第4話 巡り合いの交錯 5
空が、薄い藍色に染まり始めた頃、彼方は、待ち合わせ場所のオフィス街の一角に、立っていた。
ビルの窓に、彼方の姿が、映り込んでいた。
(こんな感じで、良いのかな)
と、彼方は、自身の恰好を見て、思った。
上場企業である北条製薬の落成式のパーティーである。
事前に、北条製薬のことは、少しネットで調べてみた。
北条製薬は、日本国内を中心に一般用医薬品や栄養補助飲料などを製造、販売する中堅製薬会社である。
主力製品は、頭痛薬のホウジョウイーエックスシリーズと栄養ドリンクのリバースエナジーである。
いずれも、テレビCМやインターネット広告を通じて広く知られている。
全国のドラッグストアやコンビニエンスストアなどで容易に入手でき、日常的に利用される製品として高い認知度を持つ。
人と未来の健康を、もっと近くに。
それが、企業理念である。
身近なセルフメディケーションの支援を重視している。
製品開発では、有効成分の安定性や即効性に関する研究を進めるとともに、飲みやすさや継続しやすさなど、使用者の利便性を考慮した設計が特徴である。
また、近年は漢方由来の成分や天然素材を取り入れたサプリメント事業にも注力していて、科学的根拠に基づいた製品開発を行っている。
品質管理体制も厳格で、国内外の研究機関と協力しながら、安全性と効果の両立を目指している。
それが、彼方の調べた、北条製薬のことである。
(……)
彼方の中では、パーティーの場に合うような服を選んだつもりである。
だが、そもそも、今回のようなパーティーに、出たことはなかったので、良くわからないというのが、正直なところだった。
ビルの窓ガラスに、白いリムジンが、映り込んで、後部のウインドウガラスが、開いた。
ウインドウガラスから、少女の顔が、覗いていた。
ドレス姿の少女が、微笑んで、手招きした。
「こんばんは、彼方」
と、少女が、言った。
少女の声を聞いて、彼方は、
(綺亜、だよね)
と、思った。
彼方が、自問してしまうほど、ドレス姿の綺亜の印象は、普段会っている綺亜のそれとは、違っていた。
上品な綺亜の微笑みに、彼方は、気後れしたようになって、
「こんばんは、綺亜」
と、言った。
「乗って」
と、綺亜が、言って、リムジンのドアが、静かに、開いた。
後部座席は、広々としていた。
柔らかなシートに座る綺亜は、パーティー用の白いドレス姿だった。
「どうかしら、このドレス?」
と、綺亜が、聞いた。
白を基調としたドレスは、綺亜の優雅さを、良く引き出していた。
大きな白のリボンが、綺亜の可憐さに、似合っていた。
(いつにもまして、お嬢様然としているなあ)
と、彼方は、改めて、思った。
ドレスなので、いつもの制服姿とは違って、肌の露出も多く、彼方は、目のやり場に、困ってしまった。
「や。最初は、綺亜だって、わからなかった。全然、印象が、違くて」
「良い印象?それとも、逆?」
「すごく良いと、思うよ。うまくは言えないけれども、良く似合っている」
そう、と、綺亜は、満足に、頷いた。
「女の子はね。幾つかの変身の魔法を、持ってるのよ」
綺亜は、
「そのネクタイ」
と、言った。
「変、かな?」
「ううん。とっても、良く似合ってるわ」
「ありがとう」
リムジンが、発進した。
「こんにちは、時田さん」
と、彼方は、言った。
「ああ。朝川君。今日は、よろしくお願いする」
と、時田は、言った。
彼方と綺亜は、リムジンの後部座席にいて、時田は、ハンドルを、握っていた。
夜を迎えつつある、桶野川の街の中を、彼方達を乗せた、白いリムジンが、ゆっくりと、走っていく。
やがて、空は、闇に染まった。
綺亜は、頬杖をついて、夜景を、眺めていた。
車体が、あまりに揺れないので、彼方は、時田に、
「すごく静かなんですね。車が、走っているのか、わからないくらいです」
と、素直な感想を、述べた。
「そうかもしれないな」
「リムジンに乗せてもらうなんて、初めての経験です」
時田は、ミラー越しに、彼方を見ながら、
「あまりない機会だろうから、楽しんでもらえると、嬉しい」
と、言った。
時田の言葉は、好意的な内容とは裏腹に、その声には、どこか棘があった。
「今日は、お嬢様に、迷惑のかかるような行動は、謹んでくれたまえ」
「ええと……」
と、彼方は、言い淀んだ。
「ちょっと、時田」
と、綺亜が、たしなめるように、言った。
「朝川君。誤解のないように、言っておくが、私は、君を、評価していない」
時田は、十字路で、ハンドルを、ゆっくりと、右に切った。
「……時田!」
と、綺亜が、声をあげた。
時田は、申し訳ありません、と、頭を下げた。
「ですが、この少年のためにも、言っておきたいのです」
と、時田は、言った。
「朝川君。私は、君を、まだ、評価していない」
と、時田は、言った。
「お嬢様が、君を、選んだのだ。私に気付けない、何かが、あるのだろう」
時田の言葉は、確信に、満ちていた。
時田の声に、彼方は、気圧されて、黙ったままだった。
「だから、これから、君を、見定めさせてもらう」
しばらくすると、北条製薬の桶野川研究所が、見えてきた。
北条製薬の桶野川研究所は、研究所の役割と、法人の桶野川支店の役割も兼ねている。
広大な敷地は、研究所の区画と、支店の区画に、分かれている。
支店の区画には、パーティー会場である、真新しい社屋が、建っていて、二十階建てである。
リムジンが、停車した。
社屋であるビルの前に立つと、街の雰囲気に馴染んでいない、その大きさに、彼方は、目が眩んだ。
「お気を付けて、行ってらっしゃいませ」
と、時田が、言った。
「ありがとう」
と、綺亜が、言った。
「私も、後で、参ります」
「そうなんだ?」
「松木会長から、お誘いを受けておりまして」
「……そう」
と、綺亜は、短く、言った。
綺亜は、気を取り直したように、彼方に向かって、微笑むと、
「パーティー会場は、最上階よ」
と、言った。
ビルの入り口の守衛に、招待状を見せた綺亜は、彼方を誘った。
会場には、招待された人々が、集まっていた。
百人はくだらない、大人数である。
テレビで目にする、著名人の顔も、何名か、見えた。
「すごい人数だね」
と、彼方が、驚いて、言った。
「北条製薬だからね。企業の規模からすれば、そうなるわ」
と、綺亜は、彼方とは対照的に、何でもないように、言った。
「それよりも」
と、言って、綺亜が、彼方の手を取った。
「彼方は、この会場では、私のパートナー、いわゆる、ご学友、なんだから、しっかりと、格好良いところ、見せてね」
落成式が、始まった。
会場のマイクの音が、入った。
「皆様。本日は、ありがとうございます。臨床開発部の丹野と、申します。本日の司会を、務めさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
丹野と名乗った男は、四十代のオールバックの男性だった。
「新たな研究所及び支店社屋が、つつがなく完成し、今日という日を迎えられましたこと、心から感謝申し上げます。社員一同、気持ちを新たに努力を重ねてまいりますので、今後とも変わらぬご指導、ご鞭撻のほど、お願い申し上げます」
拍手が、鳴った。
「それでは、弊社、代表取締役より、皆様へのご挨拶が、ございます」
静かな喧騒が、ぴたりと止んで、壇上に、一人の男が、立った。
「本日は、北条製薬樋野川研究所の落成式にお集まりいただきまして、ありがとうございます。株式会社北条製薬代表取締役の北条成彦でございます」
と、男は、マイクを手に、話し出した。
「ご承知おきの通り、現代社会は、正に、医療文明の社会でございます。その発展の速度には、驚かされるばかりでございます」
北条社長の挨拶は、流暢で堂々としていた。
「我が社も、その医療の発展の一助になれますよう、研鑽邁進する所存でございますから、何卒よろしくお願いいたします。今回の落成式にあわせまして、新製品のご紹介もございます。本日は、どうぞ楽しんでいって下さい」
北条社長の場慣れした一通りの挨拶の終わりに、拍手が、重なった。
北条社長の挨拶からはじまり、各種のプレゼンテーションが、一通り終わり、歓談となった。
立食形式のパーティーである。
「本日は、重ね重ね、ありがとうございます。今後とも、北条製薬を、どうぞよろしくお願いいたします。それでは、お食事も出ておりますので、しばらくご歓談下さい」
と、司会者である丹野が、言った。
出席者は、名刺交換や、挨拶や、食事を、していた。
彼方は、見まわした。
会社関係者が、圧倒的に多く、彼方達のような年代の者は、数えるほどしかいなかった。
「何だか、気後れしちゃうね」
と、彼方は、苦笑した。
「綺亜は、良いけれども、僕なんか、場違いな気がするよ」
彼方の、正直な感想だった。
「何を、言ってるの。こんなの、堂々としていれば、何てことないわ。ここでは、私のパートナーなんだから、もっとしゃんとしてよ」
綺亜は、言葉は威勢が良いが、瞳が不安げに揺れていて、唇を、浅くかんでいた。
(綺亜も、緊張しているのかもしれないな)
と、彼方は、思った。
綺亜には、腕を組んでくれと頼まれていたが、さすがにそこまではできないので、彼方は、できるだけ、綺亜から、離れないようにした。
「ふああああっ」
間の抜けたような声がしたかと思うと、突如、彼方は、柔らかい感触を、感じた。
ドレス姿の少女が、彼方に、寄りかかっていた。
ウェーブのかかった髪の少女は、つまづいてしまったらしかった。
先程感じたのが、少女の胸だとわかって、彼方は、赤面した。
少女のドレスは、控えめなデザインだが、ドレスのラインが、かえって、豊満な胸の形を、主張していた。
少女は、立つバランスが安定しないようで、彼方に寄りかかったまま、ふらふらしていた。
その度に、少女の胸が、ふわりと彼方の腕に、当たり続けていた。
「ふああっ」
少女は、再び、バランスを、崩した。
彼方のほうが、少女より背が高い。
自然と、少女の胸元に、視線が、いってしまった。
「あの……」
彼方は、視線で、少女に、胸が触れていることを、伝えた。
「……すす、すみません!」
少女は、上目遣いに、彼方に、謝罪した。
少女は、彼方に、掴まったままだった。
「ちょっと! いつまで、引っ付いてるの」
綺亜が、声をあげた。
「彼方も、そんなに、にやけた顔しないで」
「や。そんな顔は、していないよ」
彼方は、少女の足元を見て、
(靴のリボンが、解けたのか)
と、思った。
「すみません。ご迷惑をおかけしました」
と、少女の連れと思われる、一人の少女が、歩み寄ってきた。
「町村麻知子と言います。こちらは、友人の、籠原能登と言います」
と、少女は、挨拶した。
「朝川彼方と言います。こちらは、倉嶋綺亜さんです」
「はじめまして」
彼方と綺亜も、受ける形で、挨拶した。
「先輩。全く、何を、やっているんですか」
と、麻知子は、呆れたように、言った。
「ご、ごめん、麻知子ちゃん。靴のリボンが、解けちゃったみたいで」
と、あたふたしながら、能登が、言った。
「見れば、わかりますよ」
麻知子は、屈んで、能登の靴のリボンを、結び直した。
「ありがとう、麻知子ちゃん」
能登は、彼方から、離れた。
「本当に、すみませんでした」
能登と麻知子は、もう一度謝罪してから、歩いて行った。
「本当に、彼方は、節操ないわ。でれでれしちゃって」
と、綺亜が、不満げな声で、言った。
「そんなことないよ」
と、彼方は、苦笑した。
「そんなことあるわ。あの子に寄りかかられていた時、でれでれしていた」
「や。驚いちゃっただけだよ」
「どうだか」
と、綺亜は、ジト目で、言った。
「……あの子。胸、大きかったなあ」
と、綺亜は、羨ましそうに、呟いたが、彼方が、隣にいることを思い出して、
「か、勘違いしないでよね! 羨ましくないんかないんだからっ」
と、言った。
「こんにちは」
と、声が、かかった。
綺麗に整えた口髭をたくわえた、初老の男性だった。
綺亜の身体が、緊張したように、彼方は、思えた。
「久しいね、綺亜君、だったかな」
深く落ち着いた声に、合わせるように、綺亜は、ゆっくりと会釈をした。
「ご無沙汰しております、松木会長」
綺亜は、緊張した声で、言った。
松木の横には、倉嶋家の執事長である時田が、いた。
今夜のパーティーを主催している北条製薬を傘下におさめている株式会社松木リベラルのトップだと、綺亜は、彼方に、説明した。
「学園生活は、どうだね?」
「はい。頑張っています」
と、綺亜は、歯切れよく、答えた。
「学業の成績も、優秀だと、時田から、聞いているよ。スポーツは……前から、得意だったね。今は、学生の本分であるそれらに、磨きをかけると良い。今しかできないことも、あるからね」
「ありがとうございます」
ふむ、と、松木は、一呼吸おいた。
「今日は、お父様は、来られないとか」
「はい。父の代理で、参りました」
「そうか。こんなに可愛らしい、いや失敬、美しいと言ったほうが良いか、お嬢さんと対面できるのだから、私も運が良い」
「いえ、そんな……」
綺亜は、少し俯きながら、微笑んだ。
「謙遜することはないと思うよ。私は、事実を言ったまでだ」
「ありがとうございます」
綺亜は、微笑んだ。
「だが、それだけだ」
「……」
不意に変わった松木の口調に、綺亜の口元が、微笑みのまま、強張った。
「今日は、倉嶋会長と、商談をさせてもらうつもりだったのだがね」
松木の話し方は、落ち着いていて、深みのある声が、その口調の穏やかさを、後押ししていた。
「体よく断わられてしまったということかな」
落ち着きと穏やかさの奥に、はかりしれない、威圧感が、松木の言葉には、あった。
「……」
黙ったままの綺亜のドレスが、身体の小さな震えで、僅かに、揺れていた。
「代理で寄越したのが、可愛いお嬢さんではね」
困ったように微笑む松木の目は、笑っていなかった。
「……それは……」
言い淀んだ綺亜の顔に、不安の色が、浮かんだ。
松木は、時田に、
「時田君。今日は、ぜひ会わせたいと聞いていたが、これでは、いささか興ざめだ。綺亜君は、以前と、何が変わったというんだね?」
と、聞いた。
「朝川彼方と、言います。今日は、倉嶋さんと一緒に、来ました」
と、綺亜の隣にいる彼方が、言った。
「はじめまして、朝川君」
と、松木が、言った。
「これは、僕個人の意見です」
と、彼方が、言った。
「倉嶋さんは、全力で、取り組む人です」
「随分と、はっきりと言うんだね」
と、松木が、言って、
「その言葉は、信じよう」
松木の横にいる時田は、黙っていた。
「学生の本分と仰いましたが、倉嶋さんは、勉強もスポーツも、一生懸命です」
「当たり前のことを、当たり前にやるのを、誇らし気に語るのは、どうかと思うがね」
「では、その当たり前を、認めて下さい」
「ほう?」
「僕は、真剣に取り組むこと自体に、価値があると、信じています」
と、彼方は、真っすぐな目で、言った。
「結果が伴わなければ、その価値すらなくなってしまうのが、我々の世界なんだよ」
「一生懸命にやることは、当たり前だと、たった今、貴方は、教えてくれました」
「確かに。そう言ったね」
「当たり前には、それだけで、価値があるとは、思いませんか?」
「なかなか、にくいことを、言うじゃないか」
と、松木は、言った。
「失礼なことは、承知しています。僕が、何か言われるのは、構いません。でも、綺亜に……」
「少しだけ、勇気をちょうだい、彼方」
綺亜は、彼方の手を握って、すぐに、離した。
綺亜は、前を向いたまま、言った。
「申し訳ありませんでした。気分を害してしまったこと、お詫びいたします」
綺亜は、松木を、見据えた。
「ご期待にそえるよう、これからも、精進してまいります」
松木は、急に、表情を、崩した。
「良い目だ」
松木の口調の変化に、綺亜は、戸惑ったように、
「あの……」
「話の内容は、二の次だ。会話の本質は、信念の駆け引き。そして、駆け引きとは、目でなすものだ」
と、松木は、言って、
「良い目をするようになったね。綺亜君」
と、笑った。
松木は、横目で、彼方を見て、
「もしかすると、パートナーのおかげかもしれないな。まあ、外見は、少し頼りないが」
「……はっきりと言いますね」
と、彼方が、眼鏡の縁に手をやって、言った。
「オブラートに包むのは、面倒な性分なんだ」
と、松木は、笑った。
綺亜は、心配そうに、彼方を見ていることしかできなかった。
松木は、少しの間、黙っていたが、
「大変失礼した。私の方こそ、非礼を、詫びるとしよう」
と、言った。
「綺亜君、良いパートナーを、持ったようだね」
満足そうに頷いた松木は、別の挨拶があるので、と行ってしまった。
「綺亜、平気?」
と、彼方が、聞いた。
「ありがとう」
と、綺亜は、小声で、彼方に、話しかけた。
「すごく、格好良かったよ」
柔らかく笑った綺亜に、彼方は、不意をつかれた感じで、
「や。それは……」
「もう大丈夫よ」
綺亜達を遠目に眺めながら、松木は、時田に、話しかけた。
「いや。実に、有意義な時間を、過ごさせてもらった。感謝するよ、時田君」
時田は、いえ、と、応えた。
「なるほど。会わせたいと言っていたのは、二人に、かね」
「はい」
「良いペアじゃないか」
「私は、まだ、彼を、認めてはおりません」
と、時田が、言った。
「私に、話を持ってくるぐらいには、見込みが、あるということだろう。もう少し、自分の鑑定眼に、素直になっては、どうかね?」
「ご冗談を」
「あの瞳、懐かしい。レイア君の面影をみるなというのが、無理というものだ。綺亜君を、見ているとね」
と、松木は、目を細めた。
「それで、君は、いつまで、高明君に、仕えているつもりかね」
「はい」
「いや、野暮な話は、止めておこう」




