第3話 雷光のお嬢様 1
白いリムジンが、夕方の桶野川市の道を走っていた。
リムジンは、プルマンボディである。
リムジンの運転手が、
「どうですか?」
と、聞いた。
運転手は、黒の執事服をかっちりと着込んだ紳士然とした男性である。
執事服の老紳士といった面持ちだ。
「何が?」
と、後部座席の少女が、聞いた。
腰までかかる柔らかなブロンドの髪。
エメラルドグリーンの瞳。
それらがハーフを思わせる、美しい少女である。
美少女である。
車窓に、街の風景が流れていった。
市街地の風景が、リムジンの動きに合わせて、ゆるやかに移っていいく。
「いえ」
ミラー越しにちらと少女に目をやったリムジンの運転手は、
「お嬢様も、お出かけになられるのは、久しぶりでしょうから」
と、言った。
「そうね」
と、少女は、短く答えた。
運転手の言うように、少女は、事情により、長い間、屋敷から出ることが禁じられていた。
少女は、いわゆる深窓の生活を余儀なくされていた。
外出するのは、久しぶりだった。
リムジンの運転手は、
「先程からあまりお話しになられないものですから、少々気になりまして」
と、言った。
少女は、
「別に気分が悪いわけでも、機嫌を損なっているわけでもないわ。大丈夫よ」
と、瞑目して、言った。
「……外の空気、街の空気って、言うのかしら」
車窓に流れる街の風景に目をやりながら、少女は、
「そういうのには、何となくだけど、慣れてきた感じはするわ」
と、続けた。
「その辺りは、おいおいでよろしいかと、思われます」
白いリムジンは、街の大通りを走っていく。
「朝のお食事を、取られていなかったようですが……料理長の長岡も、嘆いておりました」
少女は、わずかに語気を強めて、
「私の勝手でしょう」
と、言った。
「そういう訳には、まいりません」
リムジンの運転手は、語気を強めるわけでもなく弱めるわけでもなく、
「この時田、旦那様より、綺亜様のお世話を一任されておりますので」
と、言った。
「時田!」
と、少女は、声を荒げた。
「お父様のことは、どうでも良いでしょう!」
「……申し訳ございません」
ハンドルを握る時田と呼ばれた執事服の老紳士は、ミラー越しに、少女に恭しく頭を下げた。
「それで」
綺亜と呼ばれた少女は、先を促した。
「さっきの話」
詰問するような少女の声音は、少し震えていた。
「入学手続きが、完了したって……どういうことなの?」
と、綺亜が、聞いた。
時田は、ハンドルを右に切りながら、
「明日から、綺亜様が、この桶野川市の学園に通われるということです」
と、応じた。
「……何よ、今更」
と、綺亜が、呟くように、言った。
「今、だからこそでございます」
「これっぽっちも、嬉しくなんかないわ」
大きな車窓に広がる、街の空に目をやった綺亜は、嘆息を隠そうともしなかった。
頬杖をつきながら街の風景に目をやりながら、
「いいえ……」
と、つぶやいて、
「むしろ、不快ですらある」
少し投げやりな調子すらあった。
「旦那様からのお言伝を、そのまま、お伝えいたします」
「……お父様からの?」
声音が変わる。
綺亜のエメラルドグリーンの瞳が、一瞬だけ、揺れた。
驚き。
動揺。
不安。
期待。
そういったものがごちゃまぜになったような揺らぎだった。
「それで……」
その言葉は、揺れている感じだった。
「お父様は、何て……?」
答えは、わかりきっている。
わかりきっているのに、それでも、諦めきれない。
諦めきれずに、淡い期待をかけて聞いている。
そんな感じだった。
「『責務を果たせ』」
時田の言葉に、綺亜の顔が強張った。
「……」
「以上でございます」
「……」
綺亜は、目を細めて、
「……時田。それだけ?」
と、聞いた。
「さようでございます」
「……そう」
軽く目を伏せた綺亜は、感情を押し殺した声で、
「今度は、葉坂学園というところだったかしら?」
と、聞いた。
「はい」
時田は、首肯して、
「これから、お忙しくなるでしょう」
と、続けた。
「前のところはほとんど通学できなかったけれど、今回のところは、どうなのかしら?」
と、綺亜が、聞いた。
聞いてはいる。
しかし、その答えを求めているようでもない。
換言すれば、ただ聞いている、そういう感じだった。
時田は、そんな綺亜の態度には、言及もしなかった。
ただ、
「お嬢様の体調のほうも安定しておりますから、経過を毎日通学していただく形を予定しております」
と、粛々(しゅくしゅく)とした調子で言った。
これに対して、
「そう」
と、綺亜は、あまり興味がなさそうに、言った。
「今日の空ですと、星が、良く見えそうですね」
と、時田は、話題を変えるように、言った。
空は、良く晴れていた。
快晴である。
「時田」
「はい」
「冬の夜空に一番早く上ってくるのって、ぎょしゃ座だったかしら?」
と、綺亜が、言った。
「そのように、記憶しております」
と、時田は、言った。
「どうかされましたか? そのような話をされて」
綺亜は、
「別に」
と、つまらなそうに嘆息した。
「意味はないわ」
実際、綺亜の顔は、退屈を通り越して、憂鬱そうですらあった。
「目的の場所までまだかかりそうだし、今は車に乗っていて空を見たから、なんとなく思いついただけでしょう」
と、答えた。
「しいて言うのなら、暇つぶしね」
「さようでございますか」
時田は、ハンドルを切りながら、
「では、その暇つぶしまでに、その星座について、教えてくれますか?」
と、聞いた。
「面倒だわ」
と、答えた綺亜は、視線を、車外の街並みに移した。
時田は、ミラー越しに、綺亜を見て、
「ご自分から切り出された話題は、しっかりと手綱を握っていただくのが、肝要かと考えます」
と、言った。
その言いかたは、丁寧であり敬いが込められていた。
それと同時に、諭すようでもあった。
「自分から振った話題には責任を持て、ということでしょう?」
綺亜は、唇を尖らせて、
「まだるっこしい」
「そのように端的に仰られては、華もございません」
時田は、柔らかく言って、
「『淑女たるもの、つねに花のように、優雅であれ』 旦那様のお言葉です」
綺亜は、
「お父様は関係ないわ」
と、不快そうに、言った。
「ぎょしゃ座は、五角形の星座。一等星のカペラがあるから、見つけやすいわ」
「ぎょしゃ座のモデルは、エリクトニウス、でしたか?」
と、時田は、先を促した。
「ギリシャ神話のアテネ王のやつね」
「そうでしたね」
「馬車の名手であるヒッポリュトスを指しているという見方も、あるけどね」
「ぎょしゃ座のモデルには、いくつかの説が、あるのですね」
「そうよ」
と、綺亜は、応じた。
「アテネ三代目の王、エリクトニウスは、聡明な王で、善政を行って、民衆から広く慕われていました」
「……」
諳んじる綺亜の言葉を、時田は、黙って聞いていた。
「しかし、エリクトニウスは、生まれつき足が不自由でした。それでも、王は、馬に体を縛り付けて、戦いました。武勇にも、優れた王でした」
「……」
「王は、車椅子のようなものを作り上げました。普段の生活においても、戦場においても、自由自在にそれを駆り、民衆と兵士達を、驚かせました」
「……」
「……以上よ」
と、綺亜は、言葉を切った。
「ありがとうございます。大変勉強になりました」
「ふん。知ってるくせに」
綺亜は、軽く息をついた。
「私を試すような真似をするのは、時田の悪い癖よ」
「失礼しました」
ミラー越しにちらと綺亜に目をやった時田は、
「お嬢様が星座にお詳しくなられたのは、いつの頃からでしたか」
「……忘れたわよ、そんなこと」
夕闇の市街を、リムジンが、進んでいった。
ふと、
「時田」
と、綺亜が、言った。
「車を停めて」
白いリムジンが、減速した。
「ご用命のショップまでは、まだありますが」
綺亜は、時田の言を遮るように、
「良いから、停めなさいって、言ってるの」
と、ぴしゃりと言った。
「承知いたしました」
と、時田が、応じた。
リムジンが、路肩にぴたりと寄せられて、停まった。
綺亜は、右斜め前の歩道の歩行者の群れを、見ていた。
「そう……こんなことってあるのね」
その言葉は、自身に言い聞かせているようでもあった。
歩行者達は、道路を挟んで、リムジンの真横を通り過ぎていった。
「お嬢様?」
綺亜は、
「……まだ、この街に、いたんだ」
と、呟くように、言った。
数秒の沈黙の後、
「決めたわ、時田」
綺亜のブロンドの髪が、揺れた。
綺亜は、歩いている学生服の少年を指して、
「あの男子生徒にする」
と、言った。
綺亜の声音は、期待と緊張の色を帯びていた。
「あの少年、ですか?」
時田が、聞いた。
「なにか問題でも、あるのかしら?」
「いえ」
と、時田は、短く応じた。
「お嬢様が、お決めになったことです」
「なら決まりね」
と、綺亜が、言った。
「承知いたしました。では、早速、手配いたします」
と、時田が、言った。




