第4話 巡り合いの交錯 9
夜景に浮かぶ光があった。
その光は、帯である。
橙色の帯があった。
橙色は、その是非や良否は別として単純に純粋に、夜の色に映えていた。
眩い。
眩しかった。
橙色の帯。
それは、波だった。
端的に言えば、火災による、炎の波である。
「派手に、やってくれたものですねえ」
北条製薬の桶野川研究所の支店ビルの最上階。
そこが、火災に見舞われている。
それを、一人の男が、眺めていた。
ネイビーのトレンチコートを羽織り帽子を目深に被った男である。
「あの検体の父親が、なかなかにやるものですね」
と、男は、ひとりごちた。
その言葉は、芝居がかっていた。
薄く浅い。
浅薄そのものである。
男は、憐憫と嘲笑を込めて、
「こんな弔い合戦に、何の意味があるのですかねえ」
と、言った。
その台詞もまた、芝居がかっていた。
薄く浅い。
浅薄そのものである。
男は、トレンチコートのポケットに、手を入れた。
「娘を想う親の愛がなせる業か、自暴自棄になったのか、はたまた、気がふれてしまったのか」
と、トレンチコートの男は、言って、
「いずれにしても、私の理解からは、程遠い感情だ」
と、続けた。
ネイビーのトレンチコートを羽織り、ネイビーの帽子を目深に被った男は、"爛の王""虚影の指揮者"鷲宮イクトである。
「しかし、対岸の火事、と、静観している場合でもないようだ」
と、鷲宮は、困ったように、笑った。
「"尽き詠みの巫女"が、目覚めたか……想定よりも早い」
鷲宮は、夜空を、見上げた。
「"天宮殿"の神官まで動き出しているとなると、私も、悠長に構えているわけにもいきませんね」
月が輝いている。
雲は少なく、その姿がはっきりと見える。
「いささか急づくりだが、舞台の準備は、整った」
と、鷲宮が、言った。
「演者の皆さんには、せいぜい無様に、踊ってもらうことにしましょう」
鷲宮は、踵を返して、その場から、立ち去った。
ほの暗いマンションの一室である。
そこに、麻知子はいた。
このマンションの部屋は、言わば、隠れ家だった。
組織が用意した隠れ家の一つである。
間接照明が、柔らかいオレンジ色の光を、優しく放っている。
麻知子は、二つの顔を、持っていた。
一つは、普通の学生としての顔である。
通学をして、勉学に励む、学生である。
もう一つは、世界の理の外の存在である"爛"の殲滅機関の一員としての顔である。
麻知子は、機関の中の、情報を扱う部署に、配属されていた。
麻知子は、能登とコンビを組んでいて、能登の部下である。
年は、能登が、二つ上である。
麻知子も能登も、普段は、普通の学園生活を、送っている。
「……」
麻知子は、携帯電話を手に取っていた。
やがて、
「お疲れさん」
と、麻知子の携帯電話越しに、男の声が、響いた。
男の声は、軽い感じだった。
声の主は、雨尾家である。
雨尾家は、麻知子の属する組織の上司である。
「お疲れ様です」
と、麻知子は、不快感を隠さずに、言った。
「相変わらず、軽い調子ですね」
「おいおい。機嫌が悪そうだな」
と、雨尾家は、ぶっきらぼうな調子で言った。
そこには、ねぎらいも気遣いもない。
別にそれを期待しているわけでもない。
期待するのはお門違いというのも、理解している。
しかし、ここまで、ストレートに存外な調子だと、どうにもな感じが拭えなかった。
麻知子も、
「いえ。貴方の調子に、合わせているだけですよ」
と、負けず劣らずのぶっきらぼうな調子で返した。
もちろん、わざと意図的に、である。
そのくらいの態度はとってみたくなったのだ。
「ほう?」
「本当に、部活動で、ほとんど顔を出さない、名ばかりの顧問の先生のような、やる気のない雰囲気を出すのは、止めて下さい」
「随分と、細かい例えだな」
と、雨尾家は、苦笑した。
組織の任務にあたる場合には、雨尾家の指示を受けることが、ほとんどだった。
雨尾家は、麻知子と能登の実質的な上司である。
それでいて、麻知子は、雨尾家と対面したことはない。
連絡手段は、通話のみである。
いつも、こうして、電話越しに指示を受ける。
そして、任務を遂行し、電話越しに報告するのである。
だから、麻知子は、雨尾家がどういう人物なのか、外見的には把握していない。
知っているのは、この電話越しの声とその話ぶりのみである。
そして、しいて言うのならば、その雨尾家のとらえどころのないような軽薄な調子が気に入らなかった。
「能登ちゃんは、どうしてる?」
と、雨尾家が、聞いた。
「寝ていますよ」
麻知子が、自身のベッドに目をやる。
下着姿で小さく寝息を立てている能登が、いた。
「今は、マンションの私の部屋です」
「大変だったな」
麻知子は、雨尾家の労いの言葉に、
「お気遣いありがとうございます」
と、返した。
「しかし、その言い方ですと、あまり心配はしていませんでしたね?」
「ばれちまったか」
雨尾家の乾いた笑いが、電話越しに、響いてきた。
麻知子は、
(いけしゃあしゃあと)
と、苦々しく、思った。
(喰えない奴だ)
雨尾家のとってつけたような気安さと軽薄な感じが、麻知子は、気に入らなかった。
「落成式のパーティーの時の、能登ちゃんのドレス、ぼろぼろになっちまったんだって?」
「はい。詳細は、メールで報告した通りです。不可抗力でした」
「あれ、高かったんだがなあ」
「そうですか」
麻知子は、はあと軽く息をついて、
「やむをえない状況だったことは、報告をご覧いただければ、おわかりになるかと思いますが」
と、応じた。
「おいおい」
と、うんざりしたような雨尾家の声だった。
「俺の部署に回されてる予算は、そんなに多くはないぞ」
「予算の心配をしているのか、部下の心配をしてくれているのか、はっきりしてください」
と、麻知子は、反駁した。
それから、
「そりゃ、両方だよ」
と、雨尾家の言である。
麻知子は、ため息をついて、
「地下の隠蔽されていた研究施設の中で、気を失って、倒れていましたからね」
「そうらしいな」
「危ないところでした」
「汚れたドレスのままってわけにもいかないだろうから、脱がせて、寝かせているのか」
「はい」
「昏睡状態の年頃の女の子を無理やり脱がせるなんて、穏やかじゃないな。問題案件じゃないのか?」
「女性同士ですし、また必要があった行為ですし、ご指摘いただく案件ではないと、考えます」
「服ぐらい、着せてやっても、良いんじゃないのか?」
と、雨尾家が、言った。
(あれっ)
と、麻知子は、思った。
能登が下着のまま寝ていることは、雨尾家に、報告していないはずである。
そもそも、そんなことまで報告する義務も必要もない。
麻知子は、驚いて、
「先輩が下着のままだと、良くわかりましたね?」
「お前さんのところに、能登ちゃんの胸のサイズに合う服は、ないだろう」
「……は?」
「能登ちゃんは、すごいグラマーだからな」
「……」
「ぼんきゅっぼんだからな」
「……」
「すとーんすとーんすとーんの誰かさんと違ってな」
麻知子は、かろうじて苛立ちを抑えながら、
「……あなたの発言が、問題案件そのものでは、ないのですか?」
と、聞いた。
「わかったわかった。冗談に、素で返すなよ」
「冗談を振ってくるから、不満を言っているのです」
と、麻知子が、冷然と、言い放った。
「お前さん、本当に、俺よりも、下なのかねえ?」
雨尾家は、ややオーバーリアクション気味に、
「とても、上司に対する言葉づかいとは、思えんよ」
と、言った。
「最大限の敬意は、払っています」
麻知子は、内心舌打ちしながらも、
「そうおっしゃるのでしたら、雨尾家さんも、その粗野な言葉づかいを改めて下さい」
「そいつは、なかなか難しいな」
(もう面倒だ)
と、麻知子は、思って、話を進めることにした。
「報告ですよね」
「ああ、そうだ、それ」
思い出したようにそう言った、雨尾家は、
「手短に、頼む」
「今回の任務は、人工の"爛"の精製に関わっていると目される人物の確保と、精製の研究に係るデータの回収でした」
「ああ」
「籠原先輩と私とで、二手に分かれて、しかる後に合流する作戦です」
「そうだったな」
「籠原先輩ですが、肝心な、研究施設での記憶が、曖昧なようです」
麻知子は、続けて、
「炎の熱や煙で、気を失ってしまったのですから、無理もないかと、思います」
「なるほど」
「申し訳ありません。研究施設からの情報の回収は、できませんでした」
と、麻知子は、言った。
「仕方がない。想定内だ」
と、雨尾家は、笑った。
雨尾家からは、特段、何の叱責もない。
それが、かえって、麻知子には不満だった。
麻知子は、内心苛立って、
(私たちが失敗するのが、想定の内だと、言っているのか)
と、思った。
「ですが、"天宮殿"の神官というのは、想定外です」
「ああ、それか」
「"星天審判"というワードも確認しました」
「"天宮殿"に"星天審判"。一気に、スケールが、大きくなっちまったな。驚いた」
「……本当は、ご存知だったのではないですか?」
と、麻知子は、念を押すように聞いた。
それには、
「知っていたとしても、それを、お前さんたちに話すかどうかは、別の話だ」
と、のらりくらりとした雨尾家の返答だった。
麻知子は、
(馬鹿にしているな)
と、思った。
「よろしいでしょうか?」
「ん?」
「第一、あなたは、私たちの面を知っているのに、私たちは、あなたの声しか知らない。これは、アンフェアです」
そして、麻知子の言を遮るように、
「子守は、ごめんだぞ」
と、電話越しの声は、笑っていた。
それでいて、面倒そうな調子を隠そうともしていない。
麻知子は、怪訝そうに眉をひそめて、
「どういう意味でしょうか?」
と、言った。
「お前さんは、聞き分けのない子供かって、聞いたんだよ」
「……」
「頭を使え」
麻知子は、目を細めた。
「任務を遂行する上で、俺の顔を知ることは必要か? フェアであることが、任務を進める上で重要か?」
「それは……」
麻知子は、言い淀んだ。
言い淀まざるをえなかった。
正直、ぐうの音も出なかった。
雨尾家の言葉は、もっともだった。
的を射ている。
その通りなのだ。
麻知子は、黙った。
無言は、肯定を意味する。
ここで言い返さなければ切り返さなければ、暗に言われたことを認めているようなものなのだ。
それでも、
「……」
と、麻知子は、反駁できなかった。
「やめとけ」
「……なにをですか?」
「お前さんの本質は、言いなりだ」
すぱりと言い放たれた雨尾家の言葉だった。
それに、麻知子の心が、ざわついた。
「こうして、俺に噛みついているのも、お前さんなりの威嚇だよ」
雨尾家の言葉には、先程までの能天気さは消え去り、刃物のような鋭さが、じんわりと漂っていた。
「最終的には、上には逆らえないことが、わかっている」
「……」
「自分が逆らわないことを、理解している」
「そして、逆らわないのは、任務のためだという適当な理由付けを、する」
「……」
「そんな自分へのささやかな言い訳として、形だけ、逆らってみせる。そんなところだろう?」
「そんなことは……ありません」
麻知子の声のトーンが、高くなった。
「落ち着くんだろう?」
雨尾家が、笑った。
「俺に、正論をかざして、喰ってかかるのは」
そのとってつけたような気安さと軽薄な感じが、麻知子は、気に入らなかった。
(こいつの言うことは、癇に障る)
しかし、癇に障るのは、なぜなのか。
それは、雨尾家の言っていることが、少なからず、的を射ているからではないか。
そう考えると、麻知子は、落ち着かなかった。
「私は……」
「どうする?」
雨尾家が、聞いた。
「任務を、止めるか、続けるか?」
その問いかけは、単純だった。
イエスかノーか。
そういう単純な問いかけである。
シンプルな二択だった。
「お前たちの代わりなら、組織に、いくらでもいるぞ」
麻知子は、能登の寝顔を、見た。
すうすうと静かな寝息を立てている。
「……」
心地よさそうに寝ている能登の顔には、微笑みが、浮かんでいた。
(こんな時にも、相変わらず、役に立たない上司だ)
と、麻知子は、思った。
麻知子は、瞑目した。
「……指示を、お願いします」
「良い返答だ」
と、雨尾家は、笑った。




