高層マンションと二人乗り
高層マンション。
それは、地に足をつけることを辞めた人間の住処。
そこに住む住民たちは、飛び降りて無事着地できないような高さにある部屋を自分の憩いの場としている。信じられない話だ。
高い建物というのは、人類史上で最も恐ろしい発明なのではないか。
「つまり、万さんは高所恐怖症っていうことですね」
「はっ、はあっ。いやっ、なっ、なんのこっちゃねん」
「動揺しすぎて語尾がはちゃめちゃですよ。というか、さっきから自転車が小刻みに揺れてるんですが、その足の震え、どうにかなりませんかね」
自転車の後部から、弁天が呆れ気味に言う。なら、降りろって話だ。それに、僕の足は震えているわけじゃない。恐怖で痙攣しているだけだ。
僕は怯える足を優しく撫でて落ち着かせると、自転車からゆっくりと降りる。
さて、状況を整理しよう。いま僕と弁天が立っているのは高層マンションの前。ここは僕の家から自転車で十五分くらいの住宅街。近くにはショッピングモールなどもあり、駅から近いこともあって、マンションの周りにも比較的大きな家が建ち並んでいる。
昨日立てた作戦はこうだ。題して、高級住宅街には幸運な人が多いよ作戦。名前を考えたのは弁天だ。センスの欠片も感じられないが、それはひとまず置いておこう。
作戦内容は作戦名そのままで、この辺りで張って幸福な人が来たらその都度負因子を打ち込むという手はずだ。いくつか幸福な人が多そうな候補地をあげたところ、弁天がマンションを見たいという理由でここに決まったのだ。こんな決め方で大丈夫か不安になるが、きっと問題はないはずだ。
「じゃあ弁天、頼んだよ」
任せてくださいと胸を張り、僕に権能を授ける弁天。実はこの効力は数時間で切れてしまうため、会う度に弁天に頼む必要がある。
なんにしても、これで僕も弁天と同じように人の幸不幸を見ることができる。
と、ちょうど僕らの目の前をスーツ姿の男性が通り過ぎていった。そして、高層マンションの前に止まると、そのまま中へ入ろうとする。色は濃いピンク色。
「弁天、早く」
「分かってます。くらいなさい」
そう叫ぶやいなや、青い球が男性へと向かい、身体の中へ入っていく。少し、その濃さが薄まったように感じられる。一体、どれくらいの負因子量なのだろう。きっと、大したことはないのだろう。だからこそ、数が必要になる。
ほっと一息をつくも、すぐさま別のターゲットが現れる。そしてまた、弁天が負因子を打つ。小さな子供から、恰幅の良さそうな老人まで、さまざまな人が僕らの近くを通り過ぎていき、弁天はその都度その人たちの色を見て、負因子を打ち込む。
一体どれだけの人を裁いただろうか。いつの間にか、空は薄暗くなっていた。
「そろそろ帰りますかね」
「うん、そうしよっか」
弁天は当たり前のように自転車の後部に乗り、僕はそれを確認してペダルを踏む。
穏やかな風を身体に感じながら、僕は今日ターゲットにした人々を思い返す。みな、一様に濃いピンクの人たちであった。やはり、住む場所が違うと幸福度も変わってくるのだろうか。そう考えると、僕が青色だということは改めてかなり異常な事態だということを自覚した。ただ、一度弁天に大丈夫だと言った手前、それを撤回することはプライドに関わることだから、流石にできないけれど、一つ気になることがあった。
「なあ、弁天。負因子によって下がった幸福度は一生戻らないのか?」
僕は自転車を漕ぎながら尋ねる。
後部でご機嫌そうに鼻唄を口ずさんでいた弁天がえーっとですね、と何やら説明口調で話し出そうとする、ような気がした。走行中で、その声は耳に届きにくい。
僕が少し首を傾げると、弁天の身体がより密着する。その吐息が僕の首元を撫で、思わず肩を震わす。
「実はですね、人間の幸福度というのはさまざまな要因によって左右します。ですから下手したら日毎に変わることもあるんです」
僕はそれに聞こえているということを伝えるために大きくうなずく。弁天はそれを確認して続ける。
「それで、負因子に関してですが、これはまだあまり詳しいことは分かっていないんですが、私の見る限りですと、その量によって残存する期間が変化している感じがします」
負因子量と残存期間は比例するということか。怪我が重ければ重いほど長引くのと同じようなことだと言えるかもしれない。
「ちなみに、僕はあとどれくらい残存期間があるとか分かったりするのか?」
前に誰もいないことを確認して、振り向きながら弁天に尋ねる。
「まあ、そんなこと気にしてもしょうがないですよ。それより――」
笑顔でさらっと流しされた。
「いや、待て。あとどれくらいなんだ?」
「あっ、あそこにとても幸福そうな御仁が――」
僕はその言葉がいい終わる前に思い切りブレーキを握った。キキーッという甲高い音ともに自転車は静止し、グエッっという蛙みたいな声とともに弁天の顔が僕の背中にぶつかる。
「な、な、な、何するんですか?」
弁天は僕の肩を後ろからつかむと上下に激しくやらして抗議する。僕は振りまきざまにチョップしてそれを止めさせる。
「何するんだじゃない。こっちの質問に答えろ」
「も、黙秘権を行使します」
弁天は苦しげにそう反抗してきた。
「じゃあ、僕は弁天を下ろしてここで帰るぞ」
「いや、だめです。それでは暗くなる前に帰れません」
小学生みたいなことを言い出す。別に暗くなってからでも問題なかろうに。僕は大きくため息をついて、
「じゃあ選べ。こっちの質問に答えるのとここで置いていくの。どちらか一つを」
「くっ、神に選べとはなんて罰当たりな物言いでしょうか。しかし、背に腹は代えられませんし、しょうがないですね、話しましょう」
最初からそうすればいいのにと思う。まあきっと、一度誤魔化そうとした手前引くに引けなくなったのだろうけど。
「詳しくは分かりませんけど、あと数ヶ月は確実に続きます」
なぜか堂々と主張する弁天。悪びれた様子は全くない。もうこれは置いていっていいのではないだろうか。
「降りろ、弁天。僕は一人で帰ることにした」
「いや、ちょっと待ってください。私、二者択一で選びましたよね。それは許されざる行為ですよ」
「なんかやるせないなと思ったんだよ。それに大丈夫。他の神さまがお迎えに来てくれるって」
「いや、七福神だから偉いとかそういうのはないですよ。他の神様が迎えに来てくれるなんてことはありません」
なんと。自称神さまの中では偉い方にいる弁天だが、優遇されることはないのか。もしかしたら末端の神さまに運んでもらっていたのではないかという僕の考察が崩れさる。
「というか、万さん。常々思っていたのですが私のことを舐めていませんか。私は弁財天。七福神の一人ですよ。もっと崇め奉るべきです」
僕はそれに思わず失笑する。
「なにいってんだよ、弁天。初対面で土下座してくる神さまをあがめるのは無理筋だろ」
「くーっ、ああ言えばこう言いますね。分かりました。じゃあ、その自転車を私が漕いで帰るので万さんは降りてください」
「いや何も分かってないだろ」
あまりの暴論に全力で突っ込む。ここからデッドヒートが繰り広げられる、というところで突如鋭い笛の音が響いた。
「そこの少年、少女。二人乗りは禁止だぞ」
前を向くと、婦警さんが仁王立ちしていた。僕は素早く逃げの一手を探るが、ハンドルを握られてしまい、万事休す。弁天ともども、お叱りを受けることとなったのであった。




