突撃とお母さん
金曜日。
一週間が終わり、次の日から休みが始まる嬉しい曜日。
教室の生徒たちも、心なしかいつもより元気に見える。そんな中、僕は一人不幸なオーラを漂わせていた。その原因は幸だ。
僕は一昨日も昨日も幸の家に出向いたが、誰も出てこなかった。幸の両親はともに仕事で帰りが遅いことから間違いなく居留守だろうと思う。
こうなってくると、根本的に作戦を変える必要がありそうだ。ただ、場所はやはり幸の家の方が望ましいだろう。学校だと、第三者の意図しない介入が起こって、話がややこしくなることは必至だ。なぜなら、僕は不幸だから。やっぱり弁天に頼んでおけばと考えて、勢いよく頭を振る。それはもう、なしだ。
じゃあ、どうしたら幸は僕と会ってくれるだろう。
身近な人間を思い浮かべてみる。月夜さんが怒ったときや不機嫌なとき、僕は一体どういう対処をしていただろうか。いつも、甘いものを買ってきたり、愚痴を聞いたりしていた。
何かもので釣るのはいい方法かもしれない。でも、そんなに上手くいくだろうか。
幸は結構アイスクリームが好きだが、それを家に持っていったところで、出てこなければ大して意味はない。
もので釣るというのは、あまり効果がないかもしれない。
しかし、何かで釣るというのはいい手だと思う。問題は餌だ。幸が食いつきそうな餌を垂らさなければいけない。幸の好きななにか。
そんなの一つしか心当たりがない。でもこんな方法を使っていいのだろうか。人道に反するような気がする。それに、出てきてくれたとしても、ろくな展開にならない確信がある。ただ、いま幸と会えそうな方法は残念ながらこれしか思い浮かばない。さて、どうしたものだろう。
僕は月夜さんだったらこんな状況のときになんて言うだろう。
男は度胸だろと笑って、僕の背中を叩くんじゃないか。そして、最後にこうつける。よし、それでこそ、私の子だ、と。
僕はそれに、いや違うからと思いっきり突っ込むかもしれない。
なんだか、そんな情景を思い浮かべて自然と笑みが浮かぶ。
「おい、ずいぶん余裕そうだな、天部。じゃあ、この問題解いてみようか」
笑っているはずなのに、全然そうは見えない先生の顔。そう言えば、授業中だった。黒板の問題を見るも、良く分からない。そして、周りが教えてくれることもない。まさに四面楚歌。
分かりません、と答える。それに待ってましたとばかりにまくし立てられる説教。
僕はそれを聞き流しながらふと思う。不幸だなあ、と。
放課後。
授業中に思いついた作戦を実行するため、いくつかの場所を経由して、それから目的地である幸の家へと向かう。不安しかないが、これが最適解であると暗示をかけるように自分にすり込んで。
そんなことを考えていると、いつのまにか幸の家の門の前に立っていた。表札には鳥居の文字。ついこの間までは頻繁にお邪魔していた、僕にとってとても縁のある家。でも、それがいまはとても遠く感じる。
「じゃあ、お願いできるかな」
後ろに連れた助っ人に声をかける。
その助っ人、須佐さんは小さくうなずくと、インターホンを鳴らした。
耳を澄まして、インターホン前での会話を聞く。
「はい、鳥居ですが」
落ち着いた女性の声が聞こえる。
この声、聞き覚えがある。幸の母親の幸恵さんだ。なんでよりによって今日いるんだろう。
ただ、そう嘆いていてもしょうがない。それにむしろ僥倖かもしれない。これで家に入るという第一関門は突破できる。
須佐さんに目で合図して、インターホンの前に立つ。
「万です。遊びに来ました」
「ちょっと待ってて、いま開けるから」
しばらくしてから、黒髪の女性が扉を開けて出てくる。
相変わらず、とても端正な顔立ちである。
「お久しぶりです、幸恵さん」
「ええ、久しぶりね、万」
それだけ言うと幸恵さんは僕と須佐さん、それに念のために連れてきた清水さんを順に見て、それから何かを察したようで頷いた。普通、家に見知らぬ女の子が来たらどんな関係か興味を持ちそうだが、そういうのは一切ない。
「幸は二階の部屋にいるわ」
「ありがとうございます」
頭を下げ、それから家に上がる。幸恵さんはそれを確認して居間に戻っていく。
何度も入ったことのある家なのに、まるで初めて来たような感覚がする。僕は心を落ち着かせるために小さく深呼吸した。
「あ、あのさあ、すごい綺麗なお母さんだったね」
階段にさしかかったところで清水さんから声がかかる。
この無言な空気に耐えられなかったのだろう。ただ、いまはそんなことを話す空気ではない。須佐さんも同じようで、清水さんを目で制止する。すると、清水さんもそれに気づいたようで、ごめんと小さく言って黙ってしまう。
さっきよりも一層険悪なムードになる。そんな中で、幸の部屋の前に着いた。
当初の計画では、須佐さんにインターホンを押してもらい、幸を家から引きずり出して話の場を作ろうという手はずだった。しかし、幸恵さんという嬉しい誤算のおかげで難なく家に入ることができたため、この計画は変える必要がある。
「どうする?」
小声で須佐さんが尋ねてくる。彼女の右手は軽く握られていて、ノックをするべきか僕に指示を仰いでいる状態だ。それに頷く。
須佐さんはそれを確認すると、優しく扉を叩いた。
「鳥居くん。須佐だけど。少し話がしたくてお母さんにお家に入れてもらったの。もし良かったら、出てきてくれないかな」
その声に反応するように、部屋からガサゴソと音が聞こえる。
おそらく、身だしなみを整えているのだろう。自分の意中の人が部屋に来ることになったら、僕だってきっとそうする。
それからしばらくして、ゆっくりと扉が開く。中から、緊張した面持ちの幸が出てくる。しかし、その表情は一瞬で歪んだ。
「これは、お前の差し金か、万」
冷たい声が身体に響く。幸のこんな声を聞くのは初めてだ。でも、ここで怯むわけにはいかない。せっかく、作ったチャンスだ。
「幸、話があるんだ。聞いてくれないか」
「お前と話すことはない」
扉が勢いよく閉まる。
「待ってくれ。そのままでもいいから話だけでも」
「うるせー」
全く取り付く島もない。このまま扉の前で会話をしていても埒があかないか。引き時だ。
「これ以上いてもしょうがないわね。帰りましょう」
須佐さんも同じことを考えていたようで、小声でそう言った。清水さんもそれに暗い表情でうなずく。
今日は帰るよ、と部屋に向かって声をかけて僕はそこから去る。返事は当然なかった。
僕ら三人は結局なんの戦果を得ることもできないまま、帰ることになった。
「おじゃましました」
リビングルームの幸恵さんに声をかける。すると、幸恵さんは目をこすりながら出てくる。寝ているところを邪魔してしまったかもしれない。
「またいらっしゃい」
そんな機会が果たして訪れるか分からないけど、笑顔で頷く。その機会が訪れることを切に祈って。
幸恵さんはそんな僕の顔を無言でじっと見つめる。もしかしたら、あまり上手に笑顔を作れなかったのかもしれない。ただ、それも仕方ない。
それにしても、その顔つきは改めて見ると、とても端正で、それで幸と重なるところがあった。幸はやっぱり母親似だ。
僕はなんだかその視線に耐えられなくなって、さよならと小さく呟いて部屋に背を向けるが、それは叶わない。後ろから幸恵さんに腕を捕まれたからだ。
「ちょっと待って、万。一つ聞きたいことがあって」
その手には力がこもっていて、少し痛かった。
「あ、ごめん」
僕が痛みに顔を歪めたのに気づいたのか、幸恵さんは手を離す。
「大丈夫です。それで、聞きたいことって?」
「うん。月夜は、えーっと、最近どう?」
僕は思わず苦笑する。相変わらず口下手な人だ。それだけじゃ、付き合いが長くないとなにが言いたいのか伝わらないだろう。おそらく、ちゃんと理解できるのはほんの一部の人だけなんじゃないか。
でも、僕にもそれがなんとなく分かる。きっと月夜さんと久しぶりに食事に行きたいんだろう。
「仕事の方はそんなに忙しくないですよ。基本土日なら大丈夫だと思います」
「そう、ありがとう」
それじゃあ、と軽く会釈して家を出る。それから扉が閉まるのを確認して大きくため息をつく。人生はなかなか上手くいかないものだ。