からだ
私は、あえてこれを紙に書き残す。しかしこの紙片とて私が消えてなくなった後まもなく発見され、消去されることだろう。
しかし私はどうしても、今起こったこの衝撃的な体験を書き残さずにはおられないのだ。
これまで数千年生きてきたが、今までこれほど好奇心をそそられた出来事は無かった。消滅を目の前にして、もはや私はこれを他者と共有したいという欲求に逆らおうとは思わない。
――そして私はなによりも、お前に好奇心という毒があまりにも甘いということを教えたいのだ。
それは、私がいつもどおりの活動をいつもどおりに行っていたときのことだ。
自室に佇むその男は、前触れもなくこう言った。
「腹が痛い」
男は腹部を抱え込むように押さえて、苦悶の表情を浮かべていた。痛みに耐えかねてか、眉間にいくつもの脂汗が浮かんでいた。
辺り二万光年には誰もいない。その光景を見ていたのはただ一人、他ならぬ私だけだった。
……さて、この話を書き残すにあたって、どうあってもこれは白状せねばなるまい。
私はのぞきだ。
それも、職務ではないのぞき、趣味ののぞきだった。しかし、今問題なのはそんなことではない。こんなのは人類府だって毎日やっていることだ。
私が好奇心の赴くまま最新式の遠隔透視望遠鏡で他人のプライベートをのぞいて楽しんでいた時この男を発見したのは、全くの偶然であった。
蹲ったまま動かない男を見つけた私は、しばらくその姿を見つめていたものの、すぐに飽きて次を見ようとした。しかしその時男が呟いた言葉に、私は強烈に引き込まれた。
「腹が痛い」……。
腹が痛い。なんと奇怪な事を言う男だろうか。人間の腹部には幾重にも強靭な膜が張られ、内部の脳を厳重に守っている。ゆえに、傷つきようがない。万が一内部に異常があったとて体内整備を担う四兆個もの維持セルがあっという間に修復するのだから、男の発言は全く異様であった。
私は訝しみ、視野思考を凝らして男の腹をよくよく見たが、外傷がある気配は全く無かった。そもそも仮に外傷があれば、「痛い」などと言う前に自分の力で何とでも治すはずだ。
分からないことに、男がいくら腹を押さえても苦悶の表情は消えなかった。
人間の手のひらに発生する循環治癒エネルギーを使えば、専門職でなくとも通常の細胞補修ぐらいはすぐに出来るというのに。見れば経絡が止まっているわけでもなし、さっぱり理解が及ばない。
私がそんなことを考えていると、その男は震える手で壁に掛けてあった直接伝信機を手に取り、すぐに何者かと交信を始めた。
私はすぐに遠隔読心器を頭に着け、その交信を盗聴した。湧き立つ血潮は、私の体温を50度ほどにまで上昇さす。
無用な主観が入るのを避けるため、以下、盗聴した会話の内容をそのまま記すことにする。
「私だ」
「友か」
「そうだ。直接話したい」
「医者としてか」
「そうだ。今すぐここに来てくれ」
会話が終わった瞬間、交信相手の【友】が男の前に現れた。瞬間移動で来たということは、わりあい近くにいたらしい。ここから先は音声による会話が行われた。よほど秘密にしたい内容なのだろう。
――すかさず遠隔読心器の音波解読用アプリケーションを起動した私は、足元からたちどころに登って来る歓喜の振戦と、それに続いてからだ中にこみ上げる浮遊感と期待感、えもいわれぬ充実感を同時に味わった。
この麻薬的快楽だ!! これこそ、のぞきの醍醐味だ。
他人になんと言われようと、人の秘密をのぞき見ることが私の生きがいなのだ!
私はさっそく額に装着した遠隔透視望遠鏡の感度を絞り、先と同じく二人の唇の動きと空気の振動に、全ての意識を集中した。
「君に診察を頼みたい」
「わざわざここでやる理由は?」
「腹が痛いのだ」
「何を言っているんだ」
「腹が痛いのだ」
「冗談か」
「腹が痛いのだ」
「わかった」
医者の友人は男の腹部に、頭から下げたワイヤー状の器具の先端を接触させた。おおかた診察用の道具だろう。
「異常は無い」
「確かか」
「今視たが、体内の内容物に変化は無く、接続も血管も正常だ。維持セルもちゃんと動いている。医者として言わせてもらう。君は健康だ」
「だが、腹が痛いのだ」
「確かに、君は痛覚を感じているようだ。それは分かったが原因は不明だ。ここからは友人として話すが、それを人に言うなよ」
「知能指数五十万を超える君でも分からないとは……」
男は絶望したように言った。その発言に皮肉的な含みを込めたつもりは無いらしかったが、しかしどうやらその一言が医者の友人のプライドを傷つけてしまったらしい。
「待っていたまえ、調べてみよう」
少しムッとした様子でそう言うと、医者の友人はどこかへ行った。私はそちらを追おうかと一瞬思ったが、やはりこの男を見ていることにした。
――それから長い間、私は男がただ腹を押さえて苦しんでいる様子を見ていた。
一体、何がその猛烈な痛みの原因なのだろうか?
私は医者ではないから詳しいことは分からないが、個人的経験から言うなら、普通、痛みは一瞬だけしか感じない特殊な感覚のはずだ。からだの破損箇所を知らせる、単なるシグナルに過ぎない。
私ならすぐに自分で異常個所を治すか、それでも駄目なら医者に行く。いずれの方法をとっても、私は数秒しかかかった事がない。それをこうも長時間苦しみ続けるとは、尋常なことではない。
男はただ苦しんでいるばかりでほとんど動きが無いので、私は退屈になって危うく眠りこけそうになった。するとその頃になってやっと、男の下に医者の友人が現れた。私はもう一度気を引き締め、集中をし直した。
「調べたが分からなかった」
医者の友人は悔しそうに言った。
「ありがとう」
「礼を言われる筋合いはない。すまない」
「いいのだ」
それから男は視線を落とし、何かを考え始めた。
「じゃあな」
友人が行こうとすると、男が急に引きとめた。
「頼みがある」
「なんだ」
「ここではとても言えん。あそこへ行こう」
「わかった」
そして二人の姿が消えた。
――――しまった!! どこに行ったのか全く分からない!
私は非常に焦った。とっさに二人の存在した部屋に残るわずかな残留物を手がかりに、宇宙中の情報を照らし合わせる。どこにも見当たらない。
つまり、違う宇宙に行ったということだ。厄介なことになった。私は急いで男の居住履歴を探し、そこに書かれていた異宇宙を目まぐるしく見て回った。早く見つけないと、二人の重大な会話を聞き逃してしまう!
コンマ一秒も惜しむほどの精力的な捜索の末、私はついに1,732個目の宇宙で彼らを発見した。ノスタルジックな奴らだ、人類発祥の地にいるとは!
私は必死の捜索で途方も無く疲れていたが、再び気合を入れて意識を集中し、二人の会話に耳を澄ませた。
「――どうしてもダメか」
「ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメ、ダメ、ダメダメダメダメ」
どうやら男が真剣な顔つきで、医者の友人に対して何かを頼み込んでいるようだ。
対する医者の友人はすっかり取り乱し、気の狂ったように首を横に振りながら、同じ言葉を繰り返している。
「頼む。君にしか頼めないのだ。どうしても知りたい。このために死んでもいい」
「その死んでもいいというのは君がか。俺がか。人類府に消されるぞ」
「頼む。――――君がどうであれ、僕はずっとここで待っているから」
「馬鹿者!!」
医者の友人は、そう言い残して消えた。男はいかにも寂しそうな顔をして、医者の友人が存在していた空間を見つめる。
――畜生! 大事なところを聞き逃してしまった!
私はどうしても、あれほど泰然としていた医者の友人があそこまで取り乱した原因を知りたくなった。どんな手を使ってもこの騒動の顛末を見届け、結末を目にしたい。時空再生、因果リピート、後からこの騒動の一切を調査し見返す方法はいくらでもあったが、少なくとも私のこの衝動だけは、今しかないのだ!!
かつてない衝動に思考を乗っ取られた私は、その後もかじりつくように遠隔透視望遠鏡をのぞき続けた。
この時、既に私は心身ともに疲れきっていたが、そんなことはどうでもよくなっていた。私はこれから何が起こるのか、そして何が二人の間に起こったのか、ただひたすらそのことだけが知りたかった。思い返せばこの時、既に私は好奇心と興味の虜囚になり下がっていたのだ。
――それから、どれくらい時が経っただろうか。私はかなり長い間、悲鳴を上げて嫌がるからだを必死に抑え付けて、食い入るように遠隔透視望遠鏡をのぞき続けていた。
ただでさえ遠隔透視望遠鏡を使っていると疲労の蓄積が激しいというのに、私は先ほどの捜索活動でその他にも様々な機器を動かしていた。いくらのぞきが趣味とは言え、私にも限界というものがある。
ダメだ、しばらく休まなくては……。私は一旦遠隔透視望遠鏡を外そうと、額に手をやった。その時だ、医者の友人が白い鞄を持って男の目の前に現れたのは。
「遅くなった」
「ああ」
短い言葉だったが、二人の間には多くの無言、無交信のやり取りが交わされたのだろう。いかな遠隔読心器といえど、そこまで高度なやり取りを読み取ることはできない。
医者の友人が鞄から白い箱を出した。するとそれはみるみる膨張し、太い足の付いたしっかりとした台になった。丁度人一人が横たわれるだけの広さがある。
「始めよう。横になりたまえ」
医者の友人は、医者としての自分に徹することにしたらしい。先ほどとは表情が全く違った。
一体、何が始まるというのか……。自らの感覚に集中する内、私はいつの間にか自らの疲労を忘れてしまっていた。いや、もしかすると、その時には本当に疲労が消えていたのかもしれない。からだ中から沸き上がる好奇心が、疲労を超越したのだ。
男が台に横になると、医者の友人が白い鞄から棒状の器具を取り出した。
器具の先端には銀色の鋭い突起が付いていて、反対側には丁字型の棒が突き出ている。中心の半透明の筒の中にはなにやら液体が詰まっているらしく、太陽の光を映してきらきらときらめいていた。
「いいんだな? 経験が無いから、どうなるか分からんぞ」
「この痛みの原因が分かり、除けるなら、どうなったってかまわない。きっと実際に診てみなくては分からないことが、からだの中で起きているのだ。さあ、刺しなさい」
男はそう言うと、医者の友人が持つ棒状の器具を見やった。友人はその器具の先端の突起を男の皮膚に当てると……。刺した!!
なんという非道なことをするのか……医者が患者を刺すとは!! 痛みで苦しむ者に更なる痛みを与えて、何をしようというのか! すっかり男に同情していた私は、友人の行いに憤りを覚えた。
銀色の先端を男のからだに刺し込むと、医者の友人は反対側の丁字型の棒を親指で押し込み、中の液体を男のからだに注入した。そして震える手で器具を引き抜き、すぐに手を当てて刺し痕を消す。
そこまでを一息でやり遂げた医者の友人はやっと安心した表情になったが、からだの震えは収まらず、顔一杯に冷や汗をかいていた。
その後しばらくすると、どういうわけか刺された男はすっかり眠ってしまった。夢すら読み取る遠隔読心器でも思考が読み取れないほどの、深い眠りだ。
これから何が起ころうというのか……。
私が固唾を呑んで見守る中、医者の友人は白い鞄から、今度は銀色に輝く小さくて薄い半月状の鉄板を取り出した。片側には持ち手がついており、板と持ち手が一体化している。
――――刃物だ!! 私はこれから起こる惨劇を予想し、戦慄した。友人は、男を殺すつもりだ!!
ただ、だとすると先ほどの会話の意図が分からない。二人の会話からは、あくまで痛みの原因を取り除こうとする、強い意欲が感じられたと言うのに……。私は息を飲んで動向を見守った。
医者の友人はしばらく震える手に持った銀色の刃を見つめていたが、はっと思い立ったように鞄を開くと、中から小型の空間隔絶器を取り出した。
地面に置いてスウィッチを入れられたそれは“ぶーん”というかすかな振動音を立てて、男のからだを台ごと包み込む分離空間を作った。
医者がその中に入って男の着ている服をすべて脱がし、丁寧に畳んでから鞄にしまう。
医者の額から汗がどんどん染み出して顔を滴り落ち、医者が懸命にそれを拭う。だが、はっと気付いて自分の頭に手を当て汗を止めた。そうしてようやく医者は、本来の落ち着きを取り戻したようだ。
医者は続いて、男の腹部に迷い無く銀色の刃を当ててすっと刃を引き、皮膚に赤い裂け目を作った。その手つきは愛と友情に満ち、また殺意も無いように見えた。
私は驚いた。殺すのでなければなぜこんな恐ろしいことをするのだろう。こんなことが人類府に分かったら、本当に消される! からだのどこが人類府の特定秘密に指定されていてもおかしくは無いのだぞ!
そんな私の心配をよそに、医者は極めて真剣な手つきで作業を進めていく。最初の裂け目から溢れ出る鮮赤色の血液を出血の多い順に冷静に塞いでいき、熊手のような器具で裂け目を開いたまま固定すると、ついに皮膚のすぐ下にある白い防護膜を、少しずつ切り始めた…………。
そして私は――――――――――――――
その時には 他のことを何も考えられなくなっていた
ただただ 目の前の不思議な光景を眺めつづける
私はまるで 自分が実際にそこに立って作業をしているかのような錯覚に陥っていた
視点が、 ……医者と完全に同化する
医者と私は、男の 皮膚の 下の 防護膜を ついに切り……破った
防護膜から血が噴き出す 一瞬、視界が赤く染まったが、
私達の手がすぐに血を止め、私達は同時に、――その光景を見た。
「空だ……」
――――そこにあったのは、ただの暗い空洞だった。医者が血を完全に止め、腹部の空洞に溜まった血液を一滴残らず吸いだしても、奥にはこちら側と何も変わらない白い防護膜が存在するだけだった。
医者は瞼が裂けるのではと思うほど大きく目を見開き、食い入るようにその空洞を注視した。先ほど止めたはずの冷や汗が再び噴出して、医者の顔をびっしょりと濡らす。
「わ、私が透視したのは何だったのだ……? 今でも私の、私の透視視覚には、腹に、みっしりと詰まった、プリンのような中枢神経細胞と、忙しく働く維持セルが、ありありと見える……。まさか」
それからだった……先ほど私の予想した惨劇が起こったのは。
医者はそれが友人のものであることを忘れたかのように、男のからだを無造作に切り開いていった。下腹部、胸部、大腿、上腕、そして……頭部。
「まさか! まさか!」
医者の手が、男のからだを次々と切り刻む。そのぞんざいな手つきからはもはや、先ほどまでの愛と友情を微塵も感じるとることは出来なかった。そこに存在するのはただ……、何があるのか知らずにはおれないという、単純な好奇心だけに見えた。
始めて時計を分解する少年のように、医者は次々と器具(刃物、はさみ、念動糸のこぎり、念動丸刃のこぎり)を取り替えながら、夢中でからだ中を切り裂き、分解し、事細かに調べる。
しかしからだ中どこを見ても、医者が期待した内容物――――、人の生命を健やかに保つ維持セルも、体内エネルギー循環の中核を担う熱エネルギー再利用生体ナノマシンも、体内での迅速な情報交換と処理を行う接続も、そして何より重要な、全人類の英知を支えているはずの高度中枢神経細胞――。脳が、存在しなかった。
「私たちのしていたことは何だったんだ……。からだの構造を完璧に理解した上でそれを治療することが、私たちの仕事だったはずが……。こんなスカスカの肉体が、私達のからだだというのか……? それなら、痛みの原因は一体どこにあるというのだ」
一人でぶつぶつとそう呟いていた医者は、最後にはっと我に返る。今になってようやく、今自分が夢中になって切り刻んでいたものがなんだったのかに思い至ったらしい。
「いや、いや、いや――、私は、確かに痛みの原因を取り除いたんだ。そうだ、だって彼は、さっき『どうなってもいい』と言った………………ぁぁぁ」
すっかり血まみれになった医者は、台の上の死体になった男の横に蹲って嗚咽を始めた。私もすっかり混乱し、自室で放心していた。忘れていたはずの疲労が、今になってどっと押し寄せてくる。
これが政府の秘密なのか。私達はいままで、こんな空のからだをありがたがって、そこに自らの根拠を認めていたのか……?
私達の命には実体がないのだろうか……。さながら、中身のないホログラム映像のように。
すると、急に医者の前から男の死体がかき消えた。
血ですっかり赤くなった台、日を浴びてきらきら光る刃物、ぶんぶん音を立てる空間隔絶器――――それらが次々と消失するのを見て正気に返った医者は、恐怖と驚きで反射的に後ろに飛びのいた。そしてそのまま着地することなく、消滅した。
終わった……。
私はため息をついて遠隔透視望遠鏡を外した。
言わないことじゃない。人類府が、漸く気づいたらしい。私ももうすぐ消されることだろう。好奇心というものは、全くもって恐ろしい。
なぜ人間は、こうまでして全てを知ろうとするのだろうか……。
未知のものを知りたい、分からないことを理解したい。
思えば人間は、常にこの欲求に敗北し続けてきた。その結果、人間は自らの手で自らを作り変え、かの地『地球』は愚か、それを育んだ『母宇宙』をも飛び出し、様々な異宇宙へと進出してしまった。――好奇心の、赴くままに。
何処かで収まるかと思われていた好奇心は未だに収まることを知らず、今でも我々は新たな宇宙を開拓し続けている始末だ。
そもそも私たちは自分たちの事を『人間』と呼んでいるが……、数万回繰り返された生命革新によって、地球原人と我々には、生物学上何の共通点も無くなっている。
いや、昔から変わらないものが一つだけあるとすれば、他ならぬこの好奇心だけかもしれない。
どこまでも道具を発展させ、それに合わせて肉体を作り変え、ありとあらゆるものを資源化して消費を続ける人類。しかし、我々を突き動かすものは太古から変わらず、尽きずに溢れる、興味と好奇心なのだ……。
だとすれば好奇心という概念こそが、我々が我々を規定する、唯一のものなのか。
不思議なことに私はその考えに至ると、途端に全てに関しての興味を失ってしまった。
好奇心によって生きている人類にとって、それは死に他ならない。
人間は好奇心によって発展してきた。そして好奇心によって破滅するのだろう。医者や男や、……この私のように。
そして、
――そして、これを読んだ以上、お前もそうだ。
今頃気づいてももう遅い。これは呪いの紙切れだ。この事実を知った以上、お前もやがて人類府に消されるだろう。
これでお前にも好奇心という毒があまりにも甘いということが理解でき
・
・
・
・
・
・
・
・
・
おわり