第1話 はじまりの夜空 5
「どう、ですか?」
と、七色が、聞いた。
「ええと……とっても、美味しいです」
と、彼方は、言った。
彼方と七色は、食卓にいた。
七色が用意してくれた手作りの和風ハンバーグは、実に美味しかった。
ごはんは土鍋ごはんで、ほくほくだった。
豆腐と油揚げの味噌汁は、すっきりとした味である。
それらが、身体を芯から温めてくれた。
気分は、ほっくほくである。
(美味しい)
彼方の正直な感想だった。
身体が、満足感を主張してきていた。
「よかったです」
と、七色が、小さく言った。
「すごく料理上手なんだね」
「喜んでいただけてよかったです。私の料理が、朝川さんのお口に合うのか、不安でしたから」
言葉とは裏腹に、抑揚のない声の調子の七色を、彼方は見た。
(……うん)
彼方は、心中頷いていた。
料理は美味しい。
それは、間違いのない事実である。
ただし、部屋の空気は重かった。
(この状況は、何だろう?)
彼方は、心の中で自問していた。
チックタックとリビングの置き時計の針の音が、規則正しく響いていた。
「……」
七色は、無言のままだった。
七色は、先ほどから行儀よく、彼方の目の前で直立したままである。
彼方が何かを聞くとすぐにかっちりとした返事が返ってくる。
くるのだが、七色のほうからの発言は、一切なかった。
一切ない。
一切ナッシングである。
彼方には、何が何だか、わからなかった。
いつも通りに帰宅して、その後に待ち構えていたのは、割烹着姿の同級生が、夕食の用意をして出迎えてくれるという、圧倒的非日常である。
「どんなシチュエーションだ……?」
「……?」
小首を傾げた七色に、彼方は笑って、
「ごめん。こっちの話、ひとり言だよ」
「そう、ですか」
なし崩し的に夕食までとってしまった。
とにかく状況を整理しないといけないと、彼方は思った。
「御月さん」
と、彼方は、七色を苗字で呼んだ。
「はい」
「色々その、聞きたいことはあるけれども、その……どうやって、家に?」
七色は、彼方の目を見て、
「合鍵をお預かりしていますので」
と、言った。
七色が彼方に見せたのは、クマのキーホルダーである。
見覚えのあるもので、家政婦の佳苗のものだった。
「え……?」
彼方の思考が、一瞬停止した。
一瞬止まる。
一瞬フリーズである。
七色は、
「いつも母がお世話になっています」
と、丁寧に頭を下げた。
「お母さん……佳苗さんが? 御月さんのお母さん……?」
状況判断が頭の中でうまく追いついてきてくれていないのを、彼方は感じた。
「はい」
七色は、頷いた。
(えっと……)
そういえばそうなのだ、なぜ気づかなかったのだろうか。
彼方は、
「御月佳苗さん、だったよね……フルネーム」
と、言った。
それは、なかば自身に言い聞かせるようなものである。
彼方は、家政婦の佳苗のことを、
(佳苗さんは、佳苗さん)
と、認識していた。
その認識が、普通なら当たり前に把握しておくべき苗字を、疎かにしてしまっていた形だった。
「母が風邪をひいてしまいまして」
「……うん」
「母の代わりに、一週間、私がお世話をさせていただくことになりました」
「……そうなんだ」
「はい」
「御月さんのお母さんって、佳苗さんだったんだ」
「はい」
と、七色が、短く言った。
「え、えーと……」
彼方は、言葉に詰まった。
「何でしょうか?」
彼方とは対照的に、七色は、先ほどから変わらない澱みのない口調で、言った。
「つまり、だ」
「はい」
「状況を整理すると、佳苗さんの娘さんが、御月さんってことで……」
「はい」
「それで、佳苗さんが風邪をひいちゃったから、今週いっぱいは、御月さんが代わりに来てくれるって……そういうこと、かな?」
「はい」
話の流れは、単純で明快で矛盾も問題もなく極めて自然だった。
じつにスムーズそのものである。
「うん。わかった」
と、彼方は、少し落ち着こうと、再び箸に手を付けた。
彼方は、どちらかと言えば、料理には疎いほうである。
彼方は、舌が肥えているわけではない。
ないが、それでも、七色が料理が上手であることはよくわかった。
味付けは、佳苗の料理に似ているようだった。
佳苗は、洒落た店で出される料理と比べても、遜色ない、プロ顔負けの腕前である。
七色は母親の佳苗から料理の手ほどきを、うけたのかもしれないと、彼方は、思った。
「料理は、佳苗さんから教わったの?」
七色は、首肯した。
「お口に合えばよいのですが……」
と、七色は、言った。
「箸が進みます」
七色は、割烹着を着て直立したままである。
佳苗とは、夕食は一緒にとっていたので、七色も同じように一緒に食べると、彼方は思ったのだが、
「夕食は、朝川さんの分しか作っていませんので」
と、七色に、言われた。
「佳苗さんとは、一緒に食べていたよ」
「臨時の家政婦ですから。ごはんはおかわりがありますので、言ってください」
と、言ったきり、七色は微動だにしなかった。
「……」
「……はい?」
「……いや」
時おり食事をしていると目が合う。
だが、七色はと言えば、あくまで直立のままで、視線もそのままだった。
必然、箸と食器の触れる音と置き時計の針の音が、静かに響くのみである。
彼方は、内心少しばかりうめいて、
(美味しいんだけれども……少し食べにくい……)
と、思っていた。
「……」
「……はい?」
「……いや」
どうやら、会話ははずみそうにない。
彼方は、諦めて、食事に集中することにした。
制服姿以外の七色を見るのは、当然はじめてだった。
なんだかギャップが、すさまじい。
具体的には、学園の制服と割烹着とのギャップが、なかなかのものなのだ。
割烹着が似合っていないというわけではない。
割烹着も十二分に様になっているのだ。
ただどうしても、制服のイメージが先行してしまっているせいだろうか、食事をしながら、彼方はギャップというか違和感を払拭できないでいた。
いずれにせよ、実際のところ、七色の割烹着姿は似合っていて、様になっていた。
(御月さん、綺麗だな……)
と、彼方は、思った。
葉坂学園の高嶺の花と言われるのも、納得である。
(今まで、ある意味、別世界の人って思っていた人が、急に自分の家にやって来て、家政婦さん……って)
湧いてくるのは、実感よりも違和感だった。
(いやいや)
彼方は、割烹着姿で行儀良く直立している七色を見て、
(家政婦さんっていうより、メイドさんだよな)
昼間の新谷の言葉が、頭の中をかすめた。
(御月さん、メイド服とか似合いそうだし)
七色のニーソックスは紺色である。
すらりと伸びた細い脚に似合っていた。
肌色の白とニーソックスの紺とのコントラストがよく映えている。
食卓という広くない空間で向かい合っている。
なので、自然と、お互いの顔も近かった。
(まつ毛、すごく綺麗だな……目もすごくぱっちりしていて……って!)
と、彼方は、思ったが、
(っ! 僕は、何を考えているんだか)
と、内心頭をぶんと振っていた。
七色は、彼方を見て、
「?」
(これじゃあ、新谷のやつのこと言えないじゃないか)
「……?」
不思議そうに小首を傾げる七色に、慌てて手を振った彼方は、
「う、ううん。気にしないで、何でもないんだ」
「そうですか」
「でも、佳苗さん……」
と、彼方は、言いかけて、
「御月さんのお母さんが、家に来てくれていたのって、火曜と木曜と土曜と日曜だったはずだけれども……」
と、続けた。
「朝川さんのお母様が、月水金日に変更して下さいと、おっしゃっていました」
「……あ、そう、なんだ」
まったく聞いていない話だった。
(母さん、しっかり伝えておいてよ、そういうことは……)
と、彼方は、心中肩をすくめた。
不意に電子音が鳴って、彼方と七色は肩を震わせた。
「ごめん。驚かせてしまって」
彼方のスマートフォンが鳴っていた。
「いえ」
と、七色が、言った。
彼方は、スマートフォンの画面を見ながら、
「電話みたいだ……って、佳苗さんからだ」
「母からですか?」
と、七色は、聞いた。
「うん。佳苗さんの番号だ」
「今朝は高熱で寝込んでいましたが……」
「そう……」
もしかすると、つらい体調をおしてでも連絡したいことがあるのかもしれない。
(メールじゃ駄目なことかもしれない)
彼方は、少し緊張した面持ちで、
「とにかく、出てみるよ」
七色も、頷いた。
彼方は、通話ボタンを押した。
「こんばんはろーっ」
第一声が、それだった。
すこぶる快活な声である。
「彼方君。どうかな、どうかなー、七色ちゃんは?」
と、明るい声が響いてきた。
「どうも、佳苗さん。ええと……」
佳苗のいつも通りの調子に、彼方は少し面食らっていた。
「ちょうど二人で食卓にいる頃かなと思って、電話してみたんだけど、当たり?」
「……ええ、当たっています」
「私の読みも、大したものでしょう? えっへん」
いつ聞いても、佳苗の声の印象は実年齢よりもかなり下だと、彼方は思っていた。
話し方と声質だけでも、学生と聞き違えてしまいそうになる。
だけでもというのは、その佳苗の姿を見れば、十中八九どころか十人とも、学生と思ってしまうほどの年齢不詳なのだ。
敵わないなと、彼方は心中苦笑した。
「七色ちゃんも、そこにいるよね?」
「ええ、まあ」
「七色ちゃんにも話があるから、スピーカーにしてもらっていい?」
「わかりました」
彼方は、スマートフォンの設定を変えた。
それから、
「夕食はハンバーグ、かな?」
と、声が響く。
佳苗の言葉は疑問形だ。
だが、答えを確信しているふうでもあった。
彼方は、少し驚きながら、
「御月さん……いえ、七色さんから聞いたんですか?」
と、聞いた。
「ううん。七色ちゃんに、朝に彼方君のお家の鍵を渡したきりだよ」
と、佳苗は、電話越しに答えた。
「七色ちゃんのことだから、きっと彼方君に、食べ物は何が好きなのか、聞くと思うんだよね」
「……」
「それに対する彼方君の答えは、ハンバーグかなって、そう読んだんだよ」
ずばっとした言いかただった。
「……凄い読みですね」
「えっへん」
思いきり得意そうな佳苗は、
「伊達に、朝川家の食卓大臣をやっているわけではないですよ」
と、続けた。
あまりに見通されすぎて、苦笑した彼方は、
「でも、ハンバーグとは限らないですよ。僕だって、好きなものは、他にありますよ」
「うん。ハンバーグの他に、カレー、唐揚げ、フライドポテト、ピザ……えっと、お寿司も、好きだったね」
と、佳苗は、続けて、
「他の男の子と比べて、大人っぽい彼方君だけど、味覚の方は、結構可愛らしいんだよね」
「……なんとも切り返しにくいですね」
「いいよいいよー。切り返してこいよおらー」
「……」
佳苗は、七色の母親のはずである。
七色は、佳苗の娘のはずである。
母と娘のはずである。
(……うーむ)
思わず、三連続のはずを付けてしまう。
どうにも似ても似つかないとまで言うつもりもないが、やはりどうにもである。
言われてみれば、七色には佳苗の面影もある。
しかし、やはりどうにもだ。
彼方は、
(やめよう)
と、思った。
考えたところでせんのないことだとも思ったし、そもそもこれはほぼ答えのないことなのだ。
彼方は、先ほどから気になっていたことを聞いてみることにした。
「熱は、大丈夫なんですか?」
「うん。今、三十八度八分だよ」
「そうですか、思ったより……って! 大丈夫なんですか?」
三十八度。
これは、高熱だ。
平熱が三十六度の彼方からすると、三十八度はふらふらしてしまう高熱である。
しかも、だ。
ほとんど三十九度よりなのだ。
だから、相当つらいのではないだろうか。
「御月さんから、朝から寝込んでいると聞きましたけど……」
と、彼方は、心配になって言った。
「家で安静にしているよ?」
佳苗の言葉に、彼方は、
「それなら、良いんですが……」
と、ほっと胸をなでおろした。
「安静にしているよ。どれくらい安静にしているかと言うと、ベッドで横になりながら、グ〇〇〇〇スの二百五十六周目を絶賛プレイ中だからね!」
「何をしているんですかっ?」
彼方は、思わずツッコんでいた。
「だから、〇ラ〇〇〇スのやりこみプレイだよ?」
「熱出している時にやりこんでいいんですかね?」
「そう? 顔もぽっぽしていてテンションも高めでいい調子でのプレイだよ?」
「顔が熱いのは、熱のせいだと思いますよ」
「ちなみに、スコア稼ぎのため残機潰しはありです」
「……細かく言われても、僕はあまり詳しくありませんよ」
ここで、
「そんな……ひどい」
と、唐突な佳苗の深刻な声である。
「え?」
「私とのプレイは、遊びだったんだ……」
佳苗の声音は、重たいトーンだった。
七色は、
「……母とプレイ? 遊び……?」
と、オウム返しのようにつぶやいて、彼方を見る。
(ああもう)
彼方は、肩をすくめて、
「二人同時プレイは一緒に遊びましたよ? て言うか、微妙に誤解を招くような表現をしないでもらえますかね?」
ここで、
「そんな……ひどい」
と、唐突な佳苗の深刻な声である。
「え?」
「あんなに深く繋がり合っていたのに、そっけなさすぎだよ。私、寂しい」
佳苗の声音は、重たいトーンだった。
七色は、
「……深く繋がり合って……?」
と、オウム返しのようにつぶやいて、彼方を見る。
(ああもう)
彼方は、少し声を大きくして、
「二人同時プレイ時限定の自機同士が重なっている時しか出せない特殊攻撃のことですよね? だから、微妙に誤解を招くような表現をしないでもらえますかね?」
「……やり込みの同志だと思っていたのは、私の一方的な思い込みだったの、かな。私たち、わかり合えなかったんだね……」
「とにかく」
彼方は、肩を落としながら言って、
「某有名シューティングゲームをそんなハードにやり込んでいる時点で、安静にしているとは言わないと思います」
佳苗は、どや顔でいや実際には電話越しなので顔など見えないがどや顔気味に、
「御月家では、これが、一番の風邪の対処療法だよ」
と、ばんと言った。
「どんな対処療法ですか」
「弾避けの集中力が、免疫力を快復させるんだって、どこかの学会でも発表済みだった気が……する」
「そんな学会ないと思いますけど……」
「ありますー。学会は存在しますー」
「……よしんば存在したとして、なかなか適当な学説だと思いますけど」
「違いますー。革新的な学説ですー」
「……ぶっ飛んでいるという意味では、革新的だとは思いますけど」
「ほらー。学会は存在しているし学説はあるって言ったじゃんー」
「もうほとんどノりで押し切ろうとしていますよね?」
「違うもんー。ノりじゃないですー、ノりノりで押し切ろうとしているだけですー」
「……」
もはや千日手の様相である。
きりがない。
彼方は、はあと息をついて、
「いずれにしても」
と、言って、
「佳苗さん限定の療法と思います」
佳苗は、からからと笑って、
「そうかもね」
と、短く言った。
「七色ちゃんなら、きちんとやってくれると思うから。大船に乗ったつもりで、大丈夫だよーっ」
彼方は、その言葉に、七色に対する佳苗の信頼が見えたような気がした。
したのだが、
「よーし、七色ちゃんに丸投げ完了! 続きのプレイしようっと!」
と、これである。
ちょっといい話ふうに話が終わるのかと思えば、全然そんなこともなく、ぶったり会話終了ふうですらある。
(……)
彼方は、黙ってしまった。
「じゃあ、切るね~」
「……はい。ありがとうございました。お大事にしてください」
「本当に、切るよ?」
「はい」
「本当の本当に、切っちゃうよっ?」
「……佳苗さん?」
「彼方君、素っ気なさすぎ」
「……善処します」
「ぷくー」
「……何ですか、その擬音語は」
「彼方君が構ってくれないので、不満を表しての、ぷくー、です」
「……」
「本当の本当の本当に、切っちゃうよ? 寂しくないの?」
「寂しいです」
「うー。彼方君が冷たいので、もう切ります」
電話が、切れた。
「……相変わらすの、はっちゃけぶりだな」
彼方は、七色を見た。
佳苗は、七色の母親のはずである。
七色は、佳苗の娘のはずである。
母と娘のはずである。
(……うーむ)
思わず、三連続のはずを付けてしまう。
どうにも似ても似つかないとまで言うつもりもないが、やはりどうにもである。
言われてみれば、七色には佳苗の面影もある。
しかし、やはりどうにもだ。
彼方は、
(本当に、親子、なんだよね?)
と、思った。
七色は、控えめに、
「……ご迷惑でしたか?」
と、口を開いた。
彼方は、
「迷惑だなんて、とんでもない!」
と、すぐに手を振った。
「それでは、一週間の間、よろしくお願いします」
割烹着姿の七色は、直立したまま、丁寧にお辞儀をした。
こうして、思いもよらなかった一週間が、始まったのだった。