軒多れもん探険隊 ~都会の用水路の奥地にアメリカザリガニの楽園は実在した!~
これは本格的ドキュメンタッチバラエティーである
少年はもう大分長い事、電信柱の影に身を潜めて、その後ろ姿を凝視していた
正確に言えばその電信柱に張り付いたのは二分程前だが、通算ではそれが七、八本目になる
ターゲットの移動に合わせて、少年は電信柱を渡り歩いている格好なのだ
都合二十分近くはその様な不可思議をしている訳だが、そんな特殊な状況下が更に時の歩みを遅く感じさせていた
何も好んでそんな不可思議をしている訳ではない
応援や助けを呼ぼうにも、ここには自分しか居らず、かと言ってターゲットから目を離してしまう訳にもいかないのだ
彼以上の不可思議
今はとにかくその様子を伺い、正体を探るしかない
そう思ったのだ
『…最近、学校の側で不審者が見掛けられています 登下校時、人気のない寂しい場所は近寄らない様に… 怪しい人を見掛けたら直ぐに逃げる様に……』
終業のホームルームの時間、担任が聞かせた穏やかならざる話
男子はざわめき、女子は小さな悲鳴を上げた
"不審者"
校庭裏の森から墓地の直中を抜ける帰宅へのショートカット
何時もの時短コースを試みた自分の目の前に、よもやそれが現れようとは…
恐怖や緊張より、興味と僅かばかりの正義感が勝った
それが想像していた"不審者"とは大分印象が異なっていたのも、彼の大胆な行動の後押しとなった
極めて"不審"ではあるが、即座に"危険"とも思えなかったのだ
「………………」
少年はただ息を殺して、その監視対象の一挙手一投足に意識を集中していた
いつしか少年のその目はキラキラと光を帯びて輝き始めていた
それは丁度、入道雲を背景に大空を舞うオオムラサキを見つけた、あの夏の日の様に…
れもんの瞳にも淡い光が満ちていた
それは丁度、しらす干しパックの中に小さな蛸の赤ちゃんを見つけた、あの給料前の日の様に…
小川と呼ぶには些か無粋な、コンクリート造りの排水路
瞳孔が蕩ける程の恍惚極まるれもんの視線は、そこを流れる発泡スチロールのトレイに注がれていた
正確に言えば、トレイの上にガムテープで固定したハンディカメラにである
落としたカメラが運良く流れてきたゴミに乗っかって… 的なアクシデントが発生したのではない
彼女の右手にはワンちゃん用のリードが握られており、その先は流れ行くトレイの一端にきちんと結わえられているのだ
つまりは完全なコントロール下、れもんは望んでそれを行っているのだ
その瞳に光を宿した理由も、トレイの速度と安定性が自分の理想に極めて近かったが故である
全てが順調、そう考えて心の中にキューを出す
「……えっと今日は… 車載…? 動画……」
ピンクのパーカー、その胸元のピンマイク
レコーダーに接続されたそれを、服地ごと口元に寄せて、実況の録音を開始する
"車載動画"とは文字通り車両、主に自動車に搭載したカメラによって撮影された風景動画の事である
所謂ドライブレコーダーと同義であるが、動画投稿界に於いては旅番組的なニュアンスを持つ
基本前景視点のそれは、視聴者に疑似ドライブの感覚を味あわせるもので、人気定番企画の一つであった
「ええっと… 今日は… ここに来てます…… ……どこだかお分かりですか…?」
分かる訳はないし、分かりたくもない
そんな未来世界の小さな呟きは当然、れもんの元には伝わってこない
彼女的には趣向を凝らした斬新企画なのだこれは…
車の運転ができないれもん
それでもなんとか車載風動画は作れないものかと色々思案した
最初は自身の生活の足、(比較的)運転の得意な自転車での撮影を試みた
カゴにカメラを固定し、フェイバリットポイントである丘の上から海浜公園までの長い坂道を一気に駆け下りた
大好きなこの光景を一緒に堪能して欲しい… どうか気に入って欲しい…
そんな思いで実況も弾んだ
……が、試聴したそれは激しい画面揺れで何が映っているか全く識別できず、それどころか強烈な目眩と悪心を覚えて嘔吐寸前にまで追い込まれた
映像を見て酔ったのは生まれて初めての経験であり、色々な意味でショックだった
それではと準王道的な鉄道車窓からの撮影を試みた
鉄道とて揺れはするものの、一定で落ち着いたリズムのそれは、大半の人々にとっては心地好い部類の振動にカテゴライズされるだろう
鉄道の旅が無条件に楽しい思い出とリンクするのも、その補助的要因かも知れない
そして確かに鉄道車窓からの撮影動画は申し分ない出来だった
都心部から離れて喉かな田園地帯を進むその様は、恵まれた天候も相俟って、まるでテレビの旅番組の様な見事な風光と撮れ高の豊かなものになった
ただ惜しむらくはれもんには何一つ、流れる風景や風物に対して気の利いた解説や実況ができなかった事だ
何時もそうだろ 毎回そうだろ
そんな未来世界の褪めた呟きはその時も伝わってこなかったが、何より自分自身が納得ができなかった
ビルです、山です、川です、田んぼです、人家です…
これを何かの呪文の様にひたすら反芻する己の実況を試聴した時、我事ながらそこに狂気の滲みにも似た薄ら寒さを感じ、それがそのまま悪寒となって背中を駆け抜け身震いにまで発展した
自分なりに分析したが、要は画面の転換が速すぎるのである
唯でさえ地理に疎く、土地土地の蘊蓄やも面白エピソードも披露できない質であるのに、更に場面進行が早すぎては感想にすらならないのだ
ならばと考え、それまでの失敗を踏まえた上で考案したのが、この川流れ動画である
自転車程揺れず、鉄道程速くない
欠点の逆張りはつまり長所の集合と言える筈
実際の川下りも考えてはみたが、調べてみるとそれは結構お金の掛かるイベントである事が分かり、それではとカメラだけに川流れさせる事にしたのだ
要領が良いというか、要は景色が流れれば良いのだろう、という彼女の悪癖とも言うべき無意識の開き直りが遺憾無く発揮された形でもあった
「……けっこう… 予想外に… 穏やか… 流れが穏やか… ですね… …ですよね?」
カメラと同乗していない時点で最早"実況"の意味はないと思われるが、それでも"リアリティー"に拘るのが"れもん流"なのである
彼女にとっての"リアリティー"とは"場の空気"と"その瞬間"
先撮りした動画に後からコメントを付けるという手法は、視聴者との"空気"と"瞬間"の共有を動画配信の是とする彼女にとっては邪道でしかない
じゃあライブでもしろよとは誰しもが突っ込む所ではあるが、録画ですら吃る程の極度のあがり症である彼女にとってそれは邪道を越える外道であり、如何なる理由を付けても拒むべきものだった
そもそも用水路の川流れライブなど、サッカーベトナム3部リーグ並に需要がない事も違いない
ライブでなくても勿論需要はないのだが、当の本人だけは新境地開拓のわくわくで心の中を満たされていた
「……あっと… また… アクシデント……」
水流の乏しい用水路には方々に"岸部"や"中洲"が形成されており、隘路では"ボート"が時折"座礁"する
今も枯草と泥の折り重なってできた草蒸す中洲の突端に、発泡スチロール製のボートは乗り上げ停止した
「……よし…… ほらっ……」
比較すべき事象や人物が存在しないので判別し難いが、恐らくは巧み… この撮影開始からの極めて短時間で巧みになったと思われるリード捌きで、その都度離礁に導いてきたれもん
今回も枯芒の束にリードが絡まるのを慎重に回避しながら、ボートを再び水流へと戻す
一つの旅を疑似体験させるという車載動画のコンセプトで言えば、事故とも言えるこの様なアクシデントは動画の完成度に悪影響を与えるもの
だが、再び取り留めのない実況を再開したれもんの表情に曇りはない
寧ろ口角はあからさまに吊り上がり、笑みを通り越した上機嫌のはにかみを、唇を噛む事で必死に押さえていた
実況の声が歓喜に上擦ってはならない
そう思って感情を堪える程、れもんは今回の動画に確かな自信と手応えを感じていた
(……計画通り… です……)
浅い水嵩と繰り返す座礁、一見グタグタ展開と思えた今回の撮影
だかこれは全て、彼女の描いたシナリオをなぞっているに過ぎなかったのだ
「どんどん… 奥地に…… 険しくなって…」
そう、れもんは単なる川流れ車載動画を撮るつもりはなかった
「……おっと… ここから先は…… 前人未到の……」
彼女のイメージスケッチでは、この用水路はアマゾンの大密林、その直中を蛇行する茶褐色の流れ…
「……果たして… このジャングルの奥には何が……」
そしてそこを突き進む一隻ボート、搭乗する冒険者達とその記録映像…
『軒多れもん探険隊 ~都会を流れる用水路の奥に、アメリカザリガニの楽園は実在した~』
彼女が目論んだのは、そんなタイトルを冠する予定のドキュメンチックバラエティーなのである
探険であるので危険地帯を強行せねばならい時もあり、当然座礁の一つや二つは起こり得よう
寧ろそれとそこからの復帰が見せ場でもあるのだ
大きな危険と困難の果てに見つけるものこそ、大きな価値のあるもの
それが例え演出でも仕方はない
何せドキュメントタッチのバラエティーなのだから
「……少し流れが…… …速くなってきました…? ……あぁ… 彼方にトンネルが……」
少年は未だにその正体を掴み損ねていた
散歩中に用水路に落ちてしまった犬とその飼い主…
第一印象はそんな感じだったが、その飼い主に思えた女の人に焦りの色はなかった
好奇心から近付いて見ようとした所で、その女の人が何事かぶつぶつと独り呟いている事に気付いた
(ヤバい……)
本能的に危機を感じたのは、その横顔が不気味な笑みを浮かべているのを認めた事も相まった
一言で表現するなら"完全にイッちゃってる…"
少年のまだ短い人生の物差しを以てしても、明らかに常軌を逸っした奇人の行動だった
不審者…
先生の発したそのフレーズが頭の中に反復し、慌て電柱の陰に姿を隠した
そして今に至るのである
見て呉そのものは所謂"お姉さん"であり、唐突に命の危険を孕む様な凶暴性は見て取れなかった
用水路で何らかの儀式を営む魔女の類い… にも見えなくもないが、少年のイメージする魔女と比べるとだいぶ若すぎる気がする
この用水路で命を落とした自縛霊… とも考たが、真っ昼間でしかもピンクのパーカーと黄色いスカートという出で立ちは、少年のイメージする幽霊とは余りにかけ離れている
ではいったい、目の前のあの女の人は何者なのか…?
いったい何をしているのか…?
ゴクリと唾を飲み込んで、喉がカラカラになっている事に気付く
やはり取り敢えず大人の人を…
二進も三進も行かず、そう考え始めた矢先…
「!?」
唐突にその女の人は取り乱し始めた
それまでどちらかと言えば落ち着いた印象を彼女に抱いており、それが恐怖成分を中和していたのだが、今は攪乱に近い様相で用水路脇を右往左往している
呟きを越える音量で何かに話掛けている
当然、中和能力は減退し、少年の恐怖ボルテージは一気に跳ね上がる
「うわぁぁぁぁ……」
次の瞬間、此方に振り向き駆け寄ってくるそのおぞましい姿を想像して、少年は思わずその場に尻餅をついた
「ちょ… ちょっと待って下さい……!」
れもんの恐怖ボルテージもMAXに到達していた
描いた筋書きが大きく狂った
丁字路にぶつかる用水路の果て、地下トンネルへと姿を変える際の水門柵
昨日の下見では閉じていたそれが、今日は何故か半開になっており、尚且つ直近の側溝からゴウゴウと水が流れ込んで来るではないか!
本来ならこの水門柵でボートを止め撮影終了、カメラの回収を行う予定であった
昨日の下見ではこの辺りも水深は低く、その水門柵の手前には何匹ものアメリカザリガニが生息していたのだ
アメリカザリガニの楽園は確かにそこにあったのだ
「ちょ… ダメです…! 誰か… 誰か…!」
だが今そこには濁流渦巻く漆黒が大口を広げており、れもんが半年節制して手に入れた動画制作の相棒を飲み込まんとしていた
「うわぁぁぁぁ……」
なんとか… ! 何か…!
必死に辺りを探ると、足元側にに枯れ枝が一本
右手でリードを手繰りながら、左手をそれに伸ばす
何とか手にしたそれを用水路に差し伸べる
全く長さが足りない!
ガードレールを跨ぎ乗り越え、半身を伸ばすと、何とかボートに先端が触れた
「ぐぬぬぬぬ……」
予測以上に強い水の抵抗
だがここで負ければ、相棒とは永遠のおさらば…
お金の問題ではない
動画制作の苦楽を共にした、文字通りの相棒なのだ
見捨てる訳にはいかない!
「うわっ!?」
だが次の瞬間、用水路の縁に乗せていた左足が苔に滑ってバランスを崩す
(最早、これまで……)
れもんは陽の光を散乱する水面をスローモーションの様に眺めていた
赤黒いアメリカザリガニの甲羅が見えた気もする
こんな所で… でも、大好きな動画制作の果てに命を落とすなら……
一流ユーチューバーにはなれなかったが、もし相棒のカメラが回収され、撮影された動画がネットにアップされたら…
きっと未来世界のどこかでは、高評価の雨嵐に曝されて…
そう、ゴッホだってゴーギャンだって、評価されたのは死んでから…
真の天才は死んでから認められるもの…
代わりの利かない唯一だって気付かれるもの…
だから私は…
これでいい……
お母さん、この世にうんでくれてありがとう…
そして、さようなら……
「やっぱり死ぬのやだぁっ!!」
そう叫んだ瞬間、れもんの身体は重量に逆らった
物理的涅槃の畔から、グイと強い力で引き戻された
ガードレールに尻が仕え、そのまま仰向けにひっくり返った
「んぎぃっ!?」
後頭部を強かに打って、危険な悲鳴が漏れた
「お姉さん、大丈夫!?」
痛みに歪む視界を力を込めて矯正すると、覗き込む少年の顔がそこにあった
「あ、貴方が… …助けてくれたの…?」
少年は答える代わりに、れもんの身体を優しく起こしてくれた
「あ…… ありがとう」
大差の無かった体格と少年特有の敏捷さ、そして彼の純粋な勇気がれもんの命を救ったのだ
お礼を言われて少年は恥ずかしそうに頭を掻いた
その姿に何故か胸の鼓動が高まるれもん
(ぎりぎりありな年齢差… 今から手塩を掛けて育てていけば……)
邪で身勝手な妄想に耽る彼女だったが、彼が何故その場に居合わせ、崩れる自分を空かさずに抱きかかえる事ができたのか、という点にはついては思いが寄らなかった
因みにカメラはこの後運良く回収され、シナリオ外であるラストの大スペクタクルも含めてユーチューブにアップされたが、今回も、そして未来世界に於いても、高評価が付く事は全くなかった