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第3話 雷光のお嬢様 4

 昼下がりの桶野川駅前である。


 昼下がりという時間帯もあるのだろう、人の流れも少なかった。


 学生やサラリーマンの姿は、ほとんどない。


 桶野川駅の駅前ロータリーは、二層構造になっている。


 下の層は、タクシー乗り場とバスの停留所がある。


 上の層が、デパートなどの商業施設やオフィス街に、繋がっている。


 バスの停留所を越えて真っすぐに進んでいくと、商店街である。


 商店街も、行き交う人の影は、(まば)らである。


 これも、昼下がりという時間帯というのもあるのだろう。


 学生やサラリーマンの姿は、ほとんどない。


 疎らということに触れて言えば、商店街の一角にあるカフェも、例外ではなかった。


 客は、少なめである。


 客の一人に、ネイビーのトレンチコートを羽織り帽子を目深に被った男がいた。


 男は、カフェのテラスで食事を楽しんでいた。


 通りを歩く買い物客を眺めていた男は、


長閑(のどか)で、いいですねぇ」


 と、言った。


 何の気もない、そういう調子である。


 ウェイトレスの少女が、パニーニの乗ったプレートを運んできた。


 パニーニは、パニーノの複数形だ。


 パニーノは、パンで具材を挟んだイタリア料理の軽食である。


 パンを意味する単語パーネに縮小辞イノを付けた語である。


 正しくは、具を詰めたパニーノ、という意味のパニーノ・インボッティートという。


 パニーノは単数形で、複数形はパニーニという。


 ただ、日本および英語圏では、単数でもパニーニと表記することが広く定着している。


 イタリア語では、ハンバーガーやホットドッグをも含む、パンで具材を挟んだ軽食、つまり広義のサンドイッチの意味である。


 ただし、パンを薄く切り間に具材を挟んだものは、トラメッジーノと区別する。


 狭い意味では、サンドイッチやハンバーガーを除いて、チャバッタやロゼッタなど、伝統的なイタリアのパンに具材を挟むものをさす。


 ショーケースに陳列されているほか、各種食材店でもその場で作ってくれる店がある。


 具材は、様々である。


 トマト、モッツァレッラなどのチーズ。


 ハム、ローストビーフやポルケッタなどの肉製品の薄切り。


 レタスなどの野菜。


 これらを組み合わせる。


 マヨネーズ、ケチャップ、マスタードは、基本的に用いない。


 ホットサンドメーカーを使って表面をグリルしたパニーノは、イタリアでは、俗にトーストと呼ばれる。


 食パンの一種パーネ・イン・カッセッタの薄切りが用いられる。


 プロシュットとプロセスチーズをはさむことが多い。


 日本では、イタリアで食べられているような印象の具材をそれらしく味付けをしてパンに挟んだサンドイッチが、パニーノ、もしくはパニーニと呼ばれる。


 白っぽい薄目のパンを用いて注文後に焼き、パンにこげ目を付けた物を指すことが多い。


 ことりと音がする。


 男のテーブルにプレートを丁寧に置いた少女は、微笑んで、


「以上で、ご注文、お揃いでしょうか?」


 と、聞いた。


 少女だ。


 年齢からして、社員ではないだろう。


 おそらくは、アルバイトである。


 流暢(りゅうちょうな調子である。


 一口に言えば、慣れていた。


 マニュアル通りの台詞を澱みなく言い切った調子である。


 何十回もしくは何百回、同じ台詞を繰り返しているであろう、そういう気配は感じ取れた。


 その是非はともかく、少女は、確かにそのアルバイトとしての職務を全うしていた。


 男のほうも、にこりとして、


「ええ、ありがとうございます」


 と、言った。


 伝票を置いていこうとする少女に、男は、微笑みかけて、


「ああ、コーヒーをもう一杯、いただけますか?」


 と、言った。


 ウェイトレスの少女は、にっこりと笑って、


「かしこまりました」


 と、答えた。


 ネイビーのトレンチコートの男は、


「ここのコーヒーは、美味しいですからね」


 と、言って、


「つい、お代わりを頼んでしまうんですよ」


 と、続けた。


「ありがとうございます」


「この注文で、あなたに特別ボーナスでもつけば、嬉しいんですがね」


「まさか」


「まあ、つかないでしょうね」


 少女は、屈託なく笑っていた。


「お客さん、面白いですね……あ、ごめんなさい」


「いえいえ。そう言っていただけると、私も、あなたと会話しているかいがあるというものですよ」


 パニーニを食べようとすると、男の携帯電話が、震えた。


「失礼」


 丁寧に言ったトレンチコートの男に、丁寧にお辞儀をした少女は、ホールに戻っていった。


 トレンチコートの男は、すっと電話をとって、


「こんにちは」


 と、言った。


「ふん。体裁通りの挨拶は、良い」


 と、電話越しの声が、響いた。


 切り口上である。


 そんなものは気にも留めない調子で、


「なかなかのものです」


 と、トレンチコートの男は、満足げに、頷いた。


「何のことだ?」


 と、電話越しに男の声は、苛立っていた。


「今、食べているパニーニの味のことですよ」


「なに?」


「パニーニの話ですよ」


「それがどうした?」


「モッツァレラチーズとトマトが、良いアクセントになっている」


「……」


「いつ来ても、ここのカフェのパニーニとコーヒーのセットは、美味しいです」


 トレンチコートの男は、ネイビーのネクタイのディンプルを、整え直した。


「お前の道楽に、付き合うつもりはない」


「そうですか?」


「そんな周りの耳がある場所で、我々と話をするのも、いただけないな」


 トレンチコートの男は、


「そちらから、電話をかけてきたのでしょう?」


 と、苦笑しながら、応じた。


「お前が、契約の定期連絡を怠ったので、こちらから連絡をしたまでだ」


「ああ、そうでしたね。申し訳ありません」


「まあいい」


 トレンチコートの男は、ネイビーのポケットチーフの位置を、直した。


 電話越しの声とトレンチコートの男とでは、随分と温度差があった。


 トレンチコートの男は、


「その様子ですと、何か良くないことでも、ありましたか?」


 と、聞いた。


 世話話でもするかのような気安さである。


「春野という研究員が、行方をくらました」


 一方、電話越しの声は、深刻な調子である。


 トレンチコートの男は、


「春野……ああ、(くだん)の人工"爛"の精製実験の検体の父親、でしたか」


 と、あまり興味がなさそうにそう応じた。


「そうだ。春野美香(はるのみか)の父親だよ」


 と、相手は、忌々しそうに言って、


「二日前から研究施設に顔を出さなくなった」


 と、続けた。


「ほう」


「自宅のほうも、もぬけのからだ」


「それは、あまり良い状況とは、言えませんねえ」


 そこでだ、と、電話越しの男が、言った。


「奴を消してほしい」


「消してほしい、ですか?」


 と、トレンチコートの男が、聞いた。


「文字通りに受け取ってもらって構わない」


「なるほど」


「余計な情報を漏らされると、厄介だからな」


 と、電話越しの声は、言って、


「報酬は、はずもう」


「それは、組織としての依頼ですか? それとも、貴方個人からの依頼ですか?」


「……」


「あなたの失点でしょう。露払いは、ごめんです」


「それは……」


 電話は、トレンチコートの男によって、切られた。


「馬鹿な男だ」


 トレンチコートの男は、冷たく、吐き捨てるように、言った。


 トレンチコートの男の前には、ウェイトレスの少女が、注文を受けたコーヒーの乗ったプレートを持ったまま、直立していた。


「すみませんねえ。せっかく、コーヒーを持ってきて下さったのに」


 と、男は、笑った。


「……」


 少女は、無言だった。


 先程のパニーニを運んできた時のような快活さが消えていた。


 意思がそこにはないように、立っている。


 夢遊病のような感じだ。


 自覚のないまま半ば無意識の状態で立っている。


 そんな感じだった。


「話を聞かれるわけには、いかなかったのでね」


 少女の影。


 それが、電波を受信できない時のアナログテレビの画面の砂嵐のように、濁っていた。


 少女の持つコーヒーが載っている銀色のトレイ。


 それが、小刻みにかたかたと揺れていた。


「……あ……ぁ」


 と、少女の口から、言葉にならない声が、もれた。


 少女の目は、(うつ)ろだ。


 生気がなかった。


 トレンチコートの男が、


「ひざまずけ」


 と、少女に命じた。


 ウェイトレスの少女は、


「……」


 と、ゆっくりとひざまずいた。


 トレンチコートの男は、少女の持つ銀色のトレイからコーヒーカップを取った。


 そのまま、コーヒーカップを傾ける。


 そうして、カップの中のコーヒーを、少女の頭の上から、ゆっくりと落とした。


「……あ……つ……」


 と、少女は、ため息をつくように、苦悶の声を、あげた。


 コーヒーが、髪や顔を汚していった。


「あつ……ぃ……」


 少女は、瞳から涙を流したまま、ひざまずいたままである。


「あ……ぁ」


 トレンチコートの男は、


「高見の見物も、これまでかも、しれませんねえ」


 と、笑った。


「これだけ水面下で動けば、この地の"守護者(しゅごしゃ)"も、黙ってはいないだろう」


 ネイビーの帽子をかぶり直した男の口元には、乾いた笑みが、浮かんでいた。


「さあ、どう出る?」


 商店街も、行き交う人の影は、(まば)らである。


 これも、昼下がりという時間帯というのもあるのだろう。


 学生やサラリーマンの姿は、ほとんどない。


 疎らということに触れて言えば、商店街の一角にあるカフェも、例外ではなかった。


 客は、少なめである。


「さて、八年ぶりの再会だ。"守護者"の力、見せてもらうとしよう」


 少女は、無表情のまま、涙を流していた。


 男は、長財布から、折り目の無い一万円札を抜いた。


 それを、少女の制服のポケットに静かに入れた。


「お代は、ここに、入れておきます。服を、汚してしまったお詫びといってはなんですが、少し多めで」


「は……い……」


 ウェイトレスの少女の声は、掠れていた。


「大丈夫ですよ」


 と、男は、言った。


「その影、数分もすれば、元に戻りますから」


 男が立ち去った後、間もなくして、少女が突如倒れ込んだ。


 その異変に、周囲の人間が気付いて、騒がしくなった。

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