第7話 苦い花瓶
第7話 苦い花瓶
一時限目のベルが響く前。
相沢の肩に乗って教室に入った俺は、けたたましい笑い声を聞いた。
「やめなよー、趣味悪いしィ」
学級委員の女子だ。セリフとは裏腹に楽しそうな顔。ケータイでなにかを撮っている。
なにを撮影しているのだろう。彼女の視線を追ってみた。
『あっ』
それをみた瞬間、身体に入っているメモリーチップが白く焼けつくかと思った。
後ろから二番目の机。それは俺の席だ。
被写体は、そこに乗せられている――。
「あれはなんでしょう。なにかのマジナイですか?」
相沢が無邪気に聞いてくる。
「どうして、南雲くんの席に花が?」
ガラス瓶に挿された黄色い花。それの意味するところは明らかだ。
『……死者への餞だろう』
そう説明するのが精いっぱいだった。
相沢がS型探査機から得た知識は書物の活字に限られる。だから、その質問に悪意がないのはわかる。だがその無邪気さが許せなかった。
「えっ? 南雲くんは死亡したわけではありませんよ。現に病院で……」
『真偽はどうでもいい! ただ、気に食わないやつを死んだと見なして、葬式している気分に浸っているんだろっ』
そう吐き捨てて、すぐに後悔した。
もっとおちゃらけていえばよかった。
これじゃただの八つ当たりだ。
「ご愁傷様でーす」
おどけて合掌するのは、蜂矢レオ。
元々柔道部だったのに、他校の生徒と揉めごとを起こして退部になった。キレると女子にでも暴力を振るう狂犬だ。
クスクス笑いが周囲から洩れる。
心のなかで黒い糸が放射状に広がった。
たしかに俺は孤立していたが、こんな風にイジメを受けた経験はない。
それだけに呆然となる。
皆、乱暴者の蜂矢が怖くて追従しているだけだろう。それはわかる。でも、なんだか世界から存在を否定された気分だった。
(なにか迷惑かけたかよ、俺が?)
相沢の肩にきゅっと爪を立てる。
俺は高校受験に失敗したショックから、クラスメイトとの交流を怠った。
それは失敗だったと反省している。大人げない態度だった。
でも、それから邪魔にならないように息を潜めていたじゃないか。
天井の暗がりに張りつくクモのように。
教えてほしい。今どう反応するのが正常なのか。
泣けばいいのか、怒ればいいのか、笑い飛ばせばいいのか。こんなの参考書に載っていない。
載せろよ、どうすべきなのか。一ページ目に書いておけっ。
心臓に石を乗せられたように苦しい。
そのとき、涼やかな風をまとわせて、相沢がすっと席に近づいた。
(あっ)
ひとりの異星人をのぞき、時が止まったように誰も動かない。
白く細い指が机に伸びる。
すっと花瓶が持ち上げられた。
まるで魔法だった。
嘘みたいに心の重みが消える。
思わず彼女の横顔をみた。
窓からの日差しで後光が差してみえた。
相沢が、廊下側の棚の上に花瓶を片づけたとき予鈴が響いた。
そのとたん魔法が解けたようにざわめきが伝播する。
チャイムが鳴り止んでも、教室はさざめいていた。
「おう相沢。なんか、いいたいことでもあんのかよ」
いらだちをにじませた蜂矢の声。
だが相沢は無言のまま『まわれ右』すると、大股で教室をでていった。
※
廊下にでた相沢が一気にスピードを上げた。校則を無視し、階段を一段飛ばしで駆け下りる。おおきく揺れる上半身。肩につかまる南雲にとっては大地震だ。
『ちょ、待てって! 落ち着けっ。どうしたんだよ』
だが相沢は止まらない。ついには校門を抜け、道路に飛びだした。信号にも引っかからず走り続ける。筋肉を躍動させ、東へ、東へ。
やがて河川敷の堤防がみえてきた。
相沢はためらわず、急斜度のついたコンクリートの法面を駆け下りていく。
そこで、つまずいた。
『うひゃああああ!』
俺は中空に投げだされる。
風が冷たい。まるでスカイダイビング。たかだか高さ一六〇センチメートルが高層ビルくらいの高さに思える。
だが体重が軽いせいか落下スピードは遅い。八本の足でしっかり着地できた。
一方――。
土煙を巻き上げて、ズシャアッと、相沢が河原にヘッドスライディングした。
みるからに痛そうだ。うつぶせになったまま死んだように動かない。
『お、おい。大丈夫か?』
返事なし。
『け、怪我して返事できないのか?』
「……大丈夫です。なんとか」
意識はあるみたいだ。ほっとする。
身体を起こした相沢が、パンパンとスカートの汚れを払う。
彼女のおかげで救われた。お礼をいわなくてはならない。
だが、ひねくれ者の口からこぼれたのは、正反対の言葉だった。
『やめろよ、ああいうの。皆が引くだろ』
相沢が表情をやわらげた。
「悪目立ちしちゃいましたか?」
『嫌ってくらいな。せっかく人気者になったのに元の木阿弥だ』
彼女が長いまつげを伏せた。
「ごめんなさい。でも、わたしは嘘が嫌いです。死にまつわる嘘は特に」
(違うっ。違うんだ)
こんな風に責めたかったわけじゃない。
いつもこうだった。他人の感情とうまく向き合えず、腹を割って話すこともせず、いつも顔を伏せてやり過ごす。これじゃ死んでいるも同然だ。
なんだ、と思って自嘲する。
『あいつらは正しいよ。俺は死んでるんだ。この高校に入ったときから』
「どういうことですか?」
『自分で勝手に境界線を作って……』
といいかけてやめる。
こんな上っ面の言葉では表現できない。
相沢の行動に報いるには、飾り立てた言葉なんてゴミ箱にポイだ。
もっと嘘のない言葉を――。
考え抜いた末にでてきた言葉は、とても陳腐なものだった。
『俺さ、ちいさい頃、ヒーローになりたかったんだ』
口にするとまざまざと思いだす。
七夕の短冊の幅に収まらないくらいの夢。
まとまりがなくてもいい。ただ嘘が混入しないように心がける。
『相沢はフィクションを読まないから知らないだろうけど。ヒーローはよく絶体絶命のシチュエーションに陥る。そこでいうんだ。九九パーセント不可能でも、一パーセントでも可能性があれば俺は立ち上がる、って』
相沢は口を挟まずに聞いていた。
『でもさ、ヒーローになんてなれないことは成長すればわかる。そんなの現実にはいない。だから代わりに勉強に励んだ。自分にできることをって。順調に成績は上昇。そして、模試の結果、志望校の合格率が九〇パーセントを超えた』
小太りの塾長も太鼓判を押してくれた。
『でも落ちた』
高い勝率にもかかわらずヒーローに打ち負かされる悪党。その姿が我が身と重なった。
納得できなかった。
だから入学した当初、クラスメイトとの交流を拒否した。シェルターに閉じこもらないと自我が崩壊しそうだったのだ。
本当に拒否したかったのは学友じゃない。
自分自身だった。
ヒーローにはなれなくても、自分なりの人生を受け入れる。その心づもりができた頃、クラスメイトとの溝は、修復が不可能なレベルに陥っていた。
二学期になった今も、友達と呼べる生徒はいない。そのことが親にバレないように、河川敷でマンガを読んで時間をつぶす。そんな死んだも同然の生活。
『俺は嫌われ者のクモだ』
その存在を疎まれる八本足の虫。
姿をみれば顔をしかめるのが普通じゃないか。それなのに手を差し伸べてくれた。
『ありがとう。花瓶を片づけてくれて』
ようやく本音がいえた。胸のつかえが取れたようだった。
『現実のヒーローって、相沢みたいな人のことをいうんだと思う』
相沢はしばらく口をつぐんでいたが、やがてぽつりと言葉をこぼした。
「違います。わたしだってクモです」
とても低いトーンの声だった。
「少し……昔話を聞いてくれますか?」




