風船と少女
「食らえー」
怒声とともに負因子をぶつける弁天。疲労困憊でくたくたな様子だ。かくいう僕も、弁天が負因子を外したときに自転車を漕いでその人に接近するという役目のおかげでかなり疲れていた。いくら弁天が軽いといっても、自転車の二人乗りはかなりの疲労感を僕に与えた。
「ふー。さて、ここまでにして、今日は帰りましょうか」
弁天が額の汗を拭って僕を見る。僕ももうへとへとだった。その提案に乗って、それから自転車にまたがる。当然のように弁天は自転車の後部に座り、ずしりと重さが伝わってくる。僕はペダルを力強く踏み込み、自転車を前に進ませていく。何を隠そう、この時間が僕にとって一番苦しい時間だった。
もうかれこれ、弁天と一週間以上高層マンションの前に行っているが、全く慣れない。というのも、弁天は負のエネルギーを消費するノルマを自分で決めているみたいなのだが、いかんせん、同じ場所にいるわけだから、何度も高層マンションの前を通る人がいる。そういう人たちは二回目以降対象外になるわけで、毎回少しずつ帰る時間が遅くなっていったのである。
「万さん。次回から、場所、変えましょうか……」
弁天が僕に体重をかけながらそうささやく。
「そうしよっかね」
僕はそれにゆっくりとうなずいた。それからまた、僕たちは無言になる。
時折、カップルや学生、子供連れの女性にすれ違った。決まって彼らは僕たちに不思議そうな視線を向けた。僕らはいま、端からはどういう風に見えているのだろうか。無言で二人乗りをしている疲労困憊な様子の少年少女というのは文字に起こしてみてもなかなか不思議な存在なように思える。
「止まってください」
と、それまで僕の後ろで静寂を貫いてきた弁天が急に叫んだ。僕は慌ててブレーキをかけて、何事かと振り向く。弁天の視線は、ある一点に釘付けになっていた。そう、駄菓子屋である。
「ソフトクリームを食べましょう、万さん」
それまでの疲れはどこかへ吹っ飛んだとでもいうように生き生きとした表情の弁天。僕が答える前に、一目散に駆けて行ってしまった。僕はそんな後ろ姿を見ながら、三百歳からも好かれるアイスはなんて素晴らしいのだろうとしみじみと感じていた。
「うーん、おいしい」
公園のブランコに腰掛けた弁天がバニラ味のソフトクリームをハムッと噛みしめて、笑顔を浮かべる。僕もまたブランコに揺られてその様子を眺めながらイチゴソフトをペロッとなめる。
「いやあ、本当にありがとうございます、万さん」
にこにこと笑みを浮かべ謝辞を述べる弁天。実は、このアイスは両方とも僕が買った物なのだ。お会計のときに、弁天が急にお金を持っていないと焦りだし、渋々僕が買ったのである。一応貸したということにしているが、返ってこないような気がする。以前月夜さんがお金を貸すときはドブに捨てるつもりで貸すんだと言っていたが、その通りだと思った。
アイスを食べ終え、ブランコから立ち上がろうとしたとき、ふと、赤いワンピースを着た少女の姿が目に入る。少女は目に小粒の涙を浮かべ、オロオロと木の近くを行ったり来たりしている。
「あの子は、迷子なのかな?」
「うーん、なんだか迷子にしては動きが不自然ですけどね」
弁天も少女に気づいていたようで、小さく首を傾げる。たしかに、迷子の動きには見えない。迷子ならもっと辺りをうかがう仕草を取るはずだ。では、少女は一体どうしていまにも泣きそうな顔であんなに忙しなく右往左往しているのだろう・
「なあ、弁天。あの子の心の中を読心術で読んでくれないか」
僕は即座に神の力に頼ることにした。それを知ってからの方が、こちらもアクションが取りやすい。しかし、隣の神さまの反応は芳しくない。
「どうしたんだ、弁天?」
弁天は苦虫をかみつぶしたような顔で戸惑いがちに口を開いた。
「実は私、読心術なんて使えないんですよ……」
「えっ?」
僕は最初、弁天が何を言っているのか良く分からなかった。僕の目の前で、堂々とその能力を披露した弁天がそれを使えないなんて、とても信じられない。冗談なんじゃないかと思ったが、弁天の表情を見る限り、どうもそうではないらしい。
「どういうことなんだ?」
努めて冷静に発しようとしたその言葉に力がこもるのを感じる。弁天は、それに恐る恐る話し始めた。
「一番初めに私が万さんの心を読んだであろうときのことを覚えていますか?」
一番最初。たしか、弁天がどんな神なのかみたいなことを僕が思って、それを弁天が看破したはずだ。
「どうやら覚えているようですね。実はあれ、適当に言ったんですよ。当たってたら面白いし、外れたらそれはそれで違いましたかあ、とかなんとかおどけてみせればいいなと思って」
弁天の言葉はしかしまだ僕に疑問を残している。
「僕の心を読んだのは、たしかその一回じゃなかったはずだ」
そのあとの負因子の説明や川原を眺めていたときもそんなことがあったはずだ。
しかし、その追求に弁天は造作もないとでもいうように答える。
「その辺りのことは、誰でも分かりそうなことを言ったまでです。きっと、万さんが私の立場だったとしても、分かったはずですよ」
つまりははったり。
バスケットボールの試合で最初の一本目のスリーポイントシュートを決めることで、入る確率はとても低くても、相手は警戒するのと同じような理屈か。たしかに、一つ目の読心術によって僕は完全に弁天の能力を信じてしまい、疑うことをしなかった。だから、次に弁天が僕の心を読んだと感じたときに、そのことについて深く考えることをしなかった。
ただ、いまにして思えば、他にも読心術を使えそうな機会はあったが弁天は何もしなかったわけで、言われてみれば納得はできる。
僕は、呆れてなんだか馬鹿らしくなって、冷たい眼差しを弁天に送る。
「えっと、あの、すみません。そのー、言い訳をさせてもらうと、神さまってすごいって思ってもらいたかったんですよ。その見栄を張ったといいますか、そういうお年頃とでもいいましょうか……」
残念極まりない神さまだ。本当はもっと文句を言ってやりたいところだけど、現状それよりも優先すべきことがある。
「あの子、どうする?」
「ど、どうしましょうか」
あはは、と苦笑いを浮かべる弁天。僕ははっと笑い飛ばすと、顎で少女のところへ向かうように指図した。
「は、はいっ。了解しましたー」
弁天は小走りに少女のところへ向かうと、事情を聞き始めた。僕も少女の方へ行き、耳を傾ける。
それによると、風船が木に引っかかってしまったらしい。
たしかに、木を見上げると赤い風船が枝の間に挟まっている。ただ、そこまで三メートルほどあり、ジャンプして届く高さにはない。
「万さんが木に登ればいいんじゃないですか?」
「いや、僕、実は木登りとかそういう類いのことが苦手なんだ」
忘れもしない、僕がまだ保育園の年長さんだったころのこと。アスレチックから滑って落ちて頭を打ったのだ。幸い大事には至らなかったが、それ以来、どうにも何かに登るということに身体が拒絶を表すのだ。たしかに目の前の木はそこそこ太くしっかりとしていて、割と足場となりそうな枝もあるけれど、きっとそこに足をかけようものなら僕の身体は硬直して、力尽きた蝉のように木から地べたに落下してしまうだろう。
「なら私がといいたいところですが、私もそこまで運動神経がいい方ではないんですよねぇ」
木を前にして、そろいもそろって使えない僕ら。
「もう、風船、だめなのかな……」
しかし、涙を浮かべる少女を前にして諦めることなんてできない。何か方法はないのだろうか。風船の高さに届く方法は。と、弁天が何か作戦が思い浮かんだようで、僕の肩を叩く。
「万さん。私と万さんの力を合わせれば届くかもしれません」
「力を合わせる?」
「はい。私の、踏み台になってください」
僕はそれで弁天の考える方法が一応分かった。でも、もっといい言い方はあったのではないだろうか。いつものことだが、弁天は言葉選びのセンスが致命的に足りていないように思われる。ただ、弁天はそんなことは全く気にする素振りを見せず、靴を脱ごうとしていた。
「あれっ、肩車じゃないの」
「それじゃあ届きませんよ。万さんの肩に立ちます」
たしかにそうかもしれないが、それでバランスが取れるのかと、そう反論しようとしたが、少女がこちらをキラキラとした好奇心溢れる目で見ていたので止めた。その瞳を見ていると、仮に風船が取れなくても満足してくれるような気がする。僕はそんなことを思いながらしゃがみこむ。よくよく考えると、肩車なんてやったことがないからできるか不安だが、大丈夫だろうか。
「それじゃあ、乗りますよ」
そんな僕の不安なんてお構いなしに弁天は僕の肩に足を乗せる。ぐっと体重が僕の肩にのしかかる。学校に行くときのリュックとは比べものにならない重さだ。ただ、自転車のときにも感じたが、立ち上がれないほどの重さではない。
弁天が乗ったのを確認して、僕は弁天のすねを掴むと、せーのっと自分を鼓舞するように声を出して立ち上がる。少しよろめくが、なんとか立つことができた。頭上から、木に寄ってくださいという声が聞こえる。僕は動くよと合図して、一歩一歩ゆっくりと踏みしめて木との距離を詰める。あと五十センチというところで弁天から静止の声がかかり止まる。
僕のところからは、弁天が肩の上に乗っているため風船の位置を測れない。だから、あとは弁天に任せるしかない。
「じゃあ、私も立ちますね」
僕がうなずくと、頭に手が置かれ、さらに体重がかかる。僕はバランスを崩さないように重心を意識しながら、目の前に立つ木のように背筋を張った。ただ、そのとき、膝の震えも感じて、そんなに長くはもたないということも分かった。
「弁天、早めに頼む」
「分かってますよ」
そう声は返ってくるが、その手はなかなか僕の頭から離れない。立つことに苦戦しているみたいだ。それでも、なんとか手を順々に離し、弁天は立ち上がった。ただ、僕の肩が足の揺れを捉えていることからも分かるように、上手くバランスを取れているとは言い難い。
「弁天、取れそうか?」
「も、もう少し。あと十センチくらいです」
高さが足りないらしい。だが、僕の方も足が先ほどから酷くガタガタしていて、限界はすでに目と鼻の先だ。
「跳んでください」
「えっ、なにっ?」
「だから、跳んでください。真上に」
「いや、無理だって。もう、いまにも崩れそうなんだよ」
背伸びだってできそうにない。そんな中でジャンプでもしようものなら、バランスを崩して木に激突しそうだ。
「でも、それしか方法はないじゃないですか」
「弁天がジャンプするのはどうなんだ?」
「こんな不安定な足場じゃろくに跳べませんよ」
たしかに、僕の肩を足場にしているのだから、上手く跳べないというのはよく分かる。先ほどから僕の身体は小刻みに震えてるし。
「分かった。跳ぶよ」
覚悟決めて、そう声高に宣言する。弁天はそれに小さく、かけ声、お願いしますと答えた。僕は弁天の足から手を離し、ゆっくりと深呼吸して、それから震える膝をなんとか律する。
「いち、にーの」
膝を小さく曲げ、力をためる。弁天の全体重がかかり、崩れそうになる。だが、ここで崩れるわけにはいかない。なんとか踏ん張ってためをつくる。さん、と力を放出しようとしたとき、不意に僕の横を人影が通過した。そして、身体から重さが消える。何事かと後ろを振り向くと、弁天が華麗な着地を決めたところだった。その手には、何も握られていない。
一体何が起きたのか。木を見上げて驚く。先ほどまで枝に挟まっていた風船は忽然と姿を消していたからだ。
「弁天、一体どういうことなん――」
「うわー、ありがとう」
説明を求めようと再度後ろを振り向くと、満面の笑顔を浮かべ風船をもつ少女の姿が映る。そして、その横には、
「須佐さん?」
制服姿の可憐な少女が立っていた。




