第1話 はじまりの夜空 7
昼休みである。
彼方は、級友の新谷に声をかけられた。
「彼方」
と、新谷が、はずんだ声で言った。
「昼飯に行こうぜ」
彼方が、肩をすくめながら、
「本当に、昼休み、楽しそうにするよな」
と、返した。
この新谷の昼休みになった時のテンションの上がりっぷりである。
このテンションの上がりっぷりは、なにも今にはじまったことでもない。
言ってみれば、見慣れていた。
お決まりと言えばお決まりなのだ。
それに、悪い気もしなかった。
機嫌がよさそうな級友を見ているとこちらまで元気になってくるような気もするのだ。
おうよと、新谷は、笑った。
「学食学食! 購買に行こうぜ」
彼方は、
「いいよ」
と、応じた。
二つ折りの財布を握った新谷は、嬉々(きき)として、
「今日は木曜日だから、パンがお得だ」
と、言った。
「焼きそばパンが、俺を待ってるぜ!」
焼きそばパンは、学園の購買で売られている惣菜パンの中で一番の人気パンである。
百円という学生の財布に優しい良心的な価格設定。
それに、パンから溢れんばかりのボリューミーな焼きそば。
それが、人気の秘密である。
新谷は、ぐっと腰を低くして、
「早くしないと売れ切れちまう。走るぞ、彼方」
と、宣言通り、走る気満々である。
新谷の言葉通りだった。
焼きそばパンは、一番の人気なのだ。
販売開始から五分とかからず売り切れてしまう。
「新谷、先に行っていて」
と、彼方が、言って、
「僕は、焼きそばパンじゃなくて、メロンパンを食べたいから」
すぐさま、
「馬鹿野郎……っ!」
と、新谷は、彼方の両肩を両手でがっしっと力強く掴んだ。
「わかってるのか……!」
新谷は、そううめくようにして、
「焼きそばパンは、一人一個の限定品っ!」
と、両手でガッツポーズを取って力強く叫んだ。
「知っているよ」
彼方は、静かに答えた。
新谷は、
「だったら、俺たちがなすべきことはたった一つだろっ?」
と、ぐっと身を乗り出すようにした。
「なにをなすべきだって?」
彼方は、静かに聞いた。
「二人で並ぶんだよ!」
新谷は、両手を大きく広げた。
「なぜ?」
彼方は、静かに聞いた。
彼方の静かな調子に対して、
「ばっか! わかりきった話だろ」
と、新谷は、熱量たっぷりである。
「俺は、一個じゃ満足できない。お前の力が必要なんだよ!」
新谷は、熱意を込めて言った。
彼方は、うんと小さく頷いて、すました調子で、
「僕にとってはわかりきった話でもないし、二個食べたい新谷のために走るのは、ごめんだな」
と、静かに返した。
「うっわ!」
「そんな顔しても、返事は変わらないよ」
新谷は、がっくりとうなだれてから、ゆっくりと顔を上げて、
「……そういうふうに塩対応ではっきり言うところ、たまに、俺ら友達じゃないのかなって、自信なくなるぜ……」
と、諦めた調子である。
彼方は、ころころとテンションが変わる新谷に苦笑しながら、
「後から、追い付くよ」
と、言った。
わかったよと、新谷は肩をすくめた。
「じゃあ、俺だけひとっ走りしてくる……わ……」
新谷の言葉の勢いが、ぴたりと止まった。
ふと、
「乃木君」
と、声がした。
クラス委員長の凛架だった。
「新谷、委員長に呼ばれているよ?」
彼方は、新谷に言った。
新谷は、小声で、
「……そんなことはわかってるよ! 問題は、焼きそばパンを獲得するためには、ここで足止めをくうわけにはいかないんだよっ」
凛架は、彼方と新谷のところまで歩いてきた。
「よー、委員長」
新谷は、軽く応じた。
「今日の日直は、私と乃木君なのよ?」
と、凛架は、両手を腰に当てて言った。
「黒板消し、やっておかなくちゃ」
「悪ぃ。これから学食行ってくるから、委員長、よろしく頼む……わ……」
と、そこまで言いかけた新谷の顔は、唐突に具合が悪そうになっていった。
見れば、やはり、はたしてだった。
凛架の白い脚が、少し揺れていた。
まさに蹴りの構えである。
「……ぐ」
「……」
「委員長っ!」
「何かしら?」
青白い顔をしながらも、新谷は、
「男には、負けられない戦いっていうのがあってさ」
と、覚悟を決めたように凛架に向き直った。
「そう?」
凛架の言葉は、素っ気なかった。
「俺は、どうしても、勝利をつかみ取りたいんだ」
「そうなの?」
「焼きそばパンをつかみ取りたいんだよ。今しかないんだよ! わかってくれ、委員長!」
「……購買のパンを買いに行くのを、そんなに、壮大なドラマ仕立てに、言われてもなー」
「実際、購買は戦場なんだよ! ドラマなんだよ!」
「乃木君は、ドラマ好きなの?」
「……は?」
「うん。蹴り倒されるシーンって、たしかにドラマティックなシーンかもね」
と、凛架は、自身で納得したように言った。
「黒板消しをさぼった登場人物に、正義の鉄槌が下されるシーンって、ドラマのワンシーンとしてどうかしら?」
凛架の蹴りが、今にも放たれそうだった。
「派手に倒れたりしたら、なかなか絵になりそうじゃない?」
「……あ」
「うん。見応えあるかも」
「……いや」
新谷の覚悟は、すぐに、かき消えたようで、
「委員長」
「なに?」
「実は、俺、黒板消し、好きなんだよね」
「へえ。そうなんだ」
「そうそう。今から、やろうとしていたところ」
「偉いわね」
「だろ? でも、黒板消しは後でもできるし、優先順位を考えると、売り切れ必至の焼きそばパンの入手が先じゃねーかな……?」
「……ふーん。そうなんだ。私は、日直の仕事が先だと思うけど」
と、凛架が、言った。
新谷の顔は、すっかり具合が悪そうになっていった。
見れば、やはり、はたしてだった。
凛架の白い脚が、揺れていた。
まさに蹴るまで五秒前くらいの構えである。
「……あ、いや」
「どうしたの?」
「黒板消し、ぜひやりたいな……いや、委員長と一緒に、黒板消しやりたいな」
「それは素晴らしい。殊勝な心掛けね」
彼方は、一連の二人の掛け合いを眺めていた。
そして、クラス委員長である凛架に軍配があがったようだった。
「……っ。そんなわけだから、彼方、もう行ってくれ。昼飯は、今日は、別行動で頼む……」
と、新谷が、諦めた調子で言った。
この新谷と凛架のやりとりの類は、なにも今にはじまったことでもない。
言ってみれば、見慣れていた。
お決まりと言えばお決まりなのだ。
「わかったよ」
いつもの光景と言えばいつもの光景なのだ。
彼方は、苦笑しながら、
「じゃあ、僕は行くよ」
と、言った。
渡り廊下まできたところで、彼方は、
「朝川さん」
と、声をかけられた。
声の主は、七色だった。
意外なところで意外な人物に声をかけられたと、彼方は、思った。
「御月さん?」
「はい」
と、抑揚なく、七色が、言った。
七色は、二つの巾着袋を抱えていた。
巾着袋は、大きめのものと小さめのものだった。
七色が、
「お昼ごはんを作ってきました」
と、言った。
「え?」
一瞬面食らった。
だが、すぐに合点がいった。
朝川家は現在、彼方の一人暮らし、という状況だった。
両親は、仕事の関係で長期出張に出ている。
彼方も両親に一緒に付いていくという選択肢もあった。
しかし、葉坂学園からの転校ということを考えると、時期的に中途半端だったし、新しい生活に慣れる手間や労力を考えると、場所を移らない現状維持の一人暮らしに、落ち着いたのである。
両親からの連絡はほとんど来ない。
月に二回ほど、メールが、あるのみである。
連絡の少なさは、よく言えば、彼方を信頼していることの裏返しであり、悪く言えば、放任主義である。
しかし、放任主義の彼方の両親も、多少なりとも、学生である息子一人を置いていくのには、不安があったのだろう。
家政婦の女性に、週三日ばかり来てもらうように、手配してくれていた。
その家政婦の女性が、御月佳苗である。
ただし、佳苗が風邪をひいてしまって、今週いっぱいは、佳苗の娘である七色が代わりに家政婦をしてくれている。
そういう成り行きだった。
彼方は、栄養が偏るからと週二回は佳苗が弁当を持たせてくれていたのを、思い出していた。
七色も、佳苗が普段そうしていることを聞いて、こうして用意をしてきてくれたのだろう。
「ありがとう」
「いえ。お仕事ですので」
と、七色は、続けて、
「ごめんなさい。あらかじめお知らせしておくべきでした」
と、言った。
「もしかして、もうお昼を買っているか、ご自分で持ってきているとかでしたら……」
「大丈夫だよ。学食に行こうとしていたからね」
と、彼方が、言った。
「そうですか。よかった」
七色は、静かに言った。
この時、
「おいおい……」
と、近くを通った男子生徒が、立ち止まってうめいていた。
(……?)
彼方は、周りを見渡した。
気づけば、何人もの生徒が立ち止まっている。
そうして、一様にこちらを見ている。
「あの御月さんが、弁当を二つ持ってるぞ」
「まじか。誰かと、食べるのか」
「ちょと、誰かと付き合ってるって情報はなかったぞ」
「誤報だろう?」
「くっそー! うらやましいぜ!」
「学園のアイドルを独り占めする気か!」
「俺は、許さんぞっ」
かくのごとく、ざわつきはじめていた。
あっという間に、周囲が、ざわつきはじめていた。
(……まずい)
当の七色はと言えば、そんなことには気づいてもいない感じだった。
「……あの?」
彼方が固まったのを見て、少し訝し気にしている七色だった。
彼方は、周りの興味の視線を避けるように、
「と、とにかく、屋上にでも行こうか」
と、言った。
「はい」
そう短く答えた七色は、何も意に介していない様子だった。
屋上の空気は冷たかった。
それでも、柔らな日差しが暖かった。
おおむね快適である。
昼食を食べる先客も四組いた。
この辺で良いかなと、彼方が言うと、七色は静かに頷いた。
弁当の中身は、鳥そぼろご飯と卵焼きとミートボールとポテトサラダである。
「旨い……」
口に含んでの彼方の第一声は、それだった。
昨日の夕食も相当に美味しかった。
そして、弁当も、当然のように美味しかった。
あっという間に、彼方は、弁当を完食してしまっていた。
七色は、まだ弁当を半分ほどしか食べていなかった。
「ごめん。がつがつしすぎたかな」
七色は、ポテトサラダを小さな口に含みながら、わずかに首を横に振った。
「気にしないでください」
「良い天気だね」
と、彼方は、空を見上げて、言った。
「今日は、星見日和だ」
二人とも、腰をおろす形になって、自然と距離も近くなった。
七色の澄んだ瞳が、彼方の視界に入った。
(……)
容姿端麗そのものだ。
綺麗に整った顔立ち。
光を織り込んだような肩までの艶やかな髪。
雪のように白い肌。
三拍子どころか四拍子五拍子と揃っていた。
まぎれもない美少女である。
その言葉が指し示す通りのその容姿は、人形の端整さをも思わせた。
また、人形が言葉を発することがないように、寡黙だった。
表情を変えることも、少なかった。
それは、今こうしている時も、変わっていない。
「星見?」
と、七色が、聞いた。
「星の観察が、好きでね」
「はい」
「一応、天文部なんだよ」
「そう、ですか」
七色の返答は、抑揚がなかったが、
「なぜ星を見るのですか?」
彼方は、聞かれて少し考えてから、
「星が、好きだからじゃないかな」
と、言った。
七色は、やはり抑揚なく、
「好き……?」
彼方は、頷いた。
「子供の頃から、星を見てきたからね。好きだから、今も続けているんだと思う」
彼方は、苦笑しながら言った。
「天体図鑑好きも昔から見続けているから、結構ぼろぼろだったりしてね」
「そうですか」
七色は、頷いた。
「子供の頃の行動原理って、たぶんすごく明快だと思うんだ。好きとか嫌いとか、単純な二択だったり」
七色は、水筒の麦茶を注いで、彼方に手渡した。
ありがとうと、彼方は、麦茶を受け取って、
「すごくありきたりな話になってしまうけれども、夜空にたくさん見えている星の光って、光年って単位だよね」
「はい」
一光年は、光の速度で一年間進み続け到達できる距離である。
秒速や時速から考えていくと、イメージがしやすい。
光の速度は秒速三十万キロメートルである。
これは、地球の一周が約四万キロメートルなので、一秒間に地球を七周半する計算になる。
この速度で一年間進み続けるとすると、約九兆四千六百キロメートルとなる。
地球と月の距離が約三十八万四千キロメートルで、地球と太陽の距離が約一億五千万キロメートルである。
途方もない数字である。
光年は、時間の経過の概念がある。
「夜空に星が見えるのは、その星の光が、ここまで届くからだよね」
と、彼方は、言った。
よく引き合いに出されるのが、音と光の話だ。
音は、その音が発生してから、すぐに聞こえるように感じる。
感じるのは、あくまで感覚である。
実際には、音が発生してから聞こえるまでには、発生した場所から聞いている場所までの距離に応じて、時間の経過が存在する。
この音の性質は、光にも当てはまる。
光が発生してから見えるまでには、発生した場所から見ている場所までの距離に応じて、時間の経過が存在する。
そして、光は、音よりも速い。
雷が、例である。
雷は、音と光は同じ場所で同時に出る。
だが、音は光よりも遅い。
だから、光が見えた時から少し遅れて、聞こえる。
遠い場所で発生した雷の場合、光を認識してその後で音を認識する場合があるのは、そのためである。
普段では認識できない時間であるが、距離があれば認識が可能な範囲になる。
一万光年の距離にある星は、その星が光を出してから光が発生した場所である星から見ている場所である地球まで到達するのに、一万年がかかるところにあることになる。
「すごく遠いところからすごく時間をかけて、届いてくる光を、星は届けてくれていて……」
と、彼方は、昼の空を見上げた。
「でも、その星と光は、こうやって手を伸ばせば、届きそうだと思えるほどで」
「……」
地球からの距離が一光年の星を見る場合、見ている光は、その星から一年前に発せられたものである。
一年前に一光年の距離にあったその星を、地球で見ていることになる。
「手の中にすくい取れそうな感覚が、好きなんだ」
仮にその星が移動したり消滅したりしても、地球からはその星の一年前の光しか見ることができない。
だから、外見上は、星がまだ存在しているように見える。
「……とても子供じみているけれども、手を伸ばしたくなるんだ」
「……」
「実際に、気付いたら手を伸ばしている時もあるよ」
彼方は、笑った。
「それで、願いをかけたくなるんだ」
「……願い、ですか?」
「どうか手が届きますようにって、ね」
七色は、静かに、彼方の言葉を、聞いていた。
「……」
「ごめん。少し喋りすぎたかな」
と、彼方は、言った。
「いいえ。ありがとうございます」
七色は、昼間の空を見上げた。
「朝川さんのこと、少し、わかったような気がします」