第2話 夕暮れの贈り物 5
休日の日曜日である。
それに、また晴天ということもあるのだろう、樋野川駅前は、人で溢れていた。
樋野川駅は、その名が冠されているように、樋野川市の主要な駅の一つだ。
樋野川市は人口十五万人、新興住宅街を擁する市街地とその回りを囲うように点在するのどかな田園風景とが混在する、中規模の都市である。
都心から近いこともあり、オフィス街と商業施設も、それなりに活気づいている。
桶野川駅の改札は、北口と南口の、二箇所である。
駅前ロータリーは、二層構造になっている。
下の層には、タクシー乗り場とバスの停留所がある。
また、上の層は、デパートなどの商業施設やオフィス街に繋がっている。
バス停の近くのベンチの横に、七色は、立っていた。
空を見上げれば、青空だ。
快晴である。
七色は、自身の腕時計を見た。
(約束の時間よりも、少し早く来てしまった)
と、七色は、思った。
なんだか落ち着かなかった。
あまり感情のブレはないほうだと、そう自認している。
実際に人からもそう言われることもある。
だから、今まさに自身が抱えている感情のブレが、どうにも落ち着かなかった。
七色は、
(……緊張しているのかな、私)
と、何となく気恥ずかしくなって俯いた。
(……何でだろう)
そう自問してみるものの、答えは出なさそうである。
しばらくして、
「ごめんね。待ったかな?」
と、声があった。
彼方である。
「いいえ。私も、今、来たところです」
と、七色が、言った。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
七色は、こくんと頷いた。
彼方と七色は、人の流れに沿うような形で、大通りを進んでいった。
「どこに行こうか、御月さん」
と、彼方は、七色の歩調に合わせながら、そう聞いた。
七色は、今日は、葉坂学園の制服ではなかった。
私服である。
白のワンピースという恰好だった。
七色は、少し不思議そうな顔をして、
「夕食の材料の買出しに、行くのですよね?」
と、言った。
「うん」
彼方は、日曜日で休日なので、折角だからと、少し早めの買い出しに、誘ってみたのだった。
「それでしたら、スーパーかと」
「そうだね」
彼方は、的確な七色の指摘に苦笑しながら、
「でも、まだ午後の二時だ」
と、返した。
「はい」
と、七色は、短く答えた。
「時間に余裕もあるんだし、たまには、少しぶらぶらしてみるのもいいんじゃないかな」
「そうですね。私も、そう思います」
うん、と頷いた彼方は、
「三時とか、何か美味しいものでもどうかな」
七色は、
「ありがとうございま……」
と、言いかけて、足が止まった。
ファンシーショップの前だった。
ショーウインドウの中の、紫色と白色の格子の可愛らしいシートの上に丁寧に並べられた、いくつものぬいぐるみは、男性の彼方から見ても、女の子らしい可愛らしいものが揃っていた。
七色の目に留まったのは、小さなクリーム色の猫のぬいぐるみだったようである。
七色は、じっと見つめていた。
(うーむ)
「……」
なかなか凝視している。
(……)
「……」
まだ凝視している。
「……」
「御月さん。入ってみる?」
と、彼方が、言った。
「……良いのですか?」
「僕も、少し見てみたいしね」
店内に入ると、女の子然とした可愛らしい店内には、ところ狭しと、いろいろと並んでいた。
アクセサリー。
キャラクター商品。
帽子。
バッグ。
文房具。
いろいろである。
ぬいぐるみも数多くあって、大きさや種類の多彩さに、彼方は、圧倒されそうになった。
「色々あるね」
と、彼方は、言った。
「いらっしゃいませ」
声が、かかった。
彼方が振り向くと、少女が、立っていた。
ネームプレートを首から下げている。
店員なのだろう。
ふわりと微笑んだ少女である。
歳も、彼方達とあまり変わらなそうだ。
だが、漆黒を思わせる黒髪と少し憂いを湛えたような瞳が、落ち着いた感じと大人びた印象を、少女に与えていた。
少女は、
「何か、お探しですか?」
と、透き通るような声で、聞いた。
間もなく、
「……って、杏朱じゃないか!」
彼方は、思わず声をあげていた。
「あら、今頃、気付いたのかしら」
にっこりと微笑んだ少女は、彼方と同級生で同じ天文部員の、好峰杏朱だった。
幽霊部員までいかないものの、あまり積極的に部活動に勤しんでいるというわけでもない。
気の向いたときに部室に顔を出す。
そんな感じだ。
杏朱は、天文部の一員ではあるが、部室の中では、本を読んでいることが多かった。
杏朱は、図書委員会の方がお似合いではないかというほどに、天文部らしい活動はしない。
しないのだが、それでいていざとなると、披露する天体の知識の量は、他の部員を圧倒していた。
彼方が、
「こんなところで、何をやっているの?」
と、思わず、そう聞いていた。
杏朱は、笑って、
「見ての通り、バイトね」
と、言った。
身も蓋もない返しである。
彼方は、肩をすくめて、
「それは見ればわかるけれども、バイトしているなんて聞いたこともなかったから、驚いたよ」
「聞かれなかったから、話さなかっただけよ」
これまた身も蓋もない返しである。
そして、
「……」
と、彼方と杏朱がそんな会話をしている横で、七色は、一点を見つめていた。
無心でじっと見つめている感じである。
七色の視線の先には、猫のぬいぐるみである。
ショーウインドウに並んでいた猫のぬいぐるみの色違いのものが、置かれていた。
「ふふ」
杏朱は、七色に向かって、
「それに目を付けるとは、お目が高いのね」
思わず、
「そんなにすごいものなの?」
と、そう聞いた彼方には、ごく普通の猫のぬいぐるみにしか見えなかった。
「あら。知らないの?」
少し驚いたように、瞳を瞬かせた杏朱は、言った。
「有名なんだ?」
と、彼方は、聞いてみた。
やはり、ごく普通の猫のぬいぐるみにしか見えなかったのだ。
杏朱は、おおげさに肩をすくめてみせた。
やれやれとかオーノーとかそういう空気感を遠慮せずに全開で展開していた。
「有名もなにも、かの著名なイタリアのデザイナーの重鎮、グレゴリア・ルースと、日本の新進気鋭のイラストレーター、加納貞光との、コラボレーション作品なのよ?」
彼方は、加納貞光というデザイナーの名前は聞いたことがあったので、
「えっ」
と、素直に驚いていた。
「そんなに、凄いの?」
間髪入れず、
「冗談よ」
と、くすりと、杏主は、微笑んだ。
「……あのな」
彼方と杏朱がそんな会話をしている横で、七色は、
「……なご猫って言うんです」
と、言った。
「なごねこ?」
どこかで見聞きしたことのあるフレーズだった。
それでも、曖昧なイメージは拭えずに、彼方は、おうむ返しに七色に聞いた。
「はい」
七色は、こくりと首肯した。
「和んでいる猫、省略して、なご猫、です」
七色は、生真面目な顔をして、彼方に、言った。
「和んでいるねえ……」
言われていて、彼方は、件の猫のぬいぐるみをよく見ていた。
(うーむ)
言われてみれば、確かに、そんな感じのする造形ではあった。
「ほわほわしている感じがするじゃないですか」
「言われみれば……」
「言われてみなくてもわかってほしいです」
七色にしては、やや強い口調である。
杏朱は、
「まあ。女の子には、人気の高いシリーズかしらね」
と、微笑んだ。
「朝川さん。いいですか」
七色にしては、随分とずいっとくる感じである。
「うん?」
「こっちが、プルシャ君、そちらが、ミレイちゃん」
と、七色が、猫のぬいぐるみを指さしながら、彼方に、説明した。
「あちらが、リリー君で……」
どうやら、それぞれキャラクターが違うようである。
言われてみれば、どれも微妙に違う。
しかし、微妙にというのが、問題だった。
彼方にとっては、微妙に違っているようにしか見えないのだが、七色にしてみれば、微妙でもなくそれなりに違っているのだろう。
その認識の差が、問題だった。
しかし、その差は、付焼刃的に埋められるものでもないだろう。
彼方は、
「随分と、種類があるんだね」
と、言って、
「道理で、色違いのものが多いわけだ」
間髪入れず、
「色違いではなくて、別のキャラです」
と、七色は、はっきりとした口調で言う。
「良く見て下さい」
「うん」
「顔が、全然違います」
「えっと……そう、かも」
「かもではありません。全然です」
「あっ……そうかな」
普段の七色からは想像つかない熱弁ぶりに、彼方は、驚いた。
「中でも、一番可愛いのは、このアオ君です」
と、七色が、手に取ったのは、ショーウインドウに並んでいたものと同じ、クリーム色の猫のぬいぐるみだった。
「最近のトレンドくらいはおさえておかないとね、朝川君」
細い指を、小さな顎にそえる仕草で、杏朱は、言った。
「トレンド、か。覚えておくよ」
「今なら、お安くしておくけれど?」
杏朱は、上目遣いで、言った。
「杏朱に、値下げ交渉の決定権なんてあるの?」
と、彼方が、聞いた。
杏朱は、自信たっぷりといった調子で、
「ふふ。販売実績から、店長に、一任されているわ」
「それは、凄いな」
「冗談よ」
「……あのね」
「でも、今なら、セールで、少しお買い得なのは、本当よ?」
「じゃあ、それを、頼むよ」
「朝川さん……?」
「今日は、僕の買い物に付き合ってくれてるんだから、お礼くらいさせてよ」
と、彼方は、微笑んだ。
「良かったわね、御月さん」
と、微笑んだ杏朱は、七色の手に抱えられていたぬいぐるみを、そっと手に取った。
「はい。どうもありがとう」
杏朱は、素早く、丁寧に、ラッピングを施して、七色に手渡した。
すさまじく手際がいい。
早いのに、まったく雑さもなく、それでいてなんだか上品さもあった。
「……ありがとう、ございます」
と、七色は、言って、俯いていた。
「『えっと、御月さん?』と、彼方は、聞いた」
「『これって、何だか……デート……みたいです』と、七色が、言った」
「彼方は、デートという単語を、頭で考えると、妙に、気恥ずかしくなり、自然と誤魔化す方向に傾いてしまった……」
なんだか、妙な台詞が、唐突にとうとうと流れていた。
彼方は、
「……って、杏朱!変な独白をするんじゃない!」
と、言った。
「あら。私の、即興の私小説は、お気に召さなかったかしら?」
と、杏朱は、続けて、
「御月さん。それで、デートは、何回目なのかしら?」
と、言った。
「……今日が、はじめて、です」
と、七色は、少しためらうように、言った。
「デートじゃないし、何回目でもないよ。というか、御月さん、否定して下さい」
「デート、ではないのですか?」
と、七色は、言った。
「……それはですね」
逆に、七色に、問われる形になって、彼方は、言い淀んだ。
「違うのですか?」
七色が、淡々とした調子で、聞いた。
「いやね」
と、杏朱は、嘆息した。
「女の子の機微を感じ取れないなんて、ましてや、女の子に恥をかかせるような言葉なんて、男子として、及第点どころか失格ね」
「こらこら、杏朱。バイト中なんだろう、そろそろ仕事に戻らないと」
と、彼方が、たしなめた。
「ああそうだ」
と、杏朱は、七色に向かって、
「三回」
と、言った。
小首を傾げた七色は、
「三回、ですか?」
正直な聞き方だった。
杏朱が言わんとしていることが、わからない様子だった。
杏朱は、にこりとして、
「ええ。三回」
と、三本、指を立ててみせた。
「三回デートして何もなかったら、その先は望めないから、見切りをつけたほうが良いって、ある偉い映画監督が言っていたわ」
「そうなのですか?」
「ええ」
と、杏朱は、にっこりしたまま、
「だから、御月さんも、今回を含めて、三回の幕が閉じる前に、良く、彼方を見定めてね」
「だから、何で三回が前提みたいに……」
杏朱をたしなめようとする彼方の言よりも早く、
「何もなかったらというのは、何もとは、具体的には何を指すのでしょうか?」
と、七色が、聞いた。
「御月さん?」
と、彼方は、七色の真剣な表情に、とまどって言った。
「そうね」
杏朱は、おおげさに真剣な顔をして、ぴっと指を立てながら、
「具体的には、〇スとか〇〇〇〇とかかしら」
七色は、杏朱につられるように、真剣な表情で、
「……キ〇や〇〇〇〇ですか」
「そう」
杏朱は、大げさに首肯した。
「手を繋ぐとか、頭をぽんぽんされるとか、壁ドンとか、そういう軽めのものは、ノーカウントだから、気をつけてね」
「……参考になりました。ありがとうございます」
七色は、顔を真っ赤にして、俯いていた。
「御月さんも、赤面するぐらいだったら、ピー音を入れなきゃいけない言葉は、どうか控えて下さい……!」
「彼方。そういうのが、機微を読み取れないというのよ」
「杏朱は、黙っていて! ツッコみが追い付かない」
と、彼方は、息を、切らしていた。
彼方を見て、杏朱は、一瞬、真顔になった。
「なんだ」
と、杏朱は、続けて、
「二人の仲は、まだまだこれから、という感じね」
と、言った。
それなら、と、杏朱は、七色を見てから、彼方に顔が触れ合うぐらい近付いて、
「私にも、まだまだチャンスは、ありそうね」
と、こそりと笑った。
「杏朱……?」
「冗談よ」
杏朱が、優しい声で言った。




