捧身
翌日。
外を出るとぞわっと背中を風が撫でた。嫌な風だ。生暖かさと気持ち悪さを纏ったそんな風。夏なのだからしょうがないか。しかし、そんな風に吹かれても全く変わらない笑顔と幸せオーラを纏った男が僕の前に立っていた。それを見ているだけで、まるで生クリームをずっと食べ続けているような辟易とした気分になる。だから僕はなにも聞かない。そう、聞かないし聞きたくない。
「聞いてくれよー、万」
こんな熱いのに近づいてくるとは、頭がおかしいんじゃないだろうか。僕は距離を取る。が、幸は構わず近づいてきて話し始めた。
「昨日のことなんだけどさー……」
昨日の今日で僕に戦果を報告したいのは分かる。分かるのだが、もう会った瞬間から大体結果は分かったし、自転車に大金を支払った僕としてはその幸せそうな顔だけでお腹いっぱいなのである。だから、幸と須佐さんとの逢い引きの様子なんて別にどうだっていいのだ。成功したことは素直に嬉しいけど、そこまでだ。そこから先はお腹を壊してしまう。
僕が適当に相づちを打つ中、幸は嬉々として語り続ける。いつにもまして饒舌だ。とにかくうっとうしい。
「はいはい、おめでとう。どうかお幸せに」
それで、僕は小さな抵抗心から、そう話を切ってしまおうと適当にまとめようとしたのだが、そこで幸の動きが止まる。
「どうした、幸?」
さっきまでの愉快で軽快なたたずまいはなく、ふっと薄ら笑いをうかべた。さては、振られたのだろうか。いや、しかし、そうだったらもっと朝は死にそうな顔で僕を出迎えてくれたはずだ。それこそ、こんな熱い中でも僕の背筋が凍るような顔で。
「聞いてくれるか、万」
字面だけ見れば先ほどと同じような言葉だが、声のトーンが全く違う。僕は神妙な面持ちで頷いた。
「昨日のことなんだが」
いや、それ今日二回目だよと思いながら先を促す。
「試合が終わって、ここからっていうときにな、須佐さんのお姉さんとその彼氏にであったんだよ」
八坂さんと永久さんか。すごい巡り合わせだ。
「それでまあ、いろいろあって一緒に帰ることになったんだけどさ……」
なんとなく、幸のその言葉で察した。きっと、幸の目論見が達成できなかっただけでなく、尋常じゃないほどからかわれたのだろう。須佐さんのお姉さんはそういう人だ。そして、八坂さんじゃあそれは止められない。とてもいたたまれない気持ちになったのだろう。だが、それも青春だ。
「まあ、今回は上手くいかなかったけど、お姉さんに会ったことで一歩前進だな。家族との接点はめっちゃ重要だし」
ただ、幸はポジティブシンキングを発揮して嬉しそうに笑っていた。本人が嬉しそうならいいか。でも、きっと幸は須佐さんともどもこれからもお姉さんにからかわれ続けていくだろう。その道のりは、まだ始まったばかりだ。
「それでさ――」
いまの会話で勢いを取り戻した幸が、また昨日の思い出を話し始めた。学校に着くまでこれが続くのかと、呆然と空を見上げると、鳥が空を羽ばたいていた。あの大きさは雀か。もしくはシジュウカラか。三羽ほどが鳴きながら不規則な動きをしながら僕の視線の先を舞っていた。その様子は、なにかの訪れを警戒しているような、そんな感覚を僕に植え付ける。もちろん、鳥の気持ちが分かるわけはないけれど、いつもと様子が違うことは明らかで、僕の心は不安にとらわれる。
「どうした、万?」
「えっ、あー、鳥が鳴いてるなと思って」
「なに言ってんだよ。鳥は鳴くものだろ。大丈夫か」
幸は僕の言葉を一蹴する。それからまた、昨日の話を再開させた。
結局、僕の心の中に生じた不安は、学校についても晴れることはなかった。
その日の放課後。
いつも通り川原で弁天と落ち合う。ただ、僕らはいつものような流れで駅前に行くことはなかった。弁天が僕に大事な話があると言って、それから場所を変えようということで再び銭洗い弁財天に足を踏み入れたのだった。一応付け加えておくと、今回は、二人乗りではなく、坂道を歩いて登った。
「それで、話って?」
前回来たときは毘沙門天と共に腰掛けた長椅子に座って、それから尋ねる。ただ、この時点で僕はどういう話がなされるかはなんとなく予想がついていた。
「話というのは、万さんも予想がついているかもしれませんが、負因子についてです。先日も話しましたが、ここ最近、その増加が著しいんです。そして、昨日さらに急激に増加しました」
実際に、どんな状況かお見せしましょうと弁天は言って、僕の肩に触れた。僕の視界はそれで一瞬にして様変わりする。青かった空が、暗く、黒くなる。まるで嵐のように渦を巻いて、まるで世紀末のようだ。背筋が凍り、身体はガタガタと小刻みに震える。でも、弁天は神様なのだから、何だかんだいってなんとかしてくれるんじゃないだろうか。
「数日後には空の負因子は、爆ぜて大災害を導きます」
しかし、弁天は僕の期待を真っ向から裏切り、現実を伝える。
「万さん、それで――」
「どうすればいいんだ。弁天。どうすれば――」
つい、咄嗟に彼女の肩を掴む。哀れな一匹の子羊のように。
「落ち着いて、取りあえず落ち着いてください」
「落ち着いていられるか。僕は別に負因子のことは全然詳しくないけど、あれがやばいのは分かる。きっと、凄まじいことが起こるってことくらい」
台風か、地震か、津波か、火災か。それとも別の災害か。あるいは全てか。それが日常を壊す。そんな予感がした。僕の人生を変えた負因子が今度は日本を変えようとしている。
「そ、そうだ。これから負因子を全力でばらまけばいいんじゃないか。道行く人誰彼構わずに。そうすれば、事態は収束できるはずだ」
今までみたいに加減をしなければそれは十分可能なはずだ。しかし、弁天はそれにゆっくりと首を横に振る。
「もう、あの状態になった因子にこちらから干渉することはできません。あそこまでいったら、あとは破裂するだけです」
淡々と弁天は告げる。無常な言葉だ。そしたら、僕らができるのはもう、諦めて逃げる準備をすることだけなのだろうか。逃げ場なんてどこにもないだろうけど。
「一応、こちらの方でもなぜ因子がここまで急速に増えたのかを調査してみました。十中八九、野球の世界大会が原因でしたね。あれによって、多くの人の心の充足感が満たされたのでしょう。それで、負因子が増えたということです。それは次の彼らの課題として、持ち越しですかね」
弁天はそう、淡々と言った。僕の考える推測と同じものを。そして、次の課題だとまとめた。
「ふざけるな」
僕は思わず、弁天につかみかかり、大声で叫んだ。誰もいない境内に声が響き渡る。
「次って、次ってなんだよ。僕らは次を迎えられるかも分からないんだぞ。それを無責任に。お前たち神さまは安全なところで傍観しているだけだって言うのかよ」
思いが溢れる。負因子を減らそうと奔走した日々。これまでの彼女の姿は偽物だったのだろうか。そんなに、簡単に切ってしまえるのか。以前、ここでしてくれた悔恨の話は嘘だったのか。
これまでのことが否定されていく。僕は一体いままで、何をしていたんだ。何を、見ていたんだ。何を話していたんだ。分からない。分からない。分からない。
「教えてくれ、弁天。お前は何を考えているんだ?」
手が、その肩から離れ、僕は膝から崩れ落ちる。それでも、瞳は弁天に向けていた。弁天はしゃがんで僕に視線を合わせ、それからゆっくりと口を開く。
「万さんははやとちりですね。私は何も、このまま傍観するとは言っていません」
「えっ、それって……」
「以前お話ししたと思いますが、私たち神には奥の手があります」
そういえば、出会ったばかりのころにそんなことを言っていた気がする。僕はそんなの、今の今まですっかり忘れていたし、言われた当時も大して気にとめることもしなかった。でも、いま、その言葉はすごい大きな心強さを持っていた。
「それは、どんなものなんだ?」
「捧身です。身を捧げると書いて捧身。神が神の間にこもり、そして、祈るというものです。それによって大量の正因子が作られ、相殺とまではいかないかもしれませんが、これから起こる大災害による被害をかなり縮小させることができます」
神の祈りが人々を守るということか。僕はほっと胸をなで下ろす。
「それは、弁天がするのか?」
「はい。最年長の私の仕事です。年長者が行った方が効力があるんですよ。ですから、しばらくお別れです……」
寂しそうに目を細める弁天。僕も同じ気持ちだ。弁天とこのまま何気ない日常を過ごしていきたいと思う。でも、こればかりはしょうがないことだ。それに、また会えるはずだ。だから、名残惜しいけれどここはさっと身を引こう。
「じゃあ、また状況が落ち着いたら、そうだな、僕の家にでも来てくれよ」
「はい、是非伺わせてもらいます」
弁天はくしゃりと笑った。
「それで、今日なんですけど、ここで大丈夫です」
一緒に帰ろうと思っていた手前、それは残念であったが、ここは我慢だ。また、会えるのだから、そのときにいろいろと話せばいい。
僕はそれじゃあ、と言って背を向けた。
「万さん」
しかし、すぐに呼び止められる。弁天にだ。僕は振り返る。
「今日の万さん、いつもと違ってあたふたしていて面白かったですよ」
ちょっとからかってやろうといった声音で笑う。僕もそれに乗る
「しょうがないだろ、日本の危機だと思ったんだから。でも、肩を掴んじゃったのはごめん」
僕は頭を下げた。頭に血が上っていたとしても、やるべきではなかった。
「まあ、私と万さんの仲ですから、許してあげますよ。しょうがないなあ」
ケラケラと笑う。僕もそれにつられて笑う。別れが近づく。だが、名残惜しさからなかなかそれを切り出せない。
しばらく笑ったのち、弁天が言った。
「それじゃ、このへんですかね」
「うん、そうだね。またね、弁天」
「さよなら、万さん」
そう言って背を向ける弁天の顔に、一瞬陰りが見えた気がした。
空を見上げると、境内を囲む木々がちょうど夕日を遮るところで、その僅かな隙間からオレンジの光が差し込んでくる。
背を向けて、しばらく歩いたところで振り返ると、もう弁天の姿はなかった。静かな境内に寂しさを感じて、僕は足早に神社を後にした。




