第4話 巡り合いの交錯 4
「お帰りなさい」
御月佳苗が、玄関で、彼方の帰宅を、出迎えてくれた。
美味しそうな香りが、キッチンから、玄関まで、届いてきた。
佳苗は、朝川家の、雇われ家政婦である。
週に三度ほど、家に来て、炊事、洗濯、掃除といった家事全般を、こなしてくれるのである。
日曜日には、一週間分の買い出しに、出かけてくれている。
「ただいま。いつもありがとうございます」
と、彼方が、言った。
「いえいえ。お仕事ですから、しっかりやらせていただきます」
と、佳苗は、笑って、
「それよりも、ごめんねー。今日は、七色ちゃんじゃなくて、私なんだ。がっかりしちゃった?」
と、彼方を覗き見るようにして、聞いた。
佳苗は、七色の母である。
佳苗の代わりに、七色が、家政婦として、来てくれていたことがあり、その期間は、終わったのだが、たまに、七色が、来てくれることもあった。
「そんなことは」
と、彼方が、言った。
「じゃあ、彼方君は、七色ちゃんじゃなくて、私のほうが、嬉しいんだ?」
「それは……」
「ノンノン。そこは、躊躇しちゃ駄目なところだよ。お世辞の一つでも、言わないと」
「お世辞なんて、言うものじゃないですよ」
「考え方が、若いなあ。清濁併せ持つことが、大人への第一歩。何事も、練習だよ。はい、どうぞ」
佳苗が、笑顔で、促してきた。
「じゃあ……佳苗さんの顔を、久しぶりに見れて、嬉しいですよ……とかですかね?」
と、彼方が、確認するように、聞いた。
「二日前に、会ったばかりでしょう?思いつきとか、見え透いた、お世辞は、嫌だなー」
と、佳苗は、頬を膨らませた。
佳苗自身の幼めな容姿も相まって、彼方よりも、年下なのではないかと、錯覚してしまうほどだった。
「ぷくー」
「……何ですか、その擬音語は」
「彼方君が、心のこもっていないお世辞を言ったので、不満を表しての、ぷくー、です」
「心のこもっているお世辞というのが、良くわかないですよ」
「そんなのは、自分で、考えるんだよ」
(どうしろと……)
と、彼方は、胸の内で、苦笑した。
「服を、着替えてきます」
「うん。今日は、ホワイトシチューだから、温めておくね」
二階に上がって、私服に着替えてから、彼方は、一階の居間に、降りた。
佳苗が用意してくれた夕食を、取りながら、彼方は、
「今度の金曜日ですが、夕食はなしで、お願いします」
と、言った。
「私の料理、嫌いになっちゃったの?」
「違いますよ。クラスメイトの子と、パーティー形式の落成式に、出ることになりまして」
「へー。どこの落成式?」
「北条製薬です。B鉄橋から近い、土手沿いに、研究所ができたそうなんですよ」
「あー、あれかあ。完成したんだ。製薬会社さんの建物だったんだね」
と、佳苗が、言って、
「でも、落成式なんて、彼方君ぐらいの年の子達が、出席するイメージは、あまりないな」
「そのクラスメイトの子が、お付き合いで、出る必要が、あるそうです。僕は、その同伴者みたいなものです」
「パーティーで同伴者って、パートナーみたいなものだよね……って言うことは、そのクラスメイトの子は、女の子?」
「はい」
「ふーん……」
佳苗が、頬杖をついて、彼方を、見た。
「ちょっと、近すぎですよ、佳苗さん」
「どきどきしちゃうでしょう?」
「からかわないで下さい」
「えー。少しは、どきどきしないの?」
にっこり顔の佳苗に、彼方は、
「どきどきしますよ」
と、顔色を変えずに、言った。
「佳苗さん謹製ホワイトシチューのお味は、どうかな? じゃがいもたっぷりで、栄養も、ばっちり」
「美味しいですよ」
「やっぱり、七色ちゃんじゃなくて、がっかりしちゃった?」
からかうような視線を向けられた彼方は、
「少し、がっかりしました」
と、言った。
「ふーん? ごまかし方が、少し、上手くなったね」
佳苗は、つまらなそうに、ふてくされたように、頬を膨らませた。
「そんなことないですよ」
佳苗は、彼方を、下から、覗き込んだ。
「七色ちゃんが、彼方君のこと、良く話してくれるんだよ?」
「何を、言い出すんですか」
「動揺した動揺した。そっちの方が、可愛いよ」
と、佳苗は、にっこりとした。
佳苗の、毒気が全くないからかいは、無邪気な子供らしさすら感じられて、
(……敵わないな……)
と、彼方は、苦笑した。
実際、佳苗は、容姿だけでは、学生と見紛うほどだった。
初対面で、街角で、佳苗に話しかけられたら、学生と区別がつかないように、思えた。
学園で、制服を着ている佳苗に会ったとしても、自然に、同じ学園の生徒同士として、接してしまうだろう。
(いや。下手をすれば……)
下級生に、見えなくもないのである。
(若く見えるとかいう次元じゃないんだよな、佳苗さんの場合……)
彼方は、佳苗との初めての出会いを、思い出した。
「ただいま」
彼方は、帰宅して、誰にとでもいうわけでもなく、言った。
朝川家は、現在、彼方の一人暮らし、という状況だった。
両親は、仕事の関係で、長期出張に出ている。
彼方も、一緒に付いていくという選択肢も、あった。
しかし、葉坂学園からの転校ということを考えると、場所を移らない、現状維持の一人暮らしに、落ち着いた。
両親からの連絡は、ほとんど来ず、月に二回ほど、メールが、あるのみである。
連絡の少なさは、良く言えば、彼方を、信頼していることの裏返しであり、悪く言えば、放任主義である。
しかし、放任主義の彼方の両親も、多少なりとも、学生である息子一人を、置いていくのには、不安があったのだろうか、家政婦の女性に、週三日ばかり来てもらうように、手配してくれていた。
今日は、家政婦の女性が、初めて来てくれる日だった。
(初めて会うし、失礼のないようにしないとな)
そんなことを何となく考えていた彼方だったが、革靴を脱いだところで、
(ああ)
と、思った。
玄関の様子が、違っていた。
煌々とした玄関の明かりに、彼方は、
「電気、ついているんだ……」
と、声を出していた。
家政婦の女性が、既に、来てくれているのだろう。
靴が、丁寧に、揃えられていた。
彼方も、どちらかと言えば、几帳面な方だが、ここまで綺麗に並べた覚えはなかった。
「あっ」
と、可愛らしい声が、した。
廊下を進んだ先のキッチンのほうが、その元らしい。
姿を見せたのは、少女だった。
彼方よりも、年下ように見えた。
(家政婦さんじゃ……ない?)
彼方は、戸惑った。
「はじめまして、朝川彼方君」
と、少女は、屈託のない笑顔で、挨拶をした。
「はじめまして」
と、彼方も、少女に返す形で、挨拶をした。
「夕食、できてるから。着替え終わったら、食べてね」
「ありがとう、ございます」
少女に促されるように、二階に上がって、私服に着替えてから、彼方は、一階の居間に、降りた。
それから、夕食の時間が、始まった。
「美味しいかな?」
「や。とっても、美味しいです」
成り行きで、押し切られる感じで、出された夕食に手をつけてしまったが、いつまでも、こうしているわけにも、いかなかった。
「どうかな?」
と、少女が、聞いた。
「や……とっても、美味しいです」
と、彼方は、言った。
彼方と少女は、食卓に、いた。
身体が、満足感を、主張してきていた。
「良かった!」
嬉しそうに、少女は、微笑んだ。
料理は美味しいのだが、彼方は、
(この状況は、何だろう)
と、思って、戸惑っていた。
彼方には、何が何だか、わからなかった。
想定していた家政婦さんが、いない代わりに、少女が、夕食の用意をして出迎えてくれたという、現状である。
なし崩し的に、夕食まで、とってしまった。
とにかく状況を整理しないと、と、彼方は、思った。
「少し、聞きたいんだけれども、良いかな?」
と、彼方が、言った。
「良いよ」
「色々その、聞きたいことはあるけれども、その……どうやって、家に?」
「合鍵を、お預かりしていますので」
(そうか。確か、家政婦さんには、娘さんがいるって、母さんが、言っていたな)
と、彼方は、思い出した。
(もしかすると、何か都合が悪くなって、娘さんが、来てくれたのかもしれない)
と、考えた。
彼方の母親が預けた鍵を使って、自宅にあがって、夕食を作ってくれているのだから、雇った家政婦に関係のある人物と考えるのが、自然である。
目の前の少女は、目をぱちくりさせて、彼方の様子を、覗っているようだった。
(それならそれで、連絡ぐらいくれても、良いのにな)
「ええと」
と、彼方は、言った。
少女は、不思議そうに、首をかしげたものの、はい、と頷いた。
(この子のお母さんのことを、聞いてみよう)
と、彼方は、考えて、
「それで、今日は、お母さんは、来ないのかな?」
「お母さん?来ないよ、九州に、住んでるし」
「九州?」
「うん。博多に、住んでいるからね」
「明太子で有名なあの博多、だよね?」
「そうだよ」
「博多に、お母さん、いるんだ」
「うん」
「ええと……」
彼方は、少し、混乱していた。
会話が、噛み合っていないようだった。
二人の間に、僅かな沈黙が、生まれた。
少女は、不思議そうな顔をして、
「何か行き違いが、あるみたいだね」
と、言った。
「何かが、違うかもね」
と、彼方が、言った。
「今日来てくれたのは……」
「うん。今日から、家政婦として、彼方君の、身の回りのお世話をします」
「……お母さんの代わりに?」
「……お母さんは、関係ないと思うけど……ああ!」
少女は、けらけらと、笑い出した。
「ごめんね。うん、良くわかったよ。行き違いが、あった」
「行き違い?」
「はじめまして、彼方君。家政婦の、御月佳苗です」
「……え」
彼方は、言葉に、詰まった。
「家政婦さん、ですか?」
目の前の少女が家政婦だと言っているのが、彼方には、冗談にしか、聞こえなかった。
「彼方君は、お母さんから、聞いていなかったの?」
「や。家政婦さんにお願いするからとは、聞いていたけれども……」
佳苗は、人差し指を軽く振って、
「ノンノン。夕食を作っている謎の女性がいる時点で、思いつかないと。推察力が、足りないね」
「確かに、夕食を作ってくれている女の子がいる時点で、びっくりしましたよ」
彼方は、敬語になって、言った。
(どうやら、言葉通りらしい)
と、彼方は、思った。
「女の子、じゃなくて、女性、です」
佳苗は、また、不満そうに、頬を膨らませた。
「彼方君、私を、私の娘とかと、勘違いしていたでしょ」
「や。それは」
「良く、子供に、間違えられちゃうんだよね。だいぶ、慣れたけど」
と、佳苗は、笑っていた。
(……確かに、インパクトのある初対面だったな)
食事をしながら、彼方は、初めて、佳苗と会った時のことを、思い出していた。
今思い返せば、佳苗との出会いも、七色との出会いに、似ていた。
むしろ、七色との出会いが、佳苗との出会いに、似ていたというべきだろう。
「あはは。あったあった、そんなこと。懐かしいね」
と、佳苗は、言った。
洗濯物を畳み続けながら、佳苗は、
「ところで」
と、上目遣いになって、言った。
「はい」
「私が、来られなかった間のことなんだけど、進展は、あったのかな?」
「進展……ですか?」
佳苗の言葉に首を傾げた彼方に、佳苗は、
「彼方君と七色ちゃんのことだよ。年頃の男女が、一つ屋根の下にいたのに何も起きないわけないじゃない」
探るような佳苗の視線をさけた彼方は、ごまかすように、お茶を、一口飲んだ。
「何も、起きないですよ」
「夜を、共にしたのに?」
「誤解を招くような表現は、止めて下さい。御月さん……七色さんは、お仕事で、夕食を、作ってくれただけでしょう」
「一緒の部屋で夜を明かしたって、七色ちゃんが、言っていたよ」
「ごほっ」
思わず、咽てしまう彼方に、佳苗は、観念しなさい、と、笑った。
(本当、佳苗さんと御月さんが親子って、イメージ的に結びつかないよ)
「それは、佳苗さんの、かまかけでしょう! さらっと、誤情報を、混ぜ込まないで下さい。全力で、否定します」
「バレたか」
と、佳苗は、残念そうに、言った。
「油断も隙も無いですよ、佳苗さん」
と、彼方が、言った。
「大体、御月さん……七色さんは、家に泊まったりなんかしていないじゃないですか。たまに、遅くなって、送ったことはありますけれども」
「ち。文章だけでも、既成事実を、作ろうとしたのに」
「メタな発言は、控えて下さい」
と、彼方は、肩をすくめた。
「それで、どこまで、いったのかな? A? B? C?」
「アルファベットの意味は、良くわかりませんね」
「じゃあ、具体的に、いこうか。どこまでいったの? 恋人つなぎで、手を、つないだ? キスした? お布団の中、一緒に入った?」
「三つとも、していませんよ!」
「良いツッコミだね」
と、佳苗は、言った。
「でも、おかしいな。私が、この前プレイした、恋愛趣味レーションゲームでは、出逢ってから、三日で、一緒のお布団の中に、入っていたなあ」
「急展開すぎですよ」
「恋は、ジェットコーストだよ」
「仮想と現実を、ごっちゃにしないで下さい」
「事実は小説よりも奇なり、じゃないの?」
「とにかく、佳苗さんが言ったようなことは、していないです」
「じゃあ、今の言葉に、嘘偽りはないんだね」
「勿論です」
佳苗の瞳が、光った。
「良くわかった。それ以外の何かは、したんだ?」
「……」
「やー。青春だねえ。うんうん」
と、佳苗が、言った。
「私の勘の鋭さを、甘く見たね?ほら、白状しなさい」
「ごめんこうむります。シチュー、美味しいです。じゃがいもも、食べごたえが、あるなあ」
「露骨に、話を逸らすのは、格好悪いよ」
「佳苗さんに、格好悪いと言われても、ノーダメージです」
「よろしい。彼方君が、その気なら、こっちにも、考えが、あります」
佳苗は、平らな胸を、張った。
「白状しないなら、七色ちゃんに、彼方君が隠しているエッチな本の場所を、教えます」
「残念ながら、我が家には、ありません」
「捏造します」
とんでもない言いぐさだった。
しかし、敵うものでもなさそうで、彼方は、
「……ベンチで、手は、触れましたよ」
と、言った。
彼方は、以前の、日曜日の買い出しを、思い出した。
「うんうん、正直で、よろしい」
にっこにこ顔の佳苗である。
「それでそれで?」
佳苗は、先を、促した。
「それだけです」
「……ええっ! 嘘だよね?」
「いえ、本当です」
「それは……うん、頑張ろう。頑張ろうよ、彼方君。応援するから!」
「佳苗さん、お醤油、取ってもらえますか?」
「また、ごまかした」
しばらくの間、佳苗の攻勢が、続いた。




