第3話 雷光のお嬢様 8
彼方と綺亜は、駅前の商店街の一角にあるスーパーに入った。
夕方という時間帯ということもあり、混んでいた。
綺亜は、店内を見渡しながら、
「わあ……」
と、声をもらした。
「随分と混んでいるのね」
「まあ、夕方だしね」
と、彼方は、応じた。
「それと、タイムセールでも、やっているのかもね」
彼方が、買い物をしている間、綺亜は、彼方の横を歩きながら、終始そわそわとしていた。
目移りしてしまうかのように、いろいろなところに目をやっている。
興味津々(きょうみしんしん)という感じだった。
そんな綺亜の様子を横目にとらえながら、彼方は、
(倉嶋さん、この店には、初めて来たみたいだな)
と、思った。
野菜のコーナーから、スタートである。
肉のコーナー。
飲料のコーナー。
そのように、順々に、回っていく。
カップ麺のコーナーで、綺亜の足が、止まった。
「まさか……」
「え……なにが?」
綺亜の発した言葉がまさかすぎて、問いかける形になっていた彼方である。
綺亜はといえば、衝撃だと言わんばかりの表情である。
なんだったら、わなわなしているという感じである。
「まさ……か」
そして、まさかのまさかの二度目の発言である。
「……」
よほど衝撃的なことがあったらしい。
しかし、ここはスーパーである。
そこまで衝撃的なことが起きえようか。
彼方は、漠然とそんなことを考えていた。
綺亜が、陳列棚を見ながら、
「これが、噂の、カップ麺……なのね」
と、言った。
そして、綺亜の視線の先には、はたして、言葉通りカップ麺があった。
様々なメーカーの様々な種類のカップ麺が、整然と並んでいた。
彼方が、
「食べたことがないとか?」
と、冗談めかして聞くと、
「ないわ」
と、綺亜が、真顔で答えた。
「曰く、蓋を開けて、お湯を注ぐだけで、完成してしまうという、魔法の一品、なんでしょう?」
「……」
「しかも、三分足らずで、完成してしまう」
「……」
綺亜は、大真面目な調子で、
「どう? 私の知識は、合ってる?」
「合っているよ」
「長岡に、出されたことがなくて」
「長岡?」
「ごめんなさい。料理長の名前よ」
綺亜の言葉を聞きながら、
(……料理長ねえ)
彼方は、息をついた。
どうやら、本格的にお嬢様の様相である。
もっとも、そういった存在が身近にいた経験などない。
だから、フィクションで出てくるお嬢様のイメージしか持ち合わせていない。
しかし、そのイメージが結構あてはまりそうな気もしていた。
「麺類なら、口にしたことがあるのは、パスタかお蕎麦かしら」
綺亜は、拳を自身の唇のあたりにやって、まじまじと陳列棚を眺めながら、
「正直、ラーメンには、憧れに近い感情すら、抱くわ」
と、言った。
「そ、そう」
彼方は、かろうじてそう応じていた。
なんだか、一気にスケールが大きくなったような感じである。
「憧れ、ね」
綺亜は、目をきらきらとさせて、
「そう。憧れよ」
と、言った。
綺亜は、自身で確認するように、指を折って、
「醤油、塩、とんこつ、魚介系、細麺、太麺、縮れ麺……どんな味なのかしら……って」
と、矢継ぎ早に言っていたものの、
「あっ」
と、ふと我に返った様子だった。
急に、気まずそうな調子になって、
「……世間ずれしてるって、思ったでしょ?」
と、聞いた綺亜である。
彼方は、苦笑気味に、
「食べたことがないというのは、意外だなと思うよ」
と、言った。
「……」
彼方の答えに、綺亜は、俯きかけた。
「でも、倉嶋さんが言ったようには思わないかな」
と、彼方は、付け加えた。
「……そう」
綺亜は、少し驚いたように、小さく口を開いたままだった。
「そんなこと言ったら、僕にだって、そういう節がないとも限らないことだってあるでしょ」
「……」
「という感じで、保険をうっておくことにするよ」
「……ふーん」
と、綺亜は、彼方の顔を覗き込むようにして、
「お上手なこと」
と、言った。
その言いかたには、少し好意的な空気があった。
それ程買うものがあったわけではない。
買い物そのものは、比較的短時間で終わった。
会計の間、綺亜に待っていてもらっていた。
綺亜は、落ち着かない様子だった。
「何か買いたいものでも見つけたの?」
綺亜は、商品の陳列棚を、きょろきょろと見ていた。
「別に」
言葉では、そのように言った綺亜だった。
だが、態度は、明らかに、落ち着きがなかった。
「スーパーマーケットなんて滅多にこないから、ちょっと緊張しちゃってるとか、そういうわけじゃないわ」
彼方は、戸惑い気味の表情の綺亜を、横目にとらえて、
(倉嶋さんは、あまり、こういう場所には来ないのかもしれないな)
と、思った。
今までの経緯から得た情報を少し整理すると、ありていに言ってしまえば、綺亜は、お嬢様だ。
誤解を恐れずに言えば、少し浮世離れしている面もある。
だが、それだけの話だ。
それだからどうこうという話でもない。
だから、彼方は、綺亜の言葉を、そのまま受け取る形で、
「そう」
とだけ、言った。
「な、何よ?」
と、とまどった感じの綺亜だった。
彼方は、少し宙を見上げて、
「倉嶋さんのことが、少しわかって良かったな、って」
と、言う。
「何が、わかって言うの?」
彼方は、
「正直なところ、かな」
と、少し飄々とした調子で言った。
むっとした感じの綺亜は、
「……隠すのが、下手ってこと?」
「そうとも言うね」
と、彼方は、笑った。
「……何よ」
そう言った綺亜は、そこで言葉を止めた。
二人で、店の外に出た。
「はい、倉嶋さん」
彼方は、買ってあった缶コーヒーを、綺亜に手渡した。
「……ありがとう」
と、綺亜は、小さな声で、言った。
二人は、商店街を歩いた。
夕方という時間帯ということもあり、ひとごみまでいかなくとも、結構な人通りである。
カレー屋の前を、通りかかった。
綺亜が、足を止めて、
「このカレー屋さん、美味しそうね」
と、言った。
彼方は、頷いて、
「美味しいらしいよ。うちのクラスに行ったことがあるやつがいてね。そう言っていた」
「そうなんだ」
「ただ、ボリュームがすごいから、一食抜くぐらいでちょうどいいらしい」
「そうね。メニューの写真を見る限り、そんな感じだわ」
「あまりものボリュームだから、ゴーゴーな感じじゃなくてウェイウェイな感じらしいよ」
「どんな感じよ……」
と、綺亜は、控えめなツッコみを入れていた。
彼方は、そのような綺亜の機微には気付いていない様子で、
「ほら。ここに書いてある」
と、返していた。
綺亜のほうも、そのような彼方の無頓着さには気付いていない様子で、
「本当に、ウェイウェイって書いてあるわ……」
と、素直に応じていた。
なかなかにバランスが取れているようで、なかなかに危ういバランスだった。
それでも、なんだかんだでバランスが成立している。
そのような塩梅だった。
少し店内を覗き込んだ綺亜は、
「雰囲気的に、海外の方が、やっているのかしら?」
綺亜の言うように、日本人の経営している店ではなさそうだった。
店の前には、メニューが張り出されている。
そのデザインが、日本字離れしているのだ。
なんとはなしに、感覚が、まさに海外のものである。
しかして、彼方は、
「そうかもしれないね」
と、言っていた。
「チキンカレーが、メインか」
うんと小さく頷く綺亜は、
「こういう本格的なカレー屋さんって、ナンが、美味しいのよね」
「カレー、好きなんだ」
「好きよ。意外だった?」
「そんなことはないよ」
軽く綺亜の問いに応じた彼方は、
「フランス料理とかイタリアンとか、西洋風のものも、似合いそうだけれどもね」
と、続けた。
「それは、この髪の色とこの瞳の色を見て、からかしら?」
「そうかもね」
と、彼方は、素直に、首肯した。
「なんとなく似合いそうだ」
「母親が、フランス生まれなの。父親は、日本人」
と、綺亜は、言った。
「まあ、ハーフってやつね」
それから、綺亜は、彼方を見たまま、黙ってしまった。
数十秒してから、
「……その。この前は、ごめんなさい」
と、綺亜は、頭を、下げた。
「ボールから、私を、庇ってくれたでしょう」
「ああ。あの時のこと」
応じながら、彼方は、先日の出来事を思い出していた。
言ってみれば、不可抗力の事態ではあった。
言わば、ある種の事故だった。
やむをえなかったのだ。
しかし、それをもって是とするのも、おかしな話だ。
経緯はどうであれ、俗にいう破廉恥な事態に陥ってしまった。
それは、まぎれもない事実なのだ。
綺亜は、彼方をまっすぐに見て、
「助けてもらったのに、私、後先考えずに、朝川君に、怒っちゃって……」
と、姿勢正しく頭を下げて、
「すぐに、謝りたかったんだけど、タイミングもつかめないで……本当に、ごめんなさい」
「そんなことないよ。僕のほうこそ、すぐに気付かなくて、ごめん」
「それに」
と、綺亜は、声を落とした。
「さっきの、話……」
「え?」
「正門で、時田から、色々と聞かされたんでしょう?」
綺亜は、歯切れ悪く様子で、
「その、倉嶋の家のこととか……」
と、言い淀んだ。
「そうだね」
と、彼方は、答えた。
「リムジンとか執事さんにも、びっくりしたけれども、倉嶋さんって、本当に、お嬢様だったんだね」
綺亜の瞳が、一瞬揺らめいたようになって、
「……だから?」
消え入りそうな、先を促す声だった。
聞きたくないそれでも聞かなければならない、そういうジレンマの色がじんわりとにじんでいる声音だった。
そんな深刻な調子の綺亜に対して、
「……え? それだけ、だけれど」
と、あっさりめに応じた彼方だった。
彼方にしてみれば、それ以上でもそれ以下でもない話だった。
ただ自分の所感というか感想を言っただけの話だったからだ。
アクションとしてはそこまでで、それ以上のリアクションもない。
そういう話だ。
「……」
「……倉嶋さん?」
「……ううん、何でもないわ。ごめんなさい」
綺亜は、感情を押し殺すかのように、それでも少しほっとしたように、コーヒー缶に、口をつけた。
「言う勇気が、ついた」
と、綺亜は、言った。
「え?」
綺亜は、深呼吸をした後、彼方に向かって、
「私は、倉嶋グループ現会長の倉嶋高明の一人娘」
と、言った。
「将来は、お父様の事業を、手伝い、支え、継ぐことになると思う」
彼方は、頷いた。
「倉嶋のグループ会社の一つに、警備会社が、あってね。警備と一口に言っても、色々あるけど、要人警護の部門があるの」
と、綺亜は、言った。
「私は、何年後かに、そこの役員になる」
綺亜は、寂しげな笑みを、浮かべた。
「もうそう決まってる」
「……」
「レールは敷かれているの。私は、そのレールの上を歩くしかない」
「……」
彼方は、黙って綺亜の言葉を聞いていた。
そこで、
「でも、ただ歩くだけはごめんだわ」
と、綺亜は、はっきりと言った。
まっすぐな瞳である。
「会社のことを、何も知らない役員なんて、どうしようもないでしょう? 私だって、お飾りの役員になんて、なりたくないわ」
と、綺亜が、言った。
「だから、学園生活を通して、警護、護衛のイロハを学べ、そう言われているの」
「そうなんだ」
と、彼方が、言った。
「護衛対象は、必ず、異性を、選ぶこと。詳しくは、わからないけど、護衛というものは、同性よりも異性のほうが、難しいらしいの」
綺亜は、とうとうと話した。
「これで説明はお終いよ」
と、綺亜は、彼方を、見た。
「時田から、聞いたかもしれないけど、私の口から、直接、朝川君に伝えたかったの」
「十分だよ。ありがとう」
「護衛の件は……断ってくれても、良いわ」
綺亜は、彼方を見て、そう言った。
「私、強引すぎるところがあるの、わかってるから……」
「強引で、いいんじゃないのかな」
綺亜の髪が、揺れた。
「護衛の話、ありがとう」
「……」
「言いたくないことも、言ってくれた。一生懸命な人の頼みを、断るなんてできないよ」
綺亜は、俯いた。
「……そう」
とだけ、綺亜が、言った。
綺亜は、彼方とは目を合わさずに、
「……やっぱり、九十点じゃない……」
と、彼方に聞こえない声で、呟いた。
ふと、ワッという叫び声があがった。
彼方と綺亜の少し前を歩いていた少年二人組の片方の少年と、男性がぶつかり、少年が、バランスを崩して倒れこんでいた。
男性は、二十代後半だろうか。
茶色のライダースジャケットでシルバーアクセサリーをじゃらじゃらとさせている、派手な服装である。
「おい、どこ見て歩いてるんだ」
と、男性が、言った。
「お前のせいで、骨にひびが入ったかもしれねーだろ」
男性に、すごまれて、少年たちは、委縮して何も喋れないようだった。
(言いがかりだな)
と、彼方は、思った。
少年達は、男性にぶつらからないように横にどこうとしたところに、男性がわざと当たっていったように、彼方には、見えた。
周囲の人間も、騒動に気付いたのか、辺りに、ささやき声が、生まれて、緊迫した空気が、漂いはじめていた。
男は、肩を痛めたと言って、少年達に、治療費を出せ、と凄みをきかせていた。
「すみません」
少年は、頭を下げ続けていたが、男は、まだ怒鳴り散らしていた。
「ちょっと」
綺亜が、少年を庇うように、茶色のライダースジャケットの男の前に、立っていた。
「ああ?」
「きちんと、謝ってるんだから、もう良いでしょ」
男は、割って入ってきた、ブロンドの髪の少女に、苛立ちを隠すこともなく、
「部外者が口を出すんじゃねえよ」
と、言った。
「俺は、こっちの兄ちゃんたちと話してるんだ」
「そもそもぶつかってきたのは、そっちなんだから、謝る必要なんてないじゃない」
と、綺亜は、切り返した。
「てめぇっ!」
男性は、苛立たしげに言うと、拳を振り上げていた。
だが、唐突に、アスファルトの地面に、倒れた。
「……あ?」
「女の子に手をあげるなんて、なってないわよ」
男性は、綺亜の足に、ひっかけられたようだった。
立ち上げって、呻いた男性は、更に怒気を強めて、
「このアマっ!」
と、叫んで、綺亜に殴りかかった。
「もうやめておきなさい」
男の拳を軽くいなした綺亜は、男の足元をすくった。
再度、返り討ちに遭った男は、捨て台詞を残して、去った。
辺りの不安げな喧騒も、収まって、元通りの街の賑わいが、戻ってきた。
少年たちは、何度も、綺亜にお礼を言って、角を曲がっていった。
「……す、凄いな、倉嶋さん」
素直に感動した彼方は、そう口にしていた。
「べつに」
と、すんらりと言った綺亜は、
「大したことないわ」
と、続けた。
彼方と綺亜は、頭に、冷たさを感じた。
雨が、降り始めた。
「護衛に必要な体術、初歩的な技よ」
と、綺亜は、言った。
ぽつぽつという雨の音は、あっという間に、激しいものに、変わってしまった。
スコールまではいかないものの、なかなかの激しさだ。
「降ってきちゃったね」
「ええ。通り雨だと良いんだけど」
「ちょっと、そこの建物のところで、待っていて。コンビニで、傘を買ってくるから」
「えっ、今行ったら、濡れちゃうわよ」
「走れば、大丈夫だよ」
彼方は、そのまま走って行ってしまった。
ぽつんと一人残された綺亜は、しばらくの間、立ちすくんでいた。
「人の心配ばっかり……」
空を見上げながら、
「自分が、濡れちゃうのなんか、全然平気で……」
と、綺亜は、言った。
雨の勢いは、増していた。
「あいかわらずのバカなんだから……」
遠い目で、誰にでもなくそうつぶやいた綺亜は、控えめに、柔らかく、はにかんでいた。




