第1話 はじまりの夜空 10
「世界の理の外の存在……"爛"」
宣告するような七色の声だった。
それは、澱みなかった。
そして、澄んでいた。
("爛"……)
彼方は、七色の言葉を心の中でつぶやいていた。
たいして時間もかからずに、知らない、という結論に至る。
聞いたこともない言葉である。
七色は、
「そを討ち滅ぼす者」
と、高瀬に向かって、言葉を続けた。
公園は、スポーツ公園といった趣きである。
広めの敷地だ。
樋野川市近隣からの来園者も、多い。
サッカー用と野球用のグラウンドが一面ずつと、テニスコートが三面、森林浴向きの遊歩道がある。
日中の利用者は多い。
だが、夜で人気はなく、公園全体が昼間よりも一段と広く感じられる。
夜のしじまの中、からからと葉が風に揺れる音がはっきりと聞こえていた。
「この世界が、かく在るための理を祈る……それが、巫女の務めです」
と、七色が、言った。
七色の言葉は、静かだった。
噴水を背に、七色と高瀬は、向かい合った。
しばらくの沈黙があった。
噴水の規則的な水の音だけが静かに繰り返し聞こえてくるのみである。
(……)
彼方は、黙っているしかなかった。
七色と彼女と対峙している高瀬を見ていることしかできなかった。
この非日常な光景に、思考が追い付いていっていなかったのだ。
やがて、
「はははははははははははははははっ!」
高瀬が、大きく笑った。
「こいつはいい!」
その声は、震えていた。
その震えには、歓喜の色が混じっていた。
「こいつはいいぞぉっ!」
小さな子供が宝探しの宝物を見つけたかのようなはしゃぎかただった。
「ははははははっ!」
高瀬の哄笑が、夜のしじまに響いていた。
「君が、"月詠みの巫女"かぁっ!」
高瀬は、右手を額に当てた。
「"月詠みの巫女"が守る世界の理……ねえ」
と、高瀬が、言った。
右手に隠れていない高瀬の左目が、七色を睨みつけた。
「そして、この僕、"爛"は、その理を脅かすものというわけか」
七色は、高瀬を見据えたまま、
「……」
「なんともわかりやすい構図じゃないか」
と、高瀬は、続けて、
「君を喰らえば、僕の力は、もっと強くなるんだろう?」
それから、大げさに大きく肩をすくめた高瀬は、とことこと数歩歩いてみせた。
「知識として知ってるわけじゃない」
高瀬は、横目に七色の姿をとらえながら、
「本能的にわかるんだ」
と、髪をかきあげた。
「ああ、いい夜だ! この素晴らしい出会いに感謝しよう」
高瀬は、両手を広げた。
「さあ、"月詠みの巫女"よ」
高瀬の身体が大きく沈んだ。
「どうか、僕に惨たらしく殺されて、僕の糧になってくれ!」
くっと腰を落としたのである。
臨戦態勢とでも言うのだろうか。
そのような高瀬を前に、
「……あなたを討つ……」
とだけ、七色は、言った。
彼方は、自身が蚊帳の外なのはわかっていた。
自身の置かれている現状を理解しようとするのが、精一杯だった。
「できるのかねぇ!」
嘲るような高瀬の声だった。
「そんなか細い手に、ご大層な剣!」
高瀬に向かって、七色は、片手剣を構えた。
「……」
「こけおどしじゃないことを祈ってるよ」
高瀬は、姿勢を低くしたまま一歩進んだ。
「朝川さん」
と、七色が、言った。
「退がって下さい」
七色の双振りの剣は、西洋風の両刃のものだった。
彼方が刀剣を実物で見たのは、小さいころに訪れたH城の資料館のガラスケースに展示されていた日本刀がはじめてだった。
それは、そうだろう。
趣味とか仕事とか境遇とか、そういったもので特殊な事情がない限り、そうそう刀剣の実物を見る機会などない。
これが、二回目だ。
しかも、だ。
これは、ガラスケースの中を眺めているのではない。
目の前で、剣が、一人の少女の手に握られているのである。
「……わかった」
彼方は、軽く頷くのが精一杯だった。
七色の剣が振られた。
七色が素早く両腕を交差して、囁きのような声とともに、
「"ディヴァイン・エッジ"」
その次の瞬間。
前方で交差される双つの剣は、薄い紅色の飛刃を、放っていた。
それが、すさまじい速さで高瀬に向かっていった。
向かっていった、という表現が、的を射ているかもわからない。
それというのも、向かっていったその次の瞬間には、高瀬の目の前に到達していたのだ。
すさまじい速さである。
これに、
「ちぃっ!」
高瀬が、毒づいた。
「さっきの……光束飛刃の類か!」
ブーメランの軌跡を描きながら、飛刃が、高瀬に向かった。
高瀬は、くっと大きく身を反らし、
「ひゅぁ……っ!」
と、やり過ごした。
「かわしてしまえば……っ!」
声をあげた高瀬を前に、七色は、もう迫っていた。
「……」
無言のまま、七色は、細い身体をしなやかに回転させていた。
そうして、間髪入れず、双剣による斬撃を繰り出した。
七色は、剣を軽々と振るっていた。
華奢な少女の体躯からは想像できないほどに、である。
高瀬は、くっと大きく身を反らし、
「ひゅう……っ!」
と、七色の斬撃をやり過ごした。
やり過ごしたと言っても、すんでのところである。
「随分と物騒なものを……振り回すじゃないか!」
高瀬は、七色の右手から放たれた剣の突きを、大きな動作で回避した。
「……」
饒舌な高瀬とは対照的に、どこまでの無言の七色だった。
「危なっかしい……な!」
と、高瀬は、言った。
「その可愛い顔には似合わない暴れっぷりじゃないか!」
斬撃をかわされた七色の身体と高瀬の身体とが、至近距離で交差した。
「……」
七色は、無言だった。
「それに、ひどく冷静だ」
七色の無機質気な横目が、高瀬を捉えていた。
「今度は、僕の番だっ!」
吼えた高瀬は、七色に向かっていった。
高瀬が、前のめりになって両腕を振るう。
びゅうっと、一陣の突風が巻き起こった。
目を開いた七色は、
「……っ!」
七色の制服の紺色のスカートが、ふわりと大きく揺れた。
七色が、垂直に跳躍したのである。
七色が跳び高瀬の拳で作り出された風を避けた後のコンクリートの地面が、ざっくりと割れた。
高瀬は、
「ひゃっほう……っ!」
と、叫んだ。
その叫びには、高揚超えて、狂気すらにじんでいた。
無数の小石の細かい破片が、巻き上がった。
「ひゅあぁ……っ!」
再び、高瀬が拳を振るう。
風が、巻き起こった。
風は、二振りの剣を交差させて防御の態勢をとっていた七色を、直撃した。
七色の華奢な身体が、風に押し出されるように、大きく後退した。
「へぇっ! 耐えるねぇ……っ!」
高瀬は、嬉々(きき)とした調子で、
「だが、貧弱……ぅっ!」
高瀬が拳を振るう。
風が、巻き起こった。
風は、二振りの剣を交差させて防御の態勢をとっていた七色を、さらに直撃した。
七色の華奢な身体が、風に押し出されるように、大きく後退する。
「僕は、この力に気付いた時、大いに歓喜したよ!」
と、高瀬が、興奮した調子で言った。
「……あなたが星にかけた願いは、嗜虐、というわけですか」
と、七色が、言った。
「ああ、そうだ」
短く首肯した高瀬は、
「僕は、星に願った」
と、続けた。
「僕は、現状から救われたかった……救われたかっただけなんだよ」
七色は、剣を構え直した。
「そして……」
高瀬の身体が大きく沈んだ。
「僕は、この力を持った!」
くっと腰を落としたのである。
「願いが、叶ったんだ!」
と、高瀬が、言って、
「世界が変わった、と言うべきかな」
高瀬が振るった手の動きに合わせて、風が巻き起こる。
「手始めに、僕をいじめた奴らには、痛い目をみてもらったよ」
風は、七色に向かっていった。
「それからだよ!」
七色は、身を反らし、
「……っ!」
と、高瀬の作り出した風を回避した。
「人をめちゃくちゃに刻むのが、こんなにも気持ちがいいものだと、わかったのは!」
高瀬の作り出す風は、言わば、すさまじい切れ味の風のカッターいや刃である。
「圧倒的蹂躙だ!」
七色が素早く両腕を交差する。
その次の瞬間、前方で交差される双つの剣は、薄い紅色の飛刃を、放っていた。
それが、すさまじい速さで高瀬に向かっていった。
向かっていった、という表現が、的を射ているかもわからない。
それというのも、向かっていったその次の瞬間には、高瀬の目の前に到達していたのだ。
すさまじい速さである。
「さっきの光束飛刃か!」
大きく目を見開いた高瀬は、
「同じ手はくわないよ!」
七色の放った飛刃を、高瀬は、左に、
「ひゅぁ……っ!」
と、大きく避けて、そのまま、七色の元に奔り込んだ。
「これで……っ!」
高瀬が、けたけた笑う。
「終わりぃ……っっ!」
笑い声の中、突風の一撃を放たれた。
「終わるのは、あなたです」
高瀬の風の刃を、剣でいなした七色は、
「切り裂く風……風の刃を起こす異能……」
七色は、高瀬との距離を保ちながら、奔った。
「ちょこまかとおっ!」
高瀬が起こした風が、次々に放たれる。
そして、噴水の水に、幾重もの線が入った。
「おまけだ!」
噴水が切り崩された。
水飛沫が、ざあっと七色と高瀬に降り注いだ。
水に濡れた七色の髪が、少し顔に張り付いていた。
「いいね。水も滴るいい女」
「……」
高瀬の揶揄に、七色は、応えなかった。
「素敵だろう?」
と、びしょびしょになった高瀬が、言った。
「さしずめ、かまいたち、といったところかな!」
場違いのように明るい高瀬の声に、彼方は、
(……)
と、薄ら寒さを覚えた。
「"月詠みの巫女"」
高瀬の身体が大きく沈んだ。
「お前の力を、見せてくれ」
くっと腰を落とした。
「見せてみろよ!」
臨戦態勢である。
「お前の力は、こんなものじゃないんだろう?」
高瀬が言うやいなや、風がごうっと鳴った。
「お手並み拝見といこうじゃないか……!」
口を浅く結んだ七色が、風の刃を飛び越えるように空に舞った。
「へえっ! やるじゃないか」
宙の七色に向かって、高瀬が腕を振るう。
新たな暴風がつくられた。
七色は、剣を振るった反動で、三百六十度身をしならせた。
そうして、自身の落下速度を速めて、高瀬の攻撃をかわした。
「まだまだまだまだぁっ!」
高瀬は、咆哮した。
高瀬の風の刃を、七色は、急降下しつつ、かわしながら、
「"ディヴァイン・エッジ"……!」
と、素早く両腕を交差させた。
七色の双つの剣は、薄い紅色の飛刃を放っていた。
「それは……くらわないって言っただろう!」
と、高瀬は、言った。
時間にすると、数秒の出来事である。
彼方は、
「……!」
と、言葉を失っていた。
もうわけがわからない。
まるでなにかの映像でも見せられているような感覚である。
それこそ、現実味がなかった。
七色は、しなやかに身体を反らした。
すんでのところで、風の凶撃をかわした。
「ひやぁっはーっ!」
高瀬は、嬉々(きき)として、声をあげた。
それは、してやったりという調子だった。
「かかったねえ!」
七色は、はっと高瀬を見た。
「僕の攻撃をうまくかわしたつもりだろうが、そうじゃない」
「……っ!」
「僕に誘い込まれたんだよぉっ、この軌道上に!」
高瀬と七色の線上には、大きな岩が、四つあった。
「まずは、こいつだ!」
と、高瀬は、腕を振るった。
巻き起こった風の刃が、岩を砕く。
大きないびつな岩の破片が、七色に襲いかかった。
石礫の雨。
それも、圧倒的な物量である。
「……っ!」
「さあ! かわしきれるかなぁっ」
そこに、高瀬は、駆けていった。
「そして、僕自身との二段攻撃は、防げないよねえっ!」
新たな風の刃をつくろうと高々と腕を振り上げた高瀬に、
「……これで、いい」
と、七色は、短く言った。
「……え?」
刹那、高瀬の顔にとまどいの色が走った。
放たれていた飛刃。
それが、ブーメランのように弧を描いていた。
それは、奔る七色の背後に向かってきた。
そして、そのまま、七色の横を過ぎた。
「……なっ!」
と、高瀬は、驚きの声をあげた。
飛刃が、岩の破片を砕いた。
ガラス片のような鋭利な岩のつぶては、今度は、高瀬に向かっていた。
「な……んでっ!」
不意を突かれた高瀬の身体に、三つの岩のつぶてが突き立てられて、
「ぎゃあっ!」
と、高瀬の悲鳴があがった。
そこに、七色は、駆け込んでいた。
刹那。
二人の影が、交錯した。
そうして、勝負は、決していた。
七色の右手の剣の一閃。
それが、高瀬を袈裟懸けにしていた。
公園は、スポーツ公園といった趣きである。
広めの敷地だ。
樋野川市近隣からの来園者も、多い。
サッカー用と野球用のグラウンドが一面ずつと、テニスコートが三面、森林浴向きの遊歩道がある。
日中の利用者は多い。
だが、夜で人気はなく、公園全体が昼間よりも一段と広く感じられる。
夜のしじまの中、からからと葉が風に揺れる音がはっきりと聞こえていた。
「……な、何だよ、これ……」
高瀬の身体が、イチョウを思わせる黄金色に、ばあっと輝き始めた。
高瀬の右手が、一層眩い光を帯びる。
そして、透明になった。
そうかと思えば、はらはらと夜の闇に溶け込んでいく。
「僕が……消えて、いってるのか?」
黄金の光が、高瀬の驚愕ととまどいの表情を包み込んでいった。
この時、
(……あ……)
と、彼方は、黄金の光の中で既視感を覚えた。
捉えようのない感覚に、彼方は、
(前にどこかでこの光を、僕は……)
彼方の目の前に、風景が、広がった。
おぼろげな輪郭。
それは、とてもリアルだった。
天を貫く垂直にそびえる巨大な針。
それが、見えた。
針と交差する線が、もやにかかりながら、見えた。
もやは揺れる光のカーテンだ。
それは、様々な色をたたえたオーロラのようだった。
人影が、見えた。
それが少女であると、彼方にはわかった。
再び。
視界は、黄金色から白色に染まっていく。
そうして、何も見えなくなった。
彼方は、我に返った。
くらくらとしためまいが、彼方を襲っていた。
(何だったんだろう、今のは……)
と、彼方は、思った。
「い、嫌だ……」
と、高瀬の声は、弱々しかった。
「消えたくな……い……」
と、首を振った。
「せっかく、せっかくなのに」
高瀬は、弱々しい足取りで、二歩ほど前に進んだ。
「この力をもらったのに……」
高瀬の前には、一人の少女がいる。
噴水で、髪と制服を濡らした七色である。
七色が、まっすぐに立っていた。
「お星さまに、願いを叶えてもらったのに……何でこうなるんだよ……」
高瀬の身体が、イチョウを思わせる黄金色に、染まっている。
高瀬の左脚が、眩い光を帯びる。
そして、透明になった。
そうかと思えば、はらはらと夜の闇に溶け込んでいく。
高瀬は、左脚を失い立てなくなった。
自然、べしゃりと倒れ込んだ。
「何でこんな目にあうんだよ……」
高瀬の身体は、まずます黄金色に、染まっていく。
七色は、高瀬を見ていた。
消え行く高瀬の姿から、目をそらさなかった。
「まだ色々したいことが、あるんだ……これからなんだよ……」
高瀬は、七色に向かって、光に焼かれながら、ずるずると身をよじらせていって、
「僕は……!」
言い終わらないうちに、高瀬の身体がばあっと燃え上がり、
「ぼ……くはっ!」
と、黄金色の残滓が弾け飛んだ。
もう、その高瀬という人物をなしていた欠片が、白い光となって霧散した。
あっという間のことだった。
「……月は詠う……」
七色の祈るような静かな声がした。
七色は、消えゆく光を、最後まで見つめていた。
「つかの間の願いに翻弄された“爛”……」
七色は、光の残滓に、
「安らかな安息を……もう眠って下さい……」
と、言った。
静寂が、訪れた。
たった今までに起こっていたことがまるで幻か夢だったのではないか。
そう思ってしまうほどの、夜の静けさだった。
しかし、違う。
壊れた噴水や砕かれた岩。
それらが、先ほどまでの出来事が真実であると告げていた。
彼方が夜空を見上げると、月が青く照っていた。
「……あの人は、どうなったんだろう?」
と、彼方は、言った。
七色に聞いたわけではない。
しかし、ただ答えがほしかったのだ。
「"爛"として、その存在を終えました」
「……うん」
彼方は、頷くことしかできなかった。
("爛"というのは、世界の理の外の存在)
と、彼方は、心中言葉にしてみたものの、
(……よくわからない)
それが、彼方の正直な感情だった。
("爛"である高瀬が、その存在を終えた)
再び、心中言葉にしてみたものの、
(……)
高瀬という人間が自分の目の前で光になって消えた。
彼方には、それがわかっただけだった。
七色は、彼方のほうに向き直った。
「……ごめんなさい」
と、七色は、言った。
「え?」
彼方は、思わず聞き返していた。
七色の声が、聞こえなかったわけではなかった。
七色の感情に、はじめて触れたような気がした。
だから、とまどったのだ。
先ほど夕食の時に見た、七色の寂しそうに揺れる瞳を、思い出した。
七色は、静かに、
「朝川さんを……巻き込んでしまいました……」
と、言った。
「そんな……」
そんな返事しかできなかった。
「顔の傷……大丈夫、ですか?」
と、七色は、短く聞いた。
七色の無機質な声の中に、彼方は、自分を心配してくれている七色の不安の色を、感じた。
(……)
同級生の御月七色は、高嶺の花と呼ばれていた。
綺麗に整った顔立ち。
光を織り込んだような肩までの艶やかな髪。
雪のように白い肌。
三拍子どころか四拍子五拍子と揃っていた。
まぎれもない美少女である。
その言葉が指し示す通りのその容姿は、人形の端整さをも思わせた。
また、人形が言葉を発することがないように、寡黙だった。
表情を変えることも、少なかった。
結果として、容姿端麗のその少女、御月七色は、他人を寄せ付けない雰囲気を、自然とその身にまとっていた。
だから、とまどった。
その七色が、朝川彼方に声をかけた時、彼は当然のようにとまどったのだった。
彼方は、葉坂学園に在籍する普通の一生徒らしく、いわゆる有名人である御月七色のことを知っていた。
(そう……か)
彼方は、自身の中で、ある感情が開花していくのを感じた。
学園の高嶺の花と称される七色。
彼女を、彼方は、高嶺の花のままに見ていた。
七色を、学園の高嶺の花と自身で決めつけていた。
そうして、花でない七色を、見ていなかったのではないか。
同級生としての一人の女の子としての七色を、見ていなかったのではないか。
(御月さんは、はじめから、僕と向かい合ってくれていたのに)
彼方は、凛と咲く美しい霧に隠れていた一輪の白い花の姿を、とらえたような気がした。
(御月さんのこと、きちんと見ていなかったのは、僕のほうだったな)
と、彼方は、思った。
彼方は、七色を見た。
「大丈夫だよ」
と、彼方は、言った。
「その……」
今度は、七色が言い淀んだ。
「自分でも、こんなに落ち着いているのが、不思議なくらいだよ」
と、彼方は、言った。
彼方が、満天の星空を見上げると、あまたの星々の光があった。
「人の願いは、星に届きます」
空を見上げた七色が、言った。
そしてと、七色は、続けた。
「星は、願いを成就させる」
彼方に向き直った七色は、
「それが、"爛"です」
と、言った。
そうと、彼方は、言った。
日常に散りばめられた経験の外の経験と、日常に溢れている知識の外の知識である。
恐らくは、彼方は、思った。
ありふれた日常から外れた出来事に自分は遭遇してしまったのだと、そう思った。
聞きたいことや知りたいことは、たくさんあった。
震えと興奮と動揺とが混濁した感情が、あった。
それでも、だ。
今起こった出来事を受け止めている感覚に、彼方はとまどった。
その原因をつくっているのが目の前の少女だということも、よくわかった。
「よくはわかないけれども……」
と、彼方は、言った。
「……」
七色は、彼方の言葉を待った。
彼方は、"爛"高瀬の最後の叫びを思い出した。
「あの人も、悪い気持ちに駆られて、そのまま流されてしまって」
七色は、黙っていた。
「それでも、心のどこかで、誰かに止めてもらいたくて、そんな空回り……僕には、そんなふうに思えた」
少しの沈黙が、あった。
「そんなふうに感じられて」
心なしか、七色の口元がわずかに動いたように、彼方には思えた。
「うまく言えないけれども、そう思った……」
と、彼方は、言った。
「そう、ですか」
と、七色は、言った。
僅かに七色の瞳が揺れ動いたようにみえた。
それは気のせいなのかどうか、彼方にはわからなかった。
彼方は、七色を見て、
(まだ、高嶺の花を覆う霧は、晴れそうにないけれども……)
七色は、彼方を見たまま黙っていた。
(その霧の中を進んでみたい)
と、彼方は、思った。
「そうだ」
思い出したように、彼方は、言った。
「忘れ物だよ」
「……あ」
彼方は、七色に、白色のマフラーを手渡した。
今はこれだけで十分だと、彼方にはそう思えた。
「けが……手当を」
「大丈夫」
彼方は、向き直って、間近にある七色の顔を見た。
二人の距離は、とても近かった。
七色の髪が揺れて、花の匂いがした。
「でも、顔に……」
「平気だよ」
七色の吐息が、彼方に触れた。
七色は、黙って、彼方の次の言を待っていた。
「御月さん。明日もよろしくね」
学校で普通に交わしている言葉だった。
「……」
七色は、無言で、彼方を見た。
公園は、すでに再び静寂に包まれていた。
「はい」
短くそう言った七色は、柔らかく微笑んだ。
月の下ではじめて見せた七色のほほ笑みに、彼方は、ただ綺麗だと、素直にそう思った。