和服を着た少女
学校からの帰り道。
僕は失意のどん底だった。なんだか、学校に行く意味を全て失ってしまったような、そんな喪失感がある。
肩を落とし、十字路を左に曲がると突如冷たいなにかがかけられる。
「あっ、すいません」
見ると、エプロンを着た女性がホースを持っていた。その足元には色とりどりの花が植えられている。僕はそれで何が起こったのかを察した。
「別に大丈夫です。気にしないでください」
つとめて平静を装う。女性は何か言いかけたが、僕はその前に足早に去る。ここでその優しさに乗ると、基本的に二次災害につながってしまう。この数日間、幾度となくこのような出来事にあったことで得た教訓だ。道草をすることなく家に帰ること、それが僕にできる唯一の対策。
しかしそれでも、今日この心持ちで家に帰ったら、一緒に暮らしている叔母の月夜さんに無駄な心配をかけてしまう。多分いま、僕はひどい顔をしている自信がある。さっきの女性も僕の顔を見て、驚きを浮かべていた。
僕はそれで、家の近くの河川敷に行くことにした。辛いことがあったときはいつもそこに行くことにしている。ずっと座って水面を眺めていると、心が洗われ、自然と気持ちも落ち着く。
河川敷に着いて、草むらに腰を下ろす。川は夕焼けによって橙色に彩られている。
僕の前では小さい子供たちが水鉄砲を持って遊んでいた。
このまま座っていたらどうなるか、なんとなく想像できて場所を変えるために立ち上がろうとすると、一人の少年の銃口がこちらを向く。まずいと思ったときにはすでに後の祭り、僕のワイシャツがしっとりと濡れる。
「あっ、ご、ごめんなさい」
少年は申し訳なさそうに頭を下げる。
「大丈夫だよ。気にしないで」
本日二回目の災難。子供たちが遊びづらくなるなと思い、それだけ言うと場所を変えて下流の方へ行く。
それにしても、今日は水に縁がある。幸との諍いも水が絡んでいた。
そう、あれは今日のお昼休みのことだ。
生物委員の僕は校庭で花の水やりをやっていた。これは週一くらいのペースで回ってくる仕事で、いつも通りこなしていた。
前日の雨のせいか、校庭が水たまりでぬかるんでいて外で遊んでいる生徒は誰もいない。
そんなとき、不意に鳥の鳴き声が聞こえた。
耳を澄ましていると、僕の近くにそびえ立つ木の上が音源であることが分かる。その声が僕にはなんとなく悲痛なものに聞こえ、声の正体を探ると、枝の上に巣があった。その巣はなんだか少し傾いていて、しばらく眺めていると、突然、無造作に落ちてきた。
僕はとっさに右手に持っていたじょうろを投げ捨てて、落下地点に滑り込むと、両手で包み込むように巣を受け止めた。ここまでは良かった。そう、ここまでは。
巣の中の雛の無事を確認して、取りあえず木の根元に優しく置いて、投げたじょうろの方を見ると、信じられないことが起こっていた。同じ学年の生徒、須佐常世のワイシャツとスカートが濡れていて、じょうろがその足下に落ちていたのである。僕は一瞬にしてなにが起こったのかを理解した。じょうろの水が須佐さんにかかったのだ。
すぐさま謝るも、須佐さんは大丈夫と、ことなげに言って、僕が追うひまもなくそのまま校舎の中へ入っていった。
じょうろを投げた事情を須佐さんが汲んでくれたのかもしれないと考え、目下の巣をどうすべきかという問題を生物委員の若松先生と脚立を使い解決して、教室に戻ったのだが、なんだか空気がおかしい。みんなこちらをチラチラ見てひそひそと何かを話している。あまりされて気分がいいものではない。しかし、別に直接的な何かがあるわけでもないので、気にすることなく過ごしていた。
放課後になって、いつものように幸と帰ろうと準備をしていると、幸がうちのクラスの前に来た。が、何やら様子がおかしい。今朝登校したときとは打って変わり、その顔には怒りが浮かんでいた。それも、いままでで一番のやつだ。
幸は僕の席の前までずかずかと足を運ぶと、廊下に来るように促した。そして、須佐さんがなぜか午後からジャージ姿でいること、僕が須佐さんに水をかけた目撃者がいることを話し、掴みかかってきたのだ。その勢いに押され、ろくに弁明もできなかったわけだが、正直あんなに怒っている幸を見るのは初めてだったからというのが大きい。そして、その原因を僕は知っていた。幸が須佐さんのことを好きだからだ。
これはつい一週間ほど前のことだが、幸が帰り道で急に須佐さんが好きだということをカミングアウトしたのだ。僕は須佐さんとは一度も同じクラスになったことがなかったが、大人びていてかわいいと噂されているのを聞いたことがあった。僕の前で珍しく照れて頬を赤くする幸を見て、なんだか幸の親のような気持ちになって、影ながら応援してやろうと決めたのだ。
今回の事件は、そんな矢先のことだった。
一応言っておくと、幸は普段はとても思慮深く、物事を客観視することができるやつだ。ただ、今回は須佐が絡んでいたため少し暴走とも取れるような態度を取ってしまったのかもしれない。好きという感情が幸に色眼鏡をかけてしまったということだ。
この誤解をこれから解いていかなければならないが、絶交するとまで言われてしまった僕に幸は弁明する機会を取ってくれるのだろうか。喧嘩したことはいままでにも幾度となくあるが、ここまで大きいのは初めてだと思う。そんなことを考えていると無性に不安になる。
思わず大きなため息が漏れた。そんな僕の頭上をカラスがのんきに鳴いていた。
次の日の学校は憂鬱以外の何ものでもなかった。
いつも一緒に学校に通っていた幸の姿は僕の隣にはない。月夜さんには幸は委員会の仕事があるから先に行ったとごまかしておいたが、おそらく月夜さんは僕と幸の間に何かがあったことは察知していて、それでいて気づかないふりをしてくれているのではないかと思う。気を遣わせて、心配をかけてしまい申し訳ない気持ちになる。
でも、こればかりはすぐにどうにかできる問題でもない。
学校に着くと目に見えた変化を感じる。
昨日の一件のせいだろう、僕の前に誰も近づかず、腫れ物を扱うような視線が集まる。幸い、下駄箱に画鋲とか、上履きを隠すとかそういう類いのこすい嫌がらせはなく、それに少しほっとする。
しかし、この視線はあれを思い出す。父と母の葬式のときのことだ。二人の突然の事故死。当時七歳の僕を誰が引き取るかでもめる親族。見にくい押し付け合いがはばかることなく展開される。
当時の僕にもあることが容易に理解できた。自分は邪魔者なんだということが。
そんな中で、父親の妹で、当時まだ社会人一年目だった月夜さんが親族一同を叱責し僕を引き取ってく れたのだ。
正直、社会人一年目の月夜さんに僕を引き取って養う余裕なんてなかったはずだ。それでも、仕事で忙しいはずなのに勉強を教えてくれたり、遊園地に連れて行ってもらったり、誕生日を祝ってくれたり、本当の家族のように良くしてもらった。
僕も少しでも月夜さんの役に立とうと、洗濯や掃除などの家事を手伝ったりした。
そんな月夜さんに心配をかけたくはない。だから、学校生活がどれだけ辛くても、平静を装わなければならない。
授業中は先生の言葉に集中し、休み時間はトイレ以外机に突っ伏す。それで大丈夫だ。きっと、そうだ。
ただ、僕の限界は案外早く訪れる。クラスメイトのまとわりつくような視線に心が耐えられなくなったのだ。ほっといて欲しいのに、こちらを見て何かをささやく。それがたまらなく嫌だった。
昼休みが始まると同時に、教室を飛び出す。とにかく、人がいない所に行きたい。
頭の中にいくつか候補を思い浮かべる。
図書室。いや、多分誰かいる。
保健室。いや、ここに行くと先生が気を遣って親に連絡をしようかという話になるかもしれない。
とすると、もうあそこしかないか。
階段を駆け上がり、最上階まで辿り着くと、扉に手をやる。案の定鍵がかかっている。僕はポケットに手を入れ、鍵を取り出し、差し込んだ。
ガチャリ、と鍵が開き、目の前に青空が広がる。
この鍵は生物委員の若松先生に借りているものだ。屋上にプランターがあり、週に一度ここまで足を運んで水やりをしている。これは僕が若松先生に直々に頼まれている仕事で、ここに入れる生徒は僕一人だけだ。きっと、部活に入っていないから頼みやすいとでも思ったのだろう。
屋上の扉を閉め、そこに寄りかかる。心地よい風が頬をなでる。しかし、依然として気分は晴れない。
なぜ、僕はこんなに不幸に見舞われるのだろう。
塞翁が馬という言葉がある。人生は幸運なことと不幸なことが予想しがたく、巡りめぐるという意味だが、いま僕の人生は不幸尽くめだ。
それもこれも一週間前にあのハガキが届いてからだ。取りあえず僕のバッグに入れておいているけど、帰ったらビリビリに破いて捨ててしまおうか。
あのハガキが来てからというもの、もう笑っちゃうくらい不幸なことが続いている。そして、その不幸が途絶える気配はなく、昨日ついに不幸中の不幸ともいえる出来事が起きた。
不幸だって思うから不幸なんだという人がいるかもしれないけれど、これを不幸だと認識できない人間がいたら僕は心底心配になってしまう。
でも、不幸だと嘆いたところで人生は好転しない。しょうがないなあ、と開き直ってやっていくしかない。ただ、いまこのストレスをどうにかしないと午後の授業を乗り切れる自信はなくて、僕は屋上の真ん中まで歩いて行くと、身体を広げて仰向けに倒れ、思い切り叫んだ。
「神さまのバッカヤローーー」
本当は映画みたいに屋上の柵の前で叫びたかったけれど、校庭で遊んでいる生徒たちにそんな姿を見られるわけにはいかなくてそれはできなかった。叫んでみると、心がすっと洗われるような気がした。
これで午後の授業も頑張れる、そう思ってゆっくりと立ち上がり屋上の入り口へ戻ろうとすると、後ろから何やら声が聞こえた。
もしかしたら、僕に気づかれないように屋上の扉から誰か入ってきたのかもしれない。つい数秒前までの爽快感とは打って変わって、心臓の鼓動の高鳴りを感じる。
普段は放課後の誰もいない時間帯に水あげをしていてこんなことはないが、いまは昼休み。生徒が屋上の鍵が開いていることに気づいて入ってきたってなんらおかしくはない。しかし、こんなことがばれたら大問題である。そもそも、僕が屋上の鍵を持っていることからして問題なのだ。
若松先生、首になったらすみません、と心の中で謝って、覚悟を決めて振り向く。
そして絶句する。
僕の視線の先で、和服の少女が土下座をしていた。
「すみませんでしたー」
なにがどうなっているのか全く分からないが、取りあえず、また、なにか不幸なことに巻き込まれているんだろうなと思った。
「えーっと、取りあえず顔を上げてよ」
人生の中で土下座をされたことなんて一度もない僕は、困惑を隠せずいた。こういうとき、果たしてどうすることが最適解かなんて分からないけど、取りあえずそう促す。
「は、はい」
そう言って顔を上げた少女は幼さが残るかわいらしい顔立ちで、僕と同い年くらいの印象を受ける。そこまでは別段普通。
ただその少女には、明らかにおかしいところがある。和服を着ていることだ。白い羽織に紅色の袴を着ていて、まるで神社にいる巫女さんのようである。演劇部か茶道部の部員なのかなとも思ったが、昼休みに和服の着付けなんてやるだろうか。
そもそも、少女は土下座までして謝ってきたわけだが、僕はこの子を知らない。
ただ、一つ僕の中には少女が謝罪してくる理由が思い浮かんだ。それは、秘密にしていればおそらく僕の耳には届いてこない事柄だ。
誰が、僕が須佐さんに水をかけたことを広める元凶になったかについてなんて。
きっと、僕に謝ってくるということはその件が深く関わっている。そして、正直に名乗り出てくれたということは、彼女は今回の一件で僕に罪悪感を抱いたのだろう。
「別に、そんな気にしてないからさ。大丈夫だよ」
全く気にしてないと言ったら嘘になるけど、きっと彼女が何も言わなくてもどこからか広まっていたと思う。この年頃の子たちは噂話が大好きだろうし、これに懲りて次はこんなことをしないでくれればそれでいい。
「な、なんて心が広いのでしょうか。驚きです。あれだけ不幸にさいなまれながらそんな応対ができるなんて、あなたは神さまみたいな人ですね」
神々しいものでも見るような目を向ける少女。大げさである。
まあ、たしかにあれだけ不幸な目にあってこんなことを言うなんて、我ながら自分の慈悲深さに驚く。ただ、叫ぶ前の僕だったらもしかしたら叱責していたかもしれない。そうだ、叫ぶといえば。
「あのさ、屋上で叫んだことは黙ってくれると嬉しいな」
「はい、もちろんです。任せてください。そもそも、話す相手もとくにいませんし……」
後半にいくにつれ、勢いが落ちていく。地雷を踏んでしまったようだ。まさか、友達がいない子だったとは。いたたまれない気持ちになる。
もしかしたら、誰かに話しかけたいがために、僕のことを話の種にしたのかもしれない。そう考えると、なんだか同情してしまう。
「それじゃあ、屋上を出ようか。あっ、ここの鍵を僕が持っているってことも内緒で」
はいっと、かわいらしく返事をして、少女は屋上の扉を開ける。僕もそれにつられて屋上を出て、鍵を閉めた。
「あっ、そういえば君の名前は」
ふと、振り返って、そう聞いてみるも、すでに少女の姿はなかった。まあ、うちの学校の生徒だろうし、また会う機会はあるだろう。そのときにでも聞けばいいか。そう考えて、教室に戻る。足取りは先ほどよりも軽かった。