世界の秘密
「なあ、万。明日は空いてるか」
土曜日の朝。月夜さんが目玉焼きを頬張りながら尋ねる。
「えっ、うん。とくに用事はないけど」
「じゃあ、夜になんか食べに行こう」
僕はそれにうなずいてから、はたと気づく。月夜さんが二週間連続でどこかに遊びに行くというのはとても珍しいとうことに。どれくらい珍しいかと言えば、おそらく、最後にそんなことがあったのは小学生のときだ。
幸の件で気を遣わせてしまっているということだろうか。だが、そうとも言い切れない。ただの外食の可能性だって十分にある。もともと月夜さんは料理が苦手で、よく外食に行っていたらしいから、その名残かもしれない。まあ、考えていても仕方ないし、僕も久しぶりに外食に行くのもいいかなと思っていたのでちょうどいいなと思った。
時計を確認すると九時半を回ったところだ。弁天との約束は十時。そろそろ行くべきか。ラックにかけてあるパーカーを着て、ジーンズをはく。
「じゃあ、行ってくるね」
「うん、どこ行くんだ?」
「えーっと、お散歩」
神さまに会いに行くなんて言ったら、多分精神科に連れて行かれるだろうと思い、適当にごまかす。月夜さんは少し、あごに手を当てて考えるような素振りを見せていたが、ぽんと手を叩いた。
「なるほど、さては女の子だな。仲良くやるんだよ」
「いや、違う」
否定するも、にやにやと笑みを浮かべる月夜さん。きっと冗談で言っているんだろうけどうっとうしい。面倒くさくなっていってきますとだけ言って家を出る。
外は五月らしい、朗らかな暖かさに包まれていた。僕は大きく伸びをして、それから自転車にまたがる。
心地よい風が吹く中、ペダルを踏む。土曜日ということもあって、いつもよりも外は賑やかだ。家族連れやカップル、子供たち、ランナー。なんだか、そんなにぎわう様子に自然と笑みがこぼれる。
約束の場所に着くも、まだ弁天は来ていなかった。僕はゆっくりと芝生に腰を下ろす。近くでは、釣りをしているおじさんの姿がある。ここでは果たしてなにが釣れるのだろうか。
「外来種のブラックバスやブルーギルが釣れそうですよね」
急に耳もとでささやかれ、うわっと声を上げてのけぞる。それから、恨みがましく、声が聞こえてきた方向を睨む。そこには弁天が立っていて口元に笑みを浮かべていた。
「いやあ、いい反応をありがとうございます」
「ほんと、なんなんだよ。というか、口に出したつもりなかったんだが」
ぽろっと出てしまったのだろうか。なんとなく唇を噛む。
「いえいえ、私が心の中を読んだんです。だから、別に口に出てないので安心してください」
「そういえば、以前あったときもそんなことができるとか言ってたな」
「はい。神さまですから」
いやな神さまだ。もっと能力を他のことに使って欲しい。人を助けるものである神さまがその能力を人をからかうために使うなんて、宝の持ち腐れである。
僕はため息を一つ、それから改めて弁天の方を見る。前にあったときと同様、和服姿である。これがお気に入りなのか、それともその姿がデフォルトなのか。
「さてさて、前置きはこれぐらいにして、本題に入りましょうか。とは言っても、ここだと少し人が多すぎるので、そうですね……。もう少し、上流に行きましょうか」
「たしかに、これからする話は誰かに聞かれるとまずい類いのもだからなあ」
「うーん、まあそれもあるんですけどね。ただそれだけじゃなくて。ほら、こういう話ってあれですよ。いまの若い子風にいうと、えーっとなんでしたっけ」
頭を悩ませる弁天。なにを言わんとしているのか良く分からない。
「神だとかそういうのを言っている痛い子のことを――」
「あー、中二病ね」
「そうそう、それですよ、それ。最近どんどん新しい言葉ができるから困っちゃいますよね」
たしかに、若者言葉ができたり、ネットから作られた言葉ができたりでいろいろな言葉が増えていることは良くニュースで聞くが、なんだか言い方がやけに年寄り臭い。
「弁天って何歳なんだ?」
思わずそう尋ねると、にっと微笑む。
「何歳だと思いますか」
神さまということは、人間の尺度で年齢は測れない。見た目でいうなら十五歳くらいだが、それは当てにならないのだろう。あまり威厳みたいなものは感じられないが、和服を着ていることから、一昔前からいたようには思える。そうすると、
「えーっと、百歳くらいとか」
「ぶぶー、違います」
子供っぽい返し方だ。やっぱり、そんなに年配じゃないか。弁天は笑って付け加える。
「そんなに若くないですよ」
思わずぎょっとする。そんなに若くない。つまり、もっと上。その見た目で百歳以上なんて、とんだ年齢詐欺だ。
「ちなみに何歳くらいなの?」
おそるおそる聞いてみる。
「三百歳です」
三百歳。三百年前といえば、千七百年代だから、江戸時代の中頃くらいだろうか。なんだか頭が痛くなってくる。新しい言葉に困惑もするのにも納得がいく。
「まあ取りあえず行きましょうか」
僕はそれに頷いて自転車のスタンドを蹴って、道路に出て、押していく準備をする。と、隣の神さまがなにやら僕の方に熱い視線を送っていた。いや、厳密に言えば自転車の後部。
「えーっと、乗る?」
「えっ、いいんんですか。いやあ、悪いなあ。ありがとうございます」
満面な笑みを浮かべ、勢いよく飛び乗る。なんだこの神さま、と思いながらも、僕は自転車にまたがり、ペダルに足をやる。すると、弁天は僕の脇の少し上を軽くつかんだ。
「よし、ではいきましょうか」
僕はそれに、ペダルを踏み込むことでそれに答える。
弁天は思ったより軽く、ペダルはすいすいと進む。そもそも、神さまに体重という概念があるのか甚だ不思議だが、一応、後ろに座る神さまには重さがあることが分かる。
しばらく自転車をこいでいると、次第に人影が減っていき川幅は狭くなっていく。川の流れも心なしか速く感じ、ごつごつした岩が少しずつ目立つようになる。
「この辺りでいいかな」
自転車を止めて後ろを振り返ると、弁天はよっと飛び降り、ゆっくりと首を左右に向けて、それからうなずいた。
「ここにしましょう」
そう言って、袴をつまんで青々とした芝に包まれた坂を下っていく。その後ろ姿は十五歳。でも実年齢は三百歳。わけが分からない。
「早く来てくださいよ」
ぶんぶんと大きく手を振る弁天。僕はそれに分かったよと答え、小走りに芝を下った。
爽やかな風が流れ、草木をゆるやかに揺らす。水面は太陽を反射してキラキラと光り、時折魚たちが飛び跳ねる。夕暮れの河川敷もいいけれど、この時間はいつもとは違う顔を覗かせていて、とても素敵だと思った。
弁天は芝生に腰を下ろし、その隣をポンポンと手で叩く。僕もそこに座った。それに満足げにうなずいて、それから一つ咳払いを挟み、真面目な顔になる。
「さて、では話しましょうか。この世界の秘密について」
世界の秘密と聞いて、僕はなにを思い浮かべるのだろう。
実は、この世界には魔法使いや超能力者が存在して、僕の知らないところで日夜戦いが繰り広げられているとか。
実は、この世界は宇宙人によって侵略されつつあって、僕の知らないところで日夜戦いが繰り広げられているとか。
なんだか、SFちっくなものしか浮かばない。それも、普通に考えれば有りえない類いのだ。でも、神さまがいるのであれば、わりとあってもおかしくないようにも思えるが。
そういえば、弁天は以前負因子が不幸のもとだ、みたいなことを言っていたから、それは確実に関係しているはずだ。僕に思いつくのはそれくらいなわけだから、神さまの話に耳を傾けるとしよう。
「この世界の秘密。それはですね――」
ゴクリ、と思わずつばを飲み込む。正直、興味津々である。これくらいの年の男なら誰でも好きな類いのものではないか。
しかし、そのあとの言葉がなかなか紡がれない。
「どうしたんだ、弁天?」
「あー、えーっと、言葉で説明するのってなんだか難しいんですよね。……そうだ。実際に体験してもらえば分かりやすいかな」
顔を上げてにこりと笑い、そのまま僕に手を近づける。
「お、おい、待て。一体どういうことだよ」
僕の言葉に大丈夫ですから、と笑顔で答える弁天。全く大丈夫だと思えない。
躱そうとするも、座った状態ではろくに身動きがとれずされるがままの状態。弁天は僕の肩に右手を当て、左手をパチンと鳴らした。
次の瞬間世界がねじ曲がって僕は暗闇に飲み込まれる、なんてことは起こらず、変わり映えのない景色が僕の前に広がっていた。
相変わらず、涼しい風が頬をなで、僕の両手には芝の感触がある。川のせせらぎにのって、魚は飛び跳ねている。もしかしたら、と思い、僕の身体にペタペタと触れて見るもいつもの自分の身体だ。
「これは一体、どういうことなんだ、弁天」
なにも変化が起きていない。さっきのは、はったりか何かだったのだろうか。
「そう焦らないでくださいって。ゆっくり説明させていただきますから」
どうどうとまるで馬をあやすように手を振り、落ち着くように促す弁天。それで、いつの間にか、彼女に詰め寄るかたちになっていたことに気づく。僕は身を引いて、息を軽く吐いて、それから再び弁天を見た。
「そうですね……。どこから説明したらよいものか。いや、まずはあれからですかね」
弁天は自分の独り言に勝手に納得して、それから辺りを見渡す。僕もそれにならって、坂の上を見上げる。一人のおばあさんがちょうど僕らの上を通過するところだった。
「おっ、あれにしましょうか。では、万さん、あのおばあさんは幸せそうですか。それとも、不幸せそうですか」
そういえば、自己紹介をまだしていないのになぜ僕の名前を知っているのだろう。聞こうとして、すぐにやめる。どうせ答えは決まっている。神さまですから、だ。
さて、それにしても、おばあさんが幸せかどうかだが、この距離からじゃ表情なんかははっきりとは分からない。仕草から判断しろということだろうか。僕はいっそう目を見開いて、それから視界に移る驚きの光景に思わず目をそらした。
「ど、どういうことだ?」
「おっ、その反応。見えましたか。あのおばあさんは何色に見えますか」
「何色って、ピンク色だけど……」
そう、全身がピンク色だ。淡いピンク。さっきまではたしか青っぽい服を着ていたはずなのに。そもそも、服以前に、身体全身がピンク色に染まっている。周りの風景に一切変化がない分、より際立っている。
「桃色に見えるっていうことは、ちゃんと上手く言ったようですね」
弁天はそう言って微笑んだ。ということは、これがつまり、実際に体験したものということか。
「……どういうことか、説明してくれ」
「はい、もちろんです。私があなたに与えた能力は、他者の幸福度を測ることができるものです」
「他者の幸福度……。つまり、僕はいま、あのおばあさんが幸せかどうかを見たわけだな」
弁天はそれに、満足そうにうなずく。
「理解が早くて助かります。それでですね、まあこれはなんとなく分かると思うんですが、ピンクだと、その人は幸福なわけです」
ということは、逆のパターンもあるということか。弁天は僕の思いをくみ取るように付け足す。
「ちなみに、不幸だと、青く見えます。いまの万さんは青いですよ」
僕はばっと自分の身体に視線を向ける。しかし、なんら変わりはない。
「あっ、実はですね、自分の幸福度を直接見ることはできないんです。鏡とか、映っている姿じゃないと駄目なんです」
ということは。僕は川まで行き、水面に映る自分の姿に目をやる。そこには、少し青い自分の姿が映っている。
「と、このように、私たちは人の幸と不幸を見ることができ、それを管理するという任務があります」
いつの間にか僕の隣に立っていた弁天がそう告げる。
管理。なんだかぞっとする言葉だ。以前話していたハガキによって負因子を渡すのもその一環ということか。人の幸と不幸は神様の手のひらで転がされているということだ。
ここで、二つの解釈が可能だ。一つは、この世界に、神さまの介入が必要不可欠だというパターン。この世界に僕の知らないルールか何かが存在し、それを弁天たちが調整しているというものだ。そしてもう一つ、神さまが僕らの生活にただ自分たちの好奇心を満たすための手段として、幸と不幸の調整を行っているパターン。これは最悪なものだ。神さまに嫌われたら、人生おしまいである。祈った分だけ人生がよくなるなんてこと、ざらに起こりそうだ。
そのことをおそるおそる尋ねてみると、
「万さんはそのどちらだと思いますか」
弁天が空を見上てそう問うてくる。どちらからと言われれば、それは当然、
「前者であって欲しいと僕は願いたいなあ」
「前者ですか。まあ、その通りなんですけどね」
僕はほっと胸をなで下ろす。
「でも、ことはそんな単純な話ではないんですよ。空を見上げて、気を感じ取ってみてください」
唐突に痛いことを言い出す弁天。でも、その横顔を見たら、そんなふざけた突っ込みを入れるべきではないことは一目瞭然で、僕は空を見上げて、気を感じようと目を見開く。すると、途端、もやがかかったように、世界が薄暗くなった。そして、それまで青空があった天空には黒く、混沌とした塊が現れる。それは、これまで僕が見てきたどんなものよりも禍々しく、気味が悪く、息苦しさを感じ思わず目線を逸らしてしまう。
「あ、あれはいったい何なんだ、弁天?」
「あれは負因子の塊です」
「負因子って僕のハガキに含まれていたやつだよな。それがなんであそこに、あんなにあるんだ」
詳しく分からない僕でも、あれがやばいことは分かる。弁天は小さく息を吐いて、それからゆっくりと口を開いた。
「負因子は、幸と不幸のバランスが崩れることで生まれるものです。より厳密にいえば、この世界の幸福が不幸を上回ったときに現れる。そして、そうなるのには、この世界にある一つの摂理が大きく関わっています」
「一つの摂理……」
それを反復する。この世界にはなにか僕の知らないルールが存在するということか。
「この世界の幸と不幸は一対一。どちらかが偏ると、それとは反対の因子が作られる。そういう摂理です」
つまり、幸福な人々が不幸な人々を上回ると、負因子が生まれ、その逆の場合には、負の反対、正因子とでもいうべきものが生まれるということだろう。力の釣り合いが取れなければ、釣り合わせようと、帳尻を合わせようと世界が適応しようとするということか。正直ここまでは別に僕らからしてみれば何ら関わりあいのない話だ。ただ、これはきっと、そこで終わる話ではない。
「負因子にはどんな弊害があるんだ」
「負因子はある一定以上の大きさになると部分的、もしくは全体が弾け、不幸な出来事、端的に言えば災害が起こります。近年の異常気象の頻発の原因の一端もそこにあります」
たしかに、異常気象は近年世界中で起こっていて、ニュースなんかでもしょっちゅう取り上げられる問題だ。台風がいくつも発生したり、局地的な大雨が降ったり、それによって、土砂災害や川の氾濫が起こったり。これらの自然災害の原因が僕の頭上を渦巻く負の因子だということなのか。
「でも、そういう問題は地球温暖化によるものだって聞くぞ」
海水の温度の上昇によってより強い勢力の台風が発生したり、なんて問題はもとをたどれば二酸化炭素の排出量の増加などで、オゾンホールが破壊され、地球が暑くなっているところからきている。この解釈はいまどきの小学生だって知っているはずだ。
しかし、弁天は首を横に振る。
「たしかに地球温暖化の影響だってありますけど、それだけを原因とするのには留まらないくらい、近年の異常気象はひどいんですよ。それは、まあ、三百年生きている私が言うのだから間違いありません。江戸時代の頃も比較的争いがなくなったためか、負因子が増幅して弾けることで、冷夏が続いたりしたなんてこともありましたけど、現代は当時と比べものにならないくらい科学技術や生活水準が向上していますからね。負因子の量も多くなっているんですよ」
三百年生きているという言葉はいやに説得力を感じる。きっと、彼女の話すことは正しい。ただ、それ以外にも分からないことはいくつかある。
「もう二つほど質問してもいいか」
「ええ、構いませんよ」
「弁天は幸と不幸のバランスを管理すると言っていたが、その役割を担っているのは弁天だけなのか?」
日本には、八百万と言われるくらいとてもたくさんの神さまがいる。その中で果たして弁天だけがそのような役割を与えられているのだろうか。僕にはどうしてもそうは思えない。なぜならこの神さまは少しあほっぽいからだ。
「実は、私だけではありません。私はこの仕事に関わる神さまたちを管理者と呼んでいるのですが、私以外にももちろんいます。そうでないと回らないですからね」
やはり、予想通りだ。きっと、八百万の神さまと言われているくらいだからとてもたくさんの神さまが存在していて、様々な活動を行っているのだろう。
「それで、神さまの中でも、弁天はかなり高い位置にいるっていう認識でいいのかな?」
「はい、万さんの考えるとおりです。管理者は私たち七福神を中枢として、他の氏神など様々な神を末端組織として活動しています」
なるほど。つまり、弁天以外にも毘沙門天や恵比寿などが管理者として働いているということか。
「もう一つの質問なんだが、ハガキを送りつけたことは蓄積された負因子を減らそうとしてのことだと思うんだけど、そういう幸と不幸の調整っていうのは、これまでも頻繁に行われてきたっていう認識でいいのかな?」
その質問に、弁天は痛いところを突かれたとでもいうように、顔をしかめる。
「あー、いや、実はですね、いままでこんなことってあまりなかったんですよ。それこそ、数十年前は戦争があったりして、基本的に負因子が蓄積することはあまりなかったんです。それこそ、江戸時代くらいで、むしろ、不幸なことが多すぎて、基本的にその反対の正因子が蓄積していたんです」
だから、今回のハガキの件のようなずさんな手が取られたということか。たしかに、日本が平和になって、便利になっていたのはここ数十年のことで、その間にめざましい発展を遂げたわけだが、それに管理者たちは追いつかなかったということだろう。
「ちなみに、正因子っていうのは、弾けると幸福なことが訪れるっていう解釈でいいのかな?」
「はい。だから、こちらから何か正因子の膨張に対して行動を起こすことはなかったんですが、戦後に入って、経済成長なんかとともに次第に生活水準が上がっていって、幸福度が高まっていたわけなんですよ。いや、私たちも最初はそれを歓迎したんですけどね、ええ。でも、次第に負因子が蓄積していって、いまに至るというわけです……」
最後の方は、勢いがなくなり、次第にかすれ声になっていた。弁天は虚ろな目でブツブツと何やら恨み言を呟きながら空を見上げる。ただ、禍々しい邪気にそんな恨み言をぶつけても虚しくなるだけで、依然として空を覆っている。
それなら幸福な人に手当たり次第に負因子を送っていき、調節すればいいんじゃないかと思う。そうすれば、意外と上手く回っていくんじゃないだろうか。
「って、思うじゃないですか」
しかし、それに対する弁天の答えは大きな嘆息だった。
「そうはいかないのが難しいところなんですよ」
弁天は悩ましげな顔で辺りを見渡す。
「あっ、あれがいいですね。あの二人の幸福度を見てください」
何かお目当てのものを見つけたようで、人差し指を目標に向ける。その指し示す先、二十メートルくらい先、僕らが自転車を漕いできた道を、大学生くらいのカップルが歩いていた。多分、普通に見れば何の変哲もないカップル。しかし、いまの僕の目には鮮やかなピンク色に映っている。
「あの二人がどうしたの?」
僕はすぐに二人から目を離し弁天の方を向いた。視界にピンク色の物体が映っているのは、あまり気分がいいものではないからだ。
「あの二人に、いまから負因子を与えます」
えっ、と僕が聞き返す前に弁天は右手を二人に向かってかざすと、何やら気のような青いハンドボールくらいの大きさの球を放出する。青い球はまっすぐに飛んでいき、二人の身体に入っていった。
途端、鮮やかなピンク色が、薄いピンク色に変化する。それで、僕はあの青い球が負因子だったことを理解した。
しばらく二人を注視していると、その前方から自転車に乗った小学生くらいの子供が現れる。子供は下を向いて自転車を漕いでいて、前のカップルに気づいていないようで、そのままスピードに乗っていく。男性は慌てて女性をかばうようにして芝に足を踏みいれ、子供もちょうどその音で顔を上げて勢いよくブレーキを握ったことで、事なきを得た。
男性は子供の方を見て睨み付けると、なにやら口を動かす。ここからではなにを言っているのか詳細までは聞き取れないが、怒鳴っていることは分かる。たしかに、少年の前方不注意で、怒りたくなる気持ちは分からないでもないが、そんな形相で詰め寄っては子供も怖がるだろう。
僕の予想通り、子供はビクッと身体を震わせると、ボロボロと大粒の涙を落として、大きな声をあげる。急に大声で泣き出したことで、男性は露骨に顔を歪ませ、それから辺りを見渡す。世間体が気になるのだろうか。
と、ここまで静観していた女性がしゃがんで子供の頭を撫でると、男性に食ってかかった。きっと、そんなに言う必要はないだとかそんなことを言っているのだろう。それに、男性の方も言い返す。そこからお互いどんどんデッドヒートしていきいつの間にか子供は泣き止んで、驚いた表情で言い争う二人を見つめるという混沌とした空間が訪れる。
「さて、そろそろいいでしょう」
弁天は先ほどと同じように右手をかざすと、今度は先ほどより一回り小さな赤い球が放出され、二人の身体に吸い込まれる。
すると、子供がカップルの諍いを止めようと二人の裾を掴んだ。二人はそれで落ち着きを取り戻したようで、あれだけ激しく続けられていた言い争いが次第に落ち着いていく。二人はお互いに謝りあい、それから子供の方に向き直る。そして、男性の方がポケットからお菓子の包みを出すと子供に与えて頭を撫でる。呆然とした子供の顔にもいつの間にか笑顔が浮かんでいた。
僕はその様子にほっと胸をなで下ろす。それから弁天を見る。
「あの赤い球は正因子ってことでいいんだよな」
「はい、そうです。いまので分かりましたか」
僕は目の前で起こった光景について改めて考えてみる。負因子によって、仲の良さそうなカップルの間に亀裂が入りそうになった。おそらく、あのまま喧嘩を続けていたら二人は別れていただろう。負因子を与えているということは、その人間の人生を変えてしまう恐れがあるということか。現に、僕は親友と絶賛絶交中で、学校では須佐さんに水をかけたやばいやつとして距離を置かれている。
字面にすると、不幸が際立つ。これが、負因子の弊害。
「つまり、あーいったことがあるから弁天たちはなかなか負因子を減らせないってことか」
負因子を与えられた直後からでも、不幸な出来事は起こる。神さまは人々を助ける存在なのに、それが人々を助けようとしているとはいえ、苦しめてしまう。この矛盾は辛い。
弁天は僕の答えに首肯する。
「あのようなことが頻発しては、むしろ混乱が生まれてしまいます。ですから、その第一段階としてハガキという手段に出たんです。総合的に見て、比較的裕福な人が住んでいるところを中心にハガキを送っていってというかんじで」
たしかに、僕の家の周りはこの辺りだと比較的しっかりとした家が多い印象だ。でも、僕の家は元々父さんと母さんと三人で暮らしていた家だが、いまは月夜さんと二人暮らしで、裕福な感じなんて全然しないが。
「ちなみに、そのハガキっていうのはもう大分送っているって認識でいいの?」
「いえ、実は、万さんの家の周りと他のいくつかの場所に送ったのがいわゆる実験的な試みでして、そこで件の失敗が起こってしまい、それでいまはこの方法は取りやめています」
なるほど。だから、おかしなハガキの話を巷で聞くこともあまりなかったのか。
しかし、不思議だ。ここまでの話を聞いていると、管理者というのはろくに有用な政策を取ることもできない組織に見える。そもそも、今回のハガキ以前に何らかの政策を取ったのかも怪しいところだ。付け焼き刃で動いて、上手くいっていないところを見るに、動き出したのは最近か。ということは、
「もしかして、いまなにか緊急事態でも起こっているの」
ビクッと身体を震わした弁天は、な、何のことですかととぼけて見せて、口笛を吹く。しかし、その声音はたどたどしく、目線は宙をさまよい、口笛に至ってはヒュー、ヒューと息を吐く音しか聞こえない。ごまかし下手にもほどがある。
「なにが、起こっているんだ?」
「えっ、あー、えーと、その……」
あたふたと手足をばたつかせる。
「弁天」
お腹の底から低く鋭い声を出す。弁天は、僕の声にビクッと身体を震わせ、それから、諦めたとでもいうように、ガクッと肩を落とした。
「あの、実はですね、いま、負因子がこれまでにないほど蓄積しているんです……」
これまでにない、ということは。僕は空を見上げる。いま、この空を覆う闇は、とてつもない災害を起こす可能性を内包しているということだ。未曾有の、想像を絶するような災害が、日本を襲うということなのか。その可能性に、僕の身体は震え出す。膝が、腕が、僕のいうことを聞かない。
「そ、それは、まずいのかもしれない……。で、でも、実際にはあれだろ、いま空を覆っている負因子が全て弾けるなんてことはないだろ。な、弁天」
これだけあるのだから、全てが弾けるなんてことはないに違いない。きっと、そうだ。
しかし、弁天は無常にも首を横に振る。
「残念ながら、その確証はありません。全てが弾けるということも、ままあります。いまあれが弾けたとしたら、未曾有の災害が日本を襲うことは間違いありません」
心臓がバクバクと音を立てる。未曾有の災害。僕の目の前に広がるのどかな景色も、跡形もなく消し飛ばされるかもしれない災害。僕らの日常を、非日常へと変えてしまうかもしれない災害。
「あ、あの、一応、あれをなんとかする手段はあるんです」
「えっ、そうなのか?」
「はい。最後の手段ではあるんですが、あれを抑えることも一応は可能です。ただ、できればあまり使いたくないんですがね」
浮かない顔の弁天。それは、管理者たちにとって、あまりいい方法ではないのかもしれない。往々にして、切り札にはリスクがつきものだ。でも、それでも僕の心は少し落ち着く。思わず、ほっと息を漏らす。
「世界の秘密についての話は終わりです。さて、では私は負因子を減らしに行ってくるので、失礼します」
「どうやって、減らしていくんだ」
いま聞いた話では、およそ有効手段はなさそうだけど。
「取りあえず、分量を極限まで減らして、道行く幸福な人に負因子を与えるという方法を取っています。それがいまのところ、一番の方法ですから」
そう言って、来た道を戻ろうとする弁天の手をつかむ。
「おっと、急になんですか、万さん」
不意のことに、弁天はじとりとした目を向ける。
「僕にも、管理者の仕事を手伝わせてくれないか」
「いや、駄目に決まってるじゃないですか」
当然、拒否する弁天。でも、ここで引くわけにはいかない。
「頼むよ。僕も、この世界を救いたいんだ」
「駄目ったら、だめです。どんなに頼まれてもこればかりはだめです」
やはり、普通に頼んでもだめか。なら、別の方法だ。
「ところで弁天は、こういう話をよくするのか」
突然の話題転換に弁天は訝しげな視線を送る。
「こういう話っというと、世界の秘密ですよね。したことはありません。そもそも、管理者の仕事柄、人間に接触することはあまりないんです。ですから、万さんは特別です」
予想通りの解答。この話はほとんどの人間には知られていないようだ。なんなら、僕しか知らない可能性もある。そして、僕への罪悪感があるとはいえ、そんな大事な話を僕に話してしまう目の前の神さまは、あほなんではないかと思う。
「僕は、世界の秘密を知ってしまったわけだ。この話を、周りの人に教えることもできるんだよなあ」
はあ、と弁天はため息を一つ。
「そんな荒唐無稽な話、誰も信じやしませんよ」
「たしかにそうかもしれない。でも、僕にはこれがあるんだ」
バッグから取りだしたものを弁天の前に掲げる。途端、弁天の顔に困惑が浮かぶ。
「ハガキ、ですか」
「うん。実は僕の知人にもこれを持っている人はいるんだ。その人も最近あまり運がないようでさ」
ハガキを持っている人はもれなく、不幸なことが続いている。そういう人たちであれば、僕の話す絵空事にも耳を傾けてくれるかもしれない。
「い、いやあ、でも、それくらいじゃ、し、信じちゃあくれないと、お、思うんですが」
途端に動揺の色を見せ悩み始める弁天。
ああ、そうだ、やっぱり。この神さまは本当に優しい。僕の話なんて突っぱねてしまえばいいのに、それがなかなかできない。僕に負因子を多く与えてしまったときだって、なにも言わなきゃ分からないことなのに、僕にわざわざ謝りに来た。だから。弁天には悪いけどもう一つ、その優しさにつけ込ませてもらおう。
「あーあ。大切な友人に、絶交されちゃって悲しいなあ」
ちらっと弁天の方を確認すると、もうノックアウト寸前。泣きそうである。見た目は十五歳ということもあって、なんだか罪悪感が押し寄せてくるが我慢だ。
「……かりましたよ」
「うん?」
「分かりましたよ。手伝ってください」
「ありがとう、弁天」
渾身の笑顔を向ける。
「せいぜい使い潰されないように気をつけてくださいよ」
それに渾身の皮肉をぶつける弁天。
僕は、そんな皮肉に笑顔を浮かべながら、内心ほっとする。もし、いま、心を読まれていたら、僕の作戦は実を結ばなかっただろう。ただ、なんとかなった。もしかしたら、感情的になって弁天が読心術を使い忘れたのかもしれない。
それから、次は月曜日に集まることに決めて、弁天と別れた。
その帰り道。住宅街を歩きながら僕は思う。管理者、負因子、神さま。かなり荒唐無稽な話が展開されているのに、僕はなぜ、弁天に管理者を手伝わせて欲しいと頼んだのか。理由は単純。神さまだけに頼っていては不安だからだ。
でも、果たして本当にそれだけだろうか。僕はしばし考え、こう結論づけた。
やっぱり、男の子はこういう展開が好きなんだろうな、と。




