第1話 はじまりの夜空 2
「おい、彼方よ」
彼方は、自分の教室に戻ってきたところで、級友の乃木新谷に声をかけられた。
新谷は、長めの髪をオールバックふうにしている、顔立ちはいわゆるイケメンふうの美男子である。
ただし、軽薄そうな態度が外見のプラス要素をマイナスしてしまっている、そういうタイプでもある。
彼方と新谷とは十年来の付き合いで、言わば悪友である。
彼方と新谷とは、良くも悪くも、本音で言い合える仲である。
「どういうことだよ、お前」
「どういうことって?」
と、彼方は、聞いた。
「しらばっくれてんじゃねーぞ。お前、さっき、御月さんと話していただろう」
と、新谷が、言った。
「あ、うん」
彼方は、葉坂学園の高嶺の花、御月七色の顔を思い出しながら、軽く頷いた。
「この羨ましいヤツめ。で、一体何を話していたんだ?」
「別にたいしたことじゃないよ」
と、彼方が、答えた。
実際に、食べ物の好みを、聞かれただけである。
彼方の返答に、新谷は、ふーんと鼻を鳴らした。
「どちらにせよ、お前を許せないことに、変わりはなさそうだな」
「……何故そうなるの」
彼方は、肩をすくめた。
「あの麗しの学園のアイドル御月さんと白昼堂々お話できるなんて、天が許しても、この俺が許さんっ!」
「別に、新谷に許してもらわなくても良いよ」
と、彼方は、ため息まじりに言った。
「……あいかわらずのローテンションっぷりなのな、お前」
「僕は、はしゃぐのは得意なほうじゃない。それは、自覚しているよ」
「……はあ。まあいい、いつものことか」
と、新谷は、半ば呆れたように言った。
「で。御月さんの超絶可愛い顔はもちろんとして、その他諸々(もろもろ)のチェックはできたのか?」
新谷は、少し声のトーンを落とした。
「チェック?」
と、彼方は、新谷の言っていることの意味がわからずに、オウム返しに聞いた。
「ばっか。ボディーチェックの話だよ」
新谷は、彼方の首に後ろから手を廻して、ひそひそ話の体勢をとった。
「……胸とかお尻とか、ちゃんと凝視してきたか?」
新谷は、周りの様子をうかがうように、さらに声をひそめて言った。
「……」
「おいおい。何だよ、その結構ひいてる顔は」
彼方の無言の返答に、新谷は呆れたように、
「あのなあ。健全たる男子なら、滅多にないチャンスを最大限に生かさないとだな、こう嘗め回すようにだな」
身を乗り出した新谷は、続けて、
「良いか。全くもって不健全な男子たるお前に、俺が懇切丁寧に、御月さんの魅力についてレクチャーしてやるよ」
「不健全なのは、新谷だろう」
「いいや、違うね。この手の話に乗らないお前こそ、不健全だ」
と、新谷は、続けて、
「さり気なく淑やかに、大きさと張りを主張するあの胸の綺麗なライン! 曲線美だ」
新谷の声のトーンが、少し上がった。
「そして、スカートの上からもうかがい知ることができる、小ぶりな可愛らしい桃を思わせるヒップ……ッ!」
彼方の前に廻った新谷の声は、徐々に熱を帯びていった。
「……」
「そして、何より、全ての煩悩を昇華せしめる、あの神秘無敵の絶対領域を演出するニーソックス……ッ!」
と、新谷が、言った。
「あえてもう一度言おう、神秘無敵絶対領域ニーソックス……!」
「ニーソックスのアクセントというか、強調が凄いね……」
と、彼方は、言った。
「当たり前だ。ニーソフェチだからな。ニーソにかける情熱だったら、誰にも負けないぜ」
新谷は、得意そうに、自身の胸を軽く叩いた。
「その情熱を、少し勉学の方に向けたら良いんじゃないかな」
と、彼方は、言った。
「あの御月さんを、真近に見れるなんて……あまつさえ、会話までしてしまうとは!」
新谷のテンションは、右肩上がりだった。
「くそっ、羨ましい! 羨ましすぎるぞっ! 羨ましすぎるんだよっ、お前! それと……」
と、そこまで言いかけた新谷は、一瞬目を大きく見開いたかと思うと、その顔がそのまま急に青ざめていった。
「……新谷?」
友人の名を呼んだ彼方は、後ろからの鋭い視線を感じた。
「白昼堂々、教室のどまん中で破廉恥な話をしているのは、どこの誰かしらねー」
少女の険のある声だった。
「……委員長、さん。いえ、クラス委員長の立海さん……じゃないですか」
新谷は、緊張した笑みを浮かべながら言った。
二人の前に仁王立ちしている少女は、クラス委員長である、立海凛架だった。
新谷の肩は、震えていた。
「はい、結構です」
凜架は明るく言ったが、その目は笑っていなかった。
「さて、ここで質問です。次の時間は、何の授業でしょう?」
「……英語、だったかな。だよな、彼方?」
ポニーテールの凜架から彼方に視線をゆっくりと移した新谷の目は、助けを乞うように、怯えの色に染まっていた。
「あ、うん」
と、彼方が、言った。
「はい、よく覚えていましたね」
凜架はまたも明るく言ったが、その目はやはり笑っていなかった。
「さて、再び質問です。次の英語の時間ですが、宿題は出ていたでしょうか?」
「……次の英語は、竹本のヤツだったから……」
新谷は、必死で思い出そうと、腕組みをして宙を仰いでいた。
「……呼び捨て? ……やつ?」
と、凛架は、怪訝そうに眉をひそめた。
「いや! 竹本先生だったから! 宿題は……確かいつもあるよなっ?」
委員長に目の笑っていない冷たい笑顔で睨まれたままの新谷は、言葉を改めつつ、自身の答えを確認していった。
「はい、宿題は、確かに出ています」
凜架はさらに明るく言ったが、その目は笑っていなかった。
「では、最後の質問です。いつも赤点ぎりぎりで頑張っている乃木君ですが、次の授業に備えて、宿題はきちんと終わっているのでしょうか?」
「……」「……」
新谷と凜架の視線が、無言のまま交錯していた。
「今日もいい天気ですね」
「そうね。たしかにいい天気ね。それで、宿題はきちんと終わっているのでしょうか?」
「……きょうもいいてんきですねー」
「なんでわざわざくだけた感じで言い直しているの? それで、宿題はきちんと終わっているのでしょうか?」
「……はばないすでい」
「よい日を過ごすためには、宿題が終わっていることが大切です。終わっているのでしょうか?」
再度の凛架の確認に、新谷は、
「……それは、ですね」
と、言った。
新谷の額を、汗がつつーっと流れていった。
「答えがないようだけど、乃木君?」
新谷は、彼方のほうに向き直って、
「彼方。宿題の答え、写させてくれ!」
と、勢いよく言った。
「別に構わないけれど……」
と、彼方が言うと、
「朝川君!」
と、今度は、彼方の言葉が遮られた。
「それじゃあ、乃木君のためにならないわ。乃木君、きちんと自分でやりなさい。まだお昼休みが終わるまで、結構時間はあるんだから」
新谷は、制服のポケットに両手を突っ込んで、
「ちっ。面倒くせーな」
「あら、何か言ったかしら」
目を細めた凜架の白い脚が僅かに動き、紺のスカートが揺れた。
途端に、新谷の顔がますます青ざめていった。
「さーて、宿題宿題っ!」
気圧されたように、新谷は、自分の席に戻っていった。
新谷いわく、立海凛架は空手の有段者である。
新谷は、これも当人談ではあるが、彼女と死闘を繰広げたことがあるらしい。
もっとも、その武勇伝を語った時の新谷は、震え声だった。
(一方的に、新谷が、やられたとしか思えないけれども、ね)
と、彼方は、思った。
そういう経緯があるせいか、ぼやきつつも、新谷は、委員長には頭があがらない様子だった。
新谷は今でこそ落ち着いているが、かつて悪かった時期があり、めっぽう喧嘩が強いことは、彼方も知っていた。
その新谷が、敵わないという様子なのだから、凛架の力は相当なのだろう。
「きちんとやるのよ、乃木君」
相変わらずなんだから、と、ため息をついた委員長は、
「朝川君も、乃木君をあまり甘やかさないようにね」
と、釘をさすように言った。
「そう、だね」
彼方も、苦笑するしかなかった。