卑怯者
「それで、話ってなにかな?」
二人の姿が見えなくなったところで、僕はそう切り出した。話すことに心当たりはないが、須佐さんと弁天があるというのだから、僕が忘れているだけかもしれない。
「この、お馬鹿ー」
そんな声が耳を貫通し、次の瞬間、背中に衝撃が走る。
「何するんだよ、弁天」
僕は振り返り、こちらを睨み付ける弁天を糾弾する。なんだって僕が叩かれなくちゃいけないのだろうか。弁天はそんな僕を見かねてか、ふっと一つ息を吐き、腕を組む。
「いいですか、万さん。世の中には女心というものが存在するんです」
「突然なんの話だよ」
予想外の、脈絡を全く感じられない弁天の言葉。テレビを見ていたら、急にチャンネルを変えられたような、そんな感覚に陥る。弁天は僕のそんな要領を得ない様子に再び大きなため息をついた。
「ほんと、にぶちんですね。須佐さんは別に私たちに用があったんじゃなくて、あの二人と帰りたくなかったんですよ」
その話を聞いても、僕はいまいちピンとこなかった。なぜ、一緒に帰りたくなかったのだろうか。僕は公園での須佐さんと二人についてを回想する。あのとき、須佐さんが八坂さんに向ける瞳にはどこか見覚えがあった。あれは、そう、たしか……。僕はそれまでの記憶を遡っていく。そして、一つの結論にたどり着いた。須佐さんのあの瞳、それは幸が須佐さんに向けていたものと重なる。
僕はようやくここで弁天の言葉の意味が腑に落ちた。そして、須佐さんが内包している諦観と淡い期待の正体を理解した。
「ようやく分かったようですね。さて、それじゃあ帰りましょうか」
弁天が回れ右をして、自転車の方へと向かう。
「ま、待ってくれ、弁天」
僕はそれに腕を伸ばした。
弁天はゆっくりと顔だけこちらに向けると、冷ややかな視線を浴びせる。
「万さん。これは私たちがどうにかできる問題じゃありませんよ。きっともう、結末まで見えている物語なんです。そして、それは本人が一番分かっているはずです」
きっと、弁天の言っていることは正しい。だけど、横で悲しみに包まれている少女を放っておくことなんて僕にはできない。
「それでも、たとえそうであったとしても、話を聞くことくらいはできると思う」
思いを真っ正面からぶつける。弁天はじっと僕を見つめていたが、不意に目線を外して、それからまたため息をついた。ただ、それは先ほどよりも温もりがこもっているような気がした。
「聞くだけでなにも変わらないと思いますけど、それで万さんの気が済むならそうすればいいんじゃないですか。ただ、そこの子に話す気があるかどうかも分からないですけど」
弁天はそう言って、ベンチにストンと腰を下ろした。
僕は内心ほっと一息ついて、それから須佐さんの方を向いた。
「あのさ、別に無理に話してくれなくてもいいんだけど、ただ須佐さんには幸との仲を取り持とうとしてくれた恩もあるし、力になりたいんだ」
須佐さんは少し戸惑うようにすっと視線を足下の長く伸びた影に落とし、それから、意を決したように口を開いた。
「私の話、聞いてくれるかな」
僕はそれに、力強く頷いた。
「まず、そうだなあ。私たちの関係から話そうかな」
須佐さんは弁天の横に腰掛け、黒髪を右手でなめらかに払うと、そう切り出した。僕もそれにならってその横に腰を下ろす。
「私たちは家がお隣さんで、両親の仲も良くて、物心ついたときには姉さんと海月兄さんと遊んでいたの」
その思い出を懐かしむように、須佐さんの視線が僅かに上向く。
「ありきたりな話ですね。でも、その関係は長く続かなかった」
「うん。私が小学六年生の頃かな。二人が付き合い始めたの。海月兄さんはさっき幼馴染としか言わなかったけどね。姉さんからその話を聞いたとき、私は二人を祝福した。でも、心の中にもやが残った。そのときはまだその正体が分からなかったんだけど、あるとき二人を見ていて不意に気づいたの。私のこの気持ちの正体を」
胸に手を当てて目を細める。その瞳の奥には、一体誰の姿が映っているのだろうか。僕はそれを聞いて自分のキュッと胸が締め付けられる感覚がした。目の前の少女にかける言葉が見つからない。だって、これは本当にどうしようもない物語なのだから。
「その気持ち、あの人は気づいているんですか?」
「海月兄さんは気づいてないと思う。私のことはずっと妹のように可愛がってくれたし気にかけてくれたけど、それだけだった。それ以上は、もらえなかった」
そして変わらず海月さんは須佐さんに声をかけ続ける。それはものすごく残酷なことだ。心を震わすその瞳や声が自分のものになることはないのだから。
「それであなたは、うじうじと立ち止まっているんですね」
弁天が冷ややかな目でそう言い放った。
「弁天、そんな言い方はないだろ」
思わず僕は声を荒げる。いま、須佐さんに追い打ちをかける必要はないはずだ。それが許せなかった。
「じゃあ、言わせてもらいますが、幸さんはこんなうじうじ悩んでいる女に振られたわけですよ。それはいいんですか?」
「それは……」
言葉が続かなかった。弁天の言うとおりだから。須佐さんはそもそも幸が好きかどうか以前の話で、自分の中で解決できない問題に阻害されて断ったのだ。僕は誠実な答えを須佐さんが出したのだと思ったけれど、そうじゃなかった。
「……弁天ちゃんの言うとおりだね。私は止まっている。小学六年生のときからずっと、止まっているんだよ」
「違います。あなたはその出来事を止まる理由にしているだけです。逃げるための口実にしている、卑怯者です」
「そんなことは――」
「あります」
弁天がこちらを振り向き、僕の言葉を制止する。
「自分が止まる理由を作って決断できないなんて、最低です」
弁天はそれだけ言うと俯いてしまう。その顔は、なぜか須佐さんよりも苦しそうで、僕はそれに何も言えなかった。
「はは……。そうだね、私は最低だ」
自虐的な笑みを浮かべて須佐さんは立ち上がる。そこにはいつもの凜々しさは感じられない。
「もう暗くなってきたし帰るよ。話、聞いてくれてありがとね」
僕らに笑顔を向けて、それから踵を返す。僕はただ、その後ろ姿を黙って見送ることしかできなかった。




