史上初!? 業界騒然!? ○○○生配信!(予定)
「ここはいったい…」
人生の迷い子、軒多れもん
「……ここはいったい何処… なんでしょう…?」
ハンディカメラに向けられたその囁きは、現状の解説と言うよりは心細さの解消の方にウェイトが占められていた
物理的にはそうでなくても、精神的にはギュッと繋がっている…
それは動画配信を生業とする(したい)れもんが常々意識し、また活動の中心に据えている題目である
ネットワークを経由しての連帯感は彼女の公私に於ける活力の原動であり、この殺伐とした現代社会の荒野を生き抜く為の縁でもる
だからこそ今、その何処の誰とも知らぬ精神面でのパートナー達に語り掛けたのだ
平常心の堤を崩さんと入る細かな皹を、そうする事で何とか埋め戻しているのだ
竹林の中を貫く小径…
その上をれもんは多分、大分長い時間と距離を歩いていた
多分、というのは記憶が曖昧なせいだ
何時からそうしているのか、はっきりと思い出せない
どちらを向いても視界を埋めるのは、どこまでも高く果てしなく深い竹の大群生…
その光景は歩けど歩けど変わらぬのだが、不思議なのはその始まりが思い出せないのだ
気付いたらそこにいた…
まさにそんな感じ
ビデオのファインダー、或いはスマホのモニターを覗きながら街歩き、野歩き動画を撮影していて、いつの間にか道に迷うという事はこれまでも度々あった
アクシデントではあるが、サプライズは醍醐味でもある
視聴者と共に迷子を体験できるなら、それもまた一興であろう
だが、今回のそれはちと勝手が違う
何に迷ったのかさえ不明なのである
いや、勿論迷ったのは"道"だが、道に迷うにも作法と道理があるのではないか、とれもんはこの時思ったのだ
それ程迄に唐突で、不可解なのであった
旧国道からの別れ道、看板の文字も錆びれて寂れた美容室と、年代物の自販機だけが接客に立つ何とか商店の間を抜けて始まるなだらかな下り坂は、あの"もつきり屋"へと向かう最短経路である
一時は足繁く通ったのだ、間違う筈がない
新鮮なレバーからの滴りを彷彿とさせるマゼンタ…
熱水噴出口の周りにへばりつく硫黄にも似たイエロー…
チェレンコフ光の物質化に成功したかの様なシアン…
そんな毒々しい迄に鮮やかな三原色を用いた串団子、"もつきり餅"を供する古い和菓子屋…
和菓子屋というのはあくまで先入観的なイメージで、それを保証する屋号の類いは一切なく、古いのかどうかもその店構えの印象であって定かではない
そもそも店かどうかすらも分からない、そんな謎の菓子店(多分)のショーケースに並ぶ、これまた不気味な串団子…
偶然だったのか、誰かの噂を小耳に挟んだのか思いだせないが、この世のワクワクの内の手の届くものは放って置けない質のれもんが、その存在自体の怪異に好奇心を掻きむしられたのは当然の理であった
勿論、子供の頃から用心深く引っ込み思案と勘違いされる程のナイーブな彼女は、店内にいきなり足を踏み入れる様な愚は冒さず、何度も通りすがりを装っては慎重に店内や来訪客、はたまた"もつきり餅"の売り上げや従業員らの出退勤時間に至るまで、様々な"内偵"を"外側"から続けた
数ヶ月にも及び集積した情報は大学ノート三冊分には上っただろうか、いつしか調査そのものがライフワークと化したれもん自身が殆ど不審の極みになりかけ、警察官に職質される事二回、近所の住民に退去を勧告される事五回…
運良く新鮮な好奇心の対象が他に現れ、更にはそれらが幾つも積み重なった先で夢を見つけて、それを追う為という言い訳の下、"調査保留"という決断を下さなければ、逆にれもんの方が窓に鉄格子の嵌まった病院で"調査"の対象になっていたかも知れない
その坂の上からはいつも遠く微かに海原が覗き、夏には大きな入道雲が聳えていた
これから飛び込むワクワクの前座として、その光景は今でも眩しくれもんの脳裏に焼き付いており、即ちその道を外して迷う事などあり得ない筈なのだ
「……ここはいったい……」
れもんは草臥れた足を止めた
そう、あり得ない筈なのだ
今日のこの日、ユーチューバーという夢を叶えて… 否、叶えんと欲して保留を解消し、あの時よりも一回りも二回りも尖鋭でタフとなった調査員れもんは、再びもつきり屋へと歩を進めた
情報発信者の端くれとして、あの異様な団子製造所の素性を今度こそ暴こうと考えたのだ
もつきり屋に向かう一歩一歩は、ユーチューバーという夢へと向かう苦難の一歩一歩と重なった
その道程に間違いなどある筈がない
万が一、万が一罷り間違ったとしてもだ、ハンディカメラのファインダーから目を離したら何故かそこが見知らぬ深い竹林の中でした、などいうふざけたこの現象を、はいそうですか、と素直に受け入れる度量は自分にはない
そしてそれは凡標準的な感覚であると思う
これではまるで狐か狸に化かされた様ではないか…
そもそもだ、こんな京都か奈良の何とか園にある様な鬱蒼とした竹林は、都会の外れとは言え住宅犇めく路地を一本違えたその先に、さも当たり前の様に広がったりはしてならないのだ
漠然とした憧れと運命の思し召しがなんとくある気がして… 多くの地方の若者同様、そんな動機を後付けに上京する事、早数年…
この街の隅々までを知り尽くしたつもりはないものの、その考えが見当違いとは思わない
こんな竹林がこんな所に存在などしていた記憶などないのだ
……ではいったい……
「……ここは………」
れもんの呟きは殆ど音声データに残らないレベルにまで小さく掠れていた
例え精神的にギュッと繋がっていたとしても、ネットワークの先のパートナー達は物理的アクションを返してはくれない
そもそもライブでなければ時系列が違うのだ
それ以前にパートナー達が実在するのかさえ不明である
そんな事が分からぬ程の能天気ではないが、それでもそうしなければ理性を保てそうになかったのだ
辺りは大分暗くなってきた様な気がする
気がする、というのは時間的環境変化を体感できないからだ
見渡す限りの竹林…
文字通りに頭上を覆う竹の葉は空を覆い、光度の低下が日没に因るものなのか、それともそれ自体の効果なのかを判別困難にさせた
スマホを取り出し時刻を確認すれば、もう夕方五時を回っている
恐らくは双方の効果が重複しているのだろう
迷い始めて既に二時間は経つ
早くこの迷い道から抜け出さなければ、迷子から遭難者への不名誉ステップアップが確定してしまう
町内での遭難などとなれば、もう笑い話ですらなくなる
笑ってくれる者など在りはしないのだが、もしかして自分は社会不適合者なのかも知れない、という日頃そこはかと感じる周囲に対するコンプレックスに正対しなければならなくなるのが怖いのだ
周りの同年代が仕事に学業に恋愛にと勤しむ最中、動機配信などにのめり込む自分を百パーセント肯定できないのも正直な心の吐露である
(ブルン、ブルン…)
前髪が風を切る程、頭を振った
心が弱くなると直ぐにネガティブな思考に支配されるのが自分の欠点である
それが分かっているから、それを努めて振り払ったのだ
自分は社会不適合などではない
一人の大人として、この程度の困難など難なく解決できるのだ
「………………」
肩掛けポーチに戻しかけたスマホを握り直す
そう、なんて事はない、助けを求めれば良いのだ
(……誰に?)
即座に心の中の別人格が突っ込んでくる
電話帳をスクロールする
田舎の両親、弟…
アパートの大家さん…
元所属事務所の担当さん…
高校の卒業式以来音信不通の幼なじみ…
距離的、義務的に誰一人駆け付けてくれはくれまい
…なら警察に……
"迷子になったので助けて下さい"、との通報は大の大人としてのプライドを全壊させられる恥辱な訳だが、それでも"遭難したので助けて下さい"、の通報よりはずっとマシな筈である
そこが社会適合、不適合の境界だとれもんは思った
そして幸いにして適合者であったれもんは意を決し、深呼吸をしてから110番をタップして発信… する寸前で指を止めた
流石は適合者である、自分で自分を誉めた
(……たがらここは何処なんです!?)
自分の居場所が分からなければ助けを求めようがないではないか…!
困惑と緊張の連続はやり場のない怒りへと昇華しつつあり、それが普段はどちらかと言えば受動派なれもんのミトコンドリアを活性させた
無駄のない素早い指捌きで、そのままスマホの地図アプリを起動させる
大丈夫もう間違いない、自分は適合者だ
改めてれもんは確信した
GPSを作動させれば、ここがもつきり屋… 旧国道の分かれ道からの位置関係が分かる訳だ
これで助けを呼べる
もしかしたら自力で抜け出せるかも知れない
「……………………」
れもんの見詰めるディスプレイの上を、彼女の意を汲んだ赤いアイコンがくるくると踊って走り出す
「……………………」
ずっと走り続ける
「…………ちょっと……」
お構い無しに走り続ける
「……いや… そんな……」
既にアイコンは県境を越え、スピードを緩める事なく野を飛び、川を跨ぎ…
「………嘘………」
そのまま太平洋の彼方まで疾走して、ディスプレイがから消失した
位置情報が取得できませんとのエラーメッセージが、海原を意味する青い一面に寒々と浮かび上がった
「……これって…… もしかして………」
それを目にしたれもんの脳裏にもある三文字が浮かんだ
直ぐに別の文字群も浮かび、更にもっと多くの文字の羅列も浮かんだ
異世界…
神隠し…
パラレルワールド…
れもんはスマホから目を離し、今一度辺りを見回す
先刻より更に暗くなったのは、ブルーライトを見詰めていた影響だけではあるまい
「……こんな事って……」
だがそれが今の状況を最も合理的に説明できる事を、れもんは呟きと共に了承していた
"異世界"……
それはこの世のワクワクの内の手の届くもしか放って置けない質のれもんにとっても、無限の探求心と究極のイマジネーションを擽られるキーワードである
"異世界に行ってみたい…"
それは誰しも一度ならず夢想する事であろうが、れもんの場合はその本気度がかなり人とは違っていた
上手く口では言い表せない、この現世に対する居心地の悪さ…
自分が生きるべき世界は、他にあるのではないのか…?
ヒーローやアイドル、プリンセスに、"もう一人の自分"を重ねる年頃を過ぎても、れもんのアナザーイフに対する憧れは止まなかった
ある時は枕の下にこの世への不平不満を書き連ねたノート紙を敷き、またある時は深夜に某マンションのエレベーターで奇行を繰り返した
異世界に行く方法をどこかで目にし耳にしては、半分以上に遊び冷やかしを自覚しながらも、爛々と目を輝かせて実践せずには居られなかったのだ
今こうしてユーチューバーなる仮想空間の存在に執着しているのも、非現実への憧れの総決算なのかも知れない
だが、しかし…
現実に異世界に放り出された事がほぼ濃厚となったこの瞬間、その喜びは戸惑いの前に何の存在感も示さなかった
寧ろ絶望と悲しみ…
皮肉にもユーチューバーという現実の夢を追い始めた今のれもんには、異世界など死語の世界と同義なのだ
世界初の異世界配信…
ほんの少しだけそんな煽り文句が脳裏を過ったが、いつの間にか震え始めた両足を宥め賺すのに必死で、それは直ぐに意識の範疇から離脱した
「や…… やですよ…… そんな!」
自分がいったい何をしたというのか!?
せいぜい枕の下に愚痴を忍ばせ、エレベーターで異界への門を抉じ開け様としただけではないか!?
たったそれだけの事で、それも今となって、本当に異世界に放り出されるとは…!
殆ど無罪の自分が何故こんな目に…!
異世界などというものはテレビゲームかラノベで堪能するぐらいで十分なのだ!
まだ夢も… 恋愛も… 美味しい物すら満足に食べていないのに…!
「帰ります! ……帰らして頂きます!」
れもんは里帰りを決意した
方法は分からぬが、来れた以上、帰る術もある筈である
無くては困る
取り敢えずはこの場に立ち尽くす事を否定する
それを体現する様に再び一歩を踏み出すが、二歩目が続かない
自問自答を繰り返している間に辺りは一層暗くなり、殆ど闇が全てを飲み込み始めていた
「お… お母さん……」
何度目かの呟きは十分な湿り気を帯びて発っせられた
もう右も左も分からない
どっちから来たのかも定かではない
暗い… 怖い… 暗い……
空気すら変わってきた様な気がする
闇の中に何者かの気配を無意識に探る自分の別人格を、れもんは必死の殴打を以て阻止した
恐怖が理性の堤に最大の一撃を加えんとしていた
「!?」
その時である
れもんは彼方闇の中、乱立する竹幹の間隙に淡い光を認めた
言い方を変えれば、濃度を増す闇が光をコントラストに浮かび上がらせた
「あぁ…!」
それが何かは分からない
だが、この異世界に来て始めて自分と竹以外の存在を… 気配をそこに認めたのだ
好意的な何者なのか否なのか、それとも何らかの自然現象、若しくは某かの遺構遺築の可能性…
何もかも分からないが、れもんはその光に向けて駆け出していた
藁… 竹にもすがる思いである
直ぐにそれが道なりの先にある事が分かった
当然、れもんの希望は大きく膨らむ
「だ… 誰か……!」
小走りが忽ち全力疾走となり、程無く肩で大きく息をつく頃、小径は不意に間口を広げて林の中に空間を生み出した
目指した光はその奥で行灯の中に揺らめき、吊るされた先の土塀と朽ち木の門扉を淡く幻想的に照らし上げていた
(こ… こんな所に人家が……)
現世を儚んだ賢人の結びし庵…
竹林の奥深くにひっそりと佇むその寂寥とした姿に、れもんはそんな第一印象を覚えた
否、そもそも"人"かどうかも怪しい
ここが本当に異世界だとすれば、ここの住人はきっと物の怪、妖怪の類い…
"人"だとしてもそれは人の定義する"人"ではあるまい
…だとしても、苔と年季を纏ったあの門扉を押して開く以外に、この状況を変える方策は何も思い付かない
異世界に迷い込むという人生最大級のファンタジーを体験した今、その後に起こるイベントなど全てその延長線上にある些末な有象無象でしかないのだ
激辛蒙古タンメンを食べた後に山椒麻婆豆腐を食べても悶絶級の刺激は得られまい、という事だ
「フフ……」
こんな状況でもそんな呑気な例えを思い描く事に自嘲したれもん
少しずつではあるが、れもんは己の置かれた極めて奇異な状況に酔い始めていた
まさに何かの物語の主人公になった様な感覚、何とも言えない高揚感…
それは今や、死や孤独の恐怖を打ち消して余りある程に大きなものになりつつあった
『ギィィィィィ……』
湿気も蓄積した門扉は予想よりも重く、力を込めると大きな軋みを上げた
"庭"であろうその先の広がりには、玉石という程には見た目の良くない粗めの砂利が撒き散らかした様に雑に敷かれ、飛び石と思しき幾つかの埋もれ石が誘う様に奥へと続いていた
(……ゴクリ)
その貧相で淡白な庭先の風景が、かえってここに住む者の生々しい生活感を醸し出している様な気がして、れもんは思わず唾を飲んだ
もうすぐ対面の時が迫っている事を強く意識させられたのだ
例え激辛蒙古タンメンの後に山椒麻婆豆腐を食しても喉は渇く
それはごく自然な生理反応である
「……す、すみぁせ… ん……」
礼儀として今一度発した挨拶の声は、緊張に因って完全に裏返っていた
言い直すのもばつが悪い気がして、昔気質な江戸っ子という謎の設定を自分に嵌めて慰める
飛び石を渡り奥へと進む
辺りはもうすっかり宵の闇に閉ざされ、門先の行灯から流れる仄光だけが足元の頼りだった
ぐるりと周囲を廻る土壁と、その手前所々に茂る低木群の姿だけがシルエットとなって辛うじて確認できる
微かな水の音も聞こえた気がする
堀か池があるのかも知れない
飛び石と思って渡ってきた埋もれ石はでこぼこで頗る安定が悪く、しかも間隔が極めて不親切に乱雑であった
もしかしたらこれは飛び石などではなく、ただの自然と偶然の産物ではないかとの疑念が擡げた
だとすればそれを真剣に渡ってきた自分は、端から見ればかなり危ない大人の類いである
尤も、この暗がりではその心配も杞憂だろうが…
「!?」
唐突に白壁が浮かび上がった
眼前、指呼の距離である
暗がりを割って現れたその様は、まさに闇より沸いて出たと形容できるものだった
無論、それはずっとそこに存在したのだろう
近付いて初めて気付いた、というよりも、自ら存在を知らしめた、というのが正確かも知れない
白壁は一軒の平屋造りの外壁で、更にその一角に収まる障子窓の向こうに明かりが灯ったのだ
「………………」
その意味する所は一つしかない
"客人"の訪れを察したのだ
いよいよ異世界の"住人"が現れる
鬼が出るか蛇が出るか…
賽はとっくに投げられ、後戻りする道は最早ない
この先に待ち受ける全てを、ただ受け止めるしかないのだ
その覚悟の元、固唾を飲んで障子の向こうを凝視する
「うんうん… まぁ ここまではいいと思うよ」
小さな炎の揺らめきが障子紙を叩く
れもんの無意識はそこに異形の影が浮かぶのを予想したが、時折大きく瞬く炎の残滓以外は何者の気配も感じ取れなかった
「………………」
暫しの時と沈黙が流れた
客人を自認するのなら、まずこちらから名乗りを上げるべきだろう
そういう相手の意思表示にも思えた
れもんは一歩を進み、細い縁側の先の雨戸に向けて声を絞る
「こ、こんばんは… すみません…… 道に迷ってあの…… れもん… 軒多れもんともおし… 申します… ……あの…」
心構えとは裏腹に、やはり歯切れと格好の悪いれもんの口上
頭の中で描くイメージと、肉体がそれを再現するモーションがどうしても一致しない
この辺りもれもんに不適合不安を煽る要因でもある
「……あの……!」
意識して声量を上げる
闇の中に己の声の木霊を感じて、何とも言えない心細さを再認識する
「………………」
リアクションはない
明らかに此方の気配を察している筈なのに…
「あの…!」
更に語勢を強める
招かねざる客である事は自覚している
異世界であっても多分、こんな寂しい場所に居を構えているのは筋金入りの人嫌い、偏屈者に決まっている
それでも接触を図らねば、この先の進展はあり得まい
だってこれがもしゲームやラノベなら、これは間違いなくストーリーテラー登場のシーンなのだから…
「……あの、すみません!」
『ガラガラガララララ!』
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃっっっ!?」
想像せぬ速度で目の前の雨戸が突如開かれた
てっきり隙間から覗く用心深い瞳が、舐め回す様に自分を見詰めてくる、的なお約束シーンを想定していたれもんは、その遠慮のない作動と轟く摩擦音に大きな悲鳴を上げる
本当にいつも悲鳴だけは上手に上げられると、この時れもんの別人格は呑気な自己評価を下していた
「お姉さん、迷子だね」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!」
そこに姿を現したのは、狐のお面を被り浅葱色の着物を身に付けた、小さな男の子だった
完全に出鼻を挫かれたれもんはもう半分恐慌状態にあり、考えられる物の怪の中では最も与しやすいであろうその姿と声にも光速反射的に拒絶の悲鳴で応えた
仮に白髪頭の老婆でもそこに現れていたのなら、間違いなく心臓発作を起こした事だろう
そういう意味ではまだ"ツイて"いた
「うるさいよ、お姉さん!」
錯乱のれもんとは対象的に落ち着き払った少年の声と言葉
「は… はひ……?」
見た目からは少年も十分な怪異ではあった
祭りでもないのに狐面をすっぽりと被って客人を持て成す様は、まさに異世界情緒と言えなくもない
ただ、その立ち振舞いは元世界の少年と何一つ変わらず… 寧ろ大人びてませていた
何より妙にあっけらかんとしたその対応と口ぶりには、れもんの抱いていた未知の怪異への恐怖心を大きく減退させる効果があった
何と言うか、味気ない…
自分で言うのもなんだが、もっと異世界に迷い込んだ哀れな小娘を掌で転がす様な…
ほら、ゲームやラノベではよくある、回りくどい伏線ありありな厨二病的台詞の羅列などがあっても…
これでは目の前の少年など、生意気盛りの従弟のあやつと変わらない…
それが狐面に着物姿なのである…
平たく言ってしまえば、こうなると最早可愛いの部類になってしまう…
異世界で出会った、ただのビジュアル可愛い少年である…
少しだけ落ち着きを取り戻したれもんは、いつの間にか本能に基づくショタ愛心を擽られていた
「……あんた、ほんとに好きね~」
好きである事は否定しないが、今はそれに心奪われている時ではない
とにかくこの異世界から元世界に戻る方法を探る
お約束の例に倣えば、この目の前の少年が何か手掛かりを握っている筈…
「あ、あの… 私… ここは… あの…!」
素面時ですら口ごもるれもんである
緊張と疲労を加味した上で状況説明と各種質問を一緒に成そうとすれば、もう三流ラッパーの体でテンポの悪いシャウトで韻を踏事になる
「ま、上がってよ」
それに対する狐面少年の反応は、これまたあっさりと無味乾燥なものだった
少年は自らが開け放った雨戸の傍らに立ち、れもんを招き入れる様に右手を伸ばした
「そ、そうですか……」
社会人として一応躊躇の素振りをしてから
「……じゃ お邪魔します……」
縁側に腰を下ろし、スニーカーを脱いで揃えてから雨戸を潜った
「ほう……」
一言で言えば、外観同様の凡和風
異世界の庵の趣は一見、元世界のそれと大きな違いない様に思えた
ただ素人のれもんをしてもそこは、そのカテゴリーの中でも最も上質なものにランクされるであろうと確信させる程に、瀟洒で気品溢れるものに囲まれた場所だった
い草を編んだ琉球畳の様な床敷きは落ち着きある金色を放ち、淡い小豆色の襖は和紙を寄せて風情ある紋様を描いていた
明かり取りの丸障子、漆塗りの小箪笥、小さな囲炉裏とそこに吊るされた黒鉄の茶釜、…
どれも昔話の庄屋様宅に出てくる様な、上質で高価なものばかりに見えた
生意気にも一端の乙女として、そういったハイセンス雑貨には関心があるれもんは素直に驚きの声を漏らした
「コーヒー? 紅茶もあるよ?」
「コ、コーヒー!?」
襖を開けて何処かへ向かう少年
その背中越しの声にれもんのオウム返しが上擦る
和の趣を台無しにしながら、異世界でも普通に供されてしまうコーヒー、紅茶…
勝手なそれではあるが、先程からせっかく(?)の異世界観が歪みまくりである
良く言えば親近感、悪く言えば低予算映画的なハリボテ臭…
れもんはそんな複雑な感覚を抱き始めた
「……す、すいません… じゃあ… コーヒーで…… あの… お、お構い無く……」
かと言って問いに反応しない訳にもいかず、今回も取り敢えずの遠慮を挟んでオーダー返した
「……ふぅ……」
囲炉裏端に置かれた座布団の一つに正座をし、改めて辺りを見回すれもん
(こんな所に、あの子は一人で住んでるのかな…)
いつの間にかに"異世界の物の怪"の類いから"おしゃまな少年"へとクラスダウンした彼の身の上が気になり出した
それだけ心に余裕が現れたという事でもある
初めて会った異世界の住人、それが鬼ではなかったのは幸いではあるが、同時に現世界に戻るべき方策を授かる事ができるかは疑問となった
最悪、あの少年と此処で二人…
ギリギリ"可能"な年齢差ではあるか…?
寧ろ、自分好みに育てるならあの位から…
(ビクッ!?)
邪な妄想に耽るれもんの元に、盆を手にした少年が戻ってきた
「はい、どーぞ… 砂糖は自分でね」
そう言ってれもんの膝先に湯気の立つ暗褐色の液体を差し出した
(マ、マグカップ…!)
白いが陶器ですらないその器に三度拍子を外される
(プ、プーさんスプーン…!)
更に砂糖入れと思しき小鉢に刺さったファンシーキャラのそれに止めの一発
異世界とはいったい何なのか…?
れもんは頭が少しクラクラしだした
「……あ、ありがとう… いただきます……」
それを落ち着かせる意味もあって、差し出されたコーヒーに口をつけた
清貧底辺ユーチューバーとして普段は滅多に口にできない、濃厚で豊潤は酸味と苦味が咥内に広がる
間違いない、高級な一品だ
「!!」
多分、そこに含まれたカフェインの効果もあったかも知れない
呑気にテイスティングをしていたれもんの脳裏にある閃きが過る
(もしかして此処って… 異世界じゃないのでは…!)
先程からそこはかと感じていた異世界イメージへの違和感…
ちょっと何か流石に異世界でそれはないだろ感…
それらは異世界移行そのものの否定で合点がいく
端から異世界などに着てはないのだ
そもそも異世界ってなんだ?
そんな厨二ワードな世界など実在する訳がない
科学には疎いが、科学的に有り得る筈がない
多分、先程の地図アプリの暴走は何かのバグ
やはり自分はただ単に道に迷って…
「最近結構多いんらしいんだ "こっちの世界"に迷い込んじゃう人」
少年の呟きに、三口目を啜っていたれもんの手が止まる
「……………………」
…迷っていた訳ではなかった様だ… 残念ながら……
「……帰りたい、よね~?」
此方を向きを変えた狐面に、大きく二度三度頷いた
一旦異世界移行説を否定したせいか、急激な里心が湧いて出た
この少年との二人暮らしも悪くはないと思うが、やっぱり元世界に戻って夢を追い掛けたい
両親にも(これ以上)心配を掛けたくない
「か、帰りたいです… 帰る方法… ありますか…?」
つい先程の少年の口振りには、それを匂わせる成分があったのをれもんは見逃さなかった
「……あるとは思う… うん、あるらしいんだけど……」
案の定、少年は肯定的な反応を示して腕を組んだ
「……それは"先生"に聞いてみないと…」
「……先… …生?」
成る程、この少年自体も"フラグ"であった訳か…
「……あっ 丁度帰ってきた」
外で何者かの気配がする
イベント進行、れもんは心の中で何かをセーブポイントに運んだ
「おっ帰りなっさ~い」
その先生とやらの気配を迎えに奥に向かう狐面は、まるで親の帰りを待ちわびた幼子の様に無邪気に小躍りしている様に見え、その後ろ姿からはあのおしゃまな少年の姿は綺麗さっぱり消え去っていた
「………………」
今度こそ口ごもらずに挨拶をと、脳内で何度もシミュレーションを繰り返し、れもんは膝を払って立ち上がる
「……で、困ってる見たいなんですよ」
れもんの事を説明している少年の声と、二つの足音が近づいてくる
流石にもう鬼も蛇もなかろうが、それでもれもんは緊張を取り戻してその姿が現れるであろう襖の一枚を凝視する
『ドスンッ!』
「ヒィッ!?」
またしても遠慮のないスピードでそれは開かれた
「あ…… あ… あの……」
そこには少年を従えたもう一人の狐面
純白の作務衣に身を包んだ長身の狐面が立っていた
引き締まった体駆と溢れる長い銀髪
間違いない、これはイケメンの雰囲気
尊顔が拝めなくとも分かる、これは間違いなく超イケメンだ
「はぁ… はぁぁ…………」
緊張と興奮と期待と幸福とが複雑に入り雑じって、れもんのニューロンは焼き切れた
「……君が、"異世界"からの迷い人かい?」
声からしてイケメン、超イケメン!
れもんは先程とは別の理由で頭がクラクラしてきた
長く細い指が狐面の下に伸びる
御尊顔の御開帳
れもんは呼吸をするのも忘れ、次に訪れるであろう至福の瞬間に備えて全神経を集中した…
「……それが、ダメなのよ!」
よし子は辛子味噌の着いた胡瓜片の先をれもんに向ける
「……ダメ~… ですかね~……」
三杯目となるハイボール、両手に収めたジョッキに口を付けてから、れもんはそれに応えた
「ダメダメ、全然ダメ…… ……すいませ~ん、生一つ!」
急ピッチはよし子ゴキゲンの証
それは久しぶりに盟友との酒席にありつけた、という感慨よりは、上から目線でレクチャーできる爽快感によるものだろう
れもんはそう思った
人は誰かに高説を垂れる時、自分の相対的地位の高さを再認し、成功の喜びを噛み締めるのだ
「……だってさ、れもん… アンタいったい何の為にユーチューバーになりたいのよ?」
過去の経験則に拠れば、この状態のよし子は同じ話を最低三回は繰り返す
長い夜は今、まさに幕を上げた感である
「……何の為? ……それは… 精神的に… ギュッと……」
とは言っても、タダ酒目当てに誘い出したのはれもんの方である、邪険にもできない
こうなればトコトン気持ち良くなって貰う所存でピエロに成りきる
「精神的に~? 誰とよ~? 具体的に誰とよ~?」
「……そ、それは… 勿論… 視聴者さんと……」
まぁ 全くのタカりという訳でもない
一応は"成功者"に"ネタ"の審査をして貰う為の席なのだ
「だからその視聴者さん、ってのは誰かって聞いてるの~」
れもんから見ればよし子は"成功者"である
ダイレクトシティースの"元同僚"、チャンネル登録者はれもんの二桁上を行く
ユーチューバー界をこの店のオツマミに例えれば、宛られもんは烏賊下足揚げに添えられたレモンで、よし子は冷奴の上の擦りショウガといった所か…
低次元の争いかも知れないが、それでも食され存在感あるショウガの方が格上なのは間違いない
「……誰って…… それはネットワークの向こうの……」
「違う違う! アンタのチャンネルを登録してるのは誰… どんな奴かって話よ! 」
ただ、今回も冒頭からほぼ酔っぱらいの"くだ"に成り下がっている彼女のアドバイスは、やはり素面の時以上に何の役にも立たない事だろう
それでも鏡に向かって自問自答するよりかは遥かに気が晴れるのも事実だ
「……どんなって………」
しかもタダなのである
「頭のおかしなキモい男ばかりでしょ!」
今日一番の大声と空ジョッキを叩き突ける 音に、周囲の客の視線が一瞬集まった
「……いや、そんな事言っちゃ……」
流石に駄目だろ、と思う…
間違いだとも思う…
「いぃい? アタシらみたいな若い女のチャンネル登録してる奴らはね~… み~んな、エロハプニング目当てよ…」
その辺りの市場動向はダイレクトシティース時代にきっちりと叩き込まれた
同じ釜の飯を食ってた元同僚にレクチャーされる事ではないのだが、酔っぱらいに訴えても詮無き事…
「エロい事言わね~かな~とか… おっぱいポロリしね~かな~とかさ…」
辺りの視線が気になるれもんにはお構い無しに、よし子のボルテージは上がる一方
「そのクセ、男を匂わすと途端にアンチになりやがる! ……すいません、生一つ!」
何時にも増して荒れ方が酷い
こりゃ何かあったのだろうと勘繰らざるを得ない
「生! …生って言っただけで大喜びのキモオタがよ~……」
たまに臨時開催される"よし子の愚痴を聞く会"
今回もそれに移行しそうだ
「……だからね~、れもん… 成功したけりゃ男なんか… ましてやイケメンなんか出しちゃダメなの~… …分かる?」
運ばれてきた中ジョッキを一気に煽り、過半を飲み干す
「好きな事をやり続けるにはさぁ… 好きな事だけをやってちゃダメなのよ~……」
「……………………」
珍しく何故か心に響いたよし子のその言葉
(好きな事を続けるには… 好きな事だけを続けては駄目… ……か)
黄金色の液体を湛えたジョッキの中から誰かに覗かれている様な気がして、れもんは反射的に焦点を合わせたが、その気配は直ぐにプチプチの泡によって掻き消された
「おっぱいおっぱい! なまなま! どぴゅどぴゅ凄い、いっぱい出た~! って言っときゃいいのよ!!」
よし子の絶叫に辺りの喧騒が掻き消え、幾つもの視線が二人の元に注がれる
れもんは俯きながら、久々に異世界への扉の開き方を模索した