事件当日 朝④
ミネルヴァと初めて出会ったのは四歳の頃。
当時住んでいたリキルの村の川辺でのことだ。
寒い時期だった。確か、その日は雪が降っていたと思う。
俺は病気がちな子供だったから、下痢を漏らした自分の下着を川で洗うのはよくある日常だった。
冷たい水に汚れた下着を浸けて、あかぎれでボロボロになった手を押し当てる。
それを朝から日が暮れるまで続けて、俺を殺すことが出来ない母が迎えに来るのを待つ。
寒くて痛くて辛かったが、それよりも死なない程度の食事と治癒魔法を絶叫しながら俺に与える母が本当に怖くて、その時間が近づくほうがイヤだった。
今考えてみるとなんて惨めな幼少期を送っていたのだろうと寒気さえ覚えるが、『人が人を殺せない魔法』がかけられていなかったらきっと母に殺されていたのだと思えば、どん底よりは多少マシだったのかもしれない。
でも、幼い俺には「人が人を殺せる」世界を想像して現状と比較するなんて芸当は難しかったし、川べりを仲良く散歩する母子を羨むほうがよっぽど簡単だった。
なんで家にいるあの人は僕に死んでほしいのだろう。
なんで僕は生きているんだろう。
なんでこんなに毎日悲しいのだろう。
分かることなんて何も無くて、逃げ方も闘い方も知らなくて、ただ息をさせられていた。
「手伝ったげる!」
惨めな俺に声をかけたのは、わんぱくに笑う同い年くらいの赤髪の少女だった。
俺は自分が周囲から「汚い」とか「臭い」とか陰口を言われて避けられていたのは知っていたから、話しかけられたことに驚いて何も返せなかった。
彼女はそんな俺から汚れた下着を奪いとると、川に浸けてじゃぶじゃぶと揉み始めて「これはガンコだぁ!大変だぞう!」と汗を拭う仕草をしてみせた。
何もかもが衝撃的で、俺は言葉を出すことも彼女から下着を取り返すことも出来ず、筆舌しがたい感情が湧き上がるのに任せてただひたすら泣いた。
泣き出した俺に気付いた少女はにししと笑って、「これが終わったら遊ぼうね!」と言ってくれた。
あの日、俺は初めて悲しくないことを見つけて、涙に種類があることを知って、自分が人間なのだと気付いたのだ。
その時から、ミネルヴァはずっと俺の勇者だ。
あれから十六年が経過した今日。
ミネルヴァは俺に、あの頃と同じ笑顔を向けている。
俺の下着を洗ってくれた優しい手で、国王の脳髄を引きずり出して。
彼女は「殺したんだ」と言った。
何度も思い返して、聞き違いだと思おうとして、自分の耳がはっきりと聞き取っていたことに気付く。
「そんなわけないだろ……!?」
感情を乱したまま、ミネルヴァを睨みつける。
「『人が人を殺せない魔法』のコトを忘れたのか? 剣を振ろうとすれば身体が硬直する! 魔法を打とうとしても魔法陣が消える! 故意に餓死させようとしたって身体が勝手に食糧を与える! 死にそうだが治癒魔法を施せば生き永らえる人がいれば勝手に治癒魔法を唱える! この国――いやこの世界じゃあ何をどうやったって人が人を殺すことは出来ない!」
俺と十年以上も一緒にこの街で暮らしてきたミネルヴァも当然知る常識であり、くだらない冗談はよせ、という意図を含め、言った。
「ははっ! 忘れるワケないだろぉ? 僕はまだおばあちゃんじゃないよぉ?」
こちらが冗談を言ったのかと思わせるほど軽い口調。
快活な彼女らしいといえばらしいが、この状況にあってはあまりにも不自然で、不気味だった。
「じゃあなんで殺したなんて言ったんだよ!?」
怒気を込めて叫んだ。
「事実だからさ。僕が王族を皆殺しにしたんだ」
「だから出来るはずが無い、って言ってるんだ!」
「実際に出来たからこれだけ死体が転がっているんだよ。アーくん。現実から目を逸らしちゃいけないよ?」
「ミネルヴァこそ状況を考えろ! 今はそんな冗談を言っている場合じゃないだろ? 俺が聞きたいのは何で旅の最中のはずのミネルヴァが王族が死んだ現場にいるんだ、ってコトだ!まずそれに答えてくれよ!?」
「ふぅ~ん。さっきからずっと本当のコトを言ってるんだけどねぇ」
聞き分けのない子を相手するみたいにため息をついて、「まあいいや」と前置きし、
「アーくんはなんでここに呼ばれたと思う?」
ミネルヴァは俺の目をじっと見ながら尋ねた。
それはこっちが聞きたいくらいで、俺は何も答えない。
「僕が呼んできて、って頼んだんだよ」
彼女はその言葉の後、死体の傍を漫遊しながら語り始めた。
「キミを家まで呼びにきた人がいただろう? 名前も顔も知らないから……騎士と呼ぼう。騎士の様子におかしなところはなかったかい?」
ついさっきのことだ。思い返すまでもない。
「……おかしいどころか錯乱していた。平民に謝罪を繰り返す騎士なんて物語にもいない」
「そうだろう? じゃあなぜ騎士様ともあろう御方が錯乱していたのか?」
ミネルヴァは教壇にぴょんと飛び乗り、
「――それは僕が王族を皆殺しにする一部始終を騎士が目の当たりにしたからさ」
こちらに微かな笑みを携えた顔を向けた。
「あそこに剣が落ちているだろう?それが騎士が礼拝堂にいた証拠。キミならきっとここに来るまでに彼の鞘に剣がないことに気付いていたはずだよ?」
彼女が指を指した入口の傍に、鷲の紋章をあしらった剣が落ちていた。
「これでも信じられないなら後で騎士に聞いてみるといいよ。 ミネルヴァが話していいって言ってたよ、って言えば、きっとこう教えてくれるだろう。『突如礼拝堂に現れた勇者ミネルヴァが王族全員の頭を割って回り、私はたた部屋の隅で怯えてばかりで魔法すら使えず、王族はおろか果敢に戦った同僚すらも見殺しにしました』ってね」
剣のあった反対側の壁に、頭部の無い血みどろの甲冑――十六体目の死体がもたれていた。
「ここまで言えば、賢いアーくんならもう信じてくれるだろう? 僕が王族を殺したんだ、って」
どうしようもなく、腑に落ちてしまった。
アーノルドが抜く必要のない剣を抜き、それを忘れて飛び出すほどの動揺を覚えた理由として、「人が人に殺されるというこの世界ではありえない光景を目にしたから」というのはあまりにも納得がいく。
だが、
「ミネルヴァがそんなことをするワケないだろッ!!」
信じたくなかった。
声を絞り出すようにして叫んだ。
「ミネルヴァは俺を救ってくれた勇者で、本当に勇者になった! いつだって困ってる人に手を差し伸べる、優しくて強い勇者だ!それに……」
ミネルヴァが脳を食べていた事実が頭をよぎり、言葉を濁らせる。
でも、雑念を振り払って言葉を繋ぐ。
「いつも言ってたじゃないか……? もう人が魔物に殺されるのは嫌だ、って。魔物のいない世界にするんだ、世界を平和にするんだ、って。だからミネルヴァは勇者になったんじゃないか!? それをこんな……こんなの……まるで」
「魔物じゃないか――って言いたいのかな?」
いつの間にか吐息が触れ合うほどに近づいていたミネルヴァが俺の目を覗き込みながら、頭の中を先読みしたみたいに言った。
急に目の前に現れたように見えて、思わず口を噤む。
黄金の眸に映る俺の顔には恐怖が張り付いていた。
しばらく沈黙の中で視線が交錯した後、
「だからキミを呼んだんだよぉ」
血濡れた顔をニコリとさせたミネルヴァ。
「この世に息づく全人類は皆『王の魔法』の影響下にある為、人に殺されることはない。それは王族も例外ではなく、いくら僕が強かろうと彼らを傷つけることすら出来ないはずだった。だが現実として僕の足元には王族の死体が転がっていて、酷く怯えた目撃者もいる。僕の手や口は血に濡れていて、キミは僕が脳を摂食するのをその眼で見た。僕が彼らを殺したのは明白と言っていい。それらの情報がキミに示すのは、僕の正体は人間じゃないのではないか?という仮説。でも、僕は人々を魔物の恐怖から救うべく旅に出た勇者であり、幼少の頃から僕を知るキミからしてみれば此度のような事件を起こすはずがない。ゆえにキミは僕に疑念を抱きながらも主観的な願望が邪魔をして現実から目を背けようとしている」
俺の前をフラフラと漫遊しながら淀みなく語るミネルヴァに、俺は返事をしない。
だが、ミネルヴァの言う通りだった。
人が人を殺すことは出来ないにも関わらず、ミネルヴァが王族を殺す一部始終を騎士が目撃している。
このありえないはずの状況が現実に起こりえた理由をこじつけるとするならば、一つしか思い至らない。
――勇者ミネルヴァの正体が魔物だった。
だが、
「現実から目を背けているワケじゃない」
ミネルヴァの背中に向け、明瞭な口調で言う。
彼女が動きを止めたのを見て、言葉を続ける。
「子供の頃から旅に出るまでずっと一緒に過ごしていたからこそ、俺にはミネルヴァが人間であるという確信がある。そしてそれを裏付ける根拠もだ。いくら死体があろうと、目撃者がいようと、俺の前で脳を食べていようと、それは揺るがない。王の魔法があるこの世界で、ミネルヴァが人を殺せるはずがない」
「ははっ!そう言うと思った!」
軽快なステップで身体をこちらに回転させ、快活に笑った。
「でも残念ながら、僕は本当に彼らを殺したんだ」
それからコホンと咳払いをして姿勢を正すと、
「アーくん。キミには今日を含め三日間の猶予がある。その間にこの事件――勇者ミネルヴァ・マーズによるウォールヴルク一族殺害事件の真相を明らかにしてもらう」
三日間?猶予?
気がかりな言葉に思考を引っ掛けた俺を目で黙らせ、
「キミが考えなければいけないのは次の三つ」
立てた三本の指を折りながら語る。
「勇者ミネルヴァは何故王族を殺したのか?」
「勇者ミネルヴァはどうやって彼らを殺したのか?」
「勇者ミネルヴァとは一体、何者なのか?」
「これらを猶予期間中に推理し、三日目の日没、僕に披露してもらう。もしその推理が誤っていた場合
――人類を皆殺しにする」
ミネルヴァは言い終えてホッとしたように表情を緩めた。
でも、話している時の彼女の顔は真剣そのもので。
『僕は勇者になる』
そう言ったかつての彼女と同じ顔だったのが、俺は悲しくて堪らない。