受験
小春はハルの実家の加藤家に行くことにした。実家と言うとまるで夫の両親が住んでいる家みたいだけれど、小春はまだ高校生で当然結婚もしていない。
小春の恋人の加藤ハルが交通事故で亡くなってしまった。事故現場にいた小春がハルを抱き起こそうとした時、小春の中にハルの意識が入り込んでしまったのだ。そんなわけでふたりは、実際に結婚している夫婦以上に親密な生活を送っている。
ハルの希望で港南大学を受験することが決まったので、事故前に使っていた教科書や参考書などを取りに行こうとしていたのだ。
「お母さんにはなんて言ってハルの使っていた教科書や参考書をもらったら良いのかな?」
(そこはほら、お母さん譲りの嘘で……)
「嘘に遺伝なんか無いって言っているでしょ!」
(ははは、怒るなって。そうだなぁ、俺の為に港南大学を受けることにしたから教科書や参考書も俺の使っていた物を使いたいっていうのはどうだ?)
「そうだよね。それが一番良いよね。うん、それで行こう!」
小春が加藤家に着くと、ハルのお母さんが歓迎してくれた。小春はハルの告別式以来、週に一回くらいのペースで加藤家を訪れていた。ハルは今も小春の中で生きているから、小春は違和感を持ちながら仏壇に線香をあげてハルの遺影に手を合わせた。
「小春ちゃん、いつも来てくれてありがとう。ハルが亡くなってから、何だか家の中が暗くなっちゃってね。でも、小春ちゃんが来てくれるとハルが生きていた時よりも明るい感じがして嬉しいのよ」
「私もお母さんと居ると楽しくなるんです。これからもちょくちょく寄らせてもらいますよ」
「遠慮しないでいつでも来てね」
小春とハルのお母さんはしばらく世間話をしたけれど、ハルに関しての話は出てこなかった。二人とも意識的に避けていたようだ。しかし、今日加藤家に来た目的の為には避けられない話でもあった。
「お母さん、私、港南大学を受験することにしたんです。生前のハルが港南大学で心理学の勉強をしたいと言っていたので……。もちろん私と比べたらハルの方がずっと勉強が出来たから、私の頭じゃ入れるかわからないけれど、入学試験だけでも受けたいと思って……」
話の途中からハルのお母さんの目には涙があふれていた。小春も涙が鼻に流れ込んで言葉が上手く出てこなくなっていた。
ハルのお母さんが小春の身体を抱きしめて来た。小春もお母さんの身体をしっかりと抱きしめていた。
二人とも言葉を発することが出来ないまま、数分間の時を過ごした。
「お母さん……私……勉強するなら……ハルの使っていた教科書や……ハルの使っていた参考書で……勉強したいんです。だから、ハルの……教科書と参考書……貸して……ください」
涙で声を詰まらせながら小春が言った。
「うん……うん、ありがとう……小春ちゃん。二階のハルの……部屋に有る……はずだから……持って行って。小春……ちゃん、本当に……ありがとう」
ハルのお母さんも声を詰まらせながら言った。
「お母さん……ありが……とう」
やっと涙が収まった小春はティッシュペーパーで頬の涙を拭い、鼻をかんでからハルの部屋へ向かった。
部屋はハルが居た時のままになっていた。きれいになっているから、お母さんが毎日掃除をしているのだろう。
「ハルはお母さんに愛されていたんだね」
(あたりまえだろ! 勉強も出来るし見た目も良いんだから、自慢の息子だったんだ)
「見た目が良いとか自分で言っちゃうんだ。たいした自信だね。まあ、ひとり息子だからね、どんな子でも可愛いんだろうけどね」
(フン、なんとでも言え。早く本を持って帰るぞ)
「ハルはもっとお母さんと一緒に居たいと思わないの?」
(一緒に居たって仕方ないだろ! 話が出来るわけでも無いし……)
「ごめんね、私ばっかりお母さんと話をしていて……。ハルの気持ちをわかってあげられなくて……」
(なに泣いているんだよ。早く帰って勉強するぞ! 本棚に有る参考書と引出しの中の教科書、それ全部持って帰るからな!)
「えー、そんなに持って帰るのぉ? 重いよ~」
(それが最低限だからな。本当ならその二倍くらい持って行きたいんだけど我慢するよ)
「わかったよ! 頑張って持って帰るよ」
本を袋に詰めて一階に降り、お母さんに挨拶をしに行った。
「お母さん、本を預かって行きます」
「小春ちゃんは本当に良い娘だね。ハルがあんなことにならなければ、何がなんでも小春ちゃんをハルのお嫁さんにしたかったのに……」
また、お母さんの目に涙が浮かんで来ている。小春も泣いてしまいそうだったけれど、グッとこらえた。又来ることを伝えて加藤家を後にした。
小春の部屋に戻ると、ハルはすぐに勉強を始めたがった。
(小春、勉強を始めるぞ!)
「えー、今帰って来たばっかりじゃない! 少し休んでからにしようよ」
(何を甘えたこと言っているんだ! センター試験まで、あと一ヶ月なんだぞ!)
「あ~ん、わかったよー」
小春はいやいやながら勉強机についた。机の前に座れば、あとはハルが勉強をやるので、小春はボーっとしていても、別のことを考えていても問題ない。小春がファッションのことやアニメのことを考えていても、左手はなにやら難しい計算式や歴史の年号とか人名をノートに書き込んでいく。
「ねえ、ハル。私、ちょっと疑問が有るんだけど」
(なんだ、疑問って?)
「あのさぁ、前に学校で習ったと思うんだけど、記憶って脳の中に記録されるんだよね。だとすると、ハルの記憶は火葬された身体の中にあった脳に記録されていたはずだよね。それなのに何で私の脳が知らないはずの記憶を持っているんだろう。そして、今ハルが勉強している事は私の脳に記録されているのかなぁ」
(小春、良い質問だ! その答えはだなぁ……、わからない)
「なにそれ?」
(その件に関しては港南大学に入って研究をして突き止めるつもりだ。だから今はわからないってことだよ)
「なるほど、今はわからないということがわかったわけだ」
(そうだよ。いつか解明してやるから。俺に任せておけ)
「了解です。そのときは教えてね」
それからの数時間、小春は小春の意思とは無関係に動く小春の左手を眺めていた。
この日から小春の生活は勉強中心に変わった。以前は学校帰りに友達とカフェでのおしゃべりとか、インテリア雑貨の店で「これカワイイ~」とか言いながらフラフラしていた。
今では、友達から「小春は付き合いが悪くなった」と言われるようになった。毎日ソッコーで家に帰って机に向かう生活に変わっていたからだ。当然、クリスマスもお正月もイベントらしいイベントが有るはずがない。
センター試験の日がやって来た。小春は試験会場の机に向かっていた。
(今日の試験はハルがやるんだよね。名前間違えないようにね)
(俺がそんなミスをするわけ無いだろ! 小春こそ試験中に寝るなよ!)
(寝ないよ~。そこまでアホの子じゃないよ!)
そう言った小春だったが、入学試験の会場で、何もしないで机の前に座っているのは退屈だった。周囲を眺めたりしながら、眠気と闘っていると、頭の中でハルの怒りに満ちた声が聞こえた。
(小春、ちゃんと問題用紙を見ろよ! 小春が見ないと俺にも見えないんだぞ!)
(小春、目をつぶるな!)
小春にとって、何もしないで長時間座っているのはものすごく辛いことだった。部屋で勉強をしていた時には、音楽を聞いたり、ハルに話しかけたり、もうやめようとか言っていたので、何もしない事がこれほど辛いとは思ってもいなかった。
そんな小春は、この状況を打破する名案を思い付いた。右手でペンケースから鉛筆を取り出すと、問題用紙に絵を書き始めたのだ。
(小春、何をやっているんだよ!)
(絵を書いているだけだよ)
(変だろ! 左手で試験問題を解いているのに、右手では絵を書いているなんて、他人が見たらビックリするだろ!)
(そんなこと言ったって、このままじゃ眠くなっちゃうよ。寝ちゃったらまずいでしょ!)
(仕方ないなぁ、目立たない様にしろよ)
(はーい、目立たない様にします)
小春は目立たない様に注意して、問題用紙に絵を書き続けた。おかげで小春が眠ってしまう事は無く、二日間のセンター試験は終了した。
「ハル、センター試験はどうだった?」
(あれなら港南大学の受験にはじゅうぶんだろうな)
「そう、良かったね」
(次は小春のキャンパスライフ用の試験だな。頑張れよ)
「えっ! ハルがやるんだよね?」
(なんで俺がやるんだよ! 小春が行きたい大学だろ。入学試験くらい自分で受けろ!)
「えー、手伝ってくれると思っていたのにぃ。どうしよう、小春、大ピンチだよぉ」
(知るか!)
小春はすべての試験をハルが受けてくれるものと思っていたから、受験勉強はまったくしていなかったのだ。
いざ、入学試験に挑んだ小春は驚いた。
(ハル、なんだか解けるよ。試験でこんなに問題が解けるなんて、はじめてだよ!)
(座って居ただけとは言っても、俺の勉強に付き合っていたからな。それなりに学力は付いたってことだな)
(そうみたい! これなら楽勝だね)
(問十二、間違っているぞ! 気を抜くな!)
(はーい、気持ちを引き締めて頑張ります)
こんな調子ですべての入学試験が終了し、それぞれの合格発表も始まった。
最初の合格発表は、小春のキャンパスライフ用の大学だった。合格者の受験番号の書かれた掲示板の前で一喜一憂している受験生の中に小春も居た。
(小春、番号有ったか?)
「うーん、ちょっと待って……。有った! 有ったよ。ほら、受験番号は……ヨシ! 間違いない」
(良かったな)
「うん、ありがとう。ハルのおかげだよ」
ハルの受験勉強に付き合ったおかげで小春の学力も向上していたようだ。ハルに手伝ってもらわなくても、合格出来るくらいの学力は付いていた。
「次は本命の港南大学だね。合格していると良いね」
(そうだな、発表は来週か? なんだかドキドキするなぁ)
「ハルがドキドキすると私の心臓も早く脈打つのかなぁ」
(さぁ? 今までにそういった事は無かったのか?)
「たぶん無かったと思うよ。ハルがドキドキしているかどうかなんて、わからないからね。そこはなんとも言えないけど……」
いよいよ港南大学の発表日がやって来た。小春は港南大学の合格者発表掲示板の前に立っていた。
「ハル、ちゃんと番号探している?」
(小春が探してくれよ)
「何を言っているのよ! いつも偉そうにしているくせに、こういう時は弱虫の甘えん坊になるんだから! えーと、受験番号は……。ハル、ハルってば!」
(な、なんだよ……)
「有ったよ! 合格だよ」
(オッシャー! やったー! まぁ、当然だけどな)
「なにそれ、さっきまでと態度が違いすぎ! お母さんに報告しに行かなくちゃ」
(先に小春の両親に報告した方が良いだろ。まずは電話連絡しろよ)
「わかっているよ! ママに電話したらお母さんの所に行くからね」
電話で母に合格を知らせた小春は、加藤家を訪れた。ハルの母はいつもと変わらずに小春を歓迎してくれた。
「小春ちゃん、いらっしゃい。さあ、中に入って」
「おじゃまします。今日は港南大学の合格発表だったんです。合格しました」
「あら、おめでとう! 小春ちゃん、がんばったね」
小春は『実際に頑張ったのはハルの方』だと言うことを伝えられないのが辛かった。
「ありがとうございます。早くお母さんに伝えたくて、大学から直接来ちゃいました」
「あら、まだ家に帰っていないの? 私よりも先にお母さんに報告しなくちゃダメでしよう。早く帰って報告しなくちゃ」
「家には電話で報告したから大丈夫です」
「小春ちゃん、ありがとう……。小春ちゃんも春から大学生なんだよねぇ。どんどん成長して行くんだよね」
ハルの母はハルのことを思い出して涙ぐんでいた。小春はハルの母の手を握った。
(ハル、なにかお母さんに話しかけてあげられないの?)
(無理だよ。俺、身体を失ったと同時に声も失っているから……。俺は死んだんだ……。小春の中でしか生きられないんだ……)
(でも、私の中では生きているよ。左手だってハルのものだよ)
(無理だよ。今は……、方法がわからない)
小春はハルの母の手を握りしめて泣いていた。
ハルも小春の中で泣いていた。
「小春ちゃん、ありがとう。小春ちゃんが来てくれると、ハルを感じることが出来るみたいで嬉しいのよ。また遊びに来てね」
小春は加藤家を後にした。