第3話 雷光のお嬢様 10
大きな屋敷、倉嶋邸である。
その一室に、時田は、いた。
時田の手には、アンティーク調の黒い受話器が握られていた。
大きな窓の向こうに広がるのは、広大な庭園である。
手入れの行き届いた色彩豊かな見事なバラが、雨に濡れて揺れていた。
ざあざあという雨の音がずっとしている。
やむ気配はない。
「以上となります」
と、時田は、言った。
「報告ご苦労」
と、電話越しの声は、言った。
「おおよそのところは、わかった」
電話越しの声は、静かだ。
落ち着いている。
静かで落ち着いていて、冷厳とさえしている。
「……」
「どうした。まだ報告が残っているのか?」
時田は、小さく息をのんでから、
「差し出がましいことは重々承知の上で申し上げます」
と、控えめにしかしはっきりとした声で言った。
「ですが、お嬢様にあまりご負担になるようなことは……」
その言は、遮られて、
「時田」
と、電話の声だった。
「はい」
時田は、短く応じた。
「何のために、お前を、綺亜のところに付けていると思っている?」
「はい」
時田は、居住まいを正して、
「……承知しております」
「わかっているのなら、それでいい。もうこの話は終わりだ」
「……」
有無を言わせない調子に、時田は、それ以上はなにも言わなかった。
電話の声は、続けて、
「例の組織の人間たちは、どうしている?」
「籠原能登と町村麻知子の二人ですね」
「ああ。たしか、そういう名前だったかな」
「彼らについては、ご報告するような新たな動きは、把握しておりません」
「そうか」
「はい」
「協力体制を敷いているから、あちらから要請があった場合は、対応してくれ。丁重にな」
「よろしいのですか?」
「体裁の話だ。それで、あちらの顔も立つのならそれで良い」
電話越しの声は、続けて、
「それならば、連中も、大きな越権行為はしないだろう。倉嶋の管理下にある桶野川という庭を連中に踏み荒らされるのは、不愉快だからな」
窓ガラスにしたたかに打ち付ける雨の音が、激しく唸っていた。
「綺亜には、あれには、果たしてもらわなければならないのだ。倉嶋の悲願成就のためにな」
「はい」
「頼りにしているぞ、時田」
「もったいないお言葉です。それでは、失礼いたします」
時田は、受話器を静かに置いた。
「……」
屋敷の庭園を見やった時田は、止みそうにもない雨の線を、暫くの間、眺めていた。
朝の通学路を、彼方は、歩いていた。
雨は深夜まで降り続いていたようだが、今は止んでいた。
雲が多めの空模様である。
空気が、冷たかった。
彼方は、
(手袋が必要だな)
と、思った。
彼方は、片手を制服のポケットに入れながら、学園に向かっていた。
「……っ」
思わず、小さく声がもれた。
身体の痛みに、彼方は、顔をしかめた。
全身、打身で生じた痣だらけである。
右腕の痛みが、特に、酷かった。
踏切が鳴ったので、彼方は、立ち止まった。
赤いランプの点滅は、列車が、左側から来ることを、示していた。
葉坂学園の制服姿も、ぱらぱらと、見受けられる。
普通の朝の通学風景である。
そういう風景、少なくとも彼方自身はそう思っていたもの、は、前から変わっていないはずである。
それなのに、不安定な気持ちが、ずっと燻っていた。
(違うな)
と、彼方は、頭を振った。
(変わっていないけれども、変わったんだ)
そんな謎かけめいた言葉になってします。
この日常という世界。
その世界の外には、非日常という世界が、あった。
その非日常という世界。
その世界は、たしかに存在していた。
彼方が、そのことを、知らなかっただけである。
半ばこじつけめいて言うのならば、人が科学式を把握していなかっただけでその化学式ははるか昔からたしかに存在していたのと、似ているかもしれなかった。
"月詠みの巫女"御月七色との出会い。
それが、あった。
世界の理の外の存在であるという"爛"との遭遇。
それが、あった。
倉嶋綺亜との出会い。
それが、あった。
そして、"爛"の高位の存在であるという"爛の王"との遭遇。
それが、あった。
それらが、交じり合って、キャンバスを新たな色で塗り替え続けているようなイメージに、彼方は、とまどった。
(……)
ふと、
「おはようございます、朝川さん」
と、声がした。
後ろから歩いてきて彼方の横で立ち止まった七色だった。
「おはよう、御月さん」
と、彼方は、挨拶した。
七色は、少し上目遣いになりながら、
「身体は、大丈夫、ですか?」
と、聞いた。
彼方は、
「何とかね。多分、大丈夫」
と、返した。
全身、打身で生じた痣だらけである。
右腕の痛みが、特に、酷い。
だが、ここはやせ我慢である。
彼方は、そう考えていた。
「無理は、しないで下さい」
「そうするよ」
七色の口調は、いつも通りで、事務的だった。
しかし、自分のことを心配してくれている。
それが、なんとはなしに伝わってきていた。
それが、不思議だった。
列車が、通過していく。
「倉嶋さんと、一緒だったのですね」
「色々あってね」
「そう、ですか」
踏切の遮断機のバーが、上がった。
彼方は、一歩踏み出したが、
「……あの」
と、立ち止まったままで、言い淀んだ七色に、制服の袖を、引っ張られていた。
「……御月さん?」
「最近、朝川さんと、あまりお話ができていなかったので、その……」
七色の小さな細い指が、彼方の手に、絡まっていた。
「えと……御月さん?」
少しこのままで良いですか、と、七色は、言った。
二人の間に、小さな沈黙が、生まれた。
二人の前で、白いリムジンが、静かに停車した。
リムジンからゆっくりと降り立った少女は、悠然とした面持ちだった。
腰までかかる柔らかなブロンドの髪とエメラルドグリーンの瞳がハーフを思わせる、美しい少女である。
「おはよう」
と、少女が、言った。
優雅で華麗な挨拶だった。
「……あ」
と、小さな声をあげた七色の指は、彼方の袖から離れていた。
「おはようございます」
と、七色は、丁寧に言った。
「おはよう、倉嶋さん」
と、彼方も、挨拶をした。
「御月さんと、一緒だったのね」
「たまたまね」
「そう」
綺亜は、彼方と七色を、見た。
「他人行儀なのは、あまり好きじゃないの」
と、綺亜は、言った。
綺亜は、両手を腰にあてて、二人を覗き込むようにして、
「彼方、七色」
と、言って、
「綺亜、で良いわ」
「ええと、それって、倉嶋さ……」
と、彼方が、言いかけたが、綺亜が、遮るように、
「綺亜!」
と、言った。
有無を言わさない綺亜の調子だった。
彼方は、観念したように、
「……綺亜」
と、言った。
「……っ!」
一気に恥ずかしそうに赤くなった顔を隠すように、綺亜は、
「よ、よろしいっ」
と、言いながら、先を歩き出していた。
今日も、葉坂学園での一日が、始まろうとしていた。




