あなたの人生に幸あれ
ここはどこだろう、というのが最初に浮かんだ感想だった。辺り一面真っ白で色がない。いや、厳密にいえば、目の前にある階段になんとなく黒い輪郭がついているようにも見える。
僕はそれから、自分の身体を確認してあることに気づく。体の傷はそのままだが、先ほどまであった痛みは全くない。
ここが、神の間なのだろうか。そうだとすると、この階段の先に弁天がいるのだろう。僕は先ほどとは打って変わって軽やかな足取りで、その階段を一段一段登った。
長い階段だ。この空間に色がないことも相まって、まるでどこまでも続くような気がした。
しかし、不意にその終わりがやってくる。パッと目の前が開けた。そして、目の前には真っ白な着物を羽織る弁天の姿があった。
「弁天」
「万さん……?なぜ、ここに……」
驚きの表情を浮かべる弁天。それもそのはずだ。僕自身ですら、神の間に到達できるとは思わなかった。
「人間ですか。一体どこから入ってきたのでしょうか」
不意に左の方から声がした。そちらに視線を向けると、白装束で生真面目そうな少年が立っていた。
「本当ですね。ここに人間が来るなんてー、初めてのことなんじゃないですかー」
右の方からそれに呼応する声がする。見れば、笑顔を浮かべた少年が立っていた。いや、二人だけではない。左右だけでなく、前にもいつの間にか少年たちが立っていた。合計六人の少年が円上に弁天を囲むように立っていて、その中には白装束姿の毘沙門天の姿もある。
彼らは僕がここに来たときにはいなかったはずだ。姿を消していたのかもしれない。彼らは僕に不思議そうな瞳を向けていた。
「悪いな、恵比寿、大黒天。俺が入れたんだ」
毘沙門天が悪びれた様子もなく弁明した。よく分からないが、いまの言葉からすると、ここへ招いてくれたのは、毘沙門天のようだ。弁天はきっと鋭い視線を向けるが、毘沙門天は全く動じずに小さく鼻を鳴らした。
「びしゃくん。ここに人間を入れる意味というのを分かっているんじゃろうな」
老人のような口調で別の少年が問うた。
「ああ、分かっているよ。それに、そいつは特別だ。これまでのことを知っている」
「ああ、例の子か」
おでこの広い少年がそれに頷いた。
「なるほど、大まかにですが事情は飲み込めました。これは、私たちにも責任があるのでしょうね」
生真面目そうな少年はそう頷いて、それから僕の方に向き直ると、
「では、人間、あなたに時間を与えましょう」
そういうや否や、僕の目の前から六人の少年は姿を消した。便宜を図ってくれたと、ここはそう解釈させてもらおう。
いまこの空間にいるのは僕と弁天だ。それ以上でもそれ以下でもない。
さあ、話を始めよう。
「久しぶりだな、弁天」
努めて冷静に、僕は声をかけた。本当はもっと、こう、これまでの苦労を思いっきり前面に出してもよかったのかもしれないけど、それは違うと思った。それに、すでに僕の身体は怪我だらけで、服だってところどころ破けている。
「あの、あなたは誰ですか?」
こてっと首を傾げて、そんな声が返される。ああ、そうか。そういうことか。
「何言ってんだよ、弁天」
「私は、いましがた生まれ変わったばかりの弁財天です。もしかしたら、以前の私があなたとお会いしていたのかもしれませんが、私にそれは関係ありません」
無機質な声だ。でも、そこには様々な齟齬がある。
「嘘だな。まず第一に、さっき弁天は僕の名前を呼んでいる」
「覚えがありません」
その回答は想定内だ。むしろ、いまの言葉には先ほどよりも感情が込められていた。無機質な中に僅かだが焦燥感が見えた。僕は続ける。
「そして第二に、僕は弁天の事を覚えている。神が消えると記憶は消去されると毘沙門天は言っていたけど、いまの状況はそれに反している」
びーくんめ、いつの間にそのことを、と弁天が呟いた。それから小さく息を吐いて、僕を見つめた。その瞳は、僕がいつも見ていたものだ。
「もう、ごまかすのは止めるのか?」
「そうですね。これ以上は無理そうですし」
やれやれと言った様子で肩をすくめおどけてみせる。それから、僕の身体を上から下まで見つめ、
「そんなにボロボロになってまで、私に会いたかったんですか。本当、万さんはお馬鹿さんですね」
そう言って苦笑を浮かべる。たしかに、僕は馬鹿だ。台風の中を自転車を漕いで神社に手を合わせに行く馬鹿は、日本広しといえど僕くらいだろう。ただ、それが僕の思いの大きさだ。だから、
「そうだよ、僕は弁天にそうまでしてでも会いたかったんだ」
僕は笑顔で、そう返した。
「万さんは、本当にお馬鹿さん、ですね……」
今度はしんみりとした口調だった。何かを噛みしめるようなそんな口調。
僕は一歩弁天に近づく。それから、優しくその肩に優しく手を触れた。
「僕は、これからも弁天と一緒に毎日馬鹿をやって楽しく過ごしていきたいよ」
思いを伝える。僕の、心からの思い。ここまでの道のりを支えた根幹。
弁天は儚げな、憂いをのせた笑みを浮かべて、一歩、僕の方へ近づいた。そして、僕の眼前でその震える唇を動かした。
「ごめんなさい。それはできません」
拒絶だった。僕らの体はあと少し踏み出せば触れるくらいに近いのに、距離を感じた。まるで僕らの間に巨大な壁があるようなそんな感覚。
「私はこの大災害の抑止力になり得る唯一の存在です。ですから、もう、私のことは諦めてください」
諦めと、彼女はそう言った。僕がここで諦めたらどうなるのだろうか。弁天は消える。そして、僕の中にあった弁天との記憶も塗り替えられ、まるで何事もなかったかのように日常に戻る。
諦めることで、全てがなかったことになるのだ。そして、それを思い出すこともできないまま僕は日常に埋没する。
「そんなの、そんなのだめだ。諦められるわけがないだろ」
声を振り絞る。押し込めていた感情が前に飛び出す。頬には、温かいものがつたる。
「まだ、なにか解決策があるはずだ。きっと、そうだ。それを考えよう」
「もう、何もありません。どうすることもできないんです」
ああ、そうだ。そんなことは、分かっている。でも、そうですかと言って引き下がれはしない。
「そうだ、別に、他の神さまでもいいだろ。わざわざ弁天が消える必要なんてないじゃないか」
「それは違います。捧身は、神様の消失によって正因子の発生を伴いますが、その量は神様の貢献度によって決まります。最年長の私が適任ですし、他の子たちではまかないきれません」
よく分からないけれど、弁天しかだめだということか。それなら、
「この災害だって、案外なんとかなるかもしれない」
「なりませんよ。ここからしばらくは頻発します。甚大な被害が出ます。一度そうなってしまったら、もう、取り戻せません」
毅然とした態度で、あくまで理詰めで僕を諭す。
もう、何も出来ないのだ。八方塞がりなのだ。それでも、止まることはできない。
「それなら、僕が、僕が弁天の代わりになる。負因子でもなんでも、僕が全て引き受ける。この先一生不幸になったって構わない。だから――」
無茶苦茶なことを言っている。意味が分からないし、理論上だって不可能だ。そんなこと、自分が一番分かっている。でも、どうしても、このまま諦められない。だから、手を伸ばす。
「もう、やめてください」
弁天が叫んだ。初めて聞く声だった。その瞳からは、大粒の雫がいまにも溢れそうになっている。僕はそれに口をつぐまざるを得なかった。
「もう、それ以上は、止めてください」
とめどなく、涙がこぼれる。思いが溢れる。僕は弁天をそっと抱きしめた。小さくて、力を入れてしまえばすぐに壊れそうなその身体を。
そして悟る。きっと、僕と弁天はここからはどこまでも平行線で、それまで混じり合っていた数ヶ月が奇跡的な出来事で、もう、その幸福な時間は終わりを迎えてしまう。それは宿命なのだ。
これは酷い。あんまりだ、神さま。この時間が永遠に続けばいいのにと、そう願ってしまう。淡く、儚い期待だ。そして、それを嘲笑うかのように終わりは訪れる。
「万さん、そろそろ時間です」
弁天が目元を腕で拭い、僕から離れた。僕はそれに無言で頷いた。
ふうっと口から吐息を漏らして、それから弁天はまっすぐに僕を見つめた。
「万さん。私、一つ謝らなきゃいけないことがあるんですよ。この間会ったとき、嘘ついちゃってごめんなさい。本当は、もう万さんともう会わないつもりだったので、謝る機会もないと思っていたんですけどね」
涙を目尻に浮かべたまま、そうおどけてみせる。
「許してやるよ。なんたって、僕と弁天の仲だからな」
そう言って、いつだったか弁天に言われた言葉を真似して笑い飛ばした。
弁天もそれに笑みを漏らす。
「それから、ああ、さっきも嘘ついちゃいましたね。まあ、それはご愛敬ということで」
「自分で言うことかよ……」
そうですね、とはにかむ。きっと次が最後だ。
「それから……、えーっと、なんて言えばいいんでしょう。あんまり別れの言葉とか、考えたこともなくてなんて言えばいいのか分かりませんね」
どうにもしまらない。ただ、それが僕ららしいと言えばそうなのだろう。僕はただ、次の言葉を待つ。弁天は何か思いついたようで、人差し指を立てた。
「そう、身体には気をつけてください。それと、幸さんや須佐さんによろしくお願いします。あとあと、神社に放し飼いした金魚も……、ってこれ、万さんは忘れてしまうんでしょうね」
そうだねと頷く。
「それから、最後に」
愛おしい時間に終止符を打つように、弁天は僕を優しく抱きしめた。
「あなたの人生に、幸あれ」
その言葉が僕の耳に鳴り響いた直後、僕の身体を覆うぬくもりは消え、白い世界に亀裂が入る。足下が崩れ、僕は落ちていく。
「弁天」
記憶の片隅に留めようと呟いたその言葉の意味を、次の瞬間には忘れてしまった。僕の中の大切な何かがガラスが割れるみたいに散り散りになって、そのまま消えていった。




