第1話 はじまりの夜空 4
朝川家は現在、彼方の一人暮らし、という状況だった。
両親は、仕事の関係で長期出張に出ている。
(テレビのドラマとか小説の設定みたいだよな)
と、彼方は、考えながら帰宅の道を歩いていた。
彼方も両親に一緒に付いていくという選択肢もあった。
しかし、葉坂学園からの転校ということを考えると、時期的に中途半端だったし、新しい生活に慣れる手間や労力を考えると、場所を移らない現状維持の一人暮らしに、落ち着いたのである。
両親からの連絡はほとんど来ない。
月に二回ほど、メールが、あるのみである。
(ほったらかしなんだよなあ……)
連絡の少なさは、よく言えば、彼方を信頼していることの裏返しであり、悪く言えば、放任主義である。
しかし、放任主義の彼方の両親も、多少なりとも、学生である息子一人を置いていくのには、不安があったのだろう。
家政婦の女性に、週三日ばかり来てもらうように、手配してくれていた。
今日は家政婦の佳苗が来てくれる曜日ではないので、夕食は、勿論、自前になる。
一人暮らしを始めた頃は、スーパーの惣菜やコンビニエンスストアの弁当が多かったが、少しずつ、自分で食事を作ることもできるようになっていった。
彼方は、帰宅途中だった。
学園での一日が終わって、自宅に帰る途中だ。
時刻は、十八時過ぎである。
夕方を過ぎ夜を迎えようという時間帯である。
桶野川駅前は、人の流れも多かった。
桶野川駅の駅前には、ロータリーがある。
二層構造になっている。
下の層には、タクシー乗り場とバスの停留所がある。
上の層は、デパートなどの商業施設やオフィス街に、繋がっている。
バスの停留所を越えて真っすぐに進んでいくと、商店街である。
商店街も、買い物客で賑わっているようである。
彼方が歩いていると、ふと、
「こんばんは」
と、声をかけられた。
(ん?)
反射的に、声のほうに視線が移る。
見れば、一人の少女である。
綺麗な少女だった。
かわいいというよりは、綺麗という言葉が似合っていた。
それでいて、凛とした雰囲気である。
大和撫子。
自然、そんな言葉が頭に浮かんでいた。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
そんな言葉も想起された。
少女は、
「すまない。少しいいだろうか」
と、言った。
彼方は、
「はい」
と、頷いた。
少女は、少し古風な物言いをしていた。
「道がわからなくてな」
「そうでしたか」
少女は、
「名乗るのが、遅れたな」
と、言って、
「冷泉寺千弦だ」
少女は、千弦という名前らしかった。
彼方は、目の前の少女の言葉を聞きながら、
(律儀な人だな)
と、思っていた。
彼方には道を尋ねてきただけである。
それでもわざわざ名乗っているのは、少女のそういう律儀な性格なのかもしれなかった。
「この街には昨日着いたばかりでね。いろいろと不慣れなんだ」
「そうなんですね」
と、彼方は、頷いた。
「君のその制服、葉坂学園だろう?」
「ええ、まあ」
「それで、葉坂学園に行くには、この道をまっすぐに進めばいいのだろうか?」
「はい」
と、頷いた彼方は、目の前の大通りを指さしながら、
「この大通りを真っすぐです。歩きなら、十五分くらいです」
「なるほど」
「バスも出ています。あそこの五番と書かれているところから発車するバスに乗れば、行先はいろいろなパターンがありますが、葉坂学園の近くの停留所には必ず停まりますね」
「ありがとう。感謝する」
話をしながら、彼方は、少し違和感を覚えていた。
葉坂学園への行きかたを聞かれたのは、いい。
葉坂学園の制服を着ている自分が学園への道を尋ねられたのも、自然である。
しかし、問題は、この時刻だ。
時刻は、十八時過ぎである。
空は、だいぶ暗くなってきている。
これから、学園に行くのだろうか。
もう残っているのは、一部の部活動をしている生徒たちと教師だろう。
葉坂学園は六時間授業の場合、十五時十五分に、六時間目が終わる。
それからは、部活動がない場合は十七時までに下校、部活動がある場合は十九時が最終下校時刻となっている。
だから、校門も、あと一時間くらいで閉まってしまうはずである。
行ったところで、という感じだ。
そして、問題は、もう一つある。
このもう一つのほうが、よっぽど問題だった。
千弦という少女が来ていたのは、まさに葉坂学園の制服なのだ。
葉坂学園の制服を着ている少女に、学園への行きかたを尋ねられている。
これは、どういうことだろうか。
違和感の正体は、かくのごとき状況だった。
千弦は、気付いたように笑って、
「ああ。心配には及ばない」
と、言って、
「なにも、これから行こうというわけではないからな」
と、続けた。
「そうなんですね」
「げせないという顔だな」
笑った千弦は、
「答え合わせをしよう」
「答え合わせ、ですか?」
「ああ。なに、答えと言っても、あっさりしたものさ」
制服に目を落としながら千弦は、
「この街には昨日着いたばかり、と言っただろう?」
「あ」
そこまで聞いた彼方は、短く声をあげていた。
点と点が線で繋がってくる。
「転校生なんだ。明日から通うことになっていてな」
なるほどと、彼方は、頷いていた。
「事前に、確認しておきたかったんだ」
納得である。
「そうでしたか」
「転校初日から遅刻、などでは笑えないだろう?」
「そうですね。武勇伝としては悪くないかもしれませんけれども」
「そうだとしても、私はごめんだな」
千弦は、改めて礼を言って立ち去ろうとした。
彼方は、
「朝川彼方です」
と、名乗った。
「律儀だな、朝川君」
そう笑った千弦は、踵を返した。
彼方は、家に着いた。
普通の二階建ての家である。
「ただいま」
自宅に帰った彼方は、誰にというわけでもなく、そう言った。
彼方は、玄関の鍵を開けて中に入った。
(キャベツが結構あったはずだから、炒め物にしようかな)
そんなことを何となく考えていた彼方だったが、革靴を脱いだところで、
(あれっ)
と、思った。
玄関の様子が、違っていたからである。
今更ながらに気付いたのだが、煌々(こうこう)とした玄関の明かりに、彼方は首を傾げた。
「電気、消し忘れた……かな?」
と、彼方は、自問するようにつぶやいた。
スニーカーなどの靴が、丁寧に揃えられていた。
「こんなに綺麗に並べていたかな……」
彼方も、どちらかと言えば、几帳面な方だが、ここまで綺麗に並べた覚えはなかった。
「……」
彼方は、無言のまま、前を見た。
玄関から入ってすぐの右側の部屋のドアも、今日は開けていったはずだった。
違和感が、じわりと彼方を襲った。
(父さんか母さんが急に帰ってきた……わけはないか……)
それならばさすがに事前に連絡をくれているだろう。
違和感は、すっと警戒へと変容した。
(誰かに……入られた?)
侵入者。
泥棒。
(……)
そんな単語が、頭の中を巡った。
玄関の鍵は閉まっていたから、まだ家の中にいるのだろうか。
玄関を閉めておいて、庭から出て行ったのかもしれない。
(考え出したら、きりがない)
肩にかけたままの鞄が急に重く感じられて、少し胸が苦しくなったように感じた。
彼方は身体を緊張させながら、物音を立てないように、ゆっくりと廊下を進んでいった。
かたりと小さな物音がした。
廊下を進んだ先のキッチンのほうが、その元らしい。
(……っ!)
彼方は、忍び足で歩を進めた。
汗の浮かぶ拳を強く握り締めた彼方は、
「おいっ……!」
「あの……」
彼方が声を発したと同時に、後ろからかかる声があった。
「……っと!」
「……あっ」
またもや、同時に声が発せられた。
想定外の方向からの呼びかけに、彼方は、身体のバランスを崩してしまって倒れそうになった。
相手も、またバランスを崩して倒れそうになった。
相手は、見知った顔だった。
西洋の人形を思わせる、整いすぎていて無機質な印象さえ受ける、綺麗な髪と瞳。
雪のように白く透き通った肌。
ほのかに香る花の香り。
彼方は自然と、お互いが倒れないように、相手の手を握っていた。
冷たい手の温度を、彼方は感じた。
「……っ!」
「……」
二人とも、何とか倒れずに、バランスを保った。
「……ありがとうございます」
彼方に向かって、相手が静かにそう言った。
細い綺麗な手だった。
「いや……」
彼方は、言葉が続かなかった。
よく知っている顔だった。
今日の記憶に新しい少女で、葉坂学園の高嶺の花、御月七色、その人だった。
「……手……」
七色の言葉に、彼方は手を握りっぱなしであることに気づいた。
「ご、ごめんっ!」
彼方は、慌てて手を離した。
「……」
彼方の態度とは対照的に、七色は無言のままである。
彼方は、言いたいことはあるもののすぐに言葉は出てきそうにないと、思った。