暴雨の中の疾走
「ただいま」
扉を開けると、月夜さんが玄関に立っていた。
「遅かったな……、ってびしょ濡れじゃねーか。ちょっと待ってろ。タオル持ってくるから」
月夜さんが洗面所からタオルを持ってきて、僕の頭を乱暴に拭く。
「シャワー、浴びた方がいいかもな」
僕はそれに小さくうなずいて浴室に向かった。
シャワーを浴びながら、思う。弁天とのこれまでのこと。まるで走馬灯みたいに僕の頭の中で日常が繰り広げられる。回って、巡って、視界がぼやける。顔に手を触れると湿っていた。身体が崩れ落ちそうになり、壁に手をつく。
「なんで、こんなことになったんだ」
数日前まで、何も問題はなかったと思っていたのに。
「なんで、こんなに理不尽なんだよ」
僕はまた、引き裂かれなければいけないのだろうか。
「なんで、嘘、ついたんだよ」
僕はまだ、伝えたいことが、知りたいことが、一緒にやりたいことがたくさんあるのに。ポタポタと大粒の雫が頬を伝ってこぼれ落ちていく。無常にも、神の救済はない。神は世界を救うために、僕を殺すのか。でも、僕にはもう、なす術がない。弁天と会う手段は、ない。毘沙門天に着いていけばあるいは会えたのかもしれない。でもそんなのはもう、あとの祭りだ。いまから追いかけたところで無駄だ。
浴室をあとにして、机に座って教科書を開く。月夜さんはそんな僕を心配そうに眺めている。きっと、いまの僕は家に出る前とは比べものにならないくらい酷い顔だろう。取りあえず、シャーペンを走らせるが、何も頭に入ってこない。座っていても、後悔の念が増すだけだった。もっと早く、野球のことを僕が気づいていれば、いまとは全く真逆の展開になっていたのだろうか。何気ない日常が、とてつもない尊さを帯びる。あんな日がいつまでも続けばよかったのにと、そう思っていたのに。現実は残酷だ。無常だ。奪っていって、その痕跡の一切を残さないのだから。僕は、弁天の存在に浸ることを許されないままに日々を生きていくことになる。
「万……、大丈夫か」
月夜さんがしびれを切らし僕にそう問いかける。
「えっ、うん。大丈夫だけど、どうして?」
心配させまいと毅然に振る舞おうとする。大丈夫だ。普段とそんなに変わらない声音だ。浴室を出るときに確認したけど、別に泣き腫れたりもしていなかった。
月夜さんはゆっくりと手を伸ばして、僕の頬に優しく触れた。
「泣いてるぞ」
その言葉に僕は反対の頬をさすった。湿っていた。無意識にこぼれてきてしまったみたいだ。止めようとしても、堰を切ったように止めどなく溢れてくる。
「何があったの。話してみな」
その言葉の温かさに、柔らかさに幾ばくかの安心感が生まれる。
「大事な子がいるんだ。僕にとって、すごい大事な子なんだ」
鼻声になりながら、ゆっくりと話し始める。
「それは、この前家に来た女の子かな?」
何もヒントなんか出していないのに当てられて、ドキリとする。
「ふふっ、万のことはなんでもお見通しだよ。それで、その子がどうした?」
優しく先を促してくれる。僕は続ける。
「もう会えないんだ。いなくなっちゃうんだ。僕はまだ――」
言葉が続かない。胸が苦しい。本当にもうお別れなのだろうか。
「そっか。万はその子のことが本当に大切なんだね」
「うん。そうなんだ。それで、このままじゃだめなんだ。僕が、嫌なんだ」
自然と言葉が身体の底から出てくる。そうだ、このままじゃだめだ。いいわけがない。バカヤロウって怒って、それからいつもみたいに他愛もない話でもして、この問題をなんとか解決するんだ。
そのためには、まず、弁天と会わなくちゃいけない。いま弁天がいるのは神の間。そこまで、人間である僕はどうしたら辿り着ける。考えろ、考えるんだ。
「万は、その子ともう一度会いたいんだよね。それなら、まず、その子のことを思い出してみなよ。きっと何か、行き先とかに繋がることを言っていたんじゃない?」
月夜さんが、そんな的外れな指摘をする。弁天の場合は、親が引っ越しとかそういう類いのものではない。神さまなのだから、正攻法は通用しない。それに、行き先は分かっている。神の間だ。そして、そこは神さまだけしか踏み入れることができない場所だ。
そもそも、神の間以前に弁天は普段どこから来て、どこへ行くのかすら僕はよく分かっていない。
いや、待てよ。そういえば、銭洗辨財天は弁天が幼いころに住んでいると言っていたはずだ。それに弁天は以前こんなことも言っていた。奥宮は神の居住地や神の間に繋がっていると。あそこは下界と神界の扉だということだ。そこに僕が入れる確証はない。でも、試してみる価値はある。どっちにしたって、もう時間は殆ど残されていないだろうし。そうなると、
「月夜さん。聞いて欲しいことがあるんだ」
「えっ、急にどうした」
突然、僕が叫んだことに驚く。それもそのはず。いまの僕はさっきの涙を流してへこたれていた僕と一転して、活力がある。藁にもすがる思いではあるけれど、僕が立ち上がるのには、その一縷の望みで十分だ。
「僕はいまから行かなきゃいけない場所があるんだ」
「それは、いまじゃなきゃいけないのか?」
窓から外を見る。雨粒が大きくなっている。それにビニール袋や落ち葉が宙を勢いよく舞っている。台風の影響が大きくなってきている。でも、いまじゃなきゃいけないんだ。これを逃したら、もう一生取り返せない。僕は強く、大きく頷いた。
「はあ。私が止めても無駄みたいだな……。分かった。行っていいよ。でも、絶対に無事に帰ってくること」
月夜さんが出した小指に僕は自分の小指を絡ませる。
「指、切った」
指が離されると同時に、僕は駆ける。
「行ってきます」
自転車に勢いよくまたがって、僕は我が家をあとにした。
自転車を漕ぐ。
視界は雨で悪く、風が自転車の車体を左右に振る。時折、ポスターやビニールなどが飛んでくる。こんな中で自転車を漕ぐのは初めてだ。思うように進まず、気を抜けば車体が風に煽られ倒れそうになる。神経がすり減るような感覚。
それでも、地道に、着実に進んでいく。
次第に雨風が勢いを増してくる。靴も、服も、髪も、なにかもがびしょ濡れだ。身体がずっしりと重い。一漕ぎ一漕ぎが苦しくなってくる。でも、ここで止まるわけにはいかない。前髪の合間からしっかりと前方を見据え進む。
どれくらいの時間が経っただろう。一時間か、二時間か。はたまた、数十分か。体感的には日中ずっと自転車を漕いでいたかのような疲労だ。ようやく、目の前に鬼門の坂道が見える。僕は思わず、小さく息を吐いた。
次の瞬間、僕の心の間隙を見透かしたかのように、風が吹いた。まるでジェットコースターに乗っているときみたいな浮遊感が身体を襲う。僕は思わず自転車を手放した。自転車は大きな音を立ててそのまま地面に激突する。そして、僕の身体は自転車よりさらに勢いがついた状態で地面に叩きつけられる。そのまま転がり、道の端の電柱に身体をしたたかに打ちつけ、仰向けに倒れた。身体中に痛みが走る。きっと、腕や足は擦り傷がいくつもできただろう。下手したら骨にひびが入っているかもしれない。どこまでも、ついてない。徹頭徹尾、こうだ。笑ってしまう。でも、まだ立ち上がれる。僕は、諦めが悪い男だ。
なんとか上半身を起こして、自転車を見る。叩きつけられた衝撃で車体は変形していた。しょうがない。それに、あの坂をこの風の中、自転車で登ることなんて不可能だ。
電柱に手をかけてゆっくりと立ち上がり、一歩、また一歩と踏み出す。歩けているということは、きっと骨が折れたりはしていないのだろう。不幸中の幸いだ。
地面を踏みしめ、坂の前に辿り着く。神社の入り口のトンネルは遙か上にある。
「なんでこんな坂の上に作っちゃったんだよ」
僕はつい恨み節をこぼして、それからまた、歩き始めた。水で濡れているせいか、少し、足下が滑る感じがする。慎重に一歩ずつ踏みしめる。
半分を超えたあたりで、また、風が僕の身体を揺らした。左足が取られ、体制が崩れて地べたに這いつくばる。
「あー、くそー」
起き上がろうとして、気づく。水が川みたいに坂を下っていた。通りで滑りやすいわけだ。でも、そこに躓いている暇はないんだ。両手をついて上体をなおす。そして、また歩き出す。
満身創痍なはずなのに、まだ身体は動くから不思議である。人体の神秘だ。神と一緒にいすぎて、神様に近づいてしまったのかもしれない。でも、まだ、いたりないくらいだ。
「待ってろよ」
言いたいことは山ほどある。だから、なんとしても会わなきゃならない。
ようやく坂を上り終え、トンネルをくぐり抜ける。そして、鳥居をくぐり奥宮の前に立つ。高鳴る胸の鼓動を抑え、ゆっくり手を合わせる。そして大きく息を吸った。
「弁天ーーーーーーー」
次の瞬間、僕の視界は純白に包まれた。




