Sound of Sunset
墜ちろ。
一九九三年初春、ロサンゼルス国際空港上空を旋回する飛行機の中で僕はそう願っていた。
僕はもちろんテロリストなんかじゃない。ただの“目的の無い十九歳の旅人”だ。いや、実のところそれは“旅”というよりは“逃亡”だった、と言った方が適切かもしれない。「日本における生活」からの逃亡だ。
しかし、実際には追っ手がいるわけでもないので、“逃亡者”というのも大げさだろう。だとすると、
一 日本で生活していくことに自信が無くなり
二 とりあえずお金を貯めて
三 とりあえずロサンゼルス行きのチケットを買って
四 とりあえず飛行機に乗ってみたものの
五 到着しそうなところで完全にビビってしまった、一見バッグパッカーの十九歳の青少年
というのが正確な表現だろうか。とにもかくにも誤解を与える表現は良くない。
ともあれ、紛れもなく僕は「堕ちろ」と願ったわけだ。願ったことは事実なのだからこればっかりは仕方が無い。しかしながらその願いは具体性のないもので、言わばイメージだ。多分「堕ちる」ということについて、具体的に創造できていたらそんなことは思わない。創造性の欠如と現実逃避。
Anyway
大韓航空機の機内、窓からは力強い朝日を浴びてゆっくりと目覚めていく巨大都市が見えていた。飛行機は、僕がうかつにも胸に抱いた浅はかな願いなど微塵も気にせず、滑らかに大きく弧を描きながら地上に近づいていく。隣の席で眠っていた、おそらく韓国人だろうと思われるおばさんが目を覚まし、何やら僕に語りかけてきた。着いたわね、とかそういう類のことを言ったのだろう。彼女はポカンとしていた僕から朝日に視線を移し目を細め満足そうに笑うと、通路を挟んだ席に座る友人らしきおばさんとしゃべり始めた。
高度はどんどん低くなっており、僕はもはや大魔王の城に乗り込むような心境になってきていた。しかも全くと言っていいほど装備は無い。唯一、ポケットの中の汗ばんだ手のひらで握りしめたトランプが僕の装備だと言っても過言ではないだろう。それは旅行会社がくれたトランプで、一枚ずつカードの下のほうに日常英会話の例文が書かれているものだった。もし、そのトランプを日本に忘れでもしていたなら、僕は機内でパニックに陥ってしまったかもしれない。それくらい僕はそのトランプを信頼していた。というより信仰していた。
アイドライクトゥゴウトゥサンタモニカ アイドライクトゥゴウトゥサンタモニカ アイドライクトゥゴウトゥサンタモニカ
子猫ちゃんがワンちゃんに楽しそうに話しかけている、スペードのキングカードに書かれたこの一節を、日本を発ってから幾度繰り返したか知れない。僕は仏教系の幼稚園の出で、いまだにお風呂上りには意味もなく毎日お経を唱え、それからビールを飲むような生活をしているのだが、もはやその一節は、それほど根強い生活の主軸となっているお経とシンクロニシティを引き起こしたかのように、僕の中で“あってしかるべき”存在になっていた。例えるなら、講堂に集まった園児の前で園長先生が最初に読み上げる 「き〜みょ〜む〜りょ〜じゅ〜にょ〜ら〜い」という正信念仏偈の一節のように、「アイドライクトゥゴウトゥサンタモニカ」は僕の中で始まりの象徴と化していた、とも言えるだろう。その言葉を使っただけで全ての偶然や必然が合唱して僕を高みへ導いてくれる。園長先生のあとに続き、園児が口を大きく開けてお経を大合唱するように、僕が「アイドライクトゥゴウトゥサンタモニカ」と唱えれば、アメリカ人は笑顔で肩を抱きながら「ハハー!コーチラデスヨー!」と合唱を返してくれる。そんなことを何の根拠もなく思い、トランプを見つめ小さな希望すら感じていた。新しい世界には期待をしすぎる傾向がある。
By the way
僕が九州の南に位置する活火山を有する故郷を後にし、アメリカまでやって来たのにほぼ意味は無かった。あるとすればそれは、“アメリカに来た日本人”というアイデンティティを得たかったから、ということくらいか。高校を卒業する少し前から僕は無力感に苛まれ始めた。受験を経て高校まで来たとはいえ、そんなに辛い思いもしていないし、まるでそれはエスカレーターのようなものだった。乗っていればとりあえず屋上には着くのだ。エスカレーターの切れ目でも、こちらですよ、という親切極まりない案内が書かれていた。そんな親切でおせっかいな護送船団方式の社会の中で、僕は自由を求める革命家を気取っていた。激しい競争のある民主主義への旅立ち。〜Follow me!
そして都合のいいドラマの中で僕は自由の旗を手にして、そして、戸惑った。そこにはエスカレーターもなければ案内標識もなく、ましてや親切なデパートガールもいない。旗を振ろうとしてあたりを見回すとそこには証人が一人もいなくなっていた。
大学に進学する者、働き始める者、浪人生になる者、皆途中で別館に移ってしまっていた。僕のたどり着いた場所には雨で休園となった、無人の屋上の遊園地があるだけで、百円入れて動くウルトラマンに乗って旗を振ったところで僕の虚しさは増すばかりだ。誰もいないところで旗を振っているのは“革命家”ではなく“旗を振る人”だ。しかも後々、「俺は旗振ったんだ」と言ったところで、「あぁそうかい、ところで最近天気悪いね」などと虫唾が走るような日常会話にかき消されるだけ。証人が居なければ革命もロックコンサートも無いのだ。だから僕は旗を置いて別館の端のほうへ移動した。僕もそこまでバカではない。多分。
とりあえず、僕は金を貯める為に工場の壁や屋根を施工する仕事に就いた。そこで出会った十歳年上の元ディスコマンの先輩と約1年間、サーフィンやディスコに通う毎日を過ごすことになる。予定はしていなかったが楽しかったから仕方ない。人生は楽しいほうがいい。「音楽はよぉ、黒人やっど黒人。優れた音楽にはよぉ、黒が入っちょっとよ。」そんな風に、ブラックを語るにあたっても臆せず方言丸出しでしゃべる彼の言葉は、僕にとってまるでマーティ・ルーサー・キング・ジュニア牧師の言葉のようで、黒人至上主義へと一転し、黒の入っていない音楽に軽蔑すら示すようになる。僕は正直な所、かなり影響されやすいのだ。
そしてもちろん、そんなディスコティックな生活の中では金はなかなか貯まらない。僕はある意味、無意識に金を貯めようとしていなかったのかもしれない。ここでいいんじゃないか、と。しかし愚かな僕は豪語することだけは忘れず、会う人会う人に「僕はアメリカ行くんです」と言っていた。ただしその言葉にはカッコ書きがあって、
「〜以下、語られる事の無かった内なる言葉〜(今はこんなふうに遊んでいますけど、僕には未来に対する自分なりのヴィジョンがあって、でも働いているだけでは何なのでこうしてうまくも無いサーフィンをしたりディスコにいってうまくもいかないナンパを続けて、たまにおいしい思いをしたりして自慢したりもしますが、あなたたちはずっとそうしていて何の疑問も感じないのかもしれないけど、)〜以上、語られる事の無かった内なる言葉〜 〜以下、現実において伝えられた言葉〜僕はアメリカ行くんです。〜以上、現実において伝えられた言葉〜 〜以下、無論語られることの無かった追記〜『ね、すごいでしょ』 〜以上、無論語られることの無かった追記〜」
というのが正確な文章だ。要するに無理矢理にでも自慢したかったんだと思う。理由なき自信。誤った認識。エゴの押し売り。純粋に見せかけた不純物。
いつしか季節は冬になり、「どうせこのままココにいるんだろ」というような視線を感じ始め、僕のアマノジャクは一気に開花し、
1 バイクの免許を取り(イージーライダーのようにアメリカで乗るつもりだったがそれどころではなかった)
2 ちょっと集中して金を貯め(とりあえず行けるというだけの)
3 始めてのSEXをして(ジャングルのようなSEXだった。ここでは詳細は省く)
十九歳になったひと月後にアメリカへ発ったのだった。そんなわけで、実のところ飛行機に乗った時点で僕の目標は達成されていた。少なくとも僕の周囲にはそんな行動を起こす人間はいなかったし、僕はアメリカに行く日本人、しかもツテ無し、という最も僕好みのアイデンティティを手に入れたのだ。そして僕はまだぎりぎり少年だった。
だから、アメリカに着く、という必然は僕にとって“異常事態発生”だったのだ。確かに自分で行くと言った。自分でチケットも買った。自分でアメリカ人に舐められないようにとシカゴブルズのボストンバッグも買った。しかしだ、だいたいアメリカに着いて何をするというのだ。金もツテも無く、除夜の鐘のように「アイドライクトゥゴウトゥサンタモニカ」が鳴り響く。サンタモニカにしたって、膝の上の地球の歩き方(これがまた何年も前の物で、後にこいつのせいで現実からジャイアントスウィングされるはめになる)をパラパラ見ていて、素晴らしき僕のアイデンティティの形成にふさわしい、などと思っただけだ。情報はその中の一ページのみだった。
“カサモニカゲストハウス”
その宿泊施設が僕の目指す場所で、僕にとっては物語の中の天竺で良かったわけだ。天竺は遠きにありて思うものだ。しかし当然飛行機はロサンゼルス国際空港に着陸する。望む、望まぬに関わらず。
気がつけば無情にもシートベルトのサインが消え、飛行機は完全に停止し、人々は荷物を持って目的のある上陸を始めていた。隣の席の韓国人のおばさんが笑って何かを言い、僕もそれに笑顔で答えた。観光か何かだろうが異様に楽しそうだ。
「はばないすとりっぷ」
「you too」
いけるかも、などとそんな会話で僕は思ったわけだが、そんなわけないのは英会話スクールに通う小学生だって知っている。韓国人の明るいおばさんがいなくなり、無目的な僕も仕方なく棚からアーミーバッグ(これもシカゴブルズのバッグ同様、舐められないためのアイテムだ)を取り出し出口に向かった。
洋服を詰め込めるかぎり詰めたシカゴブルズのバッグは機内に持ち込むには邪魔になるので預けておいた。とりあえず僕はそれを取りに行かなくてはならない。空港内を歩き始めると僕は自分が異邦人であることを改めて実感させられた。機内のシートに引きこもり状態で座っていたときは、乗客それぞれが別々の存在に思えていたのだが、こうしてみると自分だけが仲間外れのようだった。よく分からないが、とにかく早くシカゴブルズのバッグを抱きしめたかった。奴もおそらく僕と同じように外国人の荷物の中で挙動不審になっているに違いない。
手荷物受取所が見えてきた。しかし僕の行く手を入国審査が阻んだ。阻んだも何もやましいところは無いのだから普通に行けばいいのだが、それでも気持ち的には阻まれた感じだった。明らかにインターセプトだ。ともかく列に並びながらパスポートと出入国カードをアーミーバッグから取り出す。問題は出入国カードだった。機内で渡され、記入しなければいけないところまでは分かったのだが、後は勘で書いた。こいつのせいで裏部屋などに連れて行かれて尋問されたらどうしよう。弁護士を呼んでくれ、とでも言えばいいだろうか。でも英語で何と言うのだろう。ベンゴシ。
僕の並んだ列の担当は黒人のお兄さんだった。清潔そうでりりしくて、パーティとかが似合いそうだった。しかも家族を大切にしそうなタイプだ。しかし、だからと言って僕に優しいとは限らない。お兄さんにパスポートと出入国カードを手渡すと僕は純粋を絵に描いたような顔をしようと努めた。お兄さんは書類を見て、僕の顔を見る。密かに緊張が極限に達しそうだった僕が「ナイストゥミーチュー」と思わず言いかけたときお兄さんが僕に何か質問した。質問だ。これは困った。しかし僕はピンと来た。一休さん、もしくはあばれハッチャク並の鋭さだ。
「サ、サイトシーイング!」
正解。お兄さんはニッコリ笑ってホニャララ言って僕をアメリカへ招いてくれた。
もうアメリカ人になった気分で手荷物受取所に到着すると、すでに預けられた荷物がベルトコンベアに乗って次々出てきているところだった。自分の荷物を見つけた人々が一人、また一人とそこを離れていく。次は荷物を受け取ればいいのだ。次に何をすればいいかを、ここアメリカで思いつくことができて、僕は調子に乗ってきた。いい感じだ。僕は荷物が出てくる空間を見つめ赤色のバッグを待った。「黒、白、赤、でも違う赤、茶色、黒」。そして空間からは荷物が出てこなくなり、乗客は皆いなくなり、でもシカゴブルズの赤いバッグは現れず、結局僕と荷物を乗せず回り続けるベルトコンベアだけがその場に残った。そしてベルトコンベアすら止まり、通奏低音のような音も消える。僕は限りなく絶望に近い静寂の中にいた。巨大なクエスチョンマークに体の中から突き破られそうだった。生命の危機を感じた僕の思考は、静寂の中でフル回転を始めた。
「経由してきた韓国の空港では受け取ったでしょ。で、乗り継ぎの時また預けたでしょ、預けたっけ、いや預けたよ。係員の中の韓国人の女が僕を見て何かを言って、少し日本語の話せる韓国人の男が、彼女あなたきれい言ってます、と意味不明ながらも少し嬉しくなることを言って僕は旅慣れた余裕のあるジャパニーズを気取って『サンキュウー』なんて言ったけど、けど確かに預けた。預けた荷物は到着ロビーを出る前に受け取る、これがその受け取る為の用紙だよ。確かに、限りなく。そして僕のシカゴブルズのバッグはいったいぜんたい何処へ行ったのか、って誰に何と言って聞く?アイドライクトゥゴウトゥサンタモニカ?多分、多分それは違う」
気を失いそうだった。しかし僕はそこで気を失うわけにはいかなかった。何といってもアメリカなのだ。気を失って病院に運ばれでもしたら、僕はヘンゼルとグレーテルのように元の場所へ引き返すことが出来なくなる。病院に魔女がいたらどうするのだ。アメリカだ、無いとは言い切れない。うん、言い切れない。そういったわけで死に方を忘れたゾンビのような顔つきの僕はとりあえず出口へと向かった。空港出口近くに屈強そうな黒人の係員がいた。さっきの入国審査のお兄さんと違い、今度の人は金のネックレスをつけて力強いラップをしそうな人だった。パブリックエネミーのメンバーではないだろうか。パブリックエネミーだったら高校のとき聴いていて、一節を覚えている。いざとなったら「レッツゴーエンファインザピースオブマインザッツテイキン!」と手首を内側に曲げてラップをすれば、許してくれるかもしれない。僕は彼の目を見た。彼も僕の目を見た。ビビる目に僕は言った。
「エクスキューズミーマイバッグイズノットアライブ」
振り絞った僕のセリフに屈強そうな黒人の係員は不振な顔をして、それから僕らは数秒見つめ合った。
「エクスキューズミーマイバッグイズノットアライブ」
壊れたテープレコーダーのように僕は繰り返した。そこに相手の意思なぞ存在しない。あるのは繰り返しのみ。無我の境地。だって仕方が無いのだ。トランプにはこんな例文載っていなかったのだ。
多分それがだめだったら僕はワンランク破壊度を増して「アイドライクトゥゴウトゥサンタモニカ」と言ってしまったかもしれない。しかし奇跡的にパブリックエネミーは理解してくれたらしく、僕をどこぞの受付カウンターに連れて行ってくれた。その受付カウンターは僕にとって救いの場となる予定だった。しかしそこで味わったのはカウンターパンチに他ならず、はっきり言うと、受付のお姉さんが何処かへ連絡を取り、その後残念そうな表情で発した言葉、僕に向けられた言葉、一言たりとも理解出来なかったのだ。一言たりとも。古文なんて勉強している場合ではなかったのだ。英語だ、英語をやるべきだったのだ。いや、古文だってあまりやってないし、英語は嫌いだった。 受付のお姉さん、そしてそこまで連れてきてくれたパブリックエネミーに答えるべく、何か言わなければと思う僕の脳裏に浮かんだのは、「アペン、ディスイズアペン」という一文だった。中学英語の1ページ目だ。ペン、これはペンです。主人公はサムとベッキー、後誰だっけ?
無論浮かんだからといって口にはしなかった。当たり前だ。“戸惑い”というのを絵の解説付きの辞典で引いたらこうなります、というような僕を見て、係員は明らかに困っていたが、親切な彼女は図を書いて辛抱強く説明してくれた。その図により僕は、「シカゴブルズのバッグは何かしらの理由でロサンゼルス国際空港には到着していない」という事を漠然と知った。そして証明書のようなものを渡され、到着次第ホテルに届ける、ということを漠然と理解した。「ホテルは一泊分しか取っていないんです」そんな日本語を英訳するということは、当時の僕にとって遠い星から幾千年の時を経て地球に辿り着いたメッセージを訳すようなものだった。だから僕は二人に残念そうな顔でお辞儀をして、漠然とその場を離れ、そして随分歯切れの悪い形でアメリカの大地に一歩踏み込んだ。
表へ出ると暖かい西海岸特有の気候が僕を迎えてくれた。言い忘れたが、「向こうは寒いからあったかくしていきなさいよ」というイノセントな母のセリフに従い僕は分厚いコートを羽織っていた。当然いきなり汗だくだ。日中のロサンゼルスの気温は結構高いのだ。冬でも平均して二十度くらいある。母の愛は海より深い。
ここで予定されていた僕の物語を紹介する。初日にホテルに泊まり、次の朝バスでサンタモニカへ向かい、カサモニカゲストハウスで生活を始め、海岸を空手着で走っている所をショーコスギに見そめられハリウッドでデビューする。そんな情報不足の傍若無人なオリジナルストーリーの中では“僕”という主人公が燦々たる笑顔で輝いていた。もう人気者だ、どうしようもないくらい。あくまで僕の物語(予定)の中ではだ。そしてその物語(予定)の主人公に、過去の自分によって勝手にキャスティングされた現実の僕に、予告無しの小テストが配られた。
設問一 どうやってこのだだっぴろい空港から出ますか?
予期せぬ展開だ。その設問は、自信をもって臨んだ期末テストの数学の問一で、いきなりひっかかった時の数倍もハードルの高い問いだった。期末テストは「あぁあ」と嘆けば済むが、これは嘆いている場合ではない。 ロサンゼルス国際空港の規模は僕の想像を遙かに超えおり、だからといって僕の想像がどれほどの規模かというと、もはや説明の余地も無いだろう。タイムスリップして、旅立ち前にディスコで踊り明かしている僕に強烈なデコピンを喰らわしてやりたい気持ちでいっぱいだった。
バス、タクシーに乗り込む人々。バス停に近づいても、そこには僕を引き返させる要因しかなく、その頃の僕はホテル直行のシャトルバスの存在なんて知らない。異常なまでに”調べる”ということをしない青春だ。リターントゥイノセンス。とりあえずここは誰かに聞くことにした。前向きに。ポジティブに、同じか。そして僕は伝家の宝刀、ポケットのトランプを取り出し例文を探す。
「How can I get to the hotel?」
ばっちりではないか。僕はトランプを渡してくれた旅行会社の受付のお姉さんに恋すらした。というよりもはや聖母だった。とはいえ一度誘おうとしてナチュラルに断られたのだが。
タイミング良くそばを通りかかった、親切そうな青い目のおばさんにさっそく僕は切り出した。するとおばさんはにっこり笑って(僕にはおばさんをにっこりさせる何かがあるのだ)親切にホテルへの行き方を説明してくれた。「オー、オー、サーンキュー」と言い僕らは別れたわけだが、その会話で僕の脳のディスプレイに表示されたのは、“?” だった。もしくは、“ERROR” または、“残念ですが要求は拒否されました。またのお越しをお待ちしております”。いわゆるひとつの“完璧なまでに理解できない”ということだ。パーフェクトだ。 往年の江夏豊も目ではない。何に対して僕は「サンキュー」と言ったのだろう。しょうがないからおばさんの青い目に対して言ったということにしておこう。そして僕は自分一人で解決できる方法を考え行動に移した。間違いなく原始から人が行ってきた行動、人間の証明、二本の足で行う美しき行為。徒歩だ。
僕はあたりを見回す。広い広い空港、出口がどちらかすら分からない。でも今はとりあえず歩きださなくては。ユーイングのバッシュの感触を確かめるように一歩ずつ僕は自分の足を前へ運んだ。僕の歩いている道に並んで歩く人間は誰一人いない。おそらく歩道ではないのだろう。空港が迷路になっているはずもない、入り口があれば出口があるのだ、という変てこりんな哲学だけを頼りに僕は歩いた。そして約一時間歩いた時点で、少しは利口なサイドの僕が静かに核心をついてきた。
「ねぇねぇ、歩いてじゃさぁ、出られないんじゃない?」
確かに、確かに無理そうだ。歩いても歩いても、空港ツアーをしている気分にしかなれない。そしてせっかく初日だけ特別にホテルをとっているのに空港で夜を過ごすのはまっぴらだった。当たり前だ。そして僕は同じ時間をかけて元のスタート地点に戻ってきた。ふりだしにもどる。
タクシーの横に立つヒスパニッシュ系らしきおじさんの元に僕は躊躇なく近づいていった。ある地点を越えた精神、肉体の疲労は人をやるべき行動に導いてくれる。例えば眠るとか、泣くとか、タクシーに乗る、とかだ。僕はメモ紙を取り出しホテルの名前をそこに書いた。その紙をおじさんに見せ 、「アイウォントゥゴートゥホテル」 と言った。おじさんはニヒルに笑い、首で、乗れよ、と合図した。後部座席に乗り込むと、今まで緊張していた僕の疲労がザワザワと音を立て始めた。おじさんは一言二言話しかけてきたが、僕が口を開こうとしても言葉が出てこないのが分かるとやがてあきらめ、聞き覚えのない鼻歌を歌いながら運転に集中した。タクシーはすんなりと空港の外に出てロサンゼルスの温暖な気候の中を滑らかに抜けて行く。ともすれば眠ってしまいそうだったがまだ僕は守られていなかった。僕は夢でも見ているかのように外の風景を眺めていた。不思議なことにタクシーに乗って外を眺めていると、やっとアメリカが自分を迎え入れてくれたような気になっていた。それから約十五分ほどで目的のホテルに着いた。簡単なものだ。
「ハウマッチ?」 と聞き、おじさんに言われた金額を渡した。チップというものがあって、とかそういうことを言っていたようだったが勿論何を言っているかは分からない。少し多かったのかもしれないけど法外な金額でもなかったし、何より僕は早く ホテルの部屋に入りたかった。ホテルというのはどこの国でもある種のスノッブさと優しさを兼ね備えている。とはいえ、僕が知っている国は日本とアメリカ(しかも初めての)しかないのだが。何にせよここで僕は宿泊チケットを持った本日招かれる客人だった。
受付に行き僕は宿泊チケットを提示する。そこではたいして言葉も必要なく僕はすんなりキーを受け取り、エレベーターに乗って自分の部屋に向かった。エレベーターの中は静かでとても心地良かった。目的のフロアに着き静かに扉が開く。アーミーバッグを背負い、ユーイングのバッシュを履いた途方にくれた日本人は、「母さん、確かにこの廊下はコートを着ていてもそんなに暑くないし心地いいよ」 と意味不明な感動すら覚えていた。部屋の前にたどりつき、ルームナンバーを確かめ、僕はカチャリとカギを差し込んだ。ドアを開けると、そこはそんなに広くはないがとても心地よさそうな部屋だった。おもむろにバッグを床に落とし、コートも床に脱ぎ捨て、ベッドに靴のまま寝そべった。アメリカだ。僕の体重に沈むベッドの中で僕はひと息つき、ムクッと体を起こしテレビの電源を入れた。チャンネルを回してみたがもちろんそこもアメリカだった。お昼下がりだからといって新宿アルタは画面には映らない。そこにタモさんはいない。
テレビの電源を消すと僕は再びベッドに沈み込んだ。疲れが表面化し、今度は僕の体のあちこちの電源がひとつずつ切れていった。足先から始まり、腰、胸、背中、耳、あご、そして最後に意識の蛍光灯だけが残ったとき、僕は自分がアメリカ到着の初日にしてホームシックにかかっていることを認めた。間違いない、僕はホームシックにかかっている。寂しくて少しだけ涙が出た。涙が少しずつ僕の中から光を吸い取っていき、僕はそのまま眠りの中へ沈んで行った。まるでそれは母胎に戻っていくような、そんな眠りだった。
誰かがドアをノックしている。まだ眠りの中にいた僕は、そんなもの無視してしまえ、と目を開けずにいた。起きてしまうと現実が睨みをきかせて待っている。しかし辛抱強く、極めて紳士的に続くノックに僕はふと気づいた。誰も知る人のいないこの場所で、ノックされる覚えといえばひとつしかないのだ。
一瞬で覚醒すると僕はガバッと起きあがりドアを開けた。そこにいた若く意思のある顔つきをした浅黒い皮膚を持つ男に見覚えはなかったが、彼が手にしている赤いシカゴブルズのボストンバッグは、間違いなく僕と一緒に故郷を旅立ったものだった。
「Are you 〜?」
僕は首の関節が折れそうなくらいうなずき、わが子の出産を目にしたように歓喜した。実際にわが子の出産を目にしたことはないが。
その後彼は諸事情を説明したが勿論理解できず、しかし到着してから味わった、理解できない言語に比べて彼のそれはまるで歌のようだった。僕は心の底から届けてくれて本当にありがとうと言い(もはや説明の余地も無いがサンキュウーベリーマッチと言っただけだ)、赤いシカゴブルズのボストンバッグを受け取った。彼は、良い旅を、と言うと(もはや説明の、もういいな)ムービースターのようにその場を去って行った。僕までムービースターのような気持ちになった。 ドアを閉め、オートロックがカチャリと音をたてると同時に僕はバッグを抱きしめていた。彦星が織姫を抱きしめる時でもこんなには強く抱かないだろう。それからバッグの中身をひとつずつ丁寧にベッドの上に並べていった。トランクス、Tシャツ、靴下、ジーンズ、ドライヤー、シェーバー、歯ブラシセット、石けん、等々。まさに日用品のオンパレードだったが僕にとってそれは世界遺産と同じくらい価値ある光景だった。
広げるだけ広げて満足した僕は自分に宣言した。プロパガンダ。何もすることは無い、お金もそんなに無い。でも僕はアメリカまで来たんだ、遠いアメリカまで来たんだ。サンタモニカへ行こう、明日、サンタモニカへ行こう。 アーミーバッグからソニーのウォークマンを取り出し僕はフルヴォリュームで布袋寅泰のファーストアルバムを聞いた。
OPEN YOUR HEART WOW WOW WOW WE'RE DANCIN' IN THE MOON LIGHT
日本から持って来た唯一の音楽だった。僕は椅子に座り窓の外のアメリカと世界遺産を眺めながら、陽がくれるまで布袋を聞き続けた。ギターの歪みに細胞があちこちで弾ける音が聞こえた。安心した僕を迎えたのは空腹感だった。機内食を食べて以来何も食べていなかったのだから当然だろう。しかしまだ夜のアメリカに出てばっちりディナーを決め込む自信は無く、ルームサービスを頼むべく電話を手にした。数コールの後受付に繋がり英語が聞こえてきた。そして僕は現実に引き戻された。まだしゃべり続ける声が響く受話器をそっと置くと、部屋の中は再び静寂に包まれた。OH MY GOD、と一応言ってみた。アメリカだし。関係ないが僕は仏教幼稚園の出なので、オーマイ 親鸞様、とでも言うべきだったのだろうか。ルーツは大切にしなくてはいけないし。
少し眠り、バッグが届き、セルフ世界遺産を築き、布袋を聞いたからといって僕の根本的な問題は解決されるわけもなかったのだ。当たり前だ。英会話スクールに通う幼稚園児だって知っている。僕はバスルームへ行き蛇口をひねり、そこから流れ出す水を飲んだ。お世辞にもうまい水ではなかったがそんな事は言っていられない。とにかく僕は食物をあきらめ、まずい水分補給でその夜を越すことにした。外は夜が光を浸食しきろうとしており、部屋の中はほのかに暗くなっていた。僕は部屋の電気をつけ、とりあえず再びテレビの電源を入れた。そこでは僕の物語(予定)の中の出演者でもあるショーコスギが、あやしげな日本語を使い敵をなぎ倒していた。
「オマエッコロス」
ビーバップハイスクールにだってそんなべたなセリフは出てこない。城東高校の柴田だってもう少し気の利いたことを言う。その番組が終わり、僕はテレビをつけっぱなしにしてシャワーを浴びた。熱いシャワーは少しくらいの精神の問題は解決してくれる、と誰かが言っていたが本当だった。シャワーから出ると僕は全裸のままで部屋を眺めた。悪くない部屋だと思った。僕は電気という電気を全てつけ、机に座り唯一持ってきた本、地球の歩き方<ロサンゼルス>を読んだ。本の中は今の現実より生き生きしていて僕はそこに希望すら感じた。希望とは可能性だ。あの夜の僕くらい”地球の歩き方”を物語として読み込む人はそういないと思う。サンタモニカのカサモニカゲストハウスの載ったページを僕はしばらく眺めていた。僕がどんな状況だろうと、この夜は朝が来ると終わる。それが世界の摂理であって、マリリンモンローだってジミヘンドリックスだってオケラだってミミズだってその中で生きてきたのだ。そして僕は地球の歩き方を閉じ一言口にした。
「アイドライクトゥゴウトゥサンタモニカ」
朝日が昇ったら僕はサンタモニカへ向かおう。そして物語は始まるのだ。予定でなく現実の物語へのオンステージ。ここは素敵な楽屋だ。世界遺産をバッグにしまい、ウォークマンをコートのポケットに入れ、地球の歩き方をアーミーバッグにしまい、僕は出番まで眠ることにした。少し早い気もしたが今なら眠れそうだった。あえて時計は見なかった。
夢を見ていた。生まれた街から二時間ほど車で走った場所にあるビーチの夢だ。僕と先輩は車の中でウェットスーツに着替えている。まず助手席の僕が着替え、それから運転席の先輩が着替える。先輩が運転している間は僕が右足を助手席から伸ばしアクセルを踏み右手でハンドルを切る。太陽はもう水平線にさしかかっていて、仕事を信じがたいスピードで終わらせた僕らは工事道具と一緒に、早朝親方の目を盗んで積み込んだサーフボードを乗せた車で海へ向かっている。
海岸に到着した時、サーファー達はすでに陸に上がってきており空気も少し冷たくなってきていた。しかし僕らは何の躊躇もなく、狂ったようにはしゃぎながら人々と交差するように海に飛び込んだ。海一面に太陽がオレンジの粒を散らして、眼鏡をはずした視力の弱い僕にはそれがなおいくつにもだぶって見えた。陽が沈むまで三十分と予想した僕らは冷たい海にボードを放ちその上に飛び乗る。沖まで出てくるやいなや三本のセットが入ってきた。先輩が奇声をあげ陸の方にターンして 波とのタイミングをはかり激しくパドリングを始める。そして僕に、「時間ねーぞ!乗って乗って乗りまくれよ」とぎらついた笑顔で語りかける。僕はそれに親指を立てて答えた。うねりが僕を大きく空に運び、そのまま抜き去っていき、先輩が僕の視界から消えるとそのまま波はブレイクしだした。うねりの後ろ側から次々に波が崩れていくのが見え、そしてスッと先輩が現れる。彼はうまく波をつかまえアップダウンしながら波をカットしていく。加速する波とボード、水しぶき、アップ、ダウン、アップ、ダウン。次のうねりを捕まえるべく僕は沖を見る。しかし視力の弱い僕にでもすっかり分かるくらい、先輩の乗った波を最後に海はまったくのナギとなってしまっていた。水しぶきすら立っていない。オレンジの粒がフェイドアウトしていく中僕は「いけない」と思う。陸の方を見るとそこには人影すら見えない。先輩の姿も、僕らが乗ってきたワゴンも見えない。急いで陸に向かってパドリングを始めたが、僕は波がぶつかるスポットに紛れこんでしまったようだった。回りの景色と見比べても少しも動かない。いくら漕いでも、いくら漕いでも。僕は広い海にひとりきりだった。僕とサーフボードと漆黒の海。そこからはもう陸さえ見えなくなっていた。どこか遠くで波の音が聞こえるだけだった。
暑い。
まぶたを光が覆い僕は汗だくで目を覚ました。朝だ。
僕は起きあがり熱いシャワーを浴びた。チェックアウトの時間までまだ一時間近くあったが僕は身支度を整えロビーへ行きホテルを後にした。僕とユーイングのバッシュとアーミーバッグとシカゴブルズの赤いバッグが、初めて一緒になってロサンゼルスの街に立った。 ホテルを出る時、受付で試しにサンタモニカへの行き方を聞いてみたがやはり理解できなかった。バスに乗れ、というのはかろうじて分かったがバス停が何処にあるのか、ということさえ分からなかった。分かった所で間違ったバスに乗る可能性は現段階では非常に大きかった。空港行きのバスになんて乗ってしまったらどんな行動を起こすやもしれない。
僕は再び徒歩を選択した。時間だけは限りなくあるのだ。それにもう何処のホテルもとっていないし、もう誰も僕がやってくるのを待つ人間はいない。夜が来るまでになんとかすればいい。空を見上げると一機の見覚えがある飛行機が横切って行った。僕が乗ってきたのと同じ航空会社の飛行機だ。たしか空港に着く前に飛行機はサンタモニカ上空を通った。それは僕の持つ、限りなくあやふやな情報だったが、今の所僕にとっては僕の記憶と地球の歩き方だけが頼りだった。空港とサンタモニカの角度、ホテルとサンタモニカの角度はそうたいして変わらないだろう。その仮定が浮かび上がると同時に、僕は飛行機の飛んで行った方向に向け歩き出した。2月とはいえ、コートをはおった僕にロサンゼルスの気候は厳しかった。しかし少しも不快感がなく、逆に喜びすら感じていた。“Stranger in this town”。僕はれっきとしたアイデンティティを持つ一人の男になっていた。もう空腹感も感じなかった。僕はポケットからヘッドフォンを取り出しフルヴォリュームにした。“Come on everybody”のリフが僕の足取りを軽くする。僕は空港まで見送りに来てくれた友人と母を思い出していた。
「お元気ですか?僕は今歩いてます。限りなく、歩いています」
気がつくと、辺りはスラム街のような雰囲気になっていた。つい半年ほど前にあったロス暴動はここらへんだったのだろうか?街角には黒人しかいない。ラジカセを囲みダンスしている男達がいた。LLクールJかな?パブリックエネミーかな?ヴァニラアイスじゃないだろうな、などと思いながら横を通りぬける。僕も彼らを一瞬見て、彼らも僕を一瞬見る。
目の前からは鉄パイプを肩にした女が歩いてくる。僕は一瞬彼女を見て、彼女も一瞬僕を見る。そしてすれ違う。フルヴォリュームのヘッドフォン越しにクラクションが聞こえた。横を見ると中国人らしき男が車を止め何かを叫んでいる。僕がヘッドフォンを外すと彼のまくしたてる英語が聞こえてきた。ネイティヴの英語と違う片言的で断片的な英語だったからだろうか、僕は端々の単語を理解することができた。
「そんな荷物持って何こんなとこ歩いてるんだ、危険だよ、危険だ」
というようなことを言っていたようだ。やっぱり暴動区域なのかな、なんて思いつつ、聞き取れたはいいが言葉の出てこない僕を見て彼はため息をついた。そしてゆっくりとしゃべりだし、僕に一枚の名刺を差し出した。困ったら電話しろ、そういった事を彼は言って車を発進させた。そして少し行った所で止まり、
「Take a bus,you gotta it?」
と窓から体を乗り出しながら言って、再び車を発進させた。僕は名刺をコートのポケットにつっこみまた歩き出した。危険だか何だか知らないが僕には歩くことしかないのだ。そして電話での会話を思っただけでうんざりした。電話での会話は対面しての会話よりずっと難しいだろう。しかも僕は日本語でも電話というものがあまり好きではない。だが、ともかく、ちゃんとThank youと言えなかったことは後悔した。人の優しさにはたとえそれが偽善だろうと感謝しなくてはいけない、それが僕の哲学だ。
遠く左側に海岸が見えた。まるで間違っているわけではないな、と僕は足を進めた。そのまま海岸に向かっていればまた状況は変わったようなものを僕はひたすらに直進した。 時計を見るとホテルを出てから四時間が経過していた。ふと思う、「はて、ここがサンタモニカだ、と分かるにはどうやって判断すればいいんだ?」
僕は四時間かけてやっと、その疑問としての正解にたどりついた。もう海岸も見えなくなっていて、引き返すにも進みすぎていて、僕に残された選択枝は直進のみ、となっていた。まぁいい、まだ陽は沈まない。太陽はあんなに高い場所から世界を照らしている。
西海岸の日差しはなかなか僕を疲れさせることができなかったが、五時間目でようやく僕を立ち止まらせた。気がつくと蓄積された疲労が体に重くのしかかり、一瞬回りの音が遮断され、自分の呼吸音だけが響くくらい僕はぐったりとしていた。そしてそこはいつしかスラムを抜け、景色はちょっとした街並みに変わっていた。 大きなスーパーマーケットがあり、そこには様々な皮膚の色をした人たちが出入りしていた。そんな日常的な風景に安心したのか、僕は異様なほどの喉の渇きを感じた。それまで体の機能が麻痺していたんじゃないか、と思うくらい切実な乾きだった。
僕はスーパーマーケットに入って行った。あたりを見渡し、ドリンクの並ぶコーナーを見付けた。見慣れない飲み物が並ぶ中、僕は水を手にした。水は世界共通だろうと判断したからだ。空腹感もじわじわ表面化してきていたのだが、食べ物は何を買えばいいのか分からなかった。僕はそのままレジに向かい水を買った。アメリカに来て初めての買い物だった。たったそれだけのことだったが、僕にとってはアームストロング船長が月に降り立った時のような一歩だった。
スーパーマーケットの外に出ると、日陰を見つけてそこに座り込んで水を飲んだ。水は喉を通りすぎると体のいたるところに染みこんでいった。日本の水と少し味が違ったが、こんなにうまい水を飲んだことはなかった。あったとすれば、小学生のころ少年野球の真夏の練習の合間に飲んだ水の味に少し似ているかもしれない。あの時の水もこんな風に体に染みこんでいっていた。僕の体はアラビアの熱砂のようだった。半分飲んだところで僕はペットボトルをアーミーバッグにしまい、一息ついた。さぁ、これからどうすればいい、 そう考える僕の視界に黒人の少年が立っていた。 それは突然の出来事で少し驚いたが、不思議そうに僕を見つめるその少年に僕は微笑んでみた。微笑みを引き出されたという方が正しいかもしれない。
「What are you doing here?」
よっぽど僕が珍しいぐったりした感じだったのだろう。彼としてはぐったりした東洋人を見たのは始めてだったのかもしれない。しゃべりかけられてまた少し驚いたが僕は、
「I'd like to go to Santa Monica」
と、ゆっくり、なるだけ丁寧に言った。少年には僕にそうさせる何かがあった。その後少年は言葉を繋いだがそれは理解できなかった。そんな僕を見て少年はその場を立ち去っていった。バイバイ、と手を振りながらその姿を追うと少年のお母さんらしき人がこちらを見ていた。少年が語りかけると、お母さんらしき女性はにっこりと笑ってうなずいた。そして少年は僕のところに再び戻ってくると僕の手をつかみ歩き始めた。少し離れた場所から微笑むお母さんらしき女性もついてくる。どういうことなのか分からず、なされるままに歩くとひとつのバス停にたどり着いた。
四、五人の人がバスを待つ中、少年は何も喋らずに僕の方を見ていた。手はまだ握られたままだ。握られていない少年の手には鮮やかな色のオレンジが握られていて、一瞬それに目をやるとそのまま僕にくれた。断ろうとしたが少年は違う方を向いてしまい、僕はありがたくそのオレンジをもらった。とてもひんやりとしたオレンジだった。おそらくスーパーマーケットで買ったばかりの物だろう。少ししてバスがやってきた。人々が乗り終えたのを見計らって少年が運転手の女性に語りかけた。そして少年は僕に何かを言って、通じないのが分かると一言、「Money」 と言った。僕が財布を出すと、彼は小銭入れに手をつっこみコインを運転手に渡した。そして運転手に首で合図され僕はバスに乗り込んだ。振り返ると少年がニッコリ微笑んでいた。僕は今度は後悔しないように、「Thank you」と言った。ドアが閉まると、少年はお母さんらしき女性に頭を撫でられ一緒にその場を立ち去っていった。発車したバスの窓から僕はその姿が見えなくなるまで見つめていた。
車内は少し混んでいて、でかい荷物を持った僕はかなり邪魔をしていたのだが文句を言いそうな表情を浮かべる人はいなかった。いくつかのバス停を通過し、到着した場所で運転手が僕に何か言ってきた。降りろ、ということらしい。ここはもうサンタモニカなのか?と思っているだけの僕に何かを言っていたがすぐにあきらめ一枚の切符を手渡した。そして向かいに停車していたバスを指差した。それはトランスファーチケットでバスを乗り継ぐ際に必要なもので、勿論追加料金がいるのだが、彼女はただそれを手渡して一瞬笑った。僕が良く見ていなかったせいなのかもしれないが、彼女の笑顔を見たのはバスに乗って初めてだったような気がする。僕は指示された通りバスを降り、次のバスに乗り込んだ。するとさっきまで乗っていたバスの運転手が僕のすぐ後ろに立っていて、乗り込もうとしているバスの運転手に向かって何か説明し始めた。そして会話が終わると、僕を乗り込むように促し自分の運転するバスに戻っていった。チケットを運転手に見せ車内に入る。そのバスには数人しか乗客はおらず、僕は真ん中あたりの席に座った。エンジンがかかりバスは走り始める。窓の外をすぎゆく景色は西海岸そのものだった。暖かい地域にしか無さそうな木々が車道を囲む。僕の故郷も南国なので似たような景色があった。サンタモニカを目指した僕を自分自身で理解した。生まれた街から逃げ出すふりをして、僕は生まれた街に帰りたかったのかもしれない。僕はセンチメンタルになっていた。それはホームシックの類の物ではなく、とても優しい気持ちのセンチメンタルだった。
海岸が見える。運転手が僕に言った。
「Santa Monica」
僕は荷物を抱え、Thank you、と言いバスを降りた。そして去りゆくバスを見つめた。黒人の少年はただお母さんと買い物に来ていただけで、バスの運転手はただ毎日と同じくバスを走らせていただけで、僕に親切にしてくれる理由なんて何もなかった。僕はただ生き方の分からない、英語を理解しない日本人だった。今のところあまり価値の見あたらない人間だ。
僕は彼らの幸せを願った。両手を合掌させて、心から願った。目を閉じて、ホテルからサンタモニカまでの一日を思い返した。長い、とても長い一日だった。そして僕は、自分の小ささ、愚かさを知り、人は他人がいて、初めて人たりえるのだ、ということを学んだ。もっと早くそれを学んでいれば、もしかしたら僕は誰かを傷つけずに済んだかもしれない。
アーミーバッグから地球の歩き方を取り出し、“カサモニカゲストハウス”のページを開いた。そして僕はトランプを取り出し、2枚のカードを探しあてた。頭の中で文章を構成し、何回か練習した。そしてひとつ深呼吸して通りかかる人に声をかけた。
「Excuse me, How can I get to here?」
カサモニカゲストハウスのページには住所が載っており、それによってコミュニケーションは成立したのだが皆首を横に振るだけだった。そんなに有名ではないらしい。そして四人目のおばさんがやっと行き方を説明してくれた。僕は彼女の言葉にしっかり注意を払い、理解しようとした。分からない時はもう一度言ってもらった。僕は、理解した。
「Thank you」
僕がお辞儀をするとおばさんも笑ってお辞儀をした。お辞儀という行為はこんなにも奇妙なものなのか、と思った。何処かで当たり前と思われていることが何処か他の場所では奇妙に映る。そんなこともある。
いくつかの角を曲がり、僕はカサモニカゲストハウスにたどり着いた。地球の歩き方の中の写真がそのまま目の前にあった。しかし僕はひとつ異なる点を見つけた。極めて重要なポイントだった。地球の歩き方には、「カサモニカゲストハウス:サンタモニカのビーチ近くに位置し、朝食、夕食付き、一泊23$」 とあり、現実のカサモニカゲストハウスの入り口には 、「For sale」 という一枚の表札が掛かっていた。そう遠くない昔に売りに出されたようだった。僕の持っていた地球の歩き方は人からもらったもので、1990年の物。僕は1993年のサンタモニカにいた。僕はがっかりした。
でも少しだけがっかりして、がっかりするのを止めた。無知は時に罪である、僕の好きな作家がそう言っていたが僕はそれを実感した。そして教訓として受け止めた。僕が今すべきことは、がっかりしてため息をつくことでも、その場にしゃがみこんでしまうことでもなく、今夜の宿を探すことだった。やりたいことをやるのではない、やるべきことをやるのだ。僕はカサモニカゲストハウスにひと言、「See you」 と言い、その場を後にした。一度だけ振り返った。何といっても遠い日本から目指してきた場所だ。振り返っても罰はあたらない。僕をアメリカまで導いてくれたページの中の“カサモニカゲストハウス”。
大きな道路に出ると、そこにはいくつかのホテルがあった。そんなに持っているわけではないが、一泊するくらいの金は持っている。明日はまた目標を作って進めばいい。目標がないなら目標を探して進めばいい。そのまま宿を取りに行こうとする僕の目に海が映った。太陽が半分水平線に沈んでいた。僕は潮の満ち引きに引き寄せられるように海へ向かった。
ビーチに入る前に、出ていた露店でハンバーガーを買った。メキシカンスタイルのハンバーガーだった。相変わらず変な英語だったが身ぶりを交えて注文した。ヒゲを蓄えた店員のおじさんから受け取ったハンバーガーにかぶりつくと僕の血液がドクンと音を立てた。心臓が喜んでいるんだな、と思った。ビーチに降り立つと太陽はほぼ沈みかけていて、そして一日のクライマックスを証明するように、空と海の境界線を真っ赤に染め、水面に無数の光の粒を散りばめていた。大きな、とても大きな海だった。
サーファーの姿が見える。彼らはとても上手に波を捕まえる。風はオフショアだ。犬をつれたカップルが幸せそうに歩いている。異国に思いを馳せるように、海を見つめている人がいる。ローラーブレードや自転車で走る人がいる。そんな絵のような景色の中で僕は、オレンジの光に包まれながらいつしか涙を流していた。理由のない、限りなく純粋な涙だった。太陽の沈むメロディが聞こえる。並木道のヤシの木が、風に揺られスロウなリズムを刻む。僕の中に今、小さないさかいや争いや迷いは何もなく、そして、まだ名前すらない願いが喉の奥の方で発熱し、静かに呼吸を始める。
僕は太陽が完全に沈んでしまうまで、真っ赤に染まった水平線を見つめていた。ただ、水平線だけを見つめ続けてていた。
2005年5月にhttp://redguitar.netで発表した処女作「SUN GOES DOWN」を改訂し、タイトルも変更して再度ネット上にアップしました。「十九歳のころ、こんな気持ちあったなぁ」など共感いただき、ご自分の思い出に浸っていただけるキッカケとなれば幸いです。