そして大人になる
素朴な公園。しかし、それとは裏腹に僕の心臓は素早く鼓動を打つ。
後ろには須佐さん。昨日八幡から伝授された方法で、僕は須佐さんをここまで連れてくることができた。
しかし、八幡はもう少し違う本をチョイスすることはできなかったのかと文句を言いたくもある。こころは主人公と先生、先生の妻、そしてKという男が登場する話だ。もともとの話としても心にくるものがあったが、僕はそれとはまた別の問題で苦しみを感じることになる。
それはまさに、いまこの瞬間にいえることだ。僕が幸に内緒で須佐さんを連れ出すといういまの状況は、作中でKに内緒で主人公が結婚を申し込む場面に類似していて、なんだか心中穏やかではないのである。
須佐さんはそんな僕の悶々とした感情なんか知る由もないだろうが。
「それで、話したいことってなにかな?」
僕が沈黙を貫いていると、須佐さんの方から尋ねてくる。
「えーっと、取りあえず、椅子にでも座ろうか」
須佐さんの問いに、僕は曖昧な笑みを浮かべながらそう提案する。須佐さんはそうね、とうなずくとベンチにゆっくりと腰を下ろす。
僕はそれを確認して、それから公園の真ん中に立つ古びた時計を確認した。現在の時刻は十六時四十五分。どうやらかなり早く到着してしまったようだ。
ただ、これでも上出来だと思う。須佐さんが教室を出るタイミングで声をかけて、そのまま一直線にこの公園へ向かったわけで、むしろよくここまで時間を遅らせることができたものだと自分で自分を褒めてあげたい。僕が取った作戦は主に遅く歩いたり、寄り道をするもので、須佐さんにはかなりの不信感を与えたと思ったが、意外とすんなりいった。
だが、これ以上はどうにもできない。もう、偽りの相談をするという手くらいしか残っていない。実は僕、清水さんのことが気になってて……、なんて言ったら須佐さんは親身に話に乗ってくれるのだろうか。そもそも僕がそんな嘘を平常心でつき続けられないような気もするが。
先ほどから、須佐さんは無言で僕に視線を向け、僕が話し始めるのをいまかいまかと待ち構えている。万事休す。
「万さーん」
と、ここでピンクのパーカーを身にまとった女神が公園内に出現した。僕の取るべき選択肢は一つ。
「べ、弁天。奇遇だなあ、こんなところで何してるの?」
急いで弁天のもとに駆け寄る。そして、須佐さんに聞こえないように声のトーンを落とす。
「こっちはなんとかやったよ。そっちはどんな感じ?」
「こっちも上々の出来です。そろそろ対象が来る時間です。それまで、私たちでなんとか時間稼ぎをしましょうか」
笑顔を浮かべたまま、その笑顔とはおよそ遠いことを話す。それから、僕にぱっと背を向けると、須佐さんのところへ小走り。
「いやあ、こんなところで奇遇ですね、常世さん」
「ええ、この前以来ね、弁天ちゃん」
前回、険悪な別れ方をしたとは思えない二人の会話。気軽に話しかける弁天もなかなかだが、それにいつも通り答える須佐さんも須佐さんだ。内心ではどんなことを思っているかは分からないが、表面上は至って穏やかなやり取りである。まず、僕には真似できない芸当だ。
「それで、天部くん。話って――」
ききー、とその言葉を遮るように、甲高くブレーキ音が響く。僕はその音だけで確信した。今回のもう一人のキーパーソンの登場だ。
八坂さんは自転車から降りると少し険しい表情でこちらにずんずんと向かっていき、須佐さんの前に立った。
「常世、これは、どういうことだ」
一枚の紙を差し出す。須佐さんはそれを受け取って、固まった。一体何が書いてあるのだろう。僕は須佐さんの手元の手紙をのぞき込み、唖然とした。そこには、こう書いてあった。
果たし状
今日の十七時、東公園にて待つ
常世
後ろを振り返ると、弁天はなぜかいい仕事をしたとでも言いたげな顔で満足そうに笑っていた。僕は弁天に詰め寄ると、その頭をひっぱたきたいのを我慢して、冷静な風を装い小声で尋ねる。
「あれは、どういうことだ?」
「どうって、やっぱりこう大事な話をするときは臨場感が必要じゃないですか。だから、果たし状が一番かなって」
そう言って、したり顔の弁天。僕はもう、怒りや驚きを通り越して呆れてしまう。やるときはやる神さまなんていなかった。ろくなことしかしない神さまだ。だが、ここで凹むわけにはいかない。話をややこしくしてしまった落とし前をつけなければいけない。
須佐さんと八坂さんの方を見ると、すでに二人の方で行き違いに気がついているようだった。そして、僕らがこの場をセッティングしたことも。
「君はたしか、常世の友達だったよね。なんでこんなことをしたんだ」
努めて冷静な声で、僕に詰め寄る。少しムッとしたような表情を浮かべる八坂さん。僕らのやったことは理由が分からなければ二人に喧嘩を売ったようなもので、当然の反応だ。
ここは慎重に、言葉を選ばなければいけない。少しでも間違えてしまったら、僕らの作戦は破綻してしまう。頭をフル回転させ、最適解を探す。なんと答えれば、ここから僕らの目的は成し遂げられるだろう。
「別に怒っているわけじゃないんだ。どうしてしたのか正直に話して欲しいんだよ」
僅かに表情を緩める八坂さん。
嘘つけと内心毒づく。怒っていないわけがないだろう。こんなへんちくりんな手紙でわけも分からず呼び出されたんだから。
しかしどう答えたらいいんだ。僕の頭はここで一番適する言葉を紡げずにいた。八坂さんの苛立ちが少しずつ募り始める。どうする、どうすればいい。
「あのさあ、そろそろ――」
「常世さんからあなたに話があるんですよ。だから、呼び出したんです」
それまで沈黙していた弁天が僕と八坂さんの間に割って入り、そう切り出した。当然、八坂さんは不信感をあらわにする。
「でも、この手紙は常世が出したものじゃないんだろ。俺に話があるんなら直接話せば良いじゃないか」
弁天はその言葉に応じず、須佐さんの方を向く。自然、弁天の方に僕も視線が移る。じっと、顔色を伺う。無言で、ただ穏やかな表情で。
「おい、こっちの話を聞いているの――」
ぴっと、人差し指を立てて八坂さんの唇の近くまで持っていき、次の言葉を踏ませない。それから須佐さんに向かってゆっくりと口を開く。
「すみません。先に、謝っておきますね」
小さくそれだけ伝えると、弁天は八坂さんに対峙した。先ほどまでとは打って変わって、にこやかな顔だ。
「実は、常世さんには悩みがあるんですよ。長い間、ずっと抱えている」
八坂さんはその真偽を確認するかのように須佐さんの方へ向いた。須佐さんは、一度僅かに俯くが、何かを決意したように顔を上げると八坂さんの瞳を真っ直ぐに捉える。それからゆっくりと、大きく頷いた。それに、驚きを隠せない八坂さん。ずっと一緒に育ってきた幼馴染の悩みが気づけなかったという事実は、きっと彼にはとても大きな意味を持つのだろう。そして、優しくも残酷な彼の次の行動はこうだ。
「常世、そうだったのか。全然気づかなかったよ。僕らの仲なんだから一人で悩まないで相談してくれれば良かったのに」
なぜ相談してくれなかったのかと問う。須佐さんはそれに苦悶を浮かべる。彼女の中にいまどんな表情が渦巻いているのか、想像に難くない。そして、彼の次の行動も。
「でも、いまからでも遅くはないよ。その悩み、俺に教えてくれないか」
後戻りはできない一線を踏み越えようとする。その先に待つのは、亀裂だ。須佐さんは、戸惑いを顔に浮かべ、言いよどむ。果たして、ここで進むべきか、決めかねている。
「常世」
八坂さんはそんな思いなんて露も知らず、そこからさらに距離を詰める。じわじわと、須佐さんを断崖絶壁に追い込む。
もう止めろと、そんな言葉が僕の喉元まで来る。これは僕たちが始めたことで、この展開は分かっていたはずだったけど、いざ現実を目の当たりにしてみると予想以上に辛い。第三者でこれなんだから、きっと須佐さんの苦しみは底知れない。でも、ここまで来てしまった以上はもう行き着くところまで行くしかない。
「なあ、常――」
「あなたに言えるわけ、ないじゃないですか」
須佐さんと八坂さん。目の前に二つの驚いた顔が映る。でも、一番驚いているのは僕だ。そんなこと、言うつもりはなかった。黙って須佐さんを見守ろうと、そう決めていたはずなのに。それに、これじゃあ逆ギレしているみたいだ。
「どういうことだ?」
ただ、こうなってしまっては引き返せない。役割を、貫こう。
「あなたには、あなたにだけは絶対に言えないんですよ……」
僕の思いが口から溢れる。噴水のように、激しく吹き出る。
「なんで、俺には言えないんだ。なにか、理由でもあるのか?」
この期に及んでまだピンときていない八坂さん。その言葉に僕はもう、止まらない。
「理由って……。須佐さんは、須佐さんはあなたのことが――」
次の言葉を紡ごうとした矢先、目の前が手で覆われる。その力強い手を向けた少女は言う。
「ありがとう、天部くん。うじうじしてごめん。でも、もう大丈夫だから。それは私に言わせて欲しい。私が言わなきゃいけない言葉だから」
力強く、八坂さんに視線を向ける。
「常世……」
「海月兄さん。あなたのことが好きです」
勇気を振り絞り、気持ちを伝える。この思いを伝えるまでに彼女は幾度となく思い悩んだに違いない。ようやく訪れた機会。
「常世……。そう、だったのか……」
呆然と佇む八坂さん。全くそのことに気づいていなかったようだ。灯台下暗しとはこのことだ。五歳という年の差は二人を結びつけるのには離れすぎていた。そして、彼女はようやく長年縛られていた鎖を切り裂いた。
「返事、聞いてもいいかな」
「ごめん。俺は永久のことが好きだから」
「うん、知ってた。ありがとう」
僕がいままで見た中で一番美しい笑顔で須佐さんは言う。それはまるで蛹から羽化した蝶のようで、大人への萌芽。彼女の中で止まった時間が再び動き出す。
「話はそれだけ。わざわざごめんね」
「いや、問題ないよ。じゃあ、俺は先に帰るね」
「うん、また」
八坂さんはそのまま自転車に乗って帰って行った。僕は結末を見届けてほっとすると気が抜けてベンチにドスッと腰を下ろす。弁天もまた、そのとなりにゆっくりと腰を下ろす。須佐さんはそんな僕らの方に近づく。
「いろいろと言いたいことはあるけど、でも、ありがとう。きっと、二人の余計なお節介がなかったら私はずっと変われなかったから」
頭を下げる須佐さん。
「どう、いたしまして」
「それじゃあ、私も帰るね。また明日」
ここに来たときよりも一回りも二回りも大人びた少女はそう言って帰って行った。僕らはその背中が見えなくなるまで、じっと見守っていた。
夕暮れの住宅街。
僕と弁天は先ほどまでの出来事の感想を話しながら歩いていた。あのとき、こうすれば良かったとか、果たし状は流石になかっただろうとか。でも、そんなことはどうでも良くて、本当はもっと聞きたいことがあった。
僕は歩みを止めると、意を決して踏み込む。
「なあ、弁天。その、何かあったのか?」
「何かとは?」
僕の全く要領を得ない質問に弁天ははてと首を傾げる。
「三日前に公園で須佐さんに強い口調をぶつけたとき、すごい苦しそうな顔をしていたからさ。その、どうしてだろうと思って」
あのときの弁天は普段とまるっきり違っていた。最初はただ、須佐さんを責めていたのかと思っていたが、いま考えると、何か違う気がした。あれはまるで、自分を断罪するような、そんな感じの言葉だった。
「よく、気づきましたね」
弁天は目を見開き僕を見る。たしかに、普通だったら気がつかないかもしれない。でも
「いつも一緒にいるからかな」
ここ最近は本当にずっと弁天といる気がする。一ヶ月前には考えられなかったことだ。あの頃は絶望の淵にいた。
「たしかに、そうですね」
弁天もまた感慨深げにうなずく。僕らの軌跡を確かめているのかもしれない。僕は弁天の方に視線を向け、話を待つ。
「私の話をするのは構いませんが、今日は止めておきましょう」
しかし、弁天は空を見上げて、それからそう結論を出した。
「それ、絶対にしないやつだろ」
「そうじゃありませんって。もう暗いですし。そうですね、明後日の土曜日、ちょっと行きたい場所があるんですけど、そこでお話しするのはどうですか?」
「それは、あれか。この間言ってた場所を変えるってやつの新しい候補地ってことか?」
弁天はそれに首を振る。
「全く関係ありません。私用です」
なんだかそれは酷く珍しいことだと思った。弁天が行きたい場所とは一体どこなのか。
それを尋ねて見るも、
「それは着いてからのお楽しみで」
僕の質問はあえなく躱されてしまう。
「それじゃあ、いつもの河川敷に十時に集合にしましょうか。それでは、ここまででいいので、また土曜日」
「うん、また」
いつの間にか、交差点に着いていた。弁天が胸の前で小さく手を振る。僕もそれに軽く手を振って、それから帰路についた。




