第4話 巡り合いの交錯 8
地下五階である。
公にはされていないフロアである。
そのフロアに、その極秘の研究施設は、あった。
研究施設の存在を知っているのは、ごく僅かの者のみである。
地下五階は、炎の海に包まれていた。
黒のマントに身を包んだ、黒の仮面の人物が、立っていた。
フルフェイスの漆黒の仮面が、印象的である。
「……」
無言のまま、七色は、立ちすくんでいた。
仮面のシールド部分は、深い紅色である。
仮面の奥の表情は、一切窺い知ることはできなかった。
(気配を、まったく感じなかった……)
と、七色は、思った。
七色は、自身の手のひらに、じんわりと汗を感じた。
空間が、全て炎に包まれ始めていた。
炎の中、黒衣の人物は、等間隔に靴音を響かせながら、七色に向かって歩いた。
こつこつという落ち着きを放った靴音は、この炎の空間において不釣り合いで不気味だった。
黒のマントが、橙色の炎を寄せ付けず、灼熱の風によってばさばさとたなびいていた。
(……今までの敵とは、違う……)
と、七色は、直感観した。
七色は、双剣を連結した。
「ほう」
黒衣の仮面は、息をもらした。
しかし、そこには、なんの感情もこもっていないようだった。
七色は、連結剣をぎゅっと握りしめた。
黒衣の仮面は、七色の臨戦態勢など意にも介さない様子だった。
ただゆっくりと七色に向かって歩を進めた。
「連結剣か。いい判断だ」
と、黒衣の仮面が、言った。
「私の武装と渡り合うためには、少しでも一撃の威力を増したほうがいいだろう」
「……」
「だが」
七色の耳元に、不意に、声が届いた。
七色の眼前に、漆黒のマントが、揺れていた。
「え……?」
七色は、自身の目を疑った。
いつの間にか、黒衣の仮面は、七色の目の前に迫っていた。
(速い……っ!)
七色は、とっさに連結剣を防御態勢で構えた。
「悪くない反応速度だ」
七色の瞳に、突き出された黒の槍が映った。
「だが……」
「……!」
声にならない声が、七色の口からもれた。
黒の槍の重たい一撃を真正面から剣で受け止めた七色だった。
「……っ」
その身体は、大きく吹き飛ばされた。
七色の身体は、倒れている棚の中に、叩きこまれた。
七色は、片膝をついて、着地した。
「こちらの攻撃を凌ぐには、膂力が、不足しているようだ」
炎の中、黒衣の仮面が、淡々と言い放った。
「……」
強い、と、七色は、思った。
七色は、肌を、じんわりとした汗が伝っていくのを、感じた。
「まだ、名乗っていなかったな」
フルフェイスの漆黒の仮面の人物は、そう言った。
「私は、"天宮殿"の三神官の一柱、"爛の王""黒槍"バンナウト」
耳に届いた、宣言に、七色は、愕然とした。
「"天宮殿"……」
七色の声は、震えていた。
「千年前に……消滅、したのではないのですか?」
「"爛"を統べる頂たる"天宮殿"は、絶対永劫の存在」
と、黒衣の仮面が、言った。
「続くべくも消えるべくもなく、ただ初めより、そこにあるものだ」
「でも、千年前に、"月詠みの巫女"が……」
「消滅したのではない。封印されただけだ」
「……」
「限りなく、消滅に近い形でな」
黒衣の仮面は、淡々と、言った。
「……"天宮殿"の神官が、何の用ですか?」
炎の風で、七色の髪が、揺れた。
「"星天審判"」
と、黒衣の仮面が、言った。
「この言葉で、足りるか?」
七色の瞳が、大きく開いた。
「"月詠みの巫女"ならば、理解しているだろう。裁きの刻が、始まろうとしている」
「そんな……」
「滅びを問う、星々の審判。今一度、世界は、問われるのだ」
「そんなことは、させない」
と、七色は、言った。
「それを決めるのは、世界だ」
と、黒衣の仮面が、言った。
「"尽き詠みの巫女"の顕現は、その為にある」
「……"尽き詠みの巫女"……」
「そうだ」
黒衣の仮面の奥から、乾いた笑いが、漏れた。
「"月詠みの巫女"と相反の存在である"尽き詠みの巫女"だ」
呆然としている七色に向かって、黒衣の仮面は、
「"月詠みの巫女"と"爛の王"とが、対峙している。互いに討ち合うには、十分な理由だと、思うがな」
と、言った。
「それとも、もう少しの理由付けが、必要か?」
七色は、自身にまとわりつく感情を振り払うように、
「……十分です」
と、言った。
「来い。相手を、してやろう」
「貴方の好きには、させません」
「それで、良い。剣を構えろ、"月詠みの巫女"。矜持があるのならば、その身をもって示せ」
黒衣の仮面は、槍を構えた。
「一つ。誤解をされるのは、本意ではないから、言っておこう」
黒衣の仮面のマントが、火災の風に大きく揺れ動く。
「今日のこの出来事については、我らのなすところではない」
「……」
黒衣の仮面は、
「ここで行われていたことは、我らとは、無関係だ」
と、言った。
「……」
「最近、"爛"のざわめきが増していることは、わかっているだろう」
炎が、天井の配管を舐めるように這っていく。
コンクリートの壁が、熱でひび割れていた。
「その原因の一つが、ここに、ありそうだったのでな」
警報が絶え間なく鳴り響く。
赤いランプの明滅が、薄暗い研究室を、血のように染めている。
「だから、"月詠みの巫女"であるお前にこうして遭ったのは、目的ではない、ただの偶然だ」
「……そう、ですか」
と、言いながら、七色は、奔った。
(先を、取る)
と、七色は、思った。
黒の槍の刺突が、放たれた。
刺突の風が、七色の頬を、掠めた。
七色の真横と後方で、倒れていた棚が、大きな音を立てて、ひしゃげた。
(風圧だけで、何て、威力……!)
「ほう。躱したか」
と、黒衣の仮面が、言った。
「動きは、悪くないな」
槍の二撃目と三撃目を、回避した七色は、黒衣の仮面の右側に、廻り込んだ。
空気が、凍ったように張り詰めた。
駆けた七色は、
(これなら……っ)
剣の連結を解除する。
七色の双剣が、微かに震える。
黒衣の仮面の鋭い踏み込みと共に突き出される槍が、風を切る音を立てる。
七色は、左の剣で受け流しながら右を切り返す。
だが、黒衣の仮面は、既に槍を引いて、次の動作に入っている。
「甘い」
黒衣の仮面の低い声が響く。
槍の柄が、七色の脇腹めがけて横薙ぎに振られた。
「……っ」
辛うじて身を捩って回避した七色だが、バランスを崩し、後退を余儀なくされる。
距離をとられた格好になる。
双剣の利点である連続攻撃を封じられた状況だ。
「間合いを詰める作戦か?」
黒衣の仮面が、挑発する。
「……」
七色は、無言で双剣を構え直す。
一気に距離を詰める七色の両手の刃が、左右から閃光のように襲いかかる。
黒衣の仮面は、槍の穂先で片方を受け止めつつ、もう片方を柄で払いのける。
刹那の交差。
金属音が高鳴る。
七色の右の剣が、振られる。
「"ディヴァインエッジ"……!」
七色が素早く両腕を交差した、その次の瞬間には、前方で交差される双つの剣は、薄い紅色の飛刃を、放っていた。
七色の放った飛刃は、鋭く回転しながら、黒衣の仮面に、向かっていった。
「光束飛刃の類か。軌道は、読みづらそうだな」
黒い槍が、正確に、飛刃を弾いていた。
「だが、読んでしまえば、どうということはない」
黒のマントがひるがえると、黒衣の仮面の前で、七色が、連結剣を、構えていた。
「なるほど。飛刃は囮で、剣撃が本命か。悪くない連携だ」
「その槍は、確かに、強力です。ですが、至近距離は、どうですか」
と、言って、七色は、斬り上げの動作に入った。
「その通りだ。この距離は、私の武装である槍の弱点だ」
七色の言葉を肯定して、黒衣の仮面は、笑った。
「そして、弱点は、補われるために、あるものだ」
黒衣の仮面の蹴りが、七色のみぞおちに、めり込んでいた。
七色は、無声のうめき声をあげて、薬剤の溢れる棚に、叩きつけられた。
(……っ。ここまでの使い手とは)
と、七色は、思った。
息が上がっていた。
「はやく立て。"月詠みの巫女"の力、この程度では、ないだろう?」
七色は、立ち上がったが、呼吸が、大きく乱れていた。
「"星天審判"の障害になるかと思ったが、取り越し苦労だったか」
と、黒衣の仮面が、言った。
「……私は」
七色が、ゆっくりと立ち上がった。
「私は、"月詠みの巫女"」
七色は、顔を上げた。
「この世界が、かく在るための理を祈る……それが、巫女の務めです」
と、七色が、言った。
「"透色の翼"……!」
と、七色は、力ある言葉を、叫んだ。
七色の背中に、透明な桜色の翼が、創り出された。
七色の踏み込みが、一気に、加速した。
「……ほう」
黒衣の仮面が、黒の槍の一撃を、繰り出すよりも速く、七色は、相手の懐に、飛び込んでいた。
「はああああっ!」
七色が、連結剣を、下から上に、振るった。
連結剣は、黒衣の仮面の左手のグローブで、受け止められていた。
七色が、剣に力を込めるが、黒衣の仮面の手は、微動だにしなかった。
七色の剣が、止まった。
鍔迫り合いではない。
完全に、力の差で止められたのだ。
火の粉が二人の間に舞う。
空気が焼け、呼吸するたびに喉が痛む。
黒衣の仮面は、わずかに首を傾けた。
「……やはり、この程度か」
低く、乾いた声だった。
七色の瞳が、仮面の紅いシールドを睨み据えた。
瞬間、左手で剣を受け止めていた黒衣の仮面が、逆の手に持つ槍をわずかに引いた。
「……っ!」
七色は、咄嗟に翼をはためかせた。
透明な羽が一瞬だけ輝き、衝撃波のような風が周囲の炎を押しのけた。
その隙に距離を取る。
だが、腕の感覚が鈍い。
剣の重さが、ひどく遠くに感じられた。
黒衣の仮面は、静かに槍を構え直す。
その構えには、焦りも油断もない。
完璧な均衡を保っていた。
黒衣の仮面は、炎の中を一歩進む。
その足音が響くたび、床のコンクリートが焼け焦げる。
「終わらせ、再び始める。それが"星天審判"だ」
七色の胸が、痛むように波打った。
その言葉の意味が、脳裏に刻まれて離れない。
「あなたたちは……過ちを、繰り返すつもりなのですか?」
七色は、呼吸を整えながら、
「千年前と同じ過ちを……」
「過ち? 違うな」
黒衣の仮面は、無機質にそう返した。
「星が問うのだ。人が、世界が、存在する価値を」
黒衣の仮面が、ゆっくりと槍を構えた。
それは明らかに、先程よりも強い気配を帯びていた。
「我々は、その審問を代行する者に過ぎない」
七色の足元で、床の金属が溶け始める。
(来る……!)
七色は、残る力を振り絞って剣を構えた。
黒衣の仮面が、一言、呟いた。
「"黒の審槍"」
静かに、空気が震えた。
黒い槍の穂先から、ただ一筋の影が走った。
七色は、咄嗟に剣を構えて防御体勢をとった。
「……!」
床が爆ぜ、炎が吹き上がる。
吹き飛ばされた七色の身体が、したたかに壁に叩きつけられた。
「……あっ!」
背中を走る痛みに、息が詰まる。
黒衣の仮面が、静かに歩み寄る。
七色が、血の混じった息を吐きながら立ち上がる。
双剣の刃が、震えながら光を放った。
「この程度の力で、ものを語るな、巫女よ」
と、黒衣の仮面は、冷然と、言い放った。
「ここで、果ててもらうとしよう」
その時だった。
炎の海から、鎖が、飛んできた。
「何?」
と、黒衣の仮面は、続いて放たれてきた鎖の攻撃を、槍で、払いのけた。
「魔術の鎖か。厄介だな。練度も、高い」
黒衣の仮面が見据えた先に、煙の中、鎖を持った人影が、浮かんでいた。
(え……?)
朦朧とする意識の中、七色は、その人影を見た。
シルエットは、華奢である。
女性のように見えた。
ドレスが、風にたなびいていた。
「邪魔が、入ったようだ」
と、黒衣の仮面が、言った。
「今回は、痛み分けとしておこう」
黒衣の仮面は、七色に、背を向けた。
「この世界は、じきに、"星天審判"によって、滅びに、包まれる」
と、黒衣の仮面は、宣告するように、言った。
「どこまで抗うのか、私個人としては、楽しみでもある」
黒衣の仮面の声が、遠ざかっていった。
「また会おう、"月詠みの巫女"よ」
"爛の王""黒槍"バンナウトの姿は、炎の海に、消えていった。
七色は、炎の中、立ちすくんでいた。




