(4)
拓斗は楓から溢れ始める涙を見て、少しだけ動揺してしまう。
その理由がまったく分からなかったからである。
幸せなはずの楓が泣いていい理由なんて何一つない。むしろ、泣いていいのは振られることが確定している拓斗の方だったからだ。
「ご、ごめんね……。その言葉、ずっと待ってたのに。わ、私が言うまで、たっくんは言ってくれないんだもん」
涙を手で拭いながら、楓は少しだけ嬉しそうな笑みを浮かべるも、すぐに暗い表情へと変わってしまう。
まるで、『拓斗が全部悪い』と言われているような気がした拓斗は、
「な、なんでさ。待ってたのは僕だって同じだよ! ずっと気が付いてると思ってた。思ってたから……言えなかったんじゃないか。僕が……、僕に勇気がないのは楓だって知ってるはずだ!」
「知ってたよ! 知ってたけど、私にもそんな勇気がなかったの! それに――」
「それに?」
「わ、私だって……女の子だよ? 好きな男の子には……ッ! こ、告白して……欲しいよ……。そう思っちゃダメ……だったかな……?」
「だ……ダメ……ダメじゃない!」
初めて知った楓の気持ちに拓斗は悔しさを隠すことは出来ず、歯ぎしりを鳴らしながら、自分の拳を力いっぱい握り締める。
そして気付く楓の思っていた気持ちとその涙の理由。
自分勝手な考えで楓の気持ちを無視していた拓斗は、謝罪の言葉以外何も見つからなかった。いや、謝罪したところで楓が困るだけなのも分かっていたため、謝罪することもほとんど出来ない。そう考えると楓にしてあげられることが何一つなく、拓斗に出来ることは一つしかなかった。
「ごめん、僕の行動が遅いせいで……」
「ううん、平気だよ。ただ、たっくんの気持ちが知れて良かったって思ってる」
「それなら良いんだけど……」
「平気だよ! 私には勇がいるからね。たっくんのことも好きだけど、今は彼氏の勇をちゃんと見てあげないと」
「うん。幸せになってね」
「頑張るよ」
拓斗は少しだけにっこりと笑って、そう応援した。
これ以外、楓に出来ることがなかったからだ。
拓斗の心の中の傷はまだ全然癒えてはいない。それどころか傷が深まっただけではあったが、それでも楓にちゃんと自分の気持ちを伝えることが出来た。楓の気持ちを知ることが出来たおかげで、少しだけ気持ちは楽になった感じがあった。
そして新たな目標として、『幼馴染の幸せを願う』ということも出来、これからは大丈夫だと思っていた矢先のこと――。
「おーい、楓ー!」
後ろからそう呼ぶ声が二人の耳に入ってくる。
その声の主は――長谷部勇。
楓の方を見ていた拓斗からは簡単に目視出来、楓の方も慌てて振り向き、勇の姿を確認する。
「ゆ、勇!?」
「な、なんで!?」
この場所に勇がやってくると全く思っていなかった二人はそれぞれに驚きの声を漏らす。
勇は二人の場所に辿り着くと脇腹を押さえて、苦しそうに呼吸をする。
その様子から、学校からずっと走ってきたと予想するのは簡単だった。が、なんでここまで走ってきたのか理由が分からず、
「なんで勇――長谷部先輩がなんでここに!?」
楓が勇にそう尋ねると、
「ほら、体調が悪いって早退したんだろ? だから、心配で追いかけて来たんだけど……」
息苦しそうに拓斗が今まで見たことのない表情を楓に見せる勇。しかし、突如として怒りが満ちたような表情へと変わる。
「おい、結城」
そして、呼ばれる名前に拓斗は、
「は、はい!」
と、反射的に反応してしまう。
それがスイッチになってしまったかのように勇は拓斗の元へ歩み寄ると、胸倉を掴んで引き寄せる。
「また、泣かせたのか?」
「い、いや……これには……」
「泣かせたんだな」
「け……結果、的には……」
今までに感じたことのない敵意と怒気の含まった声に拓斗は圧倒されながら、胸倉を掴まれている苦しさから必死に答える。いや、答えることを強要されていたため、『答えない』という選択肢が取れなかったのだ。
「勇! たっくんは――」
「楓、ちょっと静かにしててくれ。これは男同士の話だから!」
止めにかかる楓には彼女と接するように優しい笑顔で答える勇。
その笑顔に楓も騙されたらしく、暴力沙汰は起きないと思ったのか、楓は少しだけホッとしたのも束の間――。
勇は掴んでいた拓斗の胸倉から手を放すと、容赦なく拓斗の頬に向かって拳を振るう。
楓に話した様子から殴ってくるとは考えていなかった拓斗も、殴られた反動から距離を作り、そのままバランスを崩して、その場に倒れ込んでしまう。同時に口の中に鉄の味が溢れ、唇を切ったことに気付いた。
普通だったら、いきなり殴られたことに対して逆上してしまうのは人間として当たり前の行動だろう。
しかし、拓斗にはそれが出来なかった。
怒りに満ちた顔で拓斗を見下ろす勇に恐怖を感じてしまい、身体が竦んでしまっていたからだ。
楓の方も勇が拓斗を殴ると思っていなかったのか、両手で口を隠して、青ざめた表情になっている。
「他人の彼女を泣かしてんじゃねーよ! 幼馴染だろうと、そんなことは俺が絶対に許さねぇ!」
前後の内容を知らない勇が拓斗にはっきりとそう突き付ける。
その言葉は勇の中で決めていたしっかりとした決意だった。彼女は泣かせない。彼女を苦しめる奴は許さない。それを他人が見ても分かるぐらいの怒りで満ちているのだから。
「勇! これはね、違うの!」
その言葉を聞いた楓は慌てて勇の腕にしがみつく。
こちらもまた拓斗を守るために、今度は何を言われようが絶対に離れないという意思を持って。
「何が違うんだよ!? 現に泣いてるじゃないかよ! また、こいつに酷いことを言われたんだろッ!?」
「前はそうだったけど、今日は違うの! 今日は悲しいんじゃない! たっくんの素直な気持ちを聞けたから、私は泣いちゃったの!」
「素直な気持ち?」
「そうなの! だから、たっくんが悪いわけじゃない! お願いだから、もう暴力はしないで!」
「素直な気持ちって……まさか……」
勇は拓斗と楓の顔を交互に見ながら、その言葉の意味を察したらしく、動揺し始める。
幼馴染同士の素直な気持ち。
それは彼氏である勇には絶対に知られてはいけないもの。下手をすれば、今の楓と勇の関係が一瞬にして崩れ去ってしまうものだからだ。
そのことに気が付いた勇は拓斗を一瞥した後、顔を楓の方に向けると、腕にしがみついていることを利用して、楓にキスをした。楓が自分の彼女であることを見せつけるかのように拓斗の目の前で。
楓はそんな勇のいきなりの行動を予想できなかったらしく、それを受け入れてしまう。
そして、しばらくして響く水音。
楓の口から少しだけ漏れる声。
勇のいきなりの行動、楓の口から漏れる声の二つに驚いてしまった拓斗は、その二人の光景をジッと見つめることしか出来なかった。




