第1話 はじまりの夜空 6
少女は、駆けていた。
「はぁ……っ」
苦しい。
息が上がっている。
「……はぁっ!」
苦しかった。
もう限界が近い。
それは、少女自身がよくわかっていた。
胸のあたりがばくばくいっている。
「……っぁっ!」
それでも、走る。
走り続ける。
「はぁ……っ!」
走り続けるしかなかった。
理由は、単純だった。
そう。
追ってくる者から逃れるためである。
走り続けながら、
「何で……っ」
と、少女は、悪態をついた。
「こんなことに……っ!」
少女は、走り続けている。
呼吸が、苦しくなっていた。
自身のアルファルトを蹴る音が、ばたばたと響き続ける。
耳に、絶えることなく響いてきていた。
無我夢中に走り続けている。
スカートが、ばっさばっさと揺れている。
下半身に風を感じていた。
「……はあっ」
脚が悲鳴を上げている。
「……はぁっ……」
苦しい。
だが、その苦しみから逃れることはできなかった。
言い換えれば、少女は、立ち止まるわけにはいかなかった。
「なんで……なのよぉおおっ!」
二時間ほどの前の恋人の男子生徒からの最後の電話の内容が、頭の中でわんわんと反響していた。
「た、助けてくれ!」
「どうしたの、いきなり?」
「今、俺、四丁目のところで……」
「助けてくれって、何かの冗談? 全然うけないし。悪ふざけはよしてよ」
「冗談で、こんな恥ずかしいこと言えるかよっ!」
「六時に、駅前で待ち合わせの約束だったじゃん」
「あぁ……っ!」
「何すっぽかしてんのよ。デートの約束、忘れていたんじゃないでしょうね」
「頼むから助けてくれ!」
「私が欲しいって言っていたアクセを、買ってくれるんでしょう?」
「頼む!」
「え?」
「頼むっ!」
「……」
「俺の話を、聞いてくれ!」
「……マジなの? どうしたの?」
「追われているんだ」
「は?」
「殺される」
「え?」
「俺は、絶対殺されちまう」
「なにを……」
「殺されちまう! どうしたらいいんだよ!」
「殺される……って、突然、何を言い出すの?」
「あいつが、追ってきてるんだよ! 俺を殺そうとしている!」
「あいつ?」
「きっともうすぐそこまで来ている!」
「落ち着いて」
「落ち着けるかよっ!」
「いいから、落ち着いてっ!」
「……っ」
「あんたが本気なのは、わかった」
「……」
「誰かに、追われているのね?」
「ああ。追ってきているやつは、あいつだよ」
「あいつって、誰?」
「お前も、知ってるよ」
「知ってる……?」
「カツアゲの良いカモが、いただろう?」
「えっと……」
「小銭欲しい時に便利だったやつ。この前、三万くらいむしり取ってやったやつだよ」
「……やめとけって言ってたやつじゃん。まだ、そんなことやってたの?」
「……」
「あのあんたがいじめていた子に、追われているの?」
「そうだよ! そいつに追われている」
「そんなに強い子だったっけ? どう見ても、喧嘩とか弱そうだけど」
「ああ」
「刃物とか持ってるの?」
「違う。良くわかんねーけど、やばいんだよ。あいつは、やばい……!」
「ちょっと……大丈夫?」
「……ああくそ!」
「ちょっと……」
「お前が言ってたように、シメるのなんか、やめときゃよかった! くそ、くそ……っ!」
「落ち着いて」
「落ち着けるかよっ!」
「いいから、落ち着いてっ!」
「……っ」
「このやりとり、二度目よ?」
「……」
「落ち着いて。走ってるんでしょ?」
「そう……だよっ!」
「大丈夫なの? はーはー言ってる」
「大丈夫なわけないだ……い……る……」
「え?」
「……いる……もう、そばに、いる……」
「ちょっと……?」
「やめろ。やめてくれ」
「ちょっと!」
「許してくれ。俺が、俺が、悪かった……!」
「ちょっと! 返事を……」
「……あ……ぁ……くるな……くるな、くるな、くるなぁ……」
「もしもし……!」
「くるなああああああああああ」
「もしもし……っ?」
「ああああ! ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
「何よ、何なの!」
「ああああああああああああああああああああああああああ!」
「……ねえ!」
「……」
「……」
「……」
「何か言ってよ……」
「こんばんは」
「……ぁ」
「僕が誰だかは、わかるよね?」
「え?」
「こいつの彼女さん、いや、もう死んじゃったから、彼女だった人さん、かな。何度か会ってるよね」
「……ちょ……っと……今なんて……死ん、だ?」
「ああ。今、殺してやった」
「……」
「もっともっともっと苦しませて、殺してやりたかったけど、どうにも、腹の虫が収まらなくてね」
「……」
「はは、一瞬で殺っちゃったよ」
「……」
「気持ちいいなあ。人を殺すのって、こんなにも気持ちいいんだ」
「……」
「次は、お前だよ」
「……え?」
「今から殺しにいく」
「私は……私は、関係ないじゃない!」
「他人事だなあ」
「他人事……?」
「そうだよ。関係あるに決まってるじゃないか」
「何を言ってるの?」
「こいつは、僕をいじめていた。君はこいつの彼女なのに、いじめていたこいつを止めなかった」
「ちゃんと……言ったわよ!」
「そういうアピールはいらないから。むしろうっとうしいから」
「……」
「君がこいつに言った結果、こいつはいじめをやめなかった」
「でも……」
「言い訳とかいいから。結果が伴わないでいいのは、子供だけでしょ?」
「そんな……」
「だから、彼女だった君も、同罪だよ」
「ちょっと、待ってよ!」
「……じゃあ、殺しにいくね」
「……ちょっと!」
「……」
電話は、相手が何も言わなくなったところで、唐突に切れた。
少女は、走り続けた。
恋人の男子生徒の絶叫が、少女の耳から離れなかった。
「はぁ……っ」
苦しい。
息が上がっている。
「……はぁっ!」
苦しかった。
もう限界が近い。
それは、少女自身がよくわかっていた。
胸のあたりがばくばくいっている。
「……っぁっ!」
それでも、走る。
走り続ける。
「はぁ……っ!」
走り続けるしかなかった。
理由は、単純だった。
そう。
追ってくる者から逃れるためである。
走り続けながら、
「何で……っ」
と、少女は、悪態をついた。
「こんなことに……っ!」
少女は、走り続けている。
呼吸が、苦しくなっていた。
自身のアルファルトを蹴る音が、ばたばたと響き続ける。
耳に、絶えることなく響いてきていた。
無我夢中に走り続けている。
スカートが、ばっさばっさと揺れている。
下半身に風を感じていた。
「……はあっ」
脚が悲鳴を上げている。
「……はぁっ……」
苦しい。
だが、その苦しみから逃れることはできなかった。
言い換えれば、少女は、立ち止まるわけにはいかなかった。
「……何で」
と、少女は、言った。
「こんなところに来ちゃったのよ」
アルファルト塀が立ち並ぶ、工場に沿った人通りのない道路である。
少女の横を、突風がかすめていった。
鈍い音がして、少女の前のアルファルト塀が、斜めに分断されていた。
「……え?」
アルファルト塀は、崩されたのではなく、切られていた。
「追いついた」
と、少女の後ろから、声が聞こえた。
少女は、振り向くことができなかった。
「……お願い」
と、震える声で、少女が言った。
「……助けてよ」
風を起こしたのが後ろの声の主であることを、少女は直感的に理解した。
「助けないよ」
少女への返事は、短く明快だった。
少女は、後ろの声の主が自分を殺そうとしていることを、理解した。
「いや……」
と、少女が、言った。
「死にたくない」
「それはそうだ」
と、声の主は、少女をあざける調子で言った。
「誰だって、死にたくなんかないよ」
少女は、夢なら覚めてほしいと願った。
「……お願いだから、助けてよ」
「いじめないでくれってお願いした時、あいつは、完全に僕のお願いを無視したよ」
「……それは、彼が悪かったと、私は思うわ」
「僕は、ずっと絶望していた。いつまでこんな日が続くんだって」
と、声の主は、続けて、
「僕は、その絶望を、そのままお返ししているだけだ」
と、言った。
「ご、誤解よ」
「うん……?」
「私は、いじめなんかやめるように、言ったのよ」
「それは、さっき電話で聞いたよ」
「私を、彼と同じに扱わないで……!」
「だから、さっき電話で話をしたじゃない」
風が起こって、少女の学生鞄が切り裂かれて、中身が散った。
少女の悲鳴が、あがった。
「パウダーシート、あぶらとり紙、ビューラー、手帳、鏡、ヘアゴム、リップ、菓子……学生の本分を忘れた、ラインナップだな」
「……」
「教科書の何冊かくらいは入れようよ」
「私は……私は、彼をとめようとしたのよ!」
「あーはいはいわかるわかる」
声の主は、まるで心のこもっていない同意を示した。
「自分は悪くありませんアピールだね」
「何度も注意したわ!」
「彼は、君とのデートに色々必要だから僕に金をせびったと、言っていたよ。どっちもどっちだ」
「そんな……」
「それに、君は僕に助けてくれとお願いをしているけど、お願いごとは星にするものだよ」
「ほ……し?」
星。
そう言ったのだろうか。
少女は、恐怖で麻痺しかけている頭の中で、疑問に思った。
星に何かあるのだろうか。
「今日は、星が綺麗だ。雲もない」
と、声の主が、満足げに言った。
「星に、お願いをしたんだ」
「え?」
「罪のない僕を苦しめるやつを裁く力が欲しいってね」
「……」
「何日も、何日も、何日もね。ずっとお願いした」
「……」
「そうしたら、お星さまは、願いを叶えてくれた」
「お星さまって、そんな子供の頃の……」
「空想とでも馬鹿げているとでも、どう言ってくれても構わないけど、今君が目の当たりにしている僕の力が答えだよ」
「……」
「まぎれもない真実だ」
少女は、一歩後ずさった。
(こいつ、いかれてる!)
相手を罵ることは得策ではないと、少女は、思った。
この場から逃げ出して、人がいるところまで行けば何とかなるのではないかと、少女は考えた。
(相手を刺激するような言葉は、避けたほうがいい)
と、少女は、思った。
「あの……」
「うん?」
「取引を……しない?」
「ふうん。中身を聞こうか?」
「私の家は、結構お金持ちなの」
「そうらしいね。あいつが、そんなこと言っていたよ」
「あなたが彼から取られてしまったという額を、倍にして返すわ」
少女は、慎重に言葉を選びながら、言った。
「なるほど、倍か」
「ええ」
「それだけ?」
「額が不服なら、三倍、いいえ、五倍でも、いいわ」
「お金の条件は、悪くないな。でも、お金だけじゃなあ」
風が吹いて、新たに塀が削り取られた。
(早く逃げたい!)
と、少女は、思った。
少女は、びったりと身体に貼りついた恐怖で、叫ぶことができなかった。
「君。なかなか魅力的な身体つきしてるね」
「……」
「あいつとは、何回寝たの?」
「……答える必要があるの?」
「答える必要はないよ。何となく聞いてみただけだから」
と、声の主が、言った。
(……)
少女は、黙った。
「興味があるのは、寝た回数なんかじゃなくて、君のその身体だよ」
「……」
とんでもないことを言っている。
少女は、吐き気を覚えていた。
それでも、
(隙を作るチャンスかも……)
とも、考えていた。
「……好きにしていいわ」
「へえ」
「文字通りの意味よ。興味があるんでしょ?」
「興味はあるよ」
「じゃあ……」
風が、巻き起こった。
「きゃああああああああいああああああああっ!」
絶叫。
「痛い痛い痛い痛い」
少女が、絶叫していた。
「いたいいたいいたい、イタいいたいいたいいたい……!」
「遠慮なく、好きにさせてもらうよ」
少女の胸もとから、鮮血がほとばしっていた。
「きゃああああああああいああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
とさりと何かが地面に落ちた音がした。
あまりもの悪夢的な光景を、少女は受け入れることができなかった。
自身の胸もとの双丘の片方が、無残にも自身の目の前に転がっていたのである。
「……ああああっ!」
一緒に切り取られたブラジャーが真っ赤に染まっている。
染めているのは、自身の鮮血だった。
「うそうそうそうそっ!」
涙が止まらなかった。
「……私のむねぇぇ……むねえっ!」
なにがなんだかわからない。
頭の中がぐるぐるしていた。
「いたいいたいいたい……!」
少女の絶叫である。
「かわいそうにねえ」
「いたいいたいいたいいたいいたいいたい……!」
「これで、彼にもんでもらうこともできなくなっちゃったわけか」
「いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい……!」
「いや、そもそも、あいつは僕が殺しちゃったんだったか」
「あふぁあいあああ……っ!」
「……うるさいだけだし、もういいか」
再び風が起こった。
「飽きた」
ずばっという鈍い音が響いた。
少女の首の後ろから、血の噴水がどばどばと音を立てていた。
少女は、薄れていく意識の中、刹那の死の恐怖によって、失禁していた。
スカートとアスファルトに、じわじわと温かい染みができていった。
少女の首は、半分ほど横からぱっくりと切られていた。
「興味はあったよ」
と、嗜虐的な声が響いた。
「君みたいな下品な女が、最後にどんな声で鳴くかはね」
「……ぁ……ふ……」
少女の身体が、不自然な形で、アルファルトの地面にどさりと倒れ込んだ。
「やっぱり、たいしたことのない声だね」
倒れたはずみで、少女の首の正面は、少女の背中と同じ方向になった。
風を起こした主は、立ち去っていた。
あとは、首を切られた少女だけが、その場にとり残された。