第二話
アイデアは喉元を過ぎ去り、胃の辺りまで引っ込んでしまっている。このままでは胃の中で完全に消化されて忘れ去られるだろう。余計な話を聞いてしまったせいだ。ええと、何だったか。確か、若い男性の話で、テレビが原因で恋人と喧嘩をする。ある日、合コンに参加していたところ老人から電話がかかってきて、そしてゾンビとラブホテルに行く。最後は岡崎公園でくだらない話を聞かされて・・・。違う、滅茶苦茶だ。僕はボールペンで額を叩く。諦めずにノックし続ければそのうち誰か出てくるはずだ。“あいであ?うちはそんな名字じゃありませんよ。ひょっとして隣のお宅と間違えておられるのでは?”・・・駄目だ、とうとう僕までくだらないことを考え出したぞ。ラジオから馴染みあるイントロが聞こえてくる。ビートルズの「Something」。特徴的なイントロだからすぐに分かる。そしてポール・マッカートニーがいつも通りセクシーに歌い始める。・・・ポール・マッカートニー?この曲はジョージ・ハリスンがいつも歌うはずだが、ポールが歌うこともあるのか?まあ、ジョージが「In My Life」を歌うよりはずっとマシかもしれないが、それでもやはり違和感がある。シャンプーとボディソープのボトルが逆に置いてあるような、不便ではないが少しもどかしい、そんな違和感。僕がウイスキー瓶に手を伸ばそうとする。すぐ横から咳払いが聞こえる。いつの間にか誰かが座っていたようだ。
僕が体を曲げると、そこには僕よりずっと年上の老年男性がベンチに腰掛けている。彼はおそらく七〇代ぐらいだが、その割にはまだ髪は生え残り、肌は張りを保ち、健康的に日焼けし、背筋はピンと伸びている。元アスリートと言われても信じてしまいそうなほどだ。
「邪魔してすまないね。あまりにも集中していたから呼びかけるのに気が引けたよ」
老人は僕の足下に視線を落とし、そこから体の輪郭をなぞるように目線をあげていく。居心地が悪い。口の中はもうカラカラで、濁った淡水の味がする。
「いえ、お構いなく」
「このウイスキー、君の?」
「ええ」
「一口だけもらってよろしいか?」
「どうぞ」
「どうも」
彼は瓶の首をゴツゴツした手にしっかりと握りこむ。グゥェッッズ、と大きなくしゃみが響き渡る。音のした方を向くと、もう一度やけくそ気味なくしゃみがとどろく。きっと、みやこめっせの警備員のくしゃみだろう。カン、と瓶を置く音がする。
「む、最近のウイスキーは飲みやすいな。まあ、たまには酒もいいもんだ」
「そうかもしれませんね。それにしても、こんな夜中に何をされているんですか?」
「ああ、ジョギングをした帰りだよ。それに今日はいつもより少し早く目が覚めたから息子と走ったんだ。・・・そうだ、その時にちょいと可笑しいことがあったんだよ。聞きたいかい?」
「是非とも」
「ふむ、いいかい?ずいぶん小気味良い話なんだ。一度しか言わないからな?・・・ふん、ええと、つい二時間前のことなんだがね・・・」
老齢の気難しそうな男性の例に漏れず、そして、仲良し親子の競争にありがちな、やたら長いのに加えて山も谷もない話が語られている。どうやらそれが彼の言う“可笑しいこと”のようだ。要約すると以下のようになる。彼は日付が変わると同時にジョギングを開始した。まもなく前にいた息子を追い抜かし、そのまま3kmほど走ったらしい。そして、5kmほど走って背後を見ると息子がすぐ後ろにいて老人を抜かそうとしたのだが、彼も負けじと全力になることで一度も抜かれずに30kmを走破し、最後は息子に「負けたよ、敵わない」と言わしめたそうだ。
「結構愉快な話だろう?」
「ええ、大した話ですね」
「まあ、いくらか頑固だが立派な子なんだ。でも、この歳で息子を打ち負かせるのは滅多にあることじゃないものな。いやはや・・・」
彼は思い出し笑いを堪えているのか、口に手をあてるが、僕には持病の発作が起きているようにしか見えない。
「機会があれば参考にしますよ」
「好きにすればいいさ。それにしても君の顔があの子に似てるから、つい思い出してしまっていけないね」
「そうですか?」
「ああ。まあ、あの子の方がずっと真面目そうだし、孝行息子だがね。・・・っと、話しすぎたよ、ウイスキーをありがとう。それじゃあ」
老人は立ち上がり、舗装された道を左回りに通って平安神宮の方へ去っていく。彼が街灯の下を通るたびに黒いシルエットが浮かぶ。僕は手に持ったままのメモ帳に目を戻す。
僕はメモ帳とペンを脇に置き、空を見上げている。ラジオを消した上に草も木もとうに眠っているため、目をつむって耳を澄ませば星が燃える音さえ聞こえてきそうだ。すぐ傍に誰かが立つ音がする。僕は目を閉じたまま言う。
「どうぞ、座って。来てほしいと願ってたよ」
彼女はベンチに座り、黙ったままだ。
「ウイスキーを一杯どう?」
「・・・うん、ありがとう」
遠くから爆発音が聞こえる。おそらくどこか彼方の星の寿命が尽きたんだ。一つの塊がたくさんの岩になって散らばる。そして、引力によって惑星に近づき、隕石になる。でも地球にはきっと到達しない。それくらい遠く離れた星の出来事なんだ。
「私からも何かお話したほうがいいかな?」
「そうだね。もうすっかり人の話を聞く気分になっちゃったしさ」
「うん、分かった」
そう言って彼女は黙る。頭の中で話すことを考えているんだ。彼女が沈黙するたびに僕は胸が躍る気持ちになる。どれほど素敵な話を聞かせてくれるのだろうか、と。彼女は口から薄く長く息をはく。話し始める合図だ。
「むかしむかし、あるところに一人の女の子がいました。彼女は幼い頃から人と話すのが苦手で家にこもりがちだったのですが、そんな彼女にも親身に話しかけ、一緒に遊んでくれる幼馴染みがいました。上手く話せない自分に楽しそうに話しかけてくれて家にこもっている自分に外でいろんな遊びを教えてくれたため、女の子はその人に少しずつ心惹かれていきました。時間を重ねるにつれてその気持ちは恋心に変わっていき、それは相手も同じだったのです。そうして、二人は恋仲になりました。でも、穏やかな恋愛は長く続かなかったのです。・・・どうしてだと思う?」
彼女の話を聞く姿勢をとっている僕は、突然の問いかけに返答が少し遅れる。
「・・・その女の子が他の人のことも好きになってしまったんだ」
「そう・・・。数年経った後、女の子は新しい恋に出くわしました。それはとても衝動的で暴力的で情熱的な恋、あの人との恋愛とは全く逆のものだったのです。まだ若かった彼女は気持ちを抑えることができず、その新しい恋も成就させました。しかし、それで納得がいかないのは二人の恋人です。・・・二人はどうしたと思う?」
「きっと女の子に怒りや不満を向けてしまったんだ。そして、本人の話を聞くことなく強引に奪い合ってしまったんだろう」
「・・・二人は女の子を取り合いました。一人は右手をつかんで、もう一人は左手をつかみました。『彼女は自分のものだ!』と言いながら引っ張り合い、女の子が、痛い!痛いよ!と言うのも聞こえませんでした。あまりにも強い力で引っ張られ続けたので、彼女は半分こになり、勢いそのまま飛んでいってしまいました。気がつけば、女の子は宇宙のずっとずっと遠いところまで飛ばされていたのです。太陽どころか、天の川さえずっと遠くに見える場所まで。自分の半身もどこかへ流されていってしまいました。それでも彼女は懸命にもがいて地球まで戻ろうとしたのです。惑星の爆発に巻き込まれたこともありましたし、大きな岩石にぶつかったこともありました」
「どうしてそこまでして地球に戻りたがったんだろう?」
「そこにしか居場所がないからよ」
「でも、天の川だってきっといい場所だろ?」
「ええ、いい場所よ、きっと。とても水がきれいなの。でも水素より澄んでいるから、しばらく目を凝らさないと何も見えてこないの」
「それなら鉄道もあるのかな?」
「もちろん。天の川をぐるりと一周する鉄道が敷かれてるよ」
「だけど、鉄道なんかが走っちゃったらせっかくの水が汚れちゃうんじゃないの?」
「大丈夫。排気ガスは土星とか木星とかが全部吸い込んじゃうから」
「すごいな。ずっと素敵な場所に思えるよ」
「うん、素敵だよ。一緒に行ってみる?」
「考えとくよ。それで、女の子は結局どうなっちゃったの?」
「・・・ええとね、地球までたどり着いたの。ただでさえ一本しかない手と足をバタバタと動かしながら、いろんな衝撃や圧力で体中をへこませながら」
「・・・」
「でもね、地上に降りることはできなかった。大気圏で燃え尽きちゃったのね」
「・・・なんとも言いがたい話だ」
「そうかもしれないね」
彼女はベンチから立ち上がる。僕は目を閉じたまま天の川を探しつつ、惑星が死ぬ音を聞いている。
「それじゃあ、さよなら」
「うん、帰り道は気をつけて」
「わざわざ丁寧にありがとう」
「とりわけ京都において、冬の夜道ほど危険なものはないからね」
「どうして?」
「おばけが比叡山から下りてくるんだ。群れをなしてね」
「何のために?」
「朝一で夜露をすするためさ。夜が明ける前にちょうどいい草を探すんだよ」
「おばけは夜露が好きなのね」
「冬の夜露は絶品だからね、特に京都のものは。あと、おばけたちはお酒が嫌いなんだ」
「お酒?塩とかじゃないの?」
「うん。だってお酒を飲んだらトイレが近くなるだろ?彼らは京都が大好きだから道ばたで用を足すなんてことは絶対にしない」
「根はいい人たちなのね」
「さあ、どうだろう。彼らは京都が好きなだけで京都に住んでる人が好きってわけじゃないと思うよ」
「そっか、とにかく気をつける。ばいばい」
「うん、さようなら」
僕は目を開け、大きく伸びをする。空が少しだけ青みがかってきている。そろそろ夜明けだ。ウイスキー瓶を手に取って蓋を空ける。しかし、中身はもう空だ。僕はため息をついて肩を落とす。全く、何か思いつきそうだったのに、すっかり忘れてしまったじゃないか。