界を救おうって言ってただろ?ハンネスもライザも……俺も、皆ミネルヴァと一緒に旅がしたくて頑張ってたんだぞ……!? それをどうして」
「それはアーくんが一番分かっているんじゃないかい?」
彼女は笑顔のまま、俺の言葉を塞ぐ。
平時と変わらぬ口調ではあった。だが形容し難い揺らぎのようなものを感じ、俺はそれ以上何も言えなかった。
――俺みたいな弱いヤツは、ミネルヴァに必要ない。
ずっと気付かないフリをしてきた現実が、じっと俺の方を見ていた。