これはただの回想の話。
もう20年以上前の話になる。私が初めて「蜻蛉」という人間に会った時、私たちは高校一年生だった。
隣の市に住んでいた私は友達がいなくて、入学式が終わったあと、ぼんやりとこれからの身の振り方を考えていた。
ー友達付き合いとか、なんだか面倒だな。人間関係を最初から作り直すのが、こんなに億劫だったなんて。ー
その時、教室の前の方からけたたましい音がして、思わず私はビクッとした。
ガタガタガッシャーン!みたいな音を立てて、机や椅子をなぎ倒しながら、誰かが派手に転んでいた。
「おいおい、大丈夫かー?」
「ちょっと大丈夫!?怪我とかない?」
四方八方から心配する声が飛んでいく。よろめきながら立ち上がったのは、びっくりするほど細い、背の高い女の子だった。
女の子は困ったように頭をかいて、
「すまない、大丈夫だ!」
と、意外と低い声で言って、にぱっと幼げに笑った。だれかの安堵したようなため息が聴こえて、そのあと小さく笑い声がさざめいた。まだぎこちなかった教室の空気が、少しだけ緩んだ気がした。
「出席番号一番、明野蜻蛉です。よろしくお願いします!」
初めてのLHRで、元気よく自己紹介した彼女の髪の先に、ぱらぱらと埃が付いていたのを覚えている。
「四隅さん、その本好きなの?」
大体一週間ほどで、それぞれクラスでの立ち位置は決まった。私は結局親しい友人を作る努力を放棄して、教室の隅に収まった。それなりにクラスのみんなとうまくやっていた蜻蛉が、突然話しかけてきた時には、それはもう驚いた。
本ばっかり読んでる暗いヤツって思われて、憐憫の情から話しかけているのかという猜疑心と、その思考を咎める良心が殴り合った末、おかしな返答を口走った。
「いえ?…いや、うん、あ、はい」
『はい』なの『いえ』なのどっちなの、とケタケタ笑った後、彼女は嬉しそうに言った。
「僕、その人の本大好きなんだ」
「ほんと?…私も、です」
有名な作家じゃないから、知ってる人はあんまりいないと思っていた。その言葉は社交辞令には聞こえなくて、私は心が弾んだ。
「タメでいーよ、だってクラスメイトなんだぜ?気楽にいこう。あっ、僕のことは蜻蛉でも明野でも好きに呼んでいいからさ」
中学生になりたてのような、少年みたいな喋り方をするんだな、と思った。でも、妙にしっくりくるものがあった。
「敬語は癖なんです」
「ならいいや。そうだ!じゃあさ、今度その人の新しい本買うんだ。もしよければ貸すよ、四隅…いや、二藍さん!」
その笑顔はあまりにも普通で可愛くて、思わず笑みがこぼれた。
蜻蛉は、ちょっぴり挙動がおかしいことを除けば、至って普通の女の子だった。
流行りのオシャレとか、昨日見たテレビの話とかを面白おかしく喋っていた。帰りに可愛らしいカフェでお茶しているところを、帰りがけに見たこともある。絵に描いたような「普通の女子高生」を謳歌しているように見えた。
私なんかとつるむよりか、他の人といた方がいいんじゃないかなと思ったことも、一度や二度ではない。でも、私がそう言うと、決まって彼女はこう返した。
「ううん、僕は二藍さんといるのが今楽しいんだ」
私みたいな喜怒哀楽が薄めの人間と一緒にいて、何が楽しいのだろう。お気に入りの本の話をするのは楽しかったし、趣味も面白いくらいに合ったけど、それだけが不思議だった。
「ねえねえ、今日僕の家に来ない?」
学校が早めに終わったある日、蜻蛉が私に話しかけてきた。
「いいけど…いいの?お邪魔しても」
私が急な申し出にびっくりしていると、蜻蛉は頭を書いて困ったように笑った。
「うん。たまにはお友達を呼んできてもいいのよ?って、おばさんが心配しててさ。ちゃんと僕にもお友達がいるんだって安心させてあげたいんだ」
「おばさん?」
「ああ、言ってなかったっけ。言ってなかったな。僕、親戚のおじさんの家で暮らしてるんだ」
「……へえ、そうなんだ」
どういう反応をしたものか。そんな感情をダイレクトに出しすぎたのだろうか、蜻蛉が気まずそうな顔をした。しまった、話を変えよう。
「…えっと、お土産とか何もないけどいいかな」
「あ、ああ、もちろん!僕が申し出たことだからね、心配しないでくれ。SHRが終わったら一緒に行こう」
蜻蛉の家は、少し驚くくらいに小綺麗な、洋風の家だった。洋館というほど豪奢ではないけど、蜻蛉が家の前に立つと『良家の子女』って文字が脳裏にぼんやりと浮かぶような家。庭の花壇は綺麗に整えられてて、ゼラニウムのピンクの花が咲いていた。
「ちょっと待ってて」
蜻蛉はそう言うと勢いよく扉を開けて、家の中に入っていった。私は、戸から二歩くらい離れたところで待っていた。
「ただいまー。おばさん、お友達連れてきたよ」
すると、快活そうな女の人の声がすぐに聞こえてきた。
「ええっ?先に言ってくれればよかったのに。なんにも用意できないわよ」
「僕のお部屋にお菓子いっぱいあるからだいじょーぶだって」
「でも折角のお友達なんだし…そうだ、この前買ったクッキーがあったわ。今出してくるから」
「別にいいのにー」
せわしない足音の後、蜻蛉が扉を開けて、顔を出した。
「大丈夫だってさ、上がって上がって」
…会話からして大丈夫じゃなさそうだけど、いいのかな?
「わ、このクッキーすごいおいしい」
「でしょでしょ?おばさん秘蔵のやつだから」
「それすごく申し訳ないんだけど。ほんとに来てよかったの…?」
思ったよりも綺麗な蜻蛉の部屋で、私たちはクッキーを食べながらだべっていた。壁の二方は本棚で埋まっていて、入りきらない本が床や本棚の上に積まれているところは私の部屋と似ていたが、本以外の物が極端に少ないのが蜻蛉らしい。
学校カバンは持ったままだから、一緒に宿題をやるという選択肢もないわけではないが、そんな気など起こるわけもなかった。
「良かったんだよ、本当に。おばさんもああ言ってるけどさ、私が友達連れてきて、めちゃくちゃ喜んでるはずだからさ、クッキーくらいどうってことないって」
蜻蛉は心配する私に笑いかけながら、クッキーを口に放り込んだ。蜻蛉には私以外にも友人が沢山いるはずなのに、おばさんの驚きようは、まるで孤独だったいじめられっこに初めてお友達ができたのを知った母親みたいだった。昼休みの気まずい沈黙もあって、私は少し控えめに聞いてみた。
「蜻蛉、私以外にお友達を家に呼んだことないの?」
「うん」
あまりにも簡潔な答えに、思わずずっこけそうになった。
「うんって…」
「といっても高校生になってから、だけどね。おばさんは心配性なんだよ、僕がいじめられてないかすごく不安がってる」
蜻蛉がいじめられる?そんなことあるわけがない。もしあるとしても……いや、まずないだろう。ドジなところはあるけれど十分に愛嬌の範疇だし、頭も悪くなくて人間関係における立ち回りもそつがない。むしろみんなに愛される方だ。
「蜻蛉がいじめられるなんて思えないよ。だって蜻蛉はとてもいい人だもん」
「……そっか。そう思ってくれるのはすごく嬉しいな」
「思ってる、じゃなくて実際にそうなの」
「そっかな?」
私がいつになく自信たっぷりに念を押すと、蜻蛉は苦笑して首を傾げた。
「…僕の母さんはね、随分前に死んじゃったんだ」
あんまり何の気なしに言うものだから、私はお悔やみとかも何も言えなくて、ただそのまま聞いていた。
「母さんはあんまり褒められた人間じゃなかったから、そのことを知られたらきっと「悪人の娘だ」っていじめられるんじゃないか、っておばさんは言うんだ。…だから、僕はあんまりお友達を呼ばないんだ。あんまりお友達をたくさん呼んでも、仲良くなりすぎていつかその子達が知ってしまうんじゃないかって心配すると思うから」
淡々と話す蜻蛉を見て、私はなぜか少しだけ悲しくなった。明るく振舞っていても、どこか浮世離れしているのは、人とぶつかり合うほど関わらなかったのかと合点がいったから。側から聞いたらひどい過去を、ニコニコと話せるのは、心の隅っこがどこか致命的に壊れているんだなと思ったから。
それと同時に、不思議にも思った。
「……それ、私に言っても良かったの?」
まだ知り合って数ヶ月も経ってない私になぜ、こんなことを明かしたのだろうか。蜻蛉はきょとんとした顔で私を見た。その顔が可愛くて、昔飼っていたうさぎを思い出した。
「だって二藍さんは、きっと誰にも言わないだろ?それに、僕は君が友人の中でいっとう好きだからさ」
ぶったまげるとはまさにこのこと。私は照れるやら驚きやらで真っ赤になって、それから帰るまでまともに顔を見られなかった。蜻蛉はものをはっきり言いすぎる。それが好意であればなおさらだ。
そうして私と蜻蛉は、よく言う「親友」ってやつになったんだと思う。「だと思う」なんて曖昧な、とは言わないでほしい。側から見たら、私達に何も変わったことは無かったからだ。変わったのは私の気持ち……というか認識?「蜻蛉は私のことを1番好きだと言ってくれた」ということで、「私も蜻蛉のことが1番好き」になったんだと思う。そして、言わずとも蜻蛉もそれをわかっていた。それだけの話だ。