(2)
二人は手洗い場に辿り着くと、先頭で着いた楓が蛇口を捻り、水をちょろちょろと遠慮気味に出した。
そして、お手本を見せるように手をちょろちょろと出した水で濡らした後、赤いネットに入っている石鹸で泡を付け始める。
「たっくん、こーするんだよー」
「はーい」
少年拓斗は楓のやり方を真似し、ちょろちょろと流れる水で手を濡らしてから、石鹸で手に泡を付け始める。
その様子を見ながら、すでに洗い終わった楓は水で石鹸を洗い落としながら満足そうに見ていた。気分はまるで少年拓斗のお姉ちゃんのような感じで。
少年拓斗もその様子に気付いたらしく、石鹸を水で流しながら
「いまのかーちゃん、おかあさんみたい」
と、少しだけ不満そうに呟く。
『お、お母さんかよ!』
言うのであれば、「お姉ちゃんみたい」と思っていた拓斗にとって、少年拓斗の言葉は予想外過ぎて、そう突っ込んでしまう。
案の定、楓の方も?マークを頭に浮かばせていた。
「なんでおかあさんなの?」
「だって、てのあらいかた、おかあさんみたいにいうんだもん」
「そーかなー」
「そーだよー」
「でも、あたし、おかあさんはいや。なんなら、おねえちゃんってよんでよ」
「なんで、おねえちゃん?」
「だって、たっくんよりさきにうまれたから」
「さきにうまれたからって、おなじとしでしょ?」
「あたしはもうたっくんよりひとつうえだよ?」
「え、そうだっけ? いま、なんさい?」
「せんしゅう、たんじょうびだったから……んーと、ごさい!」
「え、えーと……」
少年拓斗は片手で自分の年齢分指を立て、もう片方の手で楓が言った年齢分の指を立てる。そして、必然的に楓の年齢分立てた指が多くなることに気付き、
「えー、なんかいやだ!」
明らかに不満な表情で頬を膨らませる。
先々週までは同じ年齢だったのに、一歩先を越されたことが納得いかないらしい。
「じゃあ、どうする?」
「んー、どうしようか?」
「あたしはおかあさんってよばれるの、いやだもん」
「ぼくはおねえちゃんって、よびたくない」
こうして二人は蛇口の水を出しっぱなしのまま、二人の今後について考え始める。
見ている拓斗からすれば、明らかにくだらない会話の内容だった。しかし、この頃は真剣にそれについて悩み、必死に同じ立場になれるようなものを探していた。
そして、拓斗が持っている答えに辿り着いたのは楓の方だった。
「だんなさんとおくさんになればいいよ!」
「だんなさんとおくさん? おままごと?」
「ううん、ほんとうになるの!」
「……ほんとうに?」
「そうだよ! あたしがたっくんのおくさんになるから、たっくんがあたしのだんなさんになって!」
「……いみ、わかんない。おままごととほんとうって、なにがちがうの?」
「んーとね……、あたしのおとうさんとおかあさんみたいに、おおきくなったらけっこんするの!」
「おおきくなったら? けっこんできるの?」
「できるよ!」
「そーなんだ! それならいいや!」
「でもね、こまったことがあるんだー」
「こまったこと?」
「うん」
楓はなぜか恥ずかしそうに指をつんつんし始める。
何か悩んでいることは分かっていても、少年拓斗は楓が何を伝えたいのか分からないらしく、ジッと楓を見つめていた。
「あのね、けっこんってやつしなきゃいけないらしいの」
「けっこん? なにそれ?」
「んー、おとうさんとおかあさんになるってこと?」
「おとうさんと……おかあさん……?」
「うん」
「ぼくでもなれるの?」
「なれるよ! いつかはみんななるって、おかあさんがいってた!」
「じゃあ、いいよ!」
『それは軽すぎるって!』
結婚するという意味すら分かってない年頃で、こんな軽いノリの約束だったことに拓斗は思わず自己嫌悪に陥りそうになってしまう。
自分にとっては重大な約束だったにも関わらず、約束そのものはその場のノリにしか過ぎなかったからだ。今までこの約束があるからこそ、楓のことを意識しないように頑張ってきたのに、それが無駄な努力のように思えてしまっていた。
しかし、楓はそんな軽い返事を返す少年拓斗にこう言い返す。
「だめ! そんなあっさりしちゃだめなの!」
「なんで?」
「けっこんするってことは、たっくんがあたしのことをすきじゃないといけないの!」
「すき?」
「うん」
「すきだよ、かっちゃんのこと」
「どれくらい?」
「んーと、いーっぱい!」
「いっぱいじゃなくて、あたしをずっとまもりたいぐらいすき?」
「うん!」
「せかいでいちばん?」
「うん!」
「ほんとうに?」
「ほんとうだよ! かっちゃんはぼくをしんじてないの?」
「しんじてるけど……それぐらいじゃなきゃ、けっこんはだめなんだよ?」
「へー、じゃあどんなことをできるようになればいいの?」
「……こういうの?」
そう言って、少年拓斗の頬に軽くキスした。
子供ながらに精一杯の愛情表現であることは間違いない行為であり、唇へのキスでないことが逆に可愛く思えてくるものだった。
少年拓斗は楓にキスされると思っていなかったらしく、一瞬きょとんとした後、嬉しそうに満面の笑顔を作る。
「えへへ……ありがとう」
「だって、あたしはたっくんのこと、ほんとうにすきなんだもん」
「ぼくもすきだよ! だから、ぼくもできる!」
そう言って、楓の真似をするように楓にキスした。
ただ、キスした個所が頬ではなく、唇だった。
『はあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?』
拓斗は絶叫を上げた。
自分のファーストキスをすでに楓にあげていたことに。
おそらく楓のファーストキスを奪っていたことに。
何よりも躊躇いなく、唇にキスしてしまったことに。
しかし、当の本人たちはそれほど唇へのキスに抵抗がないのか、顔を話した後、お互いに満面の笑顔を浮かべている。
「なんでちゅー?」
「おとうさんとおかあさんがしてた! おとうさんがおしごとにいくまえとかに!」
「あ、あたしのおとうさんとおかあさんも!」
「おとうさんとおかあさんになったら、こういうことするんじゃないの?」
「うん、きっとそーだよ!」
「えへへ、かっちゃんのおくち、やわらかかった!」
「たっくんも!」
二人は羞恥心の欠片もないかのように、お互いの気持ちを素直に説明し始める。それぐらい、お互いが好きなことは拓斗には伝わる。が、『羞恥心』が生まれている拓斗にとって、この光景は地獄でしかなかった。




