第1話 はじまりの夜空 9
ノートに記した数字。
「……」
それを見て、少年は、愕然としていた。
少年は、
(……相当な額になってしまった)
と、嘆息した。
記された数字は、いじめられて取られてしまった金額である。
少年は、几帳面な性格だった。
そんな性格ゆえもあるのだろう、カツアゲされるたびに、金額を忘れないように書き込んでいたのだ。
もっとも、正確な金額を把握したところで、ではあった。
正直、意味がないようにも思えた。
無駄。
徒労。
そんな気がした。
その金額が戻ってくるとも思えなかったからだ。
(何で……)
少年は、勉強机の傍らのコーヒーを飲んだ。
ブラックである。
いつもは砂糖を入れて飲んでいる。
だが、今日は、そんな気分でもなかった。
口の中の苦さが、少年の意識をはっきりとさせていた。
(こんな目にあわなきゃいけないんだ)
こっこっと掛け時計の針の音がする。
夜中の二時である。
この時間ともなると、辺りの生活音はほとんどなかった。
時折、車が通る音が、聞こえるくらいである。
ノートの横には、先日返されたテストの結果があった。
ノートの記した合計額上がるのに反比例するように、テストの点数は下がっていく一方だった。
当たり前とも言えた。
はっきり言って、勉強に集中できていないのだ。
精神的もいっぱいいっぱいになってしまっている。
そんな状態で、勉強がはかどるはずもない。
結果、テストの点数は下がる。
そして、ますます落ち込む。
結果、ますます勉強に支障が出る。
まさに、負の連鎖、悪循環である。
そんなことは、少年も、わかっていた。
わかっていたが、どうしようもなかった。
原因を解明して改善していけばいい。
客観的な意見をもらうのならば、そんなところだろう。
だが、原因がわかっていても、それを改善する手立てがないことだってあるのだ。
「はは……」
自然と、自嘲していた。
乾いた笑いが口からもれていた。
憂鬱な気分が押し寄せてきていて、それがどこかにいってくれる気配もなかった。
(……こんなふうになってしまったのは、いつからだろう?)
と、少年は、自問した。
答えは、すぐには出なかった。
少年は、冷めてしまったコーヒーの残りをくいと飲みほした。
そうして、家の外に出た。
外へ出たのは、用事があったわけでもない。
なにか目的があったからではなかった。
家にこもっていると、どうにもだった。
気が滅入ってしまいそうだったからである。
「さむ……」
夜の風の冷たさと夜の空の明るさが、少年の心に少しだけ、余裕を取り戻させた。
とても静かだった。
耳をすます。
葉や草が風に揺らされる音が、聞こえてくる。
少年の靴音が、響いた。
あてどもなく歩く。
そうしていると、いつもの通学路をなぞっていることに気付いて、少年は、自虐的に笑った。
(学校になんか行きたくもないのに、習慣が身体に染み付いているんだろうな)
と、少年は、思った。
今度は、意識して、通学路とは反対の方向に進むようにした。
少年は、突き当りで、いつもは右にいくところを、左に曲がった。
歩くにつれて、見慣れない風景が広がっていった。
何の変哲もない住宅街だ。
だが、それが、やけに新鮮に感じられた。
(何で、僕が、こんな目にあわなくちゃいけないんだろう)
と、少年は、思った。
耳をすます。
葉や草が風に揺らされる音が、聞こえてくる。
少年の靴音が、響いた。
あてどもなく歩く。
(どうして、こうなった?)
歩く。
(僕が、なにか悪いことでもしたのか……?)
歩く。
(なんで僕ばかりが、こんな目に合う?)
歩く。
(クラスメイトは、なんで助けてくれない?)
歩く。
(教師だって、なんで見ないふりをする?)
歩く。
疑問符の連続に苛まれながら、少年は、歩いていた。
少年は、自身の心に、憎悪の小さな渦が生まれているのを感じていた。
その渦は、瞬く間に膨らんでいった。
(あ……れ……?)
少年は、はっとした。
違う。
違うことに気づいた。
(僕が苦しくなる原因は、わかっている)
少年は、目を開いて、
(そして、それをどうにかできるものじゃないことも、なんとなくわかっている)
少年は、夜空を見上げた。
(だったら……)
満点の星空である。
(僕と同じように、苦しめばいいんだ。あいつらも……!)
不意に、少年の視界は、眩いイチョウ色に輝いた。
(星の……光……?)
と、少年は、思った。
(あ……れ……?)
憎悪の渦の勢いは、収まっていた。
渦は消えずに、波となって、静かに佇んでいた。
少年は、自身が日常から大きく外れた力を持ったことを理解した。
日常を逸脱した力、すなわち異能である。
手をかざす。
すると、突風が巻き起こった。
「……は、はは」
少年の肩がふるふると震えた。
「なんだなんだ……」
目の前の電柱が、少年がつくり出した風に引き裂かれる。
そうして、真っ二つになった。
「はははは……なんだよ、簡単じゃないか……」
少年は、乾いた笑い声をたてた。
(ああ)
少年は、憎悪の渦と波を感じて、
「これは、僕の……風か!」
と、叫んだ。
「憎悪を扱うって、こういうことか!」
少年の心は、震え、高揚していた。
(今の僕ならば、復讐できるぞ)
少年は、抑えきれない歓喜の衝動を、ひしひしと感じていた。
(この風で、僕をこんなふうにしてくれたあいつらに、罰を与えよう)
少年は、夜の街に静かに笑った。
この少年が、高瀬容之だった。