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第1話 はじまりの夜空 8

 放課後になると、


「こんにちは」


 と、彼方は、天文部の部室のドアを開けた。


「あら、いらっしゃい」


 と、先客が、彼方に声をかけた。


 少女である。


 まず、腰までかかる長い艶やかな黒髪が目を惹く。


 それに、聡明さを物語る切れ長の黒い瞳が印象深い。


 好峰杏朱(このみねあんしゅ)、彼方と同級生の少女である。


 そして、彼方と同じ天文部員である。


 彼方は、部屋を見渡しながら、


「あれ。今日は、杏朱一人だけ?」


 と、聞いた。


 その言葉通り、今部室にいるのは、彼方と杏朱の二人だけだった。


 杏朱は、肩をすくめて、


「元々五人しかいない文系の部なのだから、二人揃えば、上出来だと思うわ」


 と、言った。


「だからこそ、盛り上がりがほしいとも思うんだけど」


「あら。私より少しだけ部室への顔出し率が高いだけの人の発言とは思えないわ」


 杏朱は、読みかけの瀟洒な赤のカバーのかけられた本を閉じて、


「ふふ。珍しい、という顔ね」


「杏朱は、定例の活動も来たり来なかったりだろう」


 と、彼方は、言った。


 その言葉通り、杏朱が部活動にくるのは、不定期だった。


 部室にもいない時はいないし、いる時はいる、そんな塩梅だった。


 気まぐれ。


 状況的には、そんな言葉が似合っていた。


 そして、当人はと言えば、まったくして意に介していない。


 それこそ、


「束縛する男は、もてないわよ?」


 と、そんなことを言っていた。


 彼方は、肩をすくめて、


「束縛なんかしていないし、定例活動を(うた)っているのは、部の方針だ」


 杏朱は、細い人差し指を自身の小さな顎に当てて、


「そうね」


 と、言った。


「今日来たのは、たまには顔を出してみようかなと思ってね」


「何の本を読んでいたの?」


 杏朱は、天文部の一員ではあるが、部室の中で本を読んでいることが多かった。


「他愛のない本よ」


 杏朱は、図書委員会の方がお似合いではないかというほどに、天文部らしい活動はしない。


 しないのだが、それでいていざとなると、披露する天体の知識の量は、他の部員を圧倒していた。


 それよりもと、杏朱は、付け加えた。


「屋上での逢引(あいびき)は良くないわと、忠告したかっただけなのかも」


「……」


 くすりと微笑んだ杏朱だ。


 悪戯(いたずら)好きの猫みたいだと、彼方は思った。


 どうやら、あれである。


 七色と屋上で昼食をとっているのを、見たらしい。


 彼方は、バツが悪く感じて、


「……見ていたの?」


 と、そう聞いた。


「あら」


 杏朱は、目をぱちくりとさせて、


「私は、そんなことを言ってはいないのだけれども」


 と、続けた。


「ああそうそう、さっき新聞部の子と話をしたのだけれども、ネタが枯渇していて非常に困っている様子だったわ。ああ哀しきかな新聞部、という感じね」


 杏朱は、彼方の表情を確認するように話した。


「……はは、そう、なんだ」


 彼方は、乾いた笑いをした。


「そうだ!」


 思いついたように手を合わせた杏朱は、楽しそうに、


「こんな今度の学園新聞のトップの見出しはどうかしら?」


 と、言う。


 彼方は、はあと息をつきながら、


「……一応聞くけど、なに?」


 と、聞いた。


「『屋上でのハプニング!』」


 と、杏朱は、上目遣いで、彼方の顔を覗き込んで、


「とか、結構センセーショナルな見出しかもね」


 なんとも嬉々とした調子である。


「あのなあ」


 と、彼方は、ため息をつきながら言って、


「ハプニングなんかなかったことは、見ていたのなら、わかるだろう?」


 杏朱は、すんとした調子で、


「全部見ていたわけじゃないわ」


 と、応じた。


「私だって、一挙手一投足、見ているほど暇じゃないの」


「あのなあ」


 と、彼方は、再びため息をつきながら言って、


「だったら、ありもしない適当なリークは勘弁してくれると、助かるかな」


「ああ、もしかしたら、私が目を離した時にピンポイントで、何かが起きていた可能性が、あるわね。私としたことが気づかなかったわ」


 杏朱は、大げさに目を丸くして、


「『あの葉坂学園随一の高嶺の花、御月七色さんが、男子生徒と昼食を一緒に!』」


「……」


「『男子生徒には、同じ天文部の黒髪の彼女がいるにもかかわらず! 三角関係勃発か? 渦中の黒髪の美少女は何も語らず! 詳細は本号にて!』」


「……あのな」


 彼方は、半ば呆れていた。


「……つまらないわ」


 呆れた顔をしているわねと、杏朱は、笑った。


「ねえ、朝川君」


「なんだ」


「知っている?」


「なにを」


 杏朱は、


「噂はね、想像をかきたてるの」


「……」


「想像は、重ねていけばいくほど、真実に近付くの」


 自然と、杏朱の顔と彼方の顔が近付いた。


「知っていた?」


「……知らないな」


「そして、その真実が嘘か誠かは、決して問われない」


「……そう、かな」


 揺れる杏朱の黒髪から花の(かお)りが、彼方に届いた。


「ふふっ」


 杏朱は、睫毛(まつげ)が綺麗な瞳を開いたまま、口元にほほ笑みを浮かべた。


「冗談よ」


「まったく。杏朱が言うと、冗談に聞こえないから困るよ」


 と、彼方は、言った。


「それにしても、朝川君は、やはりエリカなのかもね」


 杏朱は、本のページをめくりながら、彼方の目の覗きこむようにして、


「いいえ、それとも、ヤナギかしら」


 と、言った。


 唐突に話を振られた感じだった。


 エリカやヤナギが何だと言うのだろうと、彼方は、思った。


「いきなり何の話だ?」


「これよ」


 杏朱は、手に持った本のカバーを外して、赤い背表紙を見せた。


「読んでいる他愛のない本、花言葉大全」


 と、杏朱が、言った。


「これによると、エリカの花言葉は博愛、ヤナギの花言葉は自由」


「僕がそうだって?」


「ええ。朝川君って、誰にでも平等に接するもの。これは、博愛」


「そうかな」


「でもその実、朝川君の中身は本当はとってもとらえどころがないの。これは、自由」


「……哲学的すぎて、僕にはわからないな」


「じゃあかみ砕いて言うと、平等というお面をした日和見主義者、かしら」


「……誉めてはいないよな、それ」


「ええ。誉めてなんかいないわ。ディスっているのかも」


 杏朱は、さらりと言った。


「僕のことだけ言われるのは、不公平だな。杏朱は、何の花なのか教えてくれる?」


「いいわよ」


 と、杏朱は、続けて、


「私は、これ」


 と、今度は別のページを、彼方に見せた。


「マリーゴールド」


「花言葉は……」


 彼方の言葉を先取りするように、


「花言葉は、嫉妬、絶望、悲しみ……」


 と、声がした。


「私にぴったりでしょう?」


「……」


「冗談よ」


 杏朱は、さらりと、言った。


「杏朱が言うと、冗談に聞こえないからな」


 と、彼方は、言った。


「本当はこれよ」


 杏朱は、ほほ笑んで、とんと別のページの花を人差し指で指した。


「デンドロビウム……わがままな美人、か……」


 と、彼方は、読み上げながら言った。


「どうかしら? 私って美人だしわがままでしょう?」


「まあ、わがままなのはたしかだな」


 彼方は、気だるそうに言った。


 杏朱の何がどこまで本気なのかわからない自由奔放さには、彼方も時々悩まされていたからである。


「美人だとは言ってくれないのね?」


 杏朱は、困った顔で笑った。


「美人というよりも、かわいいんじゃないかな」


「……」


「なに?」


「……いえ。お上手なこと」


「杏朱は、花も詳しいからな。園芸部も、似合ったんじゃないのかな」


「あら、本当ね。何で、天文部にいるのかしら?」


 と、杏朱は、大げさに目を丸くした。


「僕に聞くなよ」


 彼方は、さらりと返した。


「そうね。あなたが、いるからかしら」


 杏朱は、瞳を物憂(ものう)げに(うる)ませた。


「ドキっとした?」


「そんなに顔を近付けないくれ」


「あら。あなたのそばに、いたいのに?」


 彼方に、杏朱の髪の薫りが届いた。


「本気じゃないだろう?」


 と、彼方が、言った。


「そうね。演技よ」


 と、杏朱は、くすりと笑った。


「……演劇部でも、良さそうだね」







 彼方は、急ぎ足で、自宅に向かっていた。


(何をやっているんだか、僕は)


 失態だった。


 朝、下着をリビングに干したままの状態で、家を出てきてしまったのである。


(今日は、御月さんが来てくれる日だって、忘れてた)


 いつもは、下着は、自分の部屋で干すようにしている。


 いるのだが、今日は、たまたま干すものが多かった。


 だから、スペースの広いリビングで干したのだった。


 洗濯も、七色に頼んではいる。


 いるのだが、下着についてはやはりどうにも気恥ずかしく思えて、自分で洗っていたのだ。


 自宅の玄関を開けると、小さな革靴が行儀よく揃えて置かれていた。


(御月さん、もう来ているんだ)


 リビングに入ると、彼方は、


(あれっ)


 と、思った。


 干してあった洗濯ものが、ないのである。


 しかして、


「お帰りなさい」


 と、キッチンから、割烹着姿の七色が顔を見せた。


「……今、戻りました」


「すみません」


 と、七色が、言った。


「今日は、私が先だったものですから、勝手にお仕事をはじめさせていただきました」


「いえ。どうもありがとう」


「いえ。お仕事、続けます」


「……あの、御月さん」


「はい」


 彼方は、


「ここに、僕の洗濯物が、干してあったと思うんだけれども……」


 と、探るように聞いていた。


 七色は、こくんと頷いて、


「あちらに、畳んで置いてあります」


 と、応じた。


 はたして、だった。


 (くだん)の下着も綺麗に畳んであった。


(しまったあああああああああああああああああああああああああああああっ……っ!)


 彼方は、心中叫んでいたものの、時すでに遅しである。


 後悔先に立たずそのものだった。


「……ありがとう」


「朝川さん」


 と、七色が、改まった調子で言った。


「少しいいですか?」


「どうしたの、御月さん」


「洗濯をさせていただいているのですが、朝川さんの下着が、出ていないような気がします」


「えと……下着は自分でやるから、大丈夫だよ」


「洗濯もお仕事ですから、出していただけると、助かります」


「何となく、恥ずかしくてね」


「……そう、ですか」


 七色の少し遅い返しに、彼方は違和感を感じた。


「そう、そんな感じ」


「わかりました」


「……」


「……」







 夕食は、シーフードカレーだった。


 そして、相変わらずの美味しさだった。


 彼方は、夕食のカレーを口にしながら、


(御月さんが来てくれるのも、今度でお終いか)


 と、思った。


 七色の仕事ぶりは、掃除、洗濯、炊事と、どれもが、しっかりしていた。


(すごいな、御月さんは……)


 それが、素直な感想だった。


 海の香りのような、シーフードカレー特有の、口に運んだ後の余韻(よいん)が、心地良かった。


 美味しさも、その都度ごとに磨かれていっているようだった。


 後々(のちのち)わかったことだが、七色の母親である佳苗から聞いたところによると、彼方好みの味付けを、都度都度、佳苗に聞いていたらしかった。


 両親不在で一人暮らしには慣れているつもりだった。


 だが、一人で用意する夕食のレトルト率を思い出してしまって、彼方は反省した。


 同級生の七色に、家政婦の仕事をやってもらっているのを目の当たりにしているのも、関係しているのだろう、


(もうちょっと、いや、もっとしっかりしないとな……) 


 と、彼方は、自省(じせい)した。


「ごちそうさまでした」 


 彼方は、あっという間にシーフードカレーを平らげていた。


「おそまつさまでした」


 彼方は、


「美味しかったです」


 と、言った。


「そう、ですか」


 七色がテーブルの皿を取り台所へ持って行こうとするのを、彼方は制した。


「御月さん」


「はい?」


「今日は、僕がお茶碗を洗っておくからいいよ」


「……」


「御月さん、明日は、ホームルームの前に、クラス合同の委員会の集まりがあるよね」


「はい」


「朝も早いだろうから、今日は大丈夫」


 壁にかけてある時計の針は、八時過ぎを指していた。


「……」


 皿を手に取ったままで、七色が止まった。


 寡黙(かもく)で表情を変えることも少ない七色である。


 だが、わずかにその表情が曇った。


(あれ?)


 はじめてみる七色の顔だった。


 彼方は、戸惑った。


 七色の瞳が、寂しそうに揺れたように見えた。


「……あの」


 と、七色は、俯きながら言った。


「……努力しますから」


「え……?」


「……朝川さん。あまり私を頼ってくださらないから」


「そんなことは……」


 と、言いかけて、彼方は、黙ってしまった。


 七色の言うとおりだった。


 実際、同級生の家政婦という存在に身構えてしまっていることは、確かだった。


 それは、気後れなのかもしれないし、遠慮なのかもしれなかった。


 佳苗にやってもらってしまったことも、七色にやってもらうのには、抵抗があった。


 そうした思いが、態度に出てしまっていたのかもしれなかった。


 気まずい無言の空間が、彼方と七色を包み込んだ。


 やがて、


「……すみません」


 と、七色が、言った。


「今言ったことは忘れて下さい」


 頭を下げた七色を見て、彼方は、胸が痛んだ。


「それでは、お言葉に甘えて、本日は失礼します」


「……うん。今日はどうもありがとう、御月さん」


「はい」


 七色は、丁寧にお辞儀をすると帰っていった。


 急に、静かになる。


 途端に廊下の時計の秒針の音が気になってきた。


 なんだか一人だけ取り残されたような、重たい空気を感じた。


(……)


 彼方は、ぼうっと天井を見た。


 七色の仕事はどれもが、丁寧で正確だった。


 母親の佳苗に仕事の内容をきちんと聞き取りをして、夕食やお昼の弁当を用意してきてくれたのもその一つだろう。


 洗濯や掃除など、それらを、彼方の気付かない部分まで、しっかりとこなしてくれているのだろう。


 それを、気恥ずかしさに置き換えて誤魔化すのは、七色に対して、失礼なことだった。


 居間に戻った彼方だったが、


(あ……)


 と、椅子にかけられたままの可愛らしい白色のマフラーに、気付いた。


「これ、御月さんのだよな」


 おそらく忘れてしまったのだろう。


「まだ、間に合う……か」


 よしと、彼方はコートを羽織って、家を飛び出した。







 彼方は、夜の寒さに白い息を吐きながら、


(たしか、家は二丁目の方だって、佳苗さんは言っていたから……樋野川駅方面か)


 樋野川駅までは、途中公園を斜めに横切る形で通ったほうが、近かった。


 彼方は、十二月の冷たい風を耳に感じながら、走った。


 しばらくして、公園に着いた。


 公園は、スポーツ公園といった趣きである。


 広めの敷地で、樋野川市近隣からの来園者も、多い。


 サッカー用と野球用のグラウンドが一面ずつと、テニスコートが三面、森林浴向きの遊歩道がある。


 日中の利用者は多いのだが、夜で人気はなく、公園全体が昼間よりも一段と広く感じられる。


「……静かだな」


 と、彼方は、独り()ちた。


 夜のしじまの中、からからと葉が風に揺れる音がはっきりと聞こえた。


 彼方は、ふと人の気配を感じた。


 人通りのない中での気配に、違和感を覚えたわけではなかった。


 明らかに何かが違うような、そんな違和感だった。


 彼方は、漠然とした違和感に不安を覚えて、振り返った。


 見れば、年は彼方と同じくらいの学生服姿の少年が、立っていた。


 少年は、開口一番ふてくされた調子で、


「なんだぁ、男かよ」


 と、言った。


「たしかに、可愛らしい女の子の薫りがしてきたんだけどな」


 無遠慮に、独白に近い感じで、少年は続けた。


「ああそうか、そのマフラーか」


「……」


 彼方は、言葉を発しなかった。


 普段の彼方であれば、初対面の相手に、何か言っている場面である。


「そのマフラーから、いい薫りがするんだな」


 彼方を覆いはじめていた違和感が、彼方から、言葉を奪った。


「ふーん。そのマフラーの子、とっても綺麗で可愛らしいんだよね。僕にはわかるんだ」


 少年は、愉快そうに目を細めて、言った。


「きめ細かな白い肌、すらりと伸びた手足、本当に可愛らしい」


「……」


「ふーん、だんまりかい?」


 少年は、鼻を鳴らした。


(……困ったな)


 彼方は、内心ため息をついた。


「おっと、話を聞いてもらうのに、名乗らないのは失礼だったね。僕は、高瀬容之(たかせようすけ)だ」


 と、少年は、言った。


(少し変わった人なのかもしれない)


 と、彼方は、続けて、


(かかわり合いは、ごめんだ)


 と、思った。


 彼方の下した結論はありきたりだったが、正論のように思われた。


「出会ったこともない、美しい少女を思い描くことは、非常に楽しいよ」


 彼方が、高瀬の横を、通り過ぎようとすると、


「そんな僕の高尚な(たしな)みに水をさしたその罪は、海よりも深いよ、君」


「……すみません、急いでいるので」


「話は、聞けよぉっ……!」


 高瀬と名乗った少年が、激昂(げっこう)した。


 瞬間。


 彼方は、自分の真横を、急激な速さで何かが奔っていくのを、感じた。


 彼方の真後ろの木が、ゆっくりとした音を立てた。


 振り向くと、木が傾いていると表現するのは、正確ではなかった。


(……何、だ……?)


 正確には、木は真横に切断されていた。


 それが、木々の景観に、斜めの歪みを生んでいた。


(……え……?)


 一体何が起こったのか、彼方には理解できなかった。


 重い乾いた音を立てて、大木が、崩れ落ちた。


 彼方は、そこまで認識した時に、顔にわずかな熱を持った痛みを感じた。


 彼方の頬に、一本の血の線があった。


(切れている……?)


 頬が、紙で手を切ってしまった時の数倍の痛みで、熱くなった。


「今のは、わざと外した」


 と、高瀬は、言った。


「……」


 彼方は、喉の渇きを、唐突に感じた。


「どうしたんだい?」


 と、高瀬は、愉快そうに言った。


「声も出せないか」


 小さな鋭い痛みも忘れて、彼方は、状況を把握しようと必死だった。


(よくわからないが、頬を切られたらしい)


 と、彼方は、思った。


 高瀬は、気取ったしぐさで、指を鳴らした。


「君は、こう思っているはずだ。『こいつ、普通じゃない』とね」


(誰に?)


 それは、わかっていた。


「その通り。僕は、普通じゃない。選ばれた存在なんだ」


 背中を氷でなぞられたような、(いや)な震えが、彼方を(おお)った。


「だから、何をやってもいい」


 と、高瀬は、笑った。


「悲鳴を上げ必死に助けを乞う哀れな人間を切り裂いてミンチにして、それを楽しんでもいい」


 高瀬が一歩前進するのに合わせて、彼方も一歩後退した。


 先程から感じていた違和感は、殺意だと、彼方は、直観した。


(逃げ……ないと)


 彼方は、自分に向けられている明確な殺意に、気持ちばかりが焦って、身体が動いてくれなかった。


「女の子の鳴き声は、格別でね。僕を癒してくれるんだ」


 と、高瀬は、言った。


「さて、男の君は、どんな声で鳴いてくれるのかなあ……楽しみだ」


(早く逃げないと……)


「ひゃっはぁっ!」


 高瀬の奇声と共に、風が、奔った。


 彼方が目を瞑ってしまった時、鈍い音が響いた。


「……ひぃあ!」


 高瀬が、驚いた様子で後退した。


 もう一斬、彼方の目にも見えた、円盤状の軌跡を描いて、輝く薄い紅色の刃があった。


「……光束飛刃(ビームブーメラン)……だと!」


 忌々しそうにさらに後退した高瀬が、叫んだ。


「お前……!」


 高瀬は驚きの色を隠さずに、警戒の視線で、前方をきっと睨みつけた。


(あ……)


 と、彼方は、言葉を失った。


 月の明かりの下の少女、だった。


 彼方は、その少女を知っていた。


 御月七色、その人だった。


 七色は、先ほど見送った時と何ら変わらない、葉坂学園の制服姿だった。


 しかし、七色の両手には、日常離れした、(ふた)つの剣があった。


 剣の鈍い光沢が、(おごそ)かに輝いていた。


「うざいな……お客様は、お呼びではないんだが」


 高瀬は、心底(しんそこ)忌々(いまいま)しそうに言った。


「お前、何なんだよ」


 七色は、ゆっくりと歩を進めた。


 月光のせいだろうか、七色に感じていた無機質さが加速されているように、彼方には感じられた。


「私は」


 と、七色は、(つむ)ぐように言った。


「"月詠(つきよ)みの巫女(みこ)"」


 七色の双つの剣が、わすかに音を立てた。

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