第8話 駆け引きの祭典 10
一瞬、水を打ったような、静けさが、訪れた。
ほんの刹那の沈黙だったはずである。
それなのに、そこには、まるで永遠の縁を覗き込んだかのような、重さがあった。
シシリィは、
(いよいよ、か)
と、息を潜めるように、思った。
胸の奥が、わずかに、震えた。
シシリィ自身にも、それが緊張なのか歓喜なのか、分からなかった。
ただ、これから訪れる何かが、確実に世界を変えると、直観していた。
ゆっくりと、古びた歯車がかみあうような音を立てながら、天蓋が、開いた。
円形の室内庭園に差し込む光が、そこに立つ者の影を、長く、引き延ばしていった。
姿を現したのは、一人の可憐な少女だった。
桜色の髪が、柔らかな風に揺れる。
白い花飾りが、淡く光を返す。
その光景は、場の全員に、現実感の薄れる瞬間をもたらした。
少女の立ち姿は、あまりにも静謐で、あまりにも儚げだった。
まるで、この世の空気に馴染まない、別格の存在のように見えた。
「ほう……」
と、シシリィが、喉の奥からせり上がる息をもらした。
「美しい」
その声は、憧れとも畏れともつかない、微妙な震えを含んでいた。
少女の服は、巫女装束であった。
薄い桑色のその衣は、光を吸うのではなく、かすかに反射する。
肌の白さをより際立たせている。
まるでそこに触れれば砕けてしまいそうなほどに、繊細で、儚い。
「"尽き詠みの巫女"です」
少女の声は、滴り落ちる水の音のように、澄んでいた。
そこに、感情の波は、一切なかった。
その抑揚のなさがかえって、周囲の緊張を高めた。
「これが……"尽き詠みの巫女"だと?」
と、オーレルが、肩を落とすようにして、言った。
「何の力も、感じないではないか」
それは、不満と侮蔑の入り混じる声音だった。
("暴虐"の言う通りだ)
と、リゼは思った。
(何の力も、感じなさすぎる……だから、とても、何だか……)
胸の奥でざわつくものの正体が、うまく掴めない。
(不安になる)
その感情は漠然としていて、言葉にできるほど整理されていない。
ただ、少女の存在そのものが、何か大きな欠落と充足そして未知を抱えているように感じられた。
それが、リゼの本能を、刺激していた。
そのとき、ふいに、絵画の間でのバンナウトとのやり取りが、リゼの脳裏をよぎった。
あのとき感じた違和感が、いま、はっきりと形を持ち始めている。
「"尽き詠みの巫女"様は、どれほどお強いのですか?」
「……」
「"尽き詠みの巫女"様は、お目覚めになられたばかり」
「それだからかもしれませんが、もしかすると、拝謁のおりに、私がお会いしたのは、唯の幼さの残る可憐な少女ではなかったのか、とさえ思えるのです」
「我ら三神官の長を奉ずる言葉とは、思えないな」
「ストレートすぎましたか」
「"爛"を統べる頂たる"天宮殿"の三神官の三柱、"黒槍"バンナウト様、我が主"蜘蛛"イセリア・アージュ様、そして、"尽き詠みの巫女"様」
「……」
「そもそも、三神官の皆様にありましては、上下の別はなく、ただ等しくある方々です。巫女の称号をお持ちなので、"尽き詠みの巫女"様が、長におさまっているにすぎないかと」
「決して、疑念を抱いているわけではありません」
「ですが、"円卓会議"の皆様の中には、"星天審判"に前向きでない方も、いらっしゃると、聞き及んでいます」
「"星天審判"の祈りを捧げる巫女様が、威を示すことも、必要かと存じます」
「そのような勢力を黙らせるのも、お前の仕事だろう」
「答えになっていませんわ、バンナウト様」
「そうだな」
「私が、全力で、向かい合ったとしても、とうてい勝てないだろう」
「……」
「これで、答えに、なったか?」
「十分ですわ」
リゼは、自身の胸のざわつきを、いっそう強く意識した。
(なに……これは……?)
問いかけても、理由は分からない。
分からないからこそ、不快ではなく、ただひどく心がざらつく。
冷たい砂を胸の奥に流し込まれたような、そんな感覚だった。
巫女を名乗った少女が、
「"爛の王""暴虐"オーレル・オーギュスト」
と、静かに告げた。
その声音には、やはり何の起伏も、情感もない。
だからこそ、響く。
そこに宿るのは、個ではない。
何か、もっと大きなものの代弁者のような、冷たく澄んだ威容だった。
「あなたの言葉を、一つ肯定し、一つ否定しましょう」
オーレルが、
「何だと?」
不愉快そうに眉をひそめた。
その反応すべてを予期していたかのように、少女は、瞑目し、淡々と言葉を紡いだ。
「あなたがた"円卓会議"の王は、我ら"天宮殿"の三神官に、従属するものではありません」
七時の席の人物が、
「そうだねえ」
と、小さく笑った。
その笑いは、皮肉なのか賛同なのか分からない、不気味な響きを持っていた。
少女は、続けた。
「"天宮殿"は"爛"を統べるための頂としてあるもので、"爛の王"を縛るものではありません」
リゼは、その言葉を聞いていた。
「ですから、あなたがた"円卓会議"の王である"爛の王"と、私達"天宮殿"の三神官とは対等です」
その瞬間、オーレルは、満足げににやりと笑った。
いかにも、それ見たことかと言いたげな勝ち誇った笑みだった。
イセリアは、そのやり取りを眺めながら、困ったように肩をすくめた。
だが、その困惑の仕草には、明らかに本気味がなかった。
「ですが」
と、少女が、言葉を切った。
その切り方があまりにも静かで、逆に場の空気を凍らせた。
「力としては、対等ではありません」
嗤うでもなく、威圧するでもなく、ただ事実を告げるように、そう言った。
「少なくとも、あなたより、私のほうが、強い」
その瞬間、オーレルの顔に、ぴくりと怒気が走った。
「……我ら"爛の王"を愚弄するのか?」
「いいえ」
少女は、淡々としたまま、瞬きを一つすら見せずに返した。
「事実を言ったまでのことです」
「俺より強い、だと……?」
「はい」
少女の声音には、誇りも奢りもない。
ただ真実だけがあった。
「そんな脆弱な理力で、俺より上だと言うのか?」
オーレルは、苛立ちを隠さず、声を荒げた。
「試してみますか?」
挑発ではない。
侮蔑でもない。
ただ事務的な確認のように言われた。
次の瞬間、場の空気が弾けた。
突如、オーレルの周りに、すさまじい殺気の気配が生じた。
それは殺気というより、獣の咆哮のような、本能を揺さぶる圧だった。
「ほざけっ!」
と、オーレルが吠えた。
その声は、空気を裂き、場を震わせた。
ひりつくような気配に、リゼは、
「……ひゃんっ!」
小さく悲鳴をあげて、立ちすくんでしまった。
膝が震え、呼吸が乱れていく。
オーレルの咆哮は、まるで巨大な獅子のものだった。
円形庭園の支柱が、次々と倒壊していく。
石柱が砕け、砂塵が舞い、破片が弾丸のように周囲へ飛ぶ。
巨大な支柱が、オーレルの頭上に崩れ落ちてきた。
だが、オーレルは、わずらわしそうに手を軽く振り上げただけで、それを粉砕した。
「なるほど。それが、あなたの力ですか」
凄まじい轟音が鳴り響く中、少女は、表情一つ変えなかった。
その静けさが、逆に場の異常さを際立たせる。
「"暴虐"の名の所以よ」
と、オーレルが、笑った。
乱暴で、荒々しく、だが獣の誇りを秘めた笑いだった。
「純粋な物理のやりとりで、俺に敵う者など存在せぬわっ!」
その瞬間、オーレルと少女の影が、重なった。
オーレルの剛拳は、全てを砕く一撃のはずだった。
だが、少女の錫杖が、その拳を受け止めていた。
「……ぐっ!」
オーレルの顔が、驚愕に染まった。
目が見開かれ、喉が音を失った。
「ばかな……!」
拳に力を込めるが、びくともしない。
「なぜ受け止められる……っ!」
「言ったでしょう」
「……っ!」
「私は、あなたよりも強いと」
事実を述べる、ただそれだけの口調だった。
「ぐおおおおおおおおおおおおお!」
オーレルが、さらに力を込めた瞬間、二人の足元の地面が、爆ぜるように沈み込んだ。
地割れが走り、周囲の花壇が粉砕される。
「剣を収めなさい、"暴虐"」
少女の髪と花飾りが、風圧で揺れる。
「そうすれば、今回の件は、不問に付しましょう」
オーレルは、激高した。
「……ふざけるなああああああああああああああああああああああああああっ!」
と、魂を削るような叫びをあげた。
その瞬間、巫女の錫杖の先端の水晶が、明るい水色に染まった。
光は静かに、だが圧倒的に空間を満たしていく。
「……愚かなる眼前に、消滅という名の慈悲を……」
少女は、詠うように、祈るように、静かに告げた。
眩い水色の閃光が、生じた。
刹那、音もなく、世界が水色に、そして水色から白に染まった。
オーレルの姿が、その形を失う。
塵さえ残さず、巨躯は、一瞬で消し去られた。
"爛の王""暴虐"オーレル・オーギュストの最後だった。
「……浅はかな」
と、少女は、無機質な憐憫とともに呟いた。
リゼは、"尽き詠みの巫女"から、目を離せなかった。
(これが、"尽き詠みの巫女"……)
震える足が、止まらなかった。
それが恐怖なのか、畏敬なのか、判別できなかった。
「困ったわ」
と、イセリアが、困り顔で微笑んだ。
「"虚影の指揮者"と"暴虐"の消失……"円卓会議"十二の席の内、二つも、欠けてしまうなんて」
その表情には、真実味が一片もなかった。
「改めて、議を決しよう」
と、バンナウトが言い、リゼを促した。
リゼは、はっとして姿勢を正し、"円卓会議"の王たちを見廻した。
「"円卓会議"の王のみな様」
リゼは、緊張の面持ちのまま、
「星々の審判、"星天審判"」
と、続けた。
それから、
「執行に、異を唱える方は、いらっしゃいますか?」
と問いかける。
「異議はないよ」
と言ったのは、七時の席の老婆である。
深い灰色のローブを目深にかぶり、口元だけがわずかに見えた。
「世界を滅ぼすのは、構わないがねえ」
と、老婆は、続けた。
「私は、遊び足りないんだよ」
老婆の顔は、そのほとんどがローブで覆われているので、口元の表情が、僅かに見えるだけである。
「第七座。何が、望みですか?」
と、"尽き詠みの巫女"が、聞いた。
その問いかけには、何の感情も、込められていなかった。
第七座と呼ばれた老婆は、にやりとして、
「夢を、食べたりないのさ」
と、言った。
「……」
"尽き詠みの巫女"は、眉一つ動かさず、ただ言葉を聞いている。
老婆は、肩をすくめて、
「ああ。巫女様には理解いただけない感情だろうねえ、これは」
と、続けた。
それは、不遜のようでもあり無遠慮のようであり、少なくとも、礼を尽くしている、という感じでもない。
「どうせ、壊してしまう、世界なんだからね」
目を細めた老婆は、
「だったら、本当に壊れてしまう前に、私に、遊ばせてくれても、良いだろう?」
と、言った。
「それに、どうせ、審判を執り行うには、巫女様自身、目覚めが、足りなそうだしねえ」
「それは……」
リゼが、口を挟もうとしたが、薄く微笑んだままのイセリアに、手で制される。
「だったら、それまで、遊ばせておくれよ」
「……良いでしょう。あなたの好きにして、構いません」
と、"尽き詠みの巫女"が、言って、その姿は、再び、天蓋の中に消えた。
まるで最初からそこにいなかったように、である。





