お母さま
お母さまはスプウンでスウプをお掬いになると、すっと頂きになりまして、物音一つ立てず飲み込まれたのでございます。
私が同じように致しますと、ちゃぽんと水音が鳴りまして、次にかちゃんと食器とスプウンが触れる音が響くのでございます。
掬ったスウプは私の舌にはまだ熱く、何度もふうふうと息を吹き掛けまして、やっと飲めるほどの熱さに冷ましてから、頂くのでございます。
お母さまはすっ、すっ、とスウプを掬っては、その薄い唇をお開けになりまして、すうっと口の中にお仕舞いになられるのです。スプウンを食器にするりと入れられますと、やはり物音一つ立てずスウプをお掬いになるのでございます。
次に召し上がられたのは焼きたてのパンでして、これは領地で取れた小麦を選別し、さらに料理長がお母さまに召し上がって頂くために一つずつ丹念に焼くのでございます。
それをお母さまは白い指先でお持ちになると、やはり音を立てずちぎられまして、小さく開いたお口へと運ばれるのでございます。
私も同じように致しましたが、やはりぷつぷつと音を立ててしまいまして、どうにもお母さまと同じようにはならず、ひとしきり不思議がっておりますと、お母さまは優しくお笑いになるのでございます。
「どうしたの、先程から母さまを見て。スープが冷めてしまうわ」
くすくすとお笑いになるお母さまはそれは美しく、息子である私も思わず見惚れてしまうのでございます。お母さまはきゅうと目を細められまして、そのしなやかな指先で口許を隠されますと、息を吐くように微笑まれましたので、私はどうにもたまらなくなって、口をもごもごとさせながら目を逸らします。
お母さまは私のそんな様子をまたお笑いになりますと、スプウンでスウプを掬われまして、やはり音を立てずに召し上がるのでございます。
昼食が終わりますと、お母さまは部屋に戻られますので、私も後を追うように付いていきまして、お母さまの私室へと招き入れられます。
お母さまは私を膝に乗せられますと、膝を覆うほどの絵本を手に取られまして、私と共にお読みになるのでございます。
絵本の内容は英雄様が活躍する物語でして、その英雄様は「氷の騎士」と言う異名を持つ男だと書かれております。
お母さまはこの題材のお話がお好きなようでして、私が絵本をねだりますと、よくこの騎士さまのお話をなさるのでございます。
お母さまの声は透き通るように響きまして、耳にすっと滑り込んで来るのでございます。私はお母さまの声を聞くとすぐに眠くなってしまうのです。
お母さまは舟を漕ぐ私に気付きますと、声を少しお控えになって、細く柔らかい指先で私の頭を撫でられました。私は余計に眠くなってしまいまして、これでは夜に眠れないと何とか目を開こうとするのですが、瞼がくっついてしまいまして、自分の力ではどうしようもなくなって、気付くと眠りに落ちてしまうのです。
お母さまはやはりお笑いになりますと、「一緒に寝ましょうか」とお言いになりまして、共にベッドで横になりますと、すやすやと寝息を立てて眠られました。
目を覚ますと外は赤く燃えておりまして、夕焼けに空にどうやら寝すぎてしまったと慌てますと、お母さまは私を優しく撫でていた手をお止めになられました。「よく眠れたかしら」とおっしゃるお母さまは夕焼けに染まっておりまして、穏やかに笑うそのお顔が驚いてしまうほど赤く、私は思わずお母さまにしがみつきますと、お母さまは心配そうに声をかけられるのでございます。
「あら、どうしたの。体調が悪くなってしまったのかしら」
よしよしと背を撫でるお母さまはどことなく不安げで、私はいてもたってもいられずに顔をあげますと、お母さまの目を見詰めておりました。
お母さまの琥珀の瞳はいつも煌めいておりまして、栗色の髪はウエブがかかり、揺蕩う波のようでございます。
言葉に出来ない思いを巡らせておりますと、使用人が扉を叩きまして、お父さまが帰って来られたことをお母さまにお伝えになりました。
お母さまは「わかったわ」と返されますと、私を抱いて立ち上がろうとなさいますので、私はもう幼子ではなく自分の足できちんと歩けるのだと言い募ります。お母さまはやはりお笑いになりますと、私を降ろされまして、ともにお父さまを出迎えに参ります。
お父さまは王立騎士団に勤めておりまして、若くして才覚溢れた方にございます。お母さまとのなれそめは聞いたことはありませんが、いつもお母さまに優しく接せられておりまして、お母さまも丁寧にお父さまに付き合っておられます。
お父さまのマントには銀の刺繍が施されておりまして、これは王立騎士団の副団長の証らしいのですが、お父さまは謙遜なさいまして、「副団長なんて俺の器じゃないんだ」とおっしゃるのでございます。
そう言えば気付いたのですが、お母さまはいつもアリスブルーのドレスを身にまとっていらっしゃいまして、お母さまの優しい雰囲気によくお似合いになるのでございます。
ですが毎日同じ色合いのドレスをお召しになっておりますので、他の色にしてはどうかとお尋ねしたところ、お母さまにとってこの色は特別なのだと教えて頂きました。
「この色はね、目印なの。……覚えている証なの」
そうお言いになったお母さまをお父さまは見詰められまして、ふっと顔を下げられますと、小さな小さなお声で呟かれてのでございます。
「……君は、まだ…………」
あまりにも小さすぎて聞き取れず、お父さまに視線を向けますと、薄茶の髪に隠されてお顔はどうにも見えませんでして、再びお上げになった際には、いつもの朗らかな笑顔を浮かべていらっしゃいました。
風邪を引いてはいけないからと部屋に戻られるお父さまとお母さまは大変仲が宜しく見えますが、人伝に聞いた話だと、お父さまとお母さまは白い結婚だと言うのでございます。
白い結婚というのは初夜を迎えていない夫婦を指すらしく、これを教えてくださったのは使用人でございますが、後でメイド長に「子どもに何を教えているの!」と叱られている姿を見てしまいました。
私が初夜とは何かを尋ねましたところ、メイド長曰く、子どものことであり、白い結婚とは子どもを迎えていない夫婦のことだと言うのですが、その時の使用人の表情を見るに、どうやら少々意味が違うのだということがわかりました。
それもそうでしょう、おかしな話でございます。私がいるのだからお父さまとお母さまが白い結婚だというのはあり得ないと言うのに、いったいどこからそんな話になったのでしょうね。
そうそう、不思議なことではございますが、お母さまの髪は栗色で、お父さまの髪は薄茶色をしておりますが、私は夜の空のような、深い海のような、かの「氷の騎士」さまと同じ藍色をしております。
「氷の騎士」さまというのは様々な物語の題材となった英雄様でございまして、何でも仲睦まじい婚約者がいらっしゃったようでございますが、国の存亡をかけた大戦にて、平和と引き換えにその命を散らしたそうでございます。
それが約十二年前のお話でありまして、珍しいことに、丁度私も今年で十二歳になるのでございます。まことに奇遇だと思いませんか。